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2013年3月

庭木の花が咲いた-れんぎょう・ゆきわり・杏の木

Photo_8 東京はすでに桜が満開になったという。

我が家の庭木も一斉に花が咲きだした。

昨年、近所のばあ様から「この黄色い庭木の花くれ」とたのまれて、一株差し上げた。

ばあ様の家の庭先にスコップを持って植えてきた。

黄色の花、「れんぎょう」、今年も咲きだした。

バックに緑の麦の葉がのびてきているのが、より一層黄色花のれんぎょうをひきたてている。

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 白い花の「ゆきやなぎ」

あでやかで、迫力を感じる。

前の住まいの所沢から移植した庭木だが、

こっちにきてから一回り大きくなってきた。

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しかし、大きい「ゆきやなぎ」となったなと感心する。まわりに邪魔がいないということかな。

「ジャガイモ」の植え付けを3月12日に行なった。

今は里いもの畝づくりに励んでいる。

にんにく、ラッキョウ、ばあ様かもらった玉ねぎの苗、それぞれ追肥をしていっている。

本格的な畑作りの季節を迎えた。

Photo_4「あんずの花」が今年も咲いた。

昨年の倍の背丈となってきた。

今年こそ「杏の実」実って欲しいと願う。

日の出の時間が早くなった。

平安時代では一日の始まりは、今の午前3時だったと国学院栃木短期大學の公開講座の中で講師の方が述べた。

 わたしも目が覚めて起き上がるのが午前3時。あるシンガーソンガ―も午前4時ころから曲作りをするとラジオで言っていた。

 午前中はおだやかな気候でも午後には風が吹き出す。

こっちに来てから、耳たぶにシモヤケができるようになった。どうしてできるの皮膚科の先生に聞いた。曰く「加齢だよ」。声のかすれの時も「加齢」と言われた。医師の診断に「加齢」はタブーではないかなと思える。

                            《夢野銀次》

 

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強風の中の流鏑馬・馬飾り―篠塚稲荷神社初午祭

Photo 最大風速21.5メートルを記録した強風の中、神馬(じんめ)が走る。三本の的をめがけて矢が放った。三回走り、二本の的を命中させた「流鏑馬」は終了した。神馬は農道をゆっくり闊歩していったのが印象的な光景だった。

 3月10日の日曜日、栃木県小山市大本の篠塚稲荷神社での「初午祭」を見に行って来た。「流鏑馬」と「飾り馬」で知られている篠塚稲荷神社初午祭のことを昨年の6月に知人から聞いた。今年は是非行ってみようと思っていた。

Photo_12 JR両毛線「思川」駅から農道を通って10分くらいの所に篠塚稲荷神社があった。ちかくには「若駒」という造り酒屋があり、立ち寄ってみた。テレビドラマ「仁」の中でロケとして撮影されたいうが、どの場面か不明だ。

 小山市観光協会の案内によれば篠塚初午祭は毎年3月の第2日曜日に行われ、村の無病息災と豊作を祈願して、五色の布や布団で美しく飾り立てた神馬が地区内を練り歩き、神社に参向する祭り。神事が終わると『飾り馬』の派手な飾りは解かれ、流鏑馬(やぶさめ)用の馬になる。3つの的に矢を放ち、その当たり具合で農作物の作況を占う。また、地域の人たちによる太々神楽が奉納され、祭りに花を添える」と紹介されている。 

 Photo_13初午祭はもともと旧暦で2月最初の午の日を初午とし、農家では稲の豊作、商家では商売繁盛を祈って稲荷さまを祭る行事となっている。また、蚕や牛・馬の祭日とする風習もあるという。江戸時代には、この日に子供が寺子屋へ入門したとも云わている(「年中行事事典」より)。

 朝9時に五色の布団で飾られ、一番上には金幣が立てられた「飾り馬」は氏子地域の大本・小薬(こぐすり)・松沼の12キロを練り歩く。3地域での米の収穫高が3000石あったという広い地域を囃子に先導された飾り馬が練り歩く。のどかな農園地方の風景だ。

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 神馬を飾り立てた布団に赤子を寝かせると健康に育つと云われている。そのため、神馬が背負っている五色の布団は子供の布団となっていることが分かった。また、子供布団を背負って歩く飾り馬を見て、間引き防止も含めて赤子への健康祈願だったのではないかと思えた。

 

