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道鏡は追放なのか―下野薬師寺跡

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 宝亀元年(770)に都から下野薬師寺の別当として道鏡が就任してくる。就任2年後の宝亀3年(772)に道鏡はこの地で没している。道鏡の墓としての「道鏡塚」が薬師寺南方の「龍興寺」境内にある。

 女帝天皇の孝謙天皇(重祚して称徳天皇)の病を治したことから、称徳天皇の厚い信任を得て政治の舞台に昇りつめた道鏡。太政大臣から法王の称号を称徳天皇から与えられた。俗界は天皇が支配、宗教界は法王が支配するということもあった。しかし、称徳天皇が崩御されることにより、道鏡は下野薬師寺別当に命じられ下野の地に来た。岩波講座「日本通史・8世紀の日本」においては「追放」と記述されている。Photo

 下野薬師寺は680年頃に下毛野古麻呂によって建立されたとされている。古麻呂は下野河内郡を本拠地とした下野国の国造家(長官)であり、藤原不比等とともに大宝律令の選定に関わり、参議となっている。その古麻呂の氏寺としての薬師寺が天平感宝元年(749)に法隆寺・四天王寺などともに墾田500町が認められ官寺となる。そして天平宝字5年(761)に東大寺に続いて下野薬師寺に戒壇が置かれた。東大寺(奈良)、筑紫観世音寺(福岡)と下野薬師寺を「天平の三戒壇」と呼ばれている。

 下野薬師寺跡はJR宇都宮線「自治医大駅」から東に4号線新バイパス500m手前の左に入った所にある。寺院の広さは東西250m,南北350mと地方として破格の大きさで、中央の大寺院に匹敵すると云われている。これも下毛野古麻呂の存在が大きかったとされている。

P4230518_2 「よく質問されるのです。この下野薬師寺は何宗派ですかと」と薬師寺そばに建てられている「下野薬師寺歴史館」の受付の人が話していた。どうしても今の私たちには国と仏教が密接につながって行われた時代をイメージできない面がある。「この時代は宗派はありませんでした」と資料館の担当者が応えてくれた。仏教は民衆を救うという考えではなく、国家(王家)を守るためにあるという考えに立たないとこの時代が見えてこない。その国家とういう概念も今の近代国家ではなく、あくまでも王家(天皇)を意味する近畿を中心とした国家なのだいうこと。

 この時代(天平年間)は聖武天皇から始まる仏教が国家(王家)を守る「鎮護国家」の考えから、大仏建立から諸国の国分寺の造営がされた。三宝(仏・法・僧)の教えから僧は国家によって管理する必要がでた。そのため正式な僧を育成し、試験する場が「戒壇」であった。近畿からみた辺鄙な地の下野の国庁や国分寺近くの下野薬師寺に「戒壇」が設置された。日光中禅寺を開山した勝道上人は戒壇が設置された翌年(762年)に、この下野薬師寺で受戒して国が認めた僧になっている。そして鎮護国家のため下野国庁の援助を受け、男体山・中禅寺を開山した。因みに聖武・孝謙天皇も東大寺で受戒していることから僧になっている。

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 天長4年(827)、最澄が開いた天台宗の延暦寺に戒壇院が建てられると、三戒壇を経ずに僧になることができるようになる。僧侶の育成とういう重要な役割をもっていた下野薬師寺は律令国家の弱体化と共に衰退の
道を進む。

 南北朝時代に下野薬師寺は安国寺と改称され現在に至っている。安国寺は足利尊氏・直義が日本各地に設けた寺院である。臨済宗の夢窓疎石の勧めにより、後醍醐天皇以下の戦没者の菩提を弔うため、聖武天皇が国ごとに国分寺を建立したことにならって寺を建ている。

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 下野薬師寺跡は安国寺境内を取り囲むようにある。講堂(金堂)は今の安国寺本堂の裏側に位置するが今は何もないただの駐車場になっていた。そばには復元された回廊が本堂の西側後方にある。復元回廊と安国寺本堂との間に江戸時代に建てられた「六角堂」がある。六角堂案内版には「建物の形、さらに屋根、外回りの柱・礎石までが正六角形造りとなっている。内部中央には、鑑真和上の画像を収めた厨子が安置されてあり、木造の不動明王像、韋駄天像などが祀られている」とあった。実際、この六角堂にて受戒がおこなわれたのかどうか、確認しなかった。しかし、薬師寺跡地は広さを感じる空間を有し、広大な広さを感じた。
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Photo_5  下野薬師寺跡の南側、道路を挟んで「龍興寺」がある。下野薬師寺の別院と伝えらている古く大きな寺院と感じられた。山門を入ってすぐ左側に道鏡の墓として伝わっている「道鏡塚」がある。神護景雲4年(770)8月、称徳天皇が崩御されて半月後に道鏡は下野薬師寺の別当として、下野に下る。そして2年後の宝亀3年(772)に、この地で没する。

  江戸時代には「道鏡は すわるとひざが 三つでき」と川柳に詠まれるなど巨根説として揶揄されている。吉田孝著「8世紀の日本-律令国家」の中で道鏡のことを「長安で禅(ヨーガの瞑想修行)を学んで帰国した道昭の孫弟子にあたり、山林修行によって身につけた並外れた呪験力により看護禅師として選ばれた。道鏡は如意輪法を修行し、『宿曜秘法(すくようひほう)』の呪法によって孝謙上皇の病気を平癒させる。そしてこれを契機に、孝謙上皇は道鏡を寵愛するようになった」と記述されている。

 実際に道鏡が皇位をねらったかどうか、不明な点が多く、多くの識者が研究されている。しかし、どうも道鏡のイメージが悪いのは、姦通が頭に浮かんでくるせいなのかな。いずれにしても称徳天皇の崩御をもって天武天皇系の皇統が断絶して天智天皇系統が復活したことから以後の政治の流れから、藤原氏の政治的な作為が感じられてくる。大和朝廷を構成する豪族によって法体の道鏡は異質なものだったのだろう。大和豪族の中心の藤原氏により道鏡は下野薬師寺別当という体の良い形で追放されたと思える。

Photo_6 JR宇都宮線「石橋駅」の西に黒川紀章が設計した石橋中学校がある。その手前の交差点の右側に孝謙神社が祀られてある。云われは案内板に「道鏡と共にこの地に配流された2人の高級女官が孝謙天皇の分骨を舎利塔に収め、この地にあった西安寺に安置し、孝謙天皇の供養した。その後西安寺が廃寺となったため村人により舎利塔をご神体に祀り、孝謙天皇神社として改め今日に至っている」という内容の記載がある。

 田園地帯の中に祀られてある孝謙天皇神社。村人の熱い想いが1300年の年月となって今日に繋がっている。不思議な感じがした。 

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2人の高級女官にとり、分骨して持参したことは道鏡と孝謙天皇の関係は厚いものとして受け止めていたと想像できる。28歳で皇太子になった孝謙天皇は未婚のまま53歳で没している。孝謙天皇神社が下野薬師寺からさほど遠くない位置にあるところから、孝謙天皇の分骨が安置された西安寺に道鏡は頻繁に詣でた可能性が強く感じられる。それは、女帝と臣下とは違う精神的な愛情の関係があったのかもしれない。それにしても、追放されて2年で道鏡が没しているのは、短く感じられる。まだまだ何かあるように思われるのだ。

                                 《夢野銀次》




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