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2013年1月

何を忘れてきたのか-映画「北のカナリアたち」

Poster1   「俺は何を忘れてきたのかな」と島の分教場から鈴木信人(森山未來)護送する時、定年間近かの刑事(石橋蓮司)がつぶやく。

~ 歌を忘れたカナリアは後ろの山に棄てましょか  いえいえそれはかわいそう  歌を忘れたカナリアは背戸の小薮に埋けましょか  いえいえ それはなりませぬ  歌を忘れたカナリアは柳の鞭でぶちましょか いえいえ それはかわいそう  歌を忘れたカナリアは象牙の舟に銀のかい  月夜の海に浮かべれば 忘れた歌を思い出す~ 

 童謡「かなりあ」(詩、西条八十)

 大正期、国が主導した唱歌ではなく「子供等の美しい空想や純な情緒を傷つけないでこれを優しく育むような歌と曲」を作っていくとして童謡が生まれたという。

 湊かなえの連作ミステリー「往復書簡」(幻冬舎刊)に収められている「二十年後の宿題」を原案に、吉永小百合主演、阪本順治監督。脚本「北の零年」の那須真知子。撮影「劔岳」の木村大作で平成24年(2012)11月3日公開、東映創立60周年記念作品「北のカナリアたち」を観た。

Sub_large1  映画は東京の図書館を定年退職した元分教場の教師だった川島はる(吉永小百合)は教え子・鈴木信人(森山未來)の事件をきっかけに、教え子に会うため最北の島、礼文島・利尻島に向かう。分教場には6人の生徒がいた。「先生が来るまで学校がつまらなかった」とこぼしていた子供たちの顔にも歌を通して笑顔が溢れるようになる。大自然に響き渡る透き通る歌声は優しく劇場を包みこんでいく。川島はるは6人の生徒たち(森山未來、満島ひかり、勝地涼、宮崎あおい、小池栄子、松田龍平)と久しぶりに再会する。そして20年前の事件を彼らの口から語られる。生徒たちが20年間言えずにいた想いと抱えていた後悔。そのことが大きな傷となり、今も心に残っていたことを元教師川島はるは知る。そして自身もまた、心に閉じ込めていた想いを6人に明かしていく。

  8801cbd3_6401_2映画のラスト、分教場の教室で「歌を忘れたカナリア」を元教師と6人の生徒が歌う。歌を忘れた先生と6人の生徒たち。自分の居場所を見つけることができれば再び美しい声で歌うことができるところで終わる。吉永小百合の笑顔を素直に見ることができた。何故か涙がこぼれてきてしまった自分がいた。

 「自分は何を忘れてきたのかな」と映画終了後、誰もいない映画館の座席で思った。

 心に閉じ込めていたこと。勉強するために入学した大学を満足に卒業できなかったことを亡くなった両親に今でも済まないと想っていること。今は何を勉強したかったからではない。その時にもっていた気持。学んでいく姿勢を大事にしていくことが自分の居場所なのだと、この映画から受け止めた。 

  画面に映し出させる吉永小百合は確かに存在感のある女優だと改めて感じた。40歳代と60歳代でも年齢の変わらない表情や動作。何故か違和感を感じさせなかった。吉永小百合は吉永小百合なのだということを描いている。煙突に昇るシーン、キスシーン、少し猫背で歩く姿。最後に自分の居場所を見出そうとする時の表情は穏やかな表情は美しいと思った。その表情は50年間、吉永小百合を支えてきてくれた全国の吉永小百合ファンに暖かな眼差しとして画面に映しだしていた。そう感じたのは自分だけなのかな…。

                           《夢野銀次》

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栃木の街には映画館がたくさんあった

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 昨年(平成24年)の5月、第5回目となる「栃木・蔵の街かど映画祭」の中で、「とちぎに映画館があった頃」をテーマに「六人姉妹」が上映されていた。残念ながら栃木駅や第一小学校前が撮影されている続編ではないため観ないで帰った。

