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2012年12月

村を砦にして防ぎ戦う『七人の侍』

A61abf2a1  策をもって人質の子供を救った島田勘兵衛(志村喬)が街道を進む。後を追う勝四朗(木村功)と菊千代(三船敏郎)。さらに和戦両論を言い合いをしながら村を助けてくれる侍を探していた百姓四人(藤原釜足・土屋嘉雄・小杉達男・左卜全)達がこの人だと確信して追いかける。勘兵衛の後ろ姿から静かに早坂文雄作曲「侍のテーマ」が♪チャーチャーチャアーンと流れ出す。七人の侍が登場し、戦いの始まりを予感させる見事な導入シーンだ。脚本は橋本忍・小国英雄・黒澤明。

257de5061 黒澤明監督「七人の侍」(昭和29年作品)を初めて観たのは小学校の5年生頃、リバイバル上映だったと思う。当時、東映の美しいチャンバラ映画を観ていた自分にとり、土砂降りと馬上での戦闘シーンにただ圧倒され「何だこの映画は?」と驚嘆した映画だった。その後、十年前にビデオで観た。その時は津島恵子の黒髪を洗う後ろ姿、そのお尻に魅了された女性の美しさはそのお尻にあると昔、先輩がよく語っていた。 今回は図書館でDVDを借りて観た。凄い作品だと再度驚嘆し、戦国時代映画の最高傑作だと改めて見直した。とりわけ村を砦としての防御の戦いは並みの城攻めと防戦を描いた映画と違うことが分かった。

35b545fd1 勘兵衛が思索する。「守るのは攻撃より難しい。後ろは馬も通える山。前は畑。田に水を引くまではどこからでも馬で攻められる。四方に備えるだけでも四名。後詰に二名。どう少なく見積もっても、わしを入れて七名…」

 野武士との一戦を決意した勘兵衛一行七人は村に到着する。

 勘兵衛は参謀格の片山五郎兵衛(稲葉義男)に村を見ながら守りについて語っていきながら村の防御態勢を明らかにしていく。これが丁寧に描いているのがうれしい。

村の絵図面を指しながら「おぬしならこの村をどう攻める」と勘兵衛が五郎兵衛に問う。「まず、この山から逆落としじゃ(馬で駆け下り攻めること)」「やはりこの道」と図面で山から西にむかって降りる道を指さす。

39ccd86f1_3 村の西の出入り口。五郎兵衛「ところでどう防ぐ」、勘兵衛「七郎次(加東大介)が心得ておる。この丸木で馬止めの柵を作る気じゃ」。勘兵衛の部下であり古女房の七郎次が村人と馬防柵用の木材を運んできて村人達に言う。「戦ほど走るものはないぞ。攻める時も退く時も走る。戦に出て走れなくなった時は死ぬ時だ」と最後の戦闘で、馬と走りながら戦うことの伏線をここでだしている。

 絵図面は村の西から南に移動し、南側には「麦を刈ったら水を入れる」と深い水田(水堀)とする。

795767361 東側の村の出入り口。橋が架かっている。この東側は菊千代が守る。絵図面を見ながら勘兵衛「この橋を落とせば、まず東から来る敵は防げる」。五郎兵衛「しかし、この橋向うの家はどうする」。勘兵衛「離れ家は引き払うほかない」と語る。戦闘が始まる直前、離れ家の百姓達が村から離散しようとした時、勘兵衛は刀を抜き「三軒のため二十軒を危うくはできん。また、この部落を踏みにじられて離れ家も生きる道はない。いいか、戦とはそういうもんだ。人を守ってこそ自分も守れる。己のことばかり考える奴は己をも滅ぼす奴だ!」と戦への厳しさを迫真迫る勢いで全体に言い聞かせるシーンは見事だ。  

