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栃木の街には映画館がたくさんあった

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 昨年(平成24年)の5月、第5回目となる「栃木・蔵の街かど映画祭」の中で、「とちぎに映画館があった頃」をテーマに「六人姉妹」が上映されていた。残念ながら栃木駅や第一小学校前が撮影されている続編ではないため観ないで帰った。

 昭和30年代、栃木の街には松竹・大映の上映館として「松竹館」、東映・日活の上映館「日活文化会館」、東宝・新東宝の上映館「明治座」、洋画の上映館として「白百合座→スカラ座」があった。そして、その後には「栃木東映」が出来て、あわせて5館の映画館もあった。たくさんあったのだ。栃木東映ができたことで日活文化会館は日活上映専門館となった。さらに明治座が焼失してしまい「ひかり座」となり、「セントラル座」となった記憶があるが、定かではない。(注・記憶で記述しているため間違いはご容赦ください)

  東京での生活は世田谷三軒茶屋、杉並区荻窪、吉祥寺、練馬高野台、新所沢と住居が変わっていった。しかし、住む場所の近くには「映画館」があり、歩いて映画館に行くことができ、たくさんの想いでが蓄積されてもきた。栃木の街に映画館があった頃の思い出を綴っていく。

Photo_2《洋画のスカラ座》

 万町交番の先、北にまっすぐ合戦場に行く道が出来たのが昭和7年。それまでは万町交番を左折し、すぐ右斜めの道「例幣使道」に入り、嘉右衛門町、大町を通り合戦場に出ていた。万町交番から新しく合戦場に繋がった北関門道路の200メートル先の左側に「白百合座」があった。

 小さい頃観た映画の記憶は畳敷きの二階席から「お化け映画」だった。その後、洋画専用の映画館「スカラ座」が新装となった。一階だけの映画館は初めてだった。隣は八百屋で絶えず威勢の良い掛け声が切符売り場まで聞こえていた。近くには毎日通った河津珠算塾もあった。

Photo_3  「史上最大の作戦」「大脱走」「終着駅」「鳥」等あるが、最も印象に残っているのは「ローマの休日」だ。リバイバル上映だったが、世の中にこれほど可憐な女性がいるのかと、中学生の自分の胸をかきむしったことはなかった。深夜には市内にある映画ポスター掲示板のところに行き、オードリーヘップバーンの王女姿のポスターをはがし、机の引き出しに閉まっていた。その残像からか、高校に入り、長い黒髪の上級生の女学生に憧れ恋をした。冬休み、誰もいない校舎の教室で二人きりで高校卒業後について話した思い出が残っている。木造だった校舎は今は鉄筋となり昔日の面影はないのが残念だ。攻めて木造の図書館ぐらい残しておいてほしかった。

Photo_4《古い建物の明治座》

 二階脇には桟敷席のある古い映画館だった。戦後間もない時に美空ひばりがこの明治座で歌謡ショウをした話を父から聞いたことがある。新東宝、渡辺那夫監督、美空ひばり主演の「雪の丞変化」前・後編をこの明治座で観たナ。東宝の若大将シリーズ、黒澤明監督「七人の侍」。さらには栃木市内で撮影されている「路傍の石」や落語「死神」を原作としたフランキー堺・香川京子・有島一郎の「幽霊繁盛記」など記憶にある。フランキー堺と香川京子が巴波川の木橋の欄干での夜間ロケーションを見に行ったりした。橋の下に置いた「たらい」にライトを当てて、二人の顔に波の影を反射させていた。

 その「明治座」が焼けてしまい、大映上映の「ひかり座」に変わった。若尾文子の「越前竹人形」のたらいでの行水など思う浮かぶ。高田美和・舟木一夫の「高校三年生」ではセーラー服の女子高生で館内が立ち見で一杯になっていた。そのあと洋画や東映の時代劇が上映され、「セントラル」と館名が変わったのではないかと思う。

Photo_5《うずま川沿いにあった日活文化会館》

 小学校の帰り道にあつた映画館だ。今村昌平監督「にっぽん昆虫記」、左幸子の左乳首が吸われているポスターが大きく掲げられていたのが印象に残っている。小学生の自分には刺激すぎた映画として、舞妓さんに扮した浅丘ルリ子と津川雅彦とが海辺でのキスシーンが強烈だったことを覚えている。

 東映時代劇で超満員となっている時には右わきのトイレから舞台袖に出て、舞台袖に座り、「忠臣蔵」を観た。自動車レースの映画では二階席で朝からずーと観ていたため、家から迎えがきた。帰ってお腹が痛いので栃木病院の先生が往診に来て、「腹が減っているからお腹が痛いのだ」と診察され、倭屋からラーメン出前をしてもらい食べた。あの倭屋のラーメンは今は食べられない。