 昭和30年代、栃木の街には松竹・大映の上映館として「松竹館」、東映・日活の上映館「日活文化会館」、東宝・新東宝の上映館「明治座」、洋画の上映館として「白百合座→スカラ座」があった。そして、その後には「栃木東映」が出来て、あわせて5館の映画館もあった。たくさんあったのだ。栃木東映ができたことで日活文化会館は日活上映専門館となった。さらに明治座が焼失してしまい「ひかり座」となり、「セントラル座」となった記憶があるが、定かではない。(注・記憶で記述しているため間違いはご容赦ください)

  東京での生活は世田谷三軒茶屋、杉並区荻窪、吉祥寺、練馬高野台、新所沢と住居が変わっていった。しかし、住む場所の近くには「映画館」があり、歩いて映画館に行くことができ、たくさんの想いでが蓄積されてもきた。栃木の街に映画館があった頃の思い出を綴っていく。

Photo_2《洋画のスカラ座》

 万町交番の先、北にまっすぐ合戦場に行く道が出来たのが昭和7年。それまでは万町交番を左折し、すぐ右斜めの道「例幣使道」に入り、嘉右衛門町、大町を通り合戦場に出ていた。万町交番から新しく合戦場に繋がった北関門道路の200メートル先の左側に「白百合座」があった。

 小さい頃観た映画の記憶は畳敷きの二階席から「お化け映画」だった。その後、洋画専用の映画館「スカラ座」が新装となった。一階だけの映画館は初めてだった。隣は八百屋で絶えず威勢の良い掛け声が切符売り場まで聞こえていた。近くには毎日通った河津珠算塾もあった。

Photo_3  「史上最大の作戦」「大脱走」「終着駅」「鳥」等あるが、最も印象に残っているのは「ローマの休日」だ。リバイバル上映だったが、世の中にこれほど可憐な女性がいるのかと、中学生の自分の胸をかきむしったことはなかった。深夜には市内にある映画ポスター掲示板のところに行き、オードリーヘップバーンの王女姿のポスターをはがし、机の引き出しに閉まっていた。その残像からか、高校に入り、長い黒髪の上級生の女学生に憧れ恋をした。冬休み、誰もいない校舎の教室で二人きりで高校卒業後について話した思い出が残っている。木造だった校舎は今は鉄筋となり昔日の面影はないのが残念だ。攻めて木造の図書館ぐらい残しておいてほしかった。

Photo_4《古い建物の明治座》

 二階脇には桟敷席のある古い映画館だった。戦後間もない時に美空ひばりがこの明治座で歌謡ショウをした話を父から聞いたことがある。新東宝、渡辺那夫監督、美空ひばり主演の「雪の丞変化」前・後編をこの明治座で観たナ。東宝の若大将シリーズ、黒澤明監督「七人の侍」。さらには栃木市内で撮影されている「路傍の石」や落語「死神」を原作としたフランキー堺・香川京子・有島一郎の「幽霊繁盛記」など記憶にある。フランキー堺と香川京子が巴波川の木橋の欄干での夜間ロケーションを見に行ったりした。橋の下に置いた「たらい」にライトを当てて、二人の顔に波の影を反射させていた。

 その「明治座」が焼けてしまい、大映上映の「ひかり座」に変わった。若尾文子の「越前竹人形」のたらいでの行水など思う浮かぶ。高田美和・舟木一夫の「高校三年生」ではセーラー服の女子高生で館内が立ち見で一杯になっていた。そのあと洋画や東映の時代劇が上映され、「セントラル」と館名が変わったのではないかと思う。

Photo_5《うずま川沿いにあった日活文化会館》

 小学校の帰り道にあつた映画館だ。今村昌平監督「にっぽん昆虫記」、左幸子の左乳首が吸われているポスターが大きく掲げられていたのが印象に残っている。小学生の自分には刺激すぎた映画として、舞妓さんに扮した浅丘ルリ子と津川雅彦とが海辺でのキスシーンが強烈だったことを覚えている。