B49ecd771 村の絵図面での北側の出入り口。勘兵衛「静かな森じゃが、ここが一番危ないのう。問題はここだな」。北側の出入り口に野武士が攻めてきた時、勘兵衛は五郎兵衛に「北へ行ってくれ、北の裏山が攻め合いなる」。五郎兵衛「しかし、おぬしそれを分かっていて何故柵を作らんのだ」。勘兵衛「よい城にはきっと隙(すき)がひとつある。その隙に敵を集めて勝負する。守るだけでは城はもたん」と語る。策士としての勘兵衛が描かれている。この北側を守るは防具をまとわず、凄腕の剣士、久蔵(宮口精二)だ。戦闘では野武士を一騎づつを村に入れ、後続を槍襖で村への侵入を防ぐ。 村に入った野武士は叩かれていく。 
Cb3de12f1 「戦には何か高く翻げるものがないと寂しい」と、百姓を表す「た」の字と侍を表す「〇」を六つ、菊千代を表す「△」を一つにした旗を林田平八(千秋実)が作る。平八の天性の明るさが集団にゆとりをもたらし「苦しい時には重宝だ」と評されていたが、野武士への夜襲にて討死する。

 野武士集団によって最初に東側の離れ家が放火される。燃え上がる水車小屋から赤子を抱いた母親から菊千代は赤子を受け取る。母親は槍で刺されていた。菊千代は赤子を抱きしめながら「こいつは俺だ。俺もこの通りだったんだ」と号泣する。明るく山犬のような駆け回る菊千代が元は百姓の出で、戦で親を失って育っていたことが分かる。赤く燃えがる水車小屋が強烈なシーンとなっている。なお、この水車は下掛け水車となっている。小川の中ほどに石を組み堰を作って水車が回る仕掛けになっている。今はなかなか見ることのできない下掛け水車だ。

600x45020120512000031_4 落武者狩りでの武具を見た侍達は百姓達に恨み言を言う。これに対して菊千代は叫ぶ「一体百姓をなんだと思ってんだ、仏様でも思っていたか。百姓ってのはな、けちぼで、ずるくて、泣き虫で、意地悪で間抜けで人殺しだ!こんなケダモノ作りやがったの一対誰だ?おめい達だよ 侍だってんだよ 馬鹿野郎 ちくしょう。戦のためには村を焼く 田畑をふん潰す 食い物は取り上げる 人夫にこき使う 女あさる 手向いや殺す 一体百姓はどうすりゃいいんだ!ちくしょう」と百姓と侍の間に立つ菊千代を描いている。軍人・政治家に踏みにじらてきた終戦直後の日本人の姿がオーバーラップしてくるようだ。

A80bcb971 かつて勤めていた時の職場の上司が口癖のように言っていた。「職人はな、嘘つきで助べえで、唯一の特技が人の足を引っ張ることなんだ」と。貧しいが故に生まれてくる生きる知恵なのかと思えたが、実際には庶民大衆にとり、その気持ちがなければ生きていけない世界があると思える。

 四十騎いた野武士が十三騎となる。戦いの4日目、雨中での決戦が行われる。この泥水の中での馬との戦闘は臨場感あふれるシーンであり圧巻だ。今なお世界に誇る日本映画の金字塔だと評価されていることが分かる映画だ。

B15c4f691_4 雨中での戦闘が終了した時、勘兵衛は七郎次に「また生き残ったな」と語り、七郎次は肩でハアハアしながら頷き、勘兵衛を見つめる。総てを出し尽くした姿を浮かび上がってくる。

 それにしても島田勘兵衛。戦の策士として実に良く描いている。守る側の心理、竹槍武装した百姓達の息遣いを読み取る眼力。五郎兵衛が仲間に加わる時に「知古と出会いた」と語り、勘兵衛の将との器に惹かれている。この人の元で戦いたいと思える人物像を志村喬は演じ、黒澤明監督の演出が見事だ。 

148169bb1_2 ラストは明るく田植えをする百姓達の姿。

すぐそばにある村の墓の前で勘兵衛は語る「今度もまた負け戦だったな…。いや勝ったのはあの百姓達だ。わし達ではない」と侍と百姓の異なる世界を対比して描いている。

百姓を支配して初めて「侍」と呼べるのかと思い浮かべた。

 村の子供は出てくるが、若者の登場がない。はね上がった百姓の若者が出てくれば、百姓と侍との関係が不鮮明になってくる。これも黒澤明の演出なのかなと思えた。

 最初、村全体をオープンセットでの撮影かなと思っていたら、村の西側の柵とか、村の中とか、北側の出入口とか、それぞれを別の場所において撮影をおこない、一つの砦としての村落集落を作りあげていることを知った。まさに映画のマジックだとただただ驚嘆するばかりの映画だ。