Photo_18  午後から風が強く、ときおり突風が突き抜け、砂埃で稲荷神社の境内で立っているのがきつい状態になった。3時から執り行う「流鏑馬」、行うのかと半纏をまとった人に聞いた。「流鏑馬をする人が馬に乗り、風の状態を見て判断していくようです。今の所は中止ではありません」という返答だった。風が強まったのが午後1時。あと2時間は風と砂埃の中で待つことになる。帰ろうかなと思ったが、せっかくの機会だから、とにかく3時まで待つことにした。辛抱だ。  

 東京では「煙幕」という聞きなれない現象が起きていたことを夜のニュースで知った。

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 午後3時過ぎ、御神殿の前に「飾り馬」が現れ、飾り物が解かれた。ようやく「流鏑馬」が始まる。馬は以前は氏子の家からの提供だったが、今は小山市にある乗馬クラブからのレンタルだそうだ。そして、流鏑馬をする乗馬する人は氏子ではなく「馬主」だと後から聞いた。

 それでも、風の中を馬は3回走って、矢が放たれた。参道を駆け抜ける馬は迫力があった。「壱」と「弐」の的に矢はあたった。

   的が大きいというのが印象的だった。武芸としての「流鏑馬」ではないと言うことだ。東京杉並区の「井草八幡宮」での「流鏑馬」の的は直径30センチ位の非常に小さい的だったことを思い出した。

Photo_20 この篠塚神社の「流鏑馬」は武芸鍛錬としてではなく、稲作の占いをする風習から行われているのだ。

 柏村裕司著「栃木の祭り」の中の「篠塚稲荷の飾り馬」において、「矢が壱の的に当たれば早稲(わせ)が豊作、弐の的ならば中稲(なかて)、参の的ならば晩稲(おくて)が豊作といわれている。稲作地帯における稲荷社の祭りふさわしい風習」と紹介されている。これから始まる稲作にむけて、村民の豊作への願いと村落共同体の結束をはかる祭りなのかと感じた。 

Photo_21 午後から始まったお神楽。強風の中で「ヒョットコ踊り」など「優雅」に舞う。その姿は参詣者ではなく、ご神殿に向けて奉納としての舞っているとしか写らなかった。そこには観光客のためではなく、村の祭として執り行う姿勢が見えた。

 帰りはIR「思川」の駅で1時間以上、プラットホームの待合室で上り電車、高崎行きを待った。群馬方面は上り、栃木小山方面は下り電車と言っている。両毛線の上りと下りは古代の東山道の名残から決めている。家に着いたら服、ズボンや髪の毛、耳などホコリにまみれていた。

 

                                《夢野銀次》

 

 

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江戸への入り口-新川・中川口・小名木川

P2110005  「船堀川と新川は同じなのか?」と以前から疑問があった。都営地下鉄新宿線「船堀駅」から新川まで10分でたどり着くことができた。

  新川の最終地点の西水門には「火の見やぐら」が建っていた。平成22年の1月に江戸川区が高さ15.5メートルの火の見やぐらを建てたのだ。火の見やぐらの中は階段で上ることができており、新川を見渡すことができる。さらに水門の先にある「中川」と「荒川」をも眺めることができている。

  新川はそれまであった「古川」を江戸時代初期に行徳から塩を江戸に運ぶ水路として新たに運河として作られた。

P2110013  さらに天正18年(1590)に江戸入府した家康は江戸のまちづくりとして、大きな構想としての事業を進めることになった。湿地帯の江戸を変えていくことと徳川の財政基盤である米の収集を確実に行う体制づくり。さらに新田開発を行い米の生産の増加させること等々だ。そのため江戸湾に注いでいた利根川を関宿から毛野川・常陸川の流路に鬼怒川を合流させ、銚子から太平洋へ流れる川にして舟運としての水路を作り上げた。寛文5年(1665)までかかったこの河川事業を利根川東遷事業といわれている。何と大きな構想での事業なのかと驚かされる。

  群馬県から流れる利根川に思川を含めた栃木県の渡良瀬川が茨城県の古河で合流して、千葉県の関宿で太平洋に流れる利根川と江戸川とが分流する。江戸湾に注ぐ江戸川の河口の行徳から新川に注ぐ水路の整備。新川-中川口ー小名木川ー隅田川ー蔵前・日本橋小網町河岸と江戸の町と北関東とが継る水路の完成をみた。