 東映時代劇で超満員となっている時には右わきのトイレから舞台袖に出て、舞台袖に座り、「忠臣蔵」を観た。自動車レースの映画では二階席で朝からずーと観ていたため、家から迎えがきた。帰ってお腹が痛いので栃木病院の先生が往診に来て、「腹が減っているからお腹が痛いのだ」と診察され、倭屋からラーメン出前をしてもらい食べた。あの倭屋のラーメンは今は食べられない。

Photo  多くの映画は封切りから1か月後に栃木での上映となる。しかし、正月映画だけは東京と同時の上映となる。美空ひばり「花笠道中」正月映画として観に行った。

 吉永小百合の「草を刈る娘」、新鮮な女の子の印象を受け、この映画で吉永小百合のファンになった。斜め前には「ぶんか食堂」がある。今も営業していた。薄味のラーメン一杯食べながら「大相撲」のテレビ中継を座敷に座って観ていた。その頃の上映映画は「若乃花物語」や力道山物語としての「怒涛の男」だった。寒い冬の夜の映画、石原裕次郎の「青春とは何だ」では、長椅子の下には熱い湯の通った鉄管があり、足を乗せて映画を観た。上映終了後には「ナイトショウ」として三益愛子の母ものの映画を母や姉に連れられて観た記憶がある。フランク永井や田代みどりなどの歌謡ショウもきていた。

Photo_9《一番新しくできた栃木東映》

 一番新しくできた映画館。万町交番の斜め前にあったのが「栃木東映」だ。東映映画専門劇場でスタートした。中村錦之介の「宮本武蔵」や北大路欣也・松方弘樹らの新しい時代劇など上映していた。夜の最期の一本の映画では35円の料金で観ることができた。切符もぎり場で一円玉で払おうとしたら、タダで入れてくれた。面倒臭かったのだろう。

 大川橋蔵が栃木にきた時に栃木東映にも舞台挨拶をした。私は中央公民館で大川橋蔵と「愛ちゃんはお嫁に」の鈴木三重子の歌謡ショウを観ていた。閉鎖した映画館の後にはパチンコ店ができていた。

Photo_10《今はパチンコ店となっている松竹館》

  ミツワ通り沿いで家から遠いため自転車で行った映画館。坂本九の「九ちゃん音頭」を観た後、自転車で暗い夜道を帰った記憶がある。三橋美智也の「リンゴ村から」、佐田啓二・高峯秀子「喜びも悲しみも幾年」、長谷川一夫「雪の渡り鳥」、勝新太郎「座頭市」など松竹と大映の映画館だった。さらには黒澤明の「赤ひげ」「天国と地獄」など東宝系も上映するようになった。上映後に舞台で「のど自慢大会」もやっていた。その時の上映作品が田村高広の時代劇だった。今はパチンコ店となっている。

 小学校から中学校にかけて映画館の思い出をだらだら綴ってきたのは、自分自身の記憶を残すことと、「映画館」のある街とは何かを考えたかったからでもある。

Photo_11 宇都宮大学国際学部行政学の中村祐司教授は「蔵の街栃木市」について、地域活性化として栃木市の景観は美しく様変わりし、情緒あふれる街並みとへ変わったことを評価したうえで、次のような指摘をもしている。「商店街にはシャッターの下りた店が多く人通りも少なく、人々は郊外のショッピングセンターへ行っている。今回栃木市を散策して感じたことは蔵の街の意識が強いのと、対象とする層が偏っていることである。中心市街地の活性化に取り組んだ金融機関、宿泊施設、飲食店、百貨店などで若者や家族連れが来るような遊び場がなく、どちらかというと車を利用しない高齢者向きのようで感じた。まちづくり事業を推進する上で時の流れに応じ現代にあったまちづくりで若者や家族みんなで遊べる場所である映画館やショッピング街などを取り入れる必要がある。外からの観光客を呼び込むのも大切だが地元市民を呼び込むのはもっと大切であり、中心市街地の活性化に繋がっていく」。この指摘は常設の映画館のない栃木の街は何処か文化から置いてきぼりにされているように感じていた私の考えと一致しているのだ。

