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2013年5月

映画「警察日記」―栃木・蔵の街映画祭

003_3 栃木市内に建つ蔵を活用しての「栃木・蔵の街かど映画祭」が5月18日(土)・19日(日)に開かれた。国の登録有形文化財の栃木高校講堂では辻仁成監督を招いての「その後のふたり」の上映と辻監督とのトークショー。嘉右衛門町伝統的建造物群保存地区にある岡田記念館では「とちぎ映像コンクール」入賞作品等が上映された。全体で15会場が「蔵の数々をミニシアターに変貌させた映画祭」として2日間、栃木の街を映画の街とした。今年で6回目となった映画祭だ。

 当初は19日の「その後のふたり」を観に行く予定をしていた。トークショウより、栃木講堂の中を見たかったからでもある。しかし、変更した。

002_7 5月18日に太田蔵で上映された「幕末太陽傳」「警察日記」を観た。太田蔵は明治39年に建てられた見世蔵として現存しており、天井が高く定員50名の上映会場だった。

 その「警察日記」を観て、あまりの良さに感動してしまい、翌日(19日)も「警察日記」を観に行ってしまった。栃木講堂には行けなくなった次第だ。

 映画「警察日記」は昭和30年(1955)2月、戦後再開された日活映画として公開されている。昭和30年の日活作品には「ニコヨン物語」「怒涛の男・力道山物語」など今でも見たい映画が沢山ある。

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 「警察日記」は会津磐梯山麓の小さな町を舞台に、警察官とその町に暮らす人々のエピソードを描いている。「喜劇」とうたっているが、「喜劇」ではない。

 昭和30年は自分が小学校に入学した年。そこに描かれている映像は自分の子供の頃の情景が映し出されていた。埃たつ土の道路、バスガイド、木製の電信柱、荷馬車、野良犬、木の橋、子だくさんの食事、女性の着物姿等、とても懐かしく観ることができた。

 さらに出演している俳優陣に驚いた。巡査の森繁久彌、十朱久雄、織田正雄、殿山泰司、三國連太郎、宍戸錠に警察署長に三島雅夫。若い村娘に岩崎加根子とその母に飯田蝶子、最後自衛隊に入る伊藤雄之助、やみの人身斡旋の杉村春子、万引きと無銭飲食で警察に連行される千石規子。そして子役としての二木てるみ。他に小田切みき、東野英治郎、左卜伝、多々良純、三木のり平、沢村貞子、坪内美子、稲葉義男等、これだけ多彩な出演者が揃っている映画だ。観ていて只驚いた。

Image2_2 若い巡査の三國連太郎。岩崎加根子を送って行った帰り道。自転車に乗りながら「粋な黒塀 見越しの松に仇な~」とお富さんを歌う。このシーンを見て、山田洋次監督「息子」中でも「お富さん」を三國連太郎は歌っている。息子のアパートの部屋で息子の結婚話のうれしさで「お富さん」を歌うシーンとオーバーラップしてしまった。

映画「息子」の「お富さん」の歌は三国連太郎の希望で挿入になったのだろうかと推測してしまった。

 「警察の仕事は人助けだぜ」と堂場瞬一著の「蝕罪 警視庁失踪課・高城賢吾」の中で高城賢吾警部が吐くセリフがある。この映画の警察は「困った時は警察に相談して欲しかった」「町や村の人のため」という想いで連行されてくる人々に接している。まさに人助けの警察を描いている。その背景にあるのは「貧しさ」からかもしれないが温かく人との関わりを描いている。

201303191136321  万引き、無銭飲食、捨て子、ヤミの就職斡旋、村人からのトラック荷台乗車の陳情、通産大臣の歓迎会などエピソソードが次から次へと描かれていく。中でも二木てるみの表情は圧巻だ。割烹旅館に弟と引き取られる。捨てた母親(坪内美子)が森繁久彌の前に現れる。迎えに来たというが、実は子供を引き取って一家心中しようとしたと言う。森繁は母親に東京で再度働き、自立するように諭す。子供は割烹旅館で育てもらうことなった。東京に働きに行く母親に警察のジープから子どもたちを見せる。このシーンは涙が止まらなかった。