06301  江戸川区と江東区の境に荒川と中川が流れている。この二つの川で混乱した。新川-中川口-小名木川が結びつかないからだ。その疑問に「船番所資料館」の学芸員の方が答えてくれた。「江戸川区と江東区の境に流れている川は荒川放水路といって川ではありません。荒川はもともと隅田川に流れていたのですよ。中川は江戸期は蛇行する川であり、江戸期の水運の水路として考えることはありません。前を流れている中川は昔の中川の名残なのです。そのため旧中川と言っているのです。船堀川は新川のことを言います」と明確に述べてくれた。

P2110059_2   天保5年(1834)から天保7年に作成された「江戸名所図会」に中川口にあった中川船番所が描かれている。左に番所の建物。中には役人が通行する船を見張っている。番所の前を三艘の船が通過している。荷物以外に人をも乗せていることが分かる。下野の栃木町から水路を利用した場合に日本橋小網町河岸まで一日半で行くことができた(岡田嘉右衛門日誌より)。上の中川には帆をはった高瀬船が見える。中型の高瀬船で米俵500俵積むことができた船であり、大きな輸送力を発揮した。帆で遡航すのだが、船尾に櫓がついていない。船乗りの技量が問われた船だ。

017_7  地下鉄都営新宿線「東大島駅」から徒歩5分の所に「船番所資料館」がある。資料館には当時の船番所の一日が再現されており、街道での関所とは違う面白さを味わうことができる。この船番所は江戸に出入りする川船を取り締まるための河川流通の関所として重要な役割を果たしたとされている。

 資料館の前の中川口に「船着場」ができていた。資料館の人の話しでは、今年の3月中ごろから船の周遊を始めるという。「櫓を漕いでの周遊ですか?」と聞いたら、「エンジンモーターの船です。現在では櫓を漕ぐ人がおりません。小名木川では川が深く、竿では船を操作できないのですよ」と厳しい時代の流れの答えが返ってきた。

014_3  船番所橋から中川から小名木川に注ぐ河口が見える。小名木四郎兵衛によって運河を開削させたことから小名木川と名付けられている。

 ゆったりと隅田川に向けて流れている。

   小名木川護岸整備工事が平成17年~22年にかけて行われた。両岸には遊歩道が整備され、隅田川に向けて歩くことができる。江東区では観光案内ボランテイアを立ち上げて、小名木川の宣伝を始めてきている。

  川の水位は深い。どのくらいの深さなのか。両岸の手すりには所々に浮き輪が置いてある理由も頷けた。

024_3  小名木川に架かる「丸八橋」の畔に大島稲荷神社がある。元禄5年(1692)9月29日松尾芭蕉が深川から小名木川を船で下って、門弟の桐渓(とうけい)宅を訪ねる途中、船を停めて大島稲荷神社に参拝し詠んだ句碑「女木塚」が建立されている。 

秋に添て 行はやハ 小松川

 

満年橋沿いの芭蕉庵、芭蕉稲荷などがあり、この小名木川には芭蕉ゆかりの川でもあるのかと感じた。

022  江東区の砂町に住む叔母が2月1日に101歳で亡くなった。塩原温泉の仲居をしたこともあるが、戦後は砂町銀座商店街で「下駄屋」を営んで、不動産を含め生業の良い生涯を送ることができたと思える。

  葬儀の帰り、近くの小名木川沿いを歩いた。「この小名木川は栃木市に続いているんだ。叔母さんは小名木川を見て、故郷栃木のまちを思ったことがあったんだろうか」とふと思いが浮かんだ。栃木巴波川-部屋河岸-渡良瀬川-利根川-関宿-江戸川-新川ー中川口船番所-小名木川ー隅田川-日本橋小網町河岸と続いている川は砂町と栃木とを繋げている。そのことを叔母さんは知っていたのではないか。川面を見ながら兄である父と妹の叔母とのやり取りの思い出が浮かんできた。

  葬儀で栃木の実家に来た叔母に父は「まきで炊いた風呂に入っていけ」と言った。これから火葬場に行く叔母は少し困った顔をしたが、79歳の兄に向かって笑って小さく肯いた。その時、75歳の伯母が妙に可愛い妹の表情を浮かべたのが印象に残っている。兄に接する叔母はどんなに年をとっても妹なんだとその時感じた。