Photo  多くの映画は封切りから1か月後に栃木での上映となる。しかし、正月映画だけは東京と同時の上映となる。美空ひばり「花笠道中」正月映画として観に行った。

 吉永小百合の「草を刈る娘」、新鮮な女の子の印象を受け、この映画で吉永小百合のファンになった。斜め前には「ぶんか食堂」がある。今も営業していた。薄味のラーメン一杯食べながら「大相撲」のテレビ中継を座敷に座って観ていた。その頃の上映映画は「若乃花物語」や力道山物語としての「怒涛の男」だった。寒い冬の夜の映画、石原裕次郎の「青春とは何だ」では、長椅子の下には熱い湯の通った鉄管があり、足を乗せて映画を観た。上映終了後には「ナイトショウ」として三益愛子の母ものの映画を母や姉に連れられて観た記憶がある。フランク永井や田代みどりなどの歌謡ショウもきていた。

Photo_9《一番新しくできた栃木東映》

 一番新しくできた映画館。万町交番の斜め前にあったのが「栃木東映」だ。東映映画専門劇場でスタートした。中村錦之介の「宮本武蔵」や北大路欣也・松方弘樹らの新しい時代劇など上映していた。夜の最期の一本の映画では35円の料金で観ることができた。切符もぎり場で一円玉で払おうとしたら、タダで入れてくれた。面倒臭かったのだろう。

 大川橋蔵が栃木にきた時に栃木東映にも舞台挨拶をした。私は中央公民館で大川橋蔵と「愛ちゃんはお嫁に」の鈴木三重子の歌謡ショウを観ていた。閉鎖した映画館の後にはパチンコ店ができていた。

Photo_10《今はパチンコ店となっている松竹館》

  ミツワ通り沿いで家から遠いため自転車で行った映画館。坂本九の「九ちゃん音頭」を観た後、自転車で暗い夜道を帰った記憶がある。三橋美智也の「リンゴ村から」、佐田啓二・高峯秀子「喜びも悲しみも幾年」、長谷川一夫「雪の渡り鳥」、勝新太郎「座頭市」など松竹と大映の映画館だった。さらには黒澤明の「赤ひげ」「天国と地獄」など東宝系も上映するようになった。上映後に舞台で「のど自慢大会」もやっていた。その時の上映作品が田村高広の時代劇だった。今はパチンコ店となっている。

 小学校から中学校にかけて映画館の思い出をだらだら綴ってきたのは、自分自身の記憶を残すことと、「映画館」のある街とは何かを考えたかったからでもある。

Photo_11 宇都宮大学国際学部行政学の中村祐司教授は「蔵の街栃木市」について、地域活性化として栃木市の景観は美しく様変わりし、情緒あふれる街並みとへ変わったことを評価したうえで、次のような指摘をもしている。「商店街にはシャッターの下りた店が多く人通りも少なく、人々は郊外のショッピングセンターへ行っている。今回栃木市を散策して感じたことは蔵の街の意識が強いのと、対象とする層が偏っていることである。中心市街地の活性化に取り組んだ金融機関、宿泊施設、飲食店、百貨店などで若者や家族連れが来るような遊び場がなく、どちらかというと車を利用しない高齢者向きのようで感じた。まちづくり事業を推進する上で時の流れに応じ現代にあったまちづくりで若者や家族みんなで遊べる場所である映画館やショッピング街などを取り入れる必要がある。外からの観光客を呼び込むのも大切だが地元市民を呼び込むのはもっと大切であり、中心市街地の活性化に繋がっていく」。この指摘は常設の映画館のない栃木の街は何処か文化から置いてきぼりにされているように感じていた私の考えと一致しているのだ。

 「街は人と情報を引き寄せ、再び解き放つ磁場だった」と読売新聞文化部長の福士千恵子氏が指摘している。IT情報など時代の変化があっても、街は情報を共有すしあえる場であり、情報を発信する場でもある。そのことが人々を呼び込む魅力に満ちて溢れてくる。日常的に栃木の街を散策する若者や家族連れの人々で生き交う「まちづくり」をしていくことが地域活性化の街づくりでもある。その具体策として「銀座通り」や「ミツワ通り」の商店街を行政として活性化していく施策が今一番求められているのではないかと思える。蔵の街としての歴史ある街づくりと若者や家族連れで賑わうショッピング街、「古さと新しさが対比するまちづくり」を目指す。そんな目標を掲げていったらどうだろうかと考えていきたい。

                      《夢野銀次》

  

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コメント

銀次さん、はじめまして。
昨年の蔵の街かど映画祭で、実行委員会に参加していたものです。

栃木市に映画館があった頃の思い出、、、興味深く拝読しました。
その跡地の現在の写真を見ながら、
「え、ここにも映画館があったの!?」と、びっくりしています。

後半の、街づくりに関する考察も、大変勉強になります。

地元民が、世代を超えて、家族連れで楽しめる街。。。
今後取り組んでいく街なかイベントなどにも、反映させていきたいです!