 ※写真は「ぶらり道草-幻映画館-(七人の侍写真集)」より転用させていただきました。

                                  《夢野銀次》

  

 

  

  

 

 

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侵入を許さなかった北出丸-会津若松籠城戦

Photo   薩長土を主力とした新政府軍の会津若松城下への侵攻は素早かった。慶応4年(1868)8月21日に母成峠が破られ、8月23日の早朝には若松城本丸に迫ってきていた。土砂降りの中、会津若松城下は混乱の渦となっていた。城内に入らなく最初から足手まといになることを拒否し、自刃した婦女子が230人以上ともいるとされている。この時会津城下には老人・婦女子・白虎隊の少年兵らわずかの軍勢しかいなく、籠城の準備をしていなかった。

  素早い侵攻を許したのは『会津藩攻撃は仙台藩の後だ』と読んでいた会津藩軍事局にあるとされている。さらに会津藩は勢至堂口、中山口を警戒し、母成峠のある石筵口(いしむしろぐち)〈二本松、本宮から熱海、石筵を経て、母成峠を越え、猪苗代に入る間道)は想定外だった。

 母成峠を守っていた大鳥圭介は南柯紀行で「山も坦夷(Map1_2たんい・平坦)なるをもって防ぐには甚だ難渋なり」と記述し、全体700人で守ることは不可能だとし増員を要求していた。会津の手薄なところを狙っての攻撃だった。さらに、若松城下への侵攻を誘導したのは石筵集落の農民であった。会津軍は薩長軍の宿営地になる事を恐れ、集落を焼き払ってしまった。そのため農民の恨みをかうことになり、亀裂が生じていた。二本松に集結し、母成峠を目指している情報も入ってきていなかった。

  他藩が実施してきた農民を含めての軍の再編成を会津藩は京都治安に抹殺され、進めることができなかった。さらに石筵集落等の農民対策の遅れは戦場に大きな影響を与えたことにもなった。おそらく藩の重臣達の中には、時代の流れとしての戦は武士階級だけがするのではなく、地域を守るため、農民、町人を含めて行なうという軍制改革の必要性が分かっていたと思える。しかし、それができなかった。農民と武士との乖離が会津戦争の特徴だと指摘とされている。

Photo_2  星亮一著「会津籠城戦の三十日」の中で、薩摩藩の兵士が記した「慶応出軍戦状」の引用紹介が出てくる。「8月24日、大手口へ出て攻撃した。城は堅固で、防御は厳整だった。味方の諸隊は、昼夜の連戦なので、ひと先ず引いて、武士小路を焼き払い、大砲で遠くから攻撃するほかないと、軍議で決した。よって火を放って諸屋敷を焼き、兵を引き揚げて大手口、天寧寺口、三日町口、六日町口を堅め、昼夜の別なく発砲」とある。大手口からの攻撃を防御した郭は北出丸と二の丸伏兵郭であった。新政府軍は城内には侵入することができなく、後退して大手門の北出丸の前の北から東側に陣を敷いた。(城略図の上の北側)。会津藩降伏の際にはこの北出丸から降伏の白旗が掲げられるなど、若松城の正門、大手門(追手門)であった。

Photo_3 城内二の丸にある若松城案内表示版には『蒲生氏郷によって七層の天守閣を築き城郭は甲州流の縄張りを用いて整備し黒川の名を若松と改め城の名を鶴ヶ城と命名した』と記載されている通り、この大手門北出丸は武田信玄の軍師山本勘助が考案されたと云われている丸馬出・角馬出になっている。

馬出は一般に本丸・二の丸・三の丸などの曲輪の出入り口(虎口)の前面に設けられた小さな曲輪のことを言っている。通常は四方を堀で囲まれ、木橋か土橋で前後を連絡し、虎口前面に突出しており、内側の本曲輪を防御する曲輪のことをいっている。さらには外部への出撃する拠点にものなる。若松城の北出丸は石垣でできている角馬出であった(丸馬出は土塁で三日月堀)。大手門の両脇には火縄銃を順番に交替して撃つ大腰掛けが残っていた。初めて見ることができた。