P2110068 満年橋河口から隅田川に小名木川は注ぎこむ。岸壁に立ってみると隅田川がこんなに大きく迫力のある川なのかと改めて驚いた。右に上れば蔵前、左に下れば日本橋小網町河岸に行くことができる。新川-中川口-小名木川は江戸に入る玄関口なのだ。中川口船着き場から日本橋まで船で就航する日がやがてやって来るような予感がする。

  江戸期は五街道の発着場所として日本橋は有名だ。しかし、水路をたどれば、日本橋は舟運としての発着と到着の場所なのだ。河岸跡はほとんど残されていない。しかし、舟運をめぐる川の水路を辿れば、新たな歴史的価値が出てくると思える。

                            《夢野銀次》

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心根の弱さか、悲しさか-勝新太郎「座頭市物語」

51g9jqwchrl_sl500_aa300_1_3 遠い昔、最初にみた時には「暗い映画だな」という印象。「土蔵から見える捕手の提灯、飯盛女とのやりとり、川から舟が漕ぎだす」といったシーンの記憶が残っていた勝新太郎のモノクロ映画「座頭市」。

 本当に「座頭市をみていたのかな?」と思い、DVDで三作品を見た。一作目の「座頭市物語」(昭和32年、1962、モノクロ)、二作目の「続座頭市物語」(昭和32年、1962,モノクロ)、三作目「新座頭市物語」昭和33年、1963、カラー)だ。一,二作目は天保水滸伝の世界で天保15年(1845)頃だが、三作目は「水戸天狗党の残党」の登場から慶応2年(1865)頃の時代設定となっていて時代の開きがある。しかし、幕末の下総・常州の時代風景を楽しんで見ることができた。

 一作目の「座頭市物語」では平手造酒(天地茂)と座頭市との男として心のつながりを描いている。盲のため人から下げすまされまいとして、必死で居合い抜きを修行したことを平手造酒に語る。その平手を斬る時の座頭市の悲しさが滲んでくるシーンは印象的だ。

 
61vbo46spl_sl500_aa300_1 二作目はその続きとして飯岡の助五郎をラスト、座頭市が怒りもって斬るシーンが強いインパクトを与えている。
女(千代)めぐって兄弟の争いがあったからだ。座頭市の女を奪ったのが実の兄、与四郎(若山富三郎)だった。その時、座頭市は兄の右腕を斬っている。二人は再会したが、斬り合い、座頭市は兄を脇差で刺した後、追手から逃れるため兄を抱え川に飛び込む。暗い土蔵の中で兄は市に看とられて亡くなる。そのとき、兄も「千代」に棄てられたことを告白する。市が盲になったため棄てられたのと同じく、片腕となったからだ。障害者として苦悩と苦しみ、悲しみが、ラストの飯岡助五郎をたたっ斬るシーンへ繋がっている。見事な演出だ。

  二作目に飯盛女として水谷良重(現在の二代目水谷八重子)がでている。若い水谷良重だが「女の色気」がぷんぷん匂いをさせ実に艶やっぽい演技を見せている。この女優を見るだけでこの作品は面白く、得した気分になれる。場所は関宿。利根川と江戸川の分岐点として、川面と舟、橋など当時のロケーションが映し出される。昭和30年代にまだ残されていた江戸期の風景がある。幕末の時代の暗さが映像として残っていた。貴重な映像資料だと思えた。

 三作目からカラー作品となる。座頭市に居合い抜きを教えた剣術師匠、伴野弥十郎(河津清三郎)が登場し、常州下館を舞台に水戸天狗党の残党を絡ましての作品となっている。この作品でも座頭市は師匠から最後「どめくら」と罵られる。師匠の妹と夫婦になることの許しを請う時に師匠から言われたのだ。その時の市の悲しさがでている。その師匠を市は斬らざる負えない状況が設定されるなど、映画は座頭市を追い詰めていく。

Img_952639_31272559_01_4 「めくら」という障害者、弱者でありながら、居合の達人となり渡世人となった座頭市。仕込み杖からの居合い抜きで斬り刻んでいく姿は昭和30年代、社会から押しつぶされていった一般大衆の怒りが投影されていたのだ。そうした背景なのか、座頭市シリーズは大量に長く続くことになる。

 座頭市の心根は弱く、悲しい。ビートたけしにはできない勝新太郎の「座頭市」だと改めて感じた。

              《夢野銀次》

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