 「街は人と情報を引き寄せ、再び解き放つ磁場だった」と読売新聞文化部長の福士千恵子氏が指摘している。IT情報など時代の変化があっても、街は情報を共有すしあえる場であり、情報を発信する場でもある。そのことが人々を呼び込む魅力に満ちて溢れてくる。日常的に栃木の街を散策する若者や家族連れの人々で生き交う「まちづくり」をしていくことが地域活性化の街づくりでもある。その具体策として「銀座通り」や「ミツワ通り」の商店街を行政として活性化していく施策が今一番求められているのではないかと思える。蔵の街としての歴史ある街づくりと若者や家族連れで賑わうショッピング街、「古さと新しさが対比するまちづくり」を目指す。そんな目標を掲げていったらどうだろうかと考えていきたい。

                      《夢野銀次》

  

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街頭テレビのあった栃木神明宮・第二公園

P1070158  栃木市にある神明宮は栃木のお伊勢様と言われている。しかし、子供の頃からずっと「神明さん」と呼んでいたせいか、わたしには神明宮と言われると別の神社を想定してしまう。それだけ神明さんと親しみのある神社として呼んでいることになる。

 応永10年(1403年)、栃木城内神明宿(現神田町)に創建されたと言われており、天正17年(1589年)正月、皆川広照による城下つくりの一環として、現在地(旭町)へ移され、栃木町の総鎮守となったとされている。明治5年(1872年)県社となったと栃木観光協会の案内に記載されている。

Photo_2 この県社という呼び名は旧制度の神社の社格の一つで、官・国幣社より下、郷社(ごうしゃ)より上で、県から奉幣した神社となっているとされている。現代ではあまり気にしないが、この社格にこだわる人は多いと聞く。 また、現在の拝殿はもと中教院の講堂として明治8年(1875年)に造られたものを使用しているという。この中教院というのは何なのか、私自身よく分らない言葉だった。そのためネットで調べてみると、明治5年に当時各地方に設立され、それを束ねたのが大教院。明治5年(1872)教部省によって国民に対して尊皇愛国思想の教化民衆教化のために全国に教導職制を施行したとされている。Photo_4
 その時、中教院は地方におい
て神官など教導職の任命や昇級試験の実施をした機関となっている。当時県庁所在地であったこの栃木の町に中教院が設置されていたことになる。

 社殿は伊勢皇大神宮に倣い、神明造りとなっている。栃木の地名は、この神明宮の社殿の屋根にある2組の千木(ちぎ)と8本の鰹木(かつおぎ)が、遠くから見ると10本に見えたことから、神社の辺りを「十千木(とおちぎ)」と呼ぶようになったという説を栃木市観光案内ボランテイアの方々が述べていた。しかし、わたしは塙静夫氏が云う、市内を流れる巴波川がたびたび氾濫を起こしたことから、千切れた地形(浸食された地形)の動詞「チギ(る)」に接頭語の「ト」が付いて「トチギ」という地形説からくるのが栃木の地名の由来だと思っている。

Photo  拝殿手前の左側の敷地内にひときわ高い「金比羅大権現の常夜燈」が建立されている。『目でみる栃木市史』の中では、最上部には「神像」その下の屋根部には「金比羅大権現」と刻み、火袋の下には「龍」その下に「像」を彫り、その下の台座には「常明神・慈航安全、五穀豊饒、文化十四年丁丑秋九月十日立之鵬斉興書」と刻まれている。文化14年(1817)に建立されたものであり、さらに慶応2年(1866)にその下に石の台座を組んでこの燈籠を高くしている。その石組みには「太々講中六六名・女人講中一四名」の名が刻まれていると紹介されている。

盛んであったうずま川の舟運による船積問屋の記念物の一つとして歴史に刻まれている建立物なのかなと思える。

 神明さんは私の七五三のお参り神社でもある。拝殿でのお祓いを受け、お神酒を口に付け苦かったと記憶が残っている。さらに境内にあったブランコで亡くなった兄と一緒に乗った記憶がよみがえってくる。小学一年の時、一番上の姉がこの神明さんで結婚式と披露宴を行っている。