Image1_3_5 割烹旅館の玄関前には赤ん坊を抱いた森繁、その傍らに新しい服を着た二木てるみが立っている。母親を乗せたジープがその前を二度通り過ぎる(ジープを運転するのは若い警官役の宍戸錠)。

 ジープをじっと見つめる二木てるみの目線は母親の姿を見ているような気がした。母がいることを知って、じっと我慢している表情に見えた。

Image2_3_7 この映画で黒澤明の「赤ひげ」「用心棒」と類似点を指摘している人もいる。「赤ひげ」の二木てるみの寝姿、杉村春子の女郎屋の女将、「用心棒」の司葉子の子供への想い等。黒澤明も影響を受けたのだろう。

 監督は久松静児。「駅前」シリーズを撮っている監督だが、自分は加東大介主演の「南の島に雪が降る」が一番印象に残っている。南方の島の軍隊の中で芝居「瞼の母」を上演する。ラストの舞台に雪が降る。観ていた兵隊達が紙の雪を抱きしめ、ふるさとを思う喜びのシーンが残っている。

Image0091_2 「早く行かねば火事、終わってしまうべな」とエンコした消防自動車に町のオカミさんから声が掛かるシーンは何故か心が和んだ。そういえば以前の栃木市の警察署の隣は消防署だったことを思い出した。

 かつては交番と地域の住民は繋がっていた。今はどうなのか? 自分の母親の葬儀は自宅で執り行った。その時、町内の役員が近くの万町交番に日本酒二本持って行った。交通へのお目こぼしをお願いしたのだな。あうんの世界があった。

Keisatunikki1 懐かしい人が出ていた。割烹旅館の仲居の役としての「福田とよ」。「昔の日活作品に出ていたのよ」と言っていた。二木てるみに玄関前で水をかけてしまう役の人だ。今から35年前、かつて東京吉祥寺東町で「かあちゃん」という飲み屋を営んでいた。近くのアパートに住んでいた自分の行きつけのお店でもあった。ある時「つまんねえ店だ」とつぶやいたら、次の時、店に入ったらいきなり怒鳴られたこともある。それでも「杉村春子のマネージャ(運転手)やってみないか」と誘われたこともある。芝居を演ってたことを見ぬかれていたのだ。ある日「不動産屋から店舗賃貸料の引き上げの申し出があり、安い料金でできないためお店を閉じます」というハガキが届いた。それ以来、音信不通となってしまった。どうしているのかな。当時の自分は芝居や映画(シナリオ)から意識的に離れたかった。もっと福田とよさんとは芝居や映画の話をしておけば良かったなと悔やんでいる。

                             《夢野銀次》

 

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夏野菜の植え付け

P5130145_5  今年のゴールデンウイークは天候不順というか、朝夕と昼間の温度差が大きかった。そのためか、風邪をひいて、体調が今一つだった。

 それでも夏野菜の植え付けが終わった。

手前がかぼちゃ。スーパーで購入したカボチャから芽がでてきたので植え付けした。さつまいもは金時。後方のマルチから里芋の芽が出てきている。

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夏野菜の定番。

左からきゅうり、ナス、ピーマンとししとう。

虫よけとしてマリーゴルドの花を植えた。

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 4月の遅霜で若干葉がやられたじゃがいも。

どうにか育ってきた。

キタアカリ、メークイン、男爵で4キロ植えた。

6月下旬ころから食べ始まる。

7月から8月の我が家の朝食とじゃがいもときゅうりのオンパレードになる。

P5130130 昨年の畝から新しい畝に植え替えしたイチゴ。

 今年は甘くて大きなイチゴの育った。多分「女峰」だったと思う。購入した苗は一昨年で3個だった。それが、今は毎朝10粒のイチゴの実を食べている。

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 昨年、軒先で育てたメロンが大変甘く美味しかった。畝で育てたメロンはダメだった。よって今年は軒先でのメロン栽培となった。

