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街頭テレビのあった栃木神明宮・第二公園

P1070158  栃木市にある神明宮は栃木のお伊勢様と言われている。しかし、子供の頃からずっと「神明さん」と呼んでいたせいか、わたしには神明宮と言われると別の神社を想定してしまう。それだけ神明さんと親しみのある神社として呼んでいることになる。

 応永10年(1403年)、栃木城内神明宿(現神田町)に創建されたと言われており、天正17年(1589年)正月、皆川広照による城下つくりの一環として、現在地(旭町)へ移され、栃木町の総鎮守となったとされている。明治5年(1872年)県社となったと栃木観光協会の案内に記載されている。

Photo_2 この県社という呼び名は旧制度の神社の社格の一つで、官・国幣社より下、郷社(ごうしゃ)より上で、県から奉幣した神社となっているとされている。現代ではあまり気にしないが、この社格にこだわる人は多いと聞く。 また、現在の拝殿はもと中教院の講堂として明治8年(1875年)に造られたものを使用しているという。この中教院というのは何なのか、私自身よく分らない言葉だった。そのためネットで調べてみると、明治5年に当時各地方に設立され、それを束ねたのが大教院。明治5年(1872)教部省によって国民に対して尊皇愛国思想の教化民衆教化のために全国に教導職制を施行したとされている。Photo_4
 その時、中教院は地方におい
て神官など教導職の任命や昇級試験の実施をした機関となっている。当時県庁所在地であったこの栃木の町に中教院が設置されていたことになる。

 社殿は伊勢皇大神宮に倣い、神明造りとなっている。栃木の地名は、この神明宮の社殿の屋根にある2組の千木(ちぎ)と8本の鰹木(かつおぎ)が、遠くから見ると10本に見えたことから、神社の辺りを「十千木(とおちぎ)」と呼ぶようになったという説を栃木市観光案内ボランテイアの方々が述べていた。しかし、わたしは塙静夫氏が云う、市内を流れる巴波川がたびたび氾濫を起こしたことから、千切れた地形(浸食された地形)の動詞「チギ(る)」に接頭語の「ト」が付いて「トチギ」という地形説からくるのが栃木の地名の由来だと思っている。

Photo  拝殿手前の左側の敷地内にひときわ高い「金比羅大権現の常夜燈」が建立されている。『目でみる栃木市史』の中では、最上部には「神像」その下の屋根部には「金比羅大権現」と刻み、火袋の下には「龍」その下に「像」を彫り、その下の台座には「常明神・慈航安全、五穀豊饒、文化十四年丁丑秋九月十日立之鵬斉興書」と刻まれている。文化14年(1817)に建立されたものであり、さらに慶応2年(1866)にその下に石の台座を組んでこの燈籠を高くしている。その石組みには「太々講中六六名・女人講中一四名」の名が刻まれていると紹介されている。

盛んであったうずま川の舟運による船積問屋の記念物の一つとして歴史に刻まれている建立物なのかなと思える。

 神明さんは私の七五三のお参り神社でもある。拝殿でのお祓いを受け、お神酒を口に付け苦かったと記憶が残っている。さらに境内にあったブランコで亡くなった兄と一緒に乗った記憶がよみがえってくる。小学一年の時、一番上の姉がこの神明さんで結婚式と披露宴を行っている。

Photo_2  当時、東京の材木屋に住み込みで働いていた長男の兄が、どうして姉の披露宴に出席していないで、自分とブランコに乗っていたのか、今は分からない。そのかつてブランコのあった所に、お札納め所があった。太平山神社の破魔矢を納めようとしたが、神明宮以外の破魔矢なので300円納め下さいと言われた。縁起物を300円の有料として納める神社にぶち当たったは初めてだと言い返した。びっくり驚きもした。「分別回収のため料金が掛かるのですよ」と係員が済まなそうに答えた。古くなった破魔矢や熊手を神社に納め、神社境内で焼いてもらうという習いは有料になってしまったのかと思い情けなくなった。時代の変化と受け止めて良いのか?それとも経費削減とする栃木商人の商い魂というべきか、いずれにしても排他的な姿勢には残念なことだと受け止めることにした。                          

Photo_3  拝殿・社殿の右横が栃木第二公園になっている。社殿横の鳥小屋の所に「街頭テレビ」が設置されていた。櫓の上に箱に納められたテレビがあった。チャンネル操作はすぐ横にあった売店の人がしていた。昭和30年代初頭、栃木市内には消防署前と、この第二公園2か所に街頭テレビがあり、2か所ともいつも黒山の人だかりだった。とりわけ大相撲中継では社殿の板塀に寄りかかり、栃錦、若乃花の取り組みを夢中で見ていた自分を思い浮かべる。

 社殿を囲む板塀。そこで映画、市川崑監督「おとうと」の中で、仲谷昇が岸恵子にくどき迫るシーンの撮影がされた云うが、関係者からの確認はしていない。

Photo_4  街頭テレビのあった所から池の石橋を渡り、噴水池の手前に「日下開山二代横綱力士綾川五郎次碑」と刻まれた顕彰碑が建てられている。裏側には「綾川五郎次者下野国栃木産享保二年大関備前国岡山様召賜厚禄二代横綱力士 明治三三年十月 十二代横綱陣幕久五郎士師」と刻まれている。

 深川富岡八幡宮境内に横綱力士碑を建てた第十二代横綱・陣幕久四朗によるとされている。同様の顕彰碑として初代横綱明石志賀之介の碑が宇都宮八幡山蒲生神社にも建立されている。この綾川五郎次の墓石はNTT裏の定願寺の墓地内にある。どうして綾川五郎次の顕彰碑がこの第二公園内に建てられているのか分らないが、観光案内にも記載されていない。

Photo_5 境内横にある第二公園の広場。その先、前方左に栃木幼稚園がある。従姉で栃女高に通っていた今は亡き「みね子」ちゃんが通学の途中、自分を自転車に乗せてくれて通った幼稚園だ。セーラー服姿のみね子ちゃんの大きな背中を憶えている。

 この広場、サーカスが来ると小屋が建てられて興業が行われ、町はお祭りのように賑わった。木とゴザでできたサーカス小屋での空中ブランコやオートバイの乗り回し、わくわくして観ていた。さらに、昭和30年2月に栃錦、千代の山など出羽一門による大相撲興行がこの第二公園広場で行なわれた。幼稚園児の自分は一番前の東土俵下の砂被りの席で親父の隣に座って土俵を見つめていた。私の目の前に栃錦が座った。栃錦の背中を間近かで見た時、「何と汚い皮膚だな」と感じたことを今でも覚えている。大相撲、土俵近くでみたのは、この時だけで後にも先にない。

 神明さんの拝殿、社殿、板塀や噴水池や広場などの第二公園の敷地など昔も今も同じく佇んでいる風景がある。第二公園の広場を活用してイベント、行われているかどうか定かではない。しかし、この広場には多くの想いが涌いてくるような気がするのだ。

※関連ブログ『栃木町の神明宮と東宮神社ー湧水と大相撲板番付表』

                         《夢野銀次》

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