Photo_2  当時、東京の材木屋に住み込みで働いていた長男の兄が、どうして姉の披露宴に出席していないで、自分とブランコに乗っていたのか、今は分からない。そのかつてブランコのあった所に、お札納め所があった。太平山神社の破魔矢を納めようとしたが、神明宮以外の破魔矢なので300円納め下さいと言われた。縁起物を300円の有料として納める神社にぶち当たったは初めてだと言い返した。びっくり驚きもした。「分別回収のため料金が掛かるのですよ」と係員が済まなそうに答えた。古くなった破魔矢や熊手を神社に納め、神社境内で焼いてもらうという習いは有料になってしまったのかと思い情けなくなった。時代の変化と受け止めて良いのか?それとも経費削減とする栃木商人の商い魂というべきか、いずれにしても排他的な姿勢には残念なことだと受け止めることにした。                          

Photo_3  拝殿・社殿の右横が栃木第二公園になっている。社殿横の鳥小屋の所に「街頭テレビ」が設置されていた。櫓の上に箱に納められたテレビがあった。チャンネル操作はすぐ横にあった売店の人がしていた。昭和30年代初頭、栃木市内には消防署前と、この第二公園2か所に街頭テレビがあり、2か所ともいつも黒山の人だかりだった。とりわけ大相撲中継では社殿の板塀に寄りかかり、栃錦、若乃花の取り組みを夢中で見ていた自分を思い浮かべる。

 社殿を囲む板塀。そこで映画、市川崑監督「おとうと」の中で、仲谷昇が岸恵子にくどき迫るシーンの撮影がされた云うが、関係者からの確認はしていない。

Photo_4  街頭テレビのあった所から池の石橋を渡り、噴水池の手前に「日下開山二代横綱力士綾川五郎次碑」と刻まれた顕彰碑が建てられている。裏側には「綾川五郎次者下野国栃木産享保二年大関備前国岡山様召賜厚禄二代横綱力士 明治三三年十月 十二代横綱陣幕久五郎士師」と刻まれている。

 深川富岡八幡宮境内に横綱力士碑を建てた第十二代横綱・陣幕久四朗によるとされている。同様の顕彰碑として初代横綱明石志賀之介の碑が宇都宮八幡山蒲生神社にも建立されている。この綾川五郎次の墓石はNTT裏の定願寺の墓地内にある。どうして綾川五郎次の顕彰碑がこの第二公園内に建てられているのか分らないが、観光案内にも記載されていない。

Photo_5 境内横にある第二公園の広場。その先、前方左に栃木幼稚園がある。従姉で栃女高に通っていた今は亡き「みね子」ちゃんが通学の途中、自分を自転車に乗せてくれて通った幼稚園だ。セーラー服姿のみね子ちゃんの大きな背中を憶えている。

 この広場、サーカスが来ると小屋が建てられて興業が行われ、町はお祭りのように賑わった。木とゴザでできたサーカス小屋での空中ブランコやオートバイの乗り回し、わくわくして観ていた。さらに、昭和30年2月に栃錦、千代の山など出羽一門による大相撲興行がこの第二公園広場で行なわれた。幼稚園児の自分は一番前の東土俵下の砂被りの席で親父の隣に座って土俵を見つめていた。私の目の前に栃錦が座った。栃錦の背中を間近かで見た時、「何と汚い皮膚だな」と感じたことを今でも覚えている。大相撲、土俵近くでみたのは、この時だけで後にも先にない。

 神明さんの拝殿、社殿、板塀や噴水池や広場などの第二公園の敷地など昔も今も同じく佇んでいる風景がある。第二公園の広場を活用してイベント、行われているかどうか定かではない。しかし、この広場には多くの想いが涌いてくるような気がするのだ。

※関連ブログ『栃木町の神明宮と東宮神社ー湧水と大相撲板番付表』

                         《夢野銀次》

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