左がミニメロン。うまく育つか、ダメ元でやってみる。

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絹さやの白い花が咲き始めている。

もうすぐ実がなってくる。

近所の農家や菜園では「わら」を上から起き、絹さやを伸ばしている。来年はそうしてみる。

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昨年できたラッキョ30本を秋に植えた。

葉が強く伸びてきている。もうすぐ実がなってくる。この時期のラッキョ、なんかたくましく感じてくる。

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 我が家の畑にも「もぐら」の動く気配がしてきた。ペツトボトルでもぐら避けを作って対処している。もぐらはミミズを追いかけて出没する。しかし、もぐらの通った所からねずみが来ることが一番の大敵だ。

 銀太と夢野、君たちこそがねずみ退治をする大きな任務を背負っていることを肝に命じて、我が家の菜園を守ってくれよナ。

                   《夢野銀次》

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道鏡は追放なのか―下野薬師寺跡

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 宝亀元年(770)に都から下野薬師寺の別当として道鏡が就任してくる。就任2年後の宝亀3年(772)に道鏡はこの地で没している。道鏡の墓としての「道鏡塚」が薬師寺南方の「龍興寺」境内にある。

 女帝天皇の孝謙天皇(重祚して称徳天皇)の病を治したことから、称徳天皇の厚い信任を得て政治の舞台に昇りつめた道鏡。太政大臣から法王の称号を称徳天皇から与えられた。俗界は天皇が支配、宗教界は法王が支配するということもあった。しかし、称徳天皇が崩御されることにより、道鏡は下野薬師寺別当に命じられ下野の地に来た。岩波講座「日本通史・8世紀の日本」においては「追放」と記述されている。Photo

 下野薬師寺は680年頃に下毛野古麻呂によって建立されたとされている。古麻呂は下野河内郡を本拠地とした下野国の国造家(長官)であり、藤原不比等とともに大宝律令の選定に関わり、参議となっている。その古麻呂の氏寺としての薬師寺が天平感宝元年(749)に法隆寺・四天王寺などともに墾田500町が認められ官寺となる。そして天平宝字5年(761)に東大寺に続いて下野薬師寺に戒壇が置かれた。東大寺(奈良)、筑紫観世音寺(福岡)と下野薬師寺を「天平の三戒壇」と呼ばれている。

 下野薬師寺跡はJR宇都宮線「自治医大駅」から東に4号線新バイパス500m手前の左に入った所にある。寺院の広さは東西250m,南北350mと地方として破格の大きさで、中央の大寺院に匹敵すると云われている。これも下毛野古麻呂の存在が大きかったとされている。

P4230518_2 「よく質問されるのです。この下野薬師寺は何宗派ですかと」と薬師寺そばに建てられている「下野薬師寺歴史館」の受付の人が話していた。どうしても今の私たちには国と仏教が密接につながって行われた時代をイメージできない面がある。「この時代は宗派はありませんでした」と資料館の担当者が応えてくれた。仏教は民衆を救うという考えではなく、国家(王家)を守るためにあるという考えに立たないとこの時代が見えてこない。その国家とういう概念も今の近代国家ではなく、あくまでも王家(天皇)を意味する近畿を中心とした国家なのだいうこと。

 この時代(天平年間)は聖武天皇から始まる仏教が国家(王家)を守る「鎮護国家」の考えから、大仏建立から諸国の国分寺の造営がされた。三宝(仏・法・僧)の教えから僧は国家によって管理する必要がでた。そのため正式な僧を育成し、試験する場が「戒壇」であった。近畿からみた辺鄙な地の下野の国庁や国分寺近くの下野薬師寺に「戒壇」が設置された。日光中禅寺を開山した勝道上人は戒壇が設置された翌年(762年)に、この下野薬師寺で受戒して国が認めた僧になっている。そして鎮護国家のため下野国庁の援助を受け、男体山・中禅寺を開山した。因みに聖武・孝謙天皇も東大寺で受戒していることから僧になっている。

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 天長4年(827)、最澄が開いた天台宗の延暦寺に戒壇院が建てられると、三戒壇を経ずに僧になることができるようになる。僧侶の育成とういう重要な役割をもっていた下野薬師寺は律令国家の弱体化と共に衰退の
道を進む。