001  この馬出ですぐ思い浮かべるのは大坂冬の陣の『真田丸』だ。真田信繁(幸村)が大坂城の平野口に構築した出城(曲輪、防御構造物)。真田丸は甲州流築城術の丸馬出、西洋築城術の稜堡に相当し、単独で機能する小城砦となっていた。父の真田昌幸が指揮した上田城の戦い(第二次)において馬出しを利用した戦術を参考とし、南からの攻勢を想定し、平野口に独立した出城を築き、徳川方の攻撃を食い止めたことで有名だ。

 10月26日、日帰り会津若松城見学バスツアーに参加した。35年ぶりの若松城訪問だ。城は来年のNHK大河ドラマ「八重の桜」一色のように幟旗が目立っていた。そのツアー参加者で男は自分を含め2人で、あとの27人は女性だった。そのため観光案内ボランテイアの担当者は女性客受けの説明だけで「時の鐘」や「廊下橋」の説明がないため少し腹を立てた。「私は無料で案内をしているのですよ」とそのボランテイアの方は言い返してきた。自由解散の時、その人から「伏兵郭」の場所を聞き、単独で行った。

Photo  戊辰戦争研究会・村井雅子著の「鶴ヶ城」では、この二の丸伏兵郭について「西軍が侵入して来られたのは茶店附近(鶴ヶ城会館駐車場あたり)までだった。左に目をやるとお濠の向こう側に土塁が広がっているのがみえる。これは二の丸の北方にある伏兵郭である。北出丸側からは分らないが、この郭からは大手門入口が丸見えで攻め入ってくる兵士を狙い撃ちするには最適の場所だった」と記述している。実際、その場所に立ってみると北出丸大手門は間近かに感じられ、かたや北出丸からは伏兵郭が分かりづらかった。また、この伏兵郭は籠城戦の際には亡骸を埋めた所でもある。今はテニスコートとなっていたのが残念だ。何らかの案内表示が欲しかった。

 3日目の8月25日、陣将内藤介右衛門率いる白河口の精鋭一千人、日光口からは山川大蔵が彼岸獅子を先頭に秋祭りの行列を装い西出丸から入城し、籠城戦の態勢が整った。籠城する兵は約三千、婦女子、老人を入れて約五千人が若松城にたてこもった。

017  村井雅子氏の「鶴ヶ城」では鶴ヶ城のことを「本丸と帯郭を合わせた全体の形は五画形に近い形をしていた。五画形の城と言えば、函館の五稜郭が有名だが、一般的に五画形の城郭は死角がなく防御には最適の形と言われている。実際に一か月の籠城戦では、敵は一人も城内に入ることができなかった。城の東側には濠を隔てて二の丸があり、さらに濠を隔てて三の丸があった。一方、城の西側には西の出丸が、北側には北出丸がある。そして南側は複雑に石垣が組んであり、守りは完璧であった」と深い分析をしており、大変参考となった。

  しかし、この城の欠点は星亮一が指摘するように城を見下ろす小田山が近いことだった。小田山の存在に気づいた時には新政府が占拠していた。東側にあるこの小田山から最新のアームストロング砲やメリケンボート砲で若松城めがけて砲撃が行われた。「会津籠城は8月23日より9月23日まで満30日間であって、その間、1日として砲弾及び銃弾の見舞わない日はなかった」と松平容保近習、後の明治学院総長を歴任した井深梶之助氏が回想した通り、悲惨で壮絶な籠城戦だった思える。

 明治10年の西南戦争。熊本籠城戦では攻撃側の西郷軍桐野利秋、52日にわたって攻撃をしのいだ城将、谷干城はこの会津若松城攻撃軍に共に参戦していた。熊本籠城戦の時、二人は若松城籠城戦を想いだしたのかな…、とふと想像した。

 私は会津若松籠城戦を含めて会津戊辰戦争についてはまだまだ勉強不足であると思っている。今度は三の丸から城郭全体と会津の士風の教育・日新館、齋藤一と会津藩・旧幕府軍兵士の墓のある阿弥陀寺などを訪問し、体感していきたい。

 (参考・引用文献)

 星亮一著『会津籠城戦の三十日』、

 村井雅子著『鶴ヶ城』(「会津籠城戦の三十日」に収録)

 歴史読本編集部『カメラが撮らえた会津戊辰戦争』

                                                                      《夢野銀次》

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