どうぞこれからも、銀次さんの記憶の中の栃木をたくさん書き残して、伝えていってください☆

投稿: 読み書き堂 | 2013年1月24日 (木) 22時48分

読み書き堂さん、コメントありがとう。
蔵の街映画実行委員会に参加しているのこと。
今年の映画祭では、東宝作品のフランキー堺、香川京子、有島一郎出演の「幽霊繁盛記」を上映参加作品に加えてください。巴波川べりなど栃木を撮影しての作品だった思います。ずーと以前に下北沢で上映されているらしいのです。是非、お願いします。
できれば、黒澤明「姿三四郎」から始まる栃木市を撮影している映画を継続的に上映していく企画の検討もお願いします。

投稿: 銀次 | 2013年1月28日 (月) 05時01分

銀次様
はじめまして。
3年程前に記事へのコメント、失礼いたします。

インターネットで栃木市のことを検索していたところ、こちらのブログに辿り着き、読ませていただきました。
こちらの記事の「明治座があった跡地」の写真の左側に写っているのは私の祖父母の家で、私も幼少期はここで育ちました。祖母は明治座で看板描きをしていたと聞いています。また、美空ひばりを抱っこした話しは、祖母の定番の自慢話でした。「ここは昔は映画館だった」という話は良く聞いていたのですが、詳しくは聞いておらず、なかなか想像ができていなかったのですが、祖母は5年前に、そして実は今年10月には祖父が亡くなり、今は家の整理中です。そんな中、明治座の写真も出てきました。古いものでは昭和8年の写真で、明治座従業員の方々の集合写真です。もし興味があればお見せすることもできるので、記載したメールアドレスにご連絡ください。
また、明治座の隣にあった、「ヨロヅヤ」という模型飛行機屋のことをもし銀次さんが記憶されていたら、覚えていることだけで構わないので、是非お話しを聞かせてもらいたいです。祖父も亡くなりましたので、まもなく、家も取り壊されてしまうようです。またひとつ懐かしい風景が変わってしまうと思うと非常に寂しいです。
長くなってしましたが、銀次さんのブログには懐かしい風景がたくさんあり、子供の頃のことが蘇ってきて少し感傷に浸っております。また、懐かしむだけでなく新たな発見もあり、このブログに出会えたよかったと、とても嬉しく思っています。
それでは。

投稿: ヨロヅヤの孫 | 2015年12月26日 (土) 01時39分

ヨロヅヤさんコメントありがとう。
模型飛行機屋さんと書かれていますが、子どもころ、組み立て飛行機を買った記憶がありますが、あまり鮮明に覚えていません。近龍寺につづく明治座通り。その通りから明治座に入る角の手前の家と角の家、幼馴染の家です。女子高校に通っている従姉の自転車に乗り、栃木幼稚園に通っていました。その途中で角の家の炬燵に入り、その家の女の子を待っている残像があります。明治座横の八百屋さんなど、お店がたくさんありましたネ

投稿: 銀次 | 2015年12月27日 (日) 04時28分

銀次様

早速のお返事、ありがとうございます。
ヨロヅヤ飛行機屋では、大人が趣味にするような模型飛行機の材料などを売っていたらしいのですが、子供向けの飛行機もあったのでしょうかね。きっと銀次さんもヨロヅヤのお客さんだったのですね。
あの通りは「明治座通り」といったのですね。私は始めて聞きました。通りの名前やバス停の名前には歴史が隠れていて面白いですね。私も母も、栃木幼稚園卒です。第二公園での運動会の白黒写真も出てきました。私の頃の運動会は第一小学校か、第二小学校でしたが。
角の家とは、今現在「木島屋」さんという和菓子屋さんがあるところかな?と、察しをつけてみましたが違うかもしれないですね笑。
私が聞いた話では、明治座がつぶれてしまいヒカリ座ができて、ヒカリ座が火事で燃えてしまったとのことでした。ヨロヅヤのトタン屋根も少しとけたようです。
八百屋も隣にありましたね。昭和57年生まれの私の記憶では「八百七」さんです。銀次さんの残像と同じでしょうかね笑。少しずつ記憶が鮮明さを失っている気がしますが、誰かとこうして話しができるのはとても嬉しいことです。ありがとうございます!!

投稿: ヨロヅヤの孫 | 2015年12月28日 (月) 00時05分

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