 南北朝時代に下野薬師寺は安国寺と改称され現在に至っている。安国寺は足利尊氏・直義が日本各地に設けた寺院である。臨済宗の夢窓疎石の勧めにより、後醍醐天皇以下の戦没者の菩提を弔うため、聖武天皇が国ごとに国分寺を建立したことにならって寺を建ている。

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 下野薬師寺跡は安国寺境内を取り囲むようにある。講堂(金堂)は今の安国寺本堂の裏側に位置するが今は何もないただの駐車場になっていた。そばには復元された回廊が本堂の西側後方にある。復元回廊と安国寺本堂との間に江戸時代に建てられた「六角堂」がある。六角堂案内版には「建物の形、さらに屋根、外回りの柱・礎石までが正六角形造りとなっている。内部中央には、鑑真和上の画像を収めた厨子が安置されてあり、木造の不動明王像、韋駄天像などが祀られている」とあった。実際、この六角堂にて受戒がおこなわれたのかどうか、確認しなかった。しかし、薬師寺跡地は広さを感じる空間を有し、広大な広さを感じた。
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Photo_5  下野薬師寺跡の南側、道路を挟んで「龍興寺」がある。下野薬師寺の別院と伝えらている古く大きな寺院と感じられた。山門を入ってすぐ左側に道鏡の墓として伝わっている「道鏡塚」がある。神護景雲4年(770)8月、称徳天皇が崩御されて半月後に道鏡は下野薬師寺の別当として、下野に下る。そして2年後の宝亀3年(772)に、この地で没する。

  江戸時代には「道鏡は すわるとひざが 三つでき」と川柳に詠まれるなど巨根説として揶揄されている。吉田孝著「8世紀の日本-律令国家」の中で道鏡のことを「長安で禅(ヨーガの瞑想修行)を学んで帰国した道昭の孫弟子にあたり、山林修行によって身につけた並外れた呪験力により看護禅師として選ばれた。道鏡は如意輪法を修行し、『宿曜秘法(すくようひほう)』の呪法によって孝謙上皇の病気を平癒させる。そしてこれを契機に、孝謙上皇は道鏡を寵愛するようになった」と記述されている。

 実際に道鏡が皇位をねらったかどうか、不明な点が多く、多くの識者が研究されている。しかし、どうも道鏡のイメージが悪いのは、姦通が頭に浮かんでくるせいなのかな。いずれにしても称徳天皇の崩御をもって天武天皇系の皇統が断絶して天智天皇系統が復活したことから以後の政治の流れから、藤原氏の政治的な作為が感じられてくる。大和朝廷を構成する豪族によって法体の道鏡は異質なものだったのだろう。大和豪族の中心の藤原氏により道鏡は下野薬師寺別当という体の良い形で追放されたと思える。

Photo_6 JR宇都宮線「石橋駅」の西に黒川紀章が設計した石橋中学校がある。その手前の交差点の右側に孝謙神社が祀られてある。云われは案内板に「道鏡と共にこの地に配流された2人の高級女官が孝謙天皇の分骨を舎利塔に収め、この地にあった西安寺に安置し、孝謙天皇の供養した。その後西安寺が廃寺となったため村人により舎利塔をご神体に祀り、孝謙天皇神社として改め今日に至っている」という内容の記載がある。

 田園地帯の中に祀られてある孝謙天皇神社。村人の熱い想いが1300年の年月となって今日に繋がっている。不思議な感じがした。 

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2人の高級女官にとり、分骨して持参したことは道鏡と孝謙天皇の関係は厚いものとして受け止めていたと想像できる。28歳で皇太子になった孝謙天皇は未婚のまま53歳で没している。孝謙天皇神社が下野薬師寺からさほど遠くない位置にあるところから、孝謙天皇の分骨が安置された西安寺に道鏡は頻繁に詣でた可能性が強く感じられる。それは、女帝と臣下とは違う精神的な愛情の関係があったのかもしれない。それにしても、追放されて2年で道鏡が没しているのは、短く感じられる。まだまだ何かあるように思われるのだ。

                                 《夢野銀次》




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