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2013年7月

楽しみな宇都宮商業―夏の高校野球栃木大会

P7220293 夏の高校野球栃木大会。今日(7月22日)から3回戦が始まった。本当は24日の準々決勝を栃木県営球場で見るつもりだったが、所用でいけなくなった。そこで、宇都宮の清原球場に車で行った。駐車場は無く、グリーンベルトといわれている歩道へ乗りあげての駐車だ。駐車違反ではない。

 宇都宮商業と石橋高校の試合は7対0で宇商が8回コールドで勝って準々決勝進出を決めた。先発は背番号3の飯岡だった。1、2回と宇商はチャンスで先制点を挙げられない。2回戦足利戦と同じく硬さが感じられた。石橋ぺースかなと感じられた。

P7220292   しかし、6回からエースの新井がセンターからマウンドにあがった。球が速い。球速143キロが表示された。これでピリッときたのか、6回裏の攻撃ツーアウトから1点を先取した。石橋高校ペースから宇都宮商業へと流れが変わり、8回コールド勝ちとなった。ようやく糞詰まり打線から脱皮したようだ。

  春の甲子園選抜大会に出場した宇商がノーシードになった。春の大会で一回戦敗退だと思える。どこの高校に負けたのかは分からない。しかし夏にむけて着実な準備、練習を積んできたことは見える。何よりも選抜出場チームであることを忘れ、選手個々が謙虚に試合運びをしていると感じられた。昨年の秋の栃木大会準決勝戦で宇商の試合を見た時はバントのうまい手堅い試合運びをするチームだと感心した。監督の考えや指導が行き渡っているチームだと思えた。

 これで24日の準々決勝戦で宇商は佐野日大戦と戦うことになる。今年の栃木県の高校野球で総合力で言えば佐野日大と宇都宮商業の二高だと思える。実質的には24日の試合が決勝戦だ。楽しみな一戦だ。

P7220295

 第二試合の栃木工業と小山高校戦。栃工が5対1で勝ち、24日の準々決勝では作新学院と当たることになった。文星芸大付属と延長15回、1対0で勝った勢いで小山高校に勝った。エース中島に注目したが、7回からマウンドにあがり投げた。しかし、球の勢いが感じられなかった。疲れが残っていたのかもしれない。栃工の応援。攻撃が終了しても応援が続く。攻撃側の小山校の応援が始まっても続いた。失礼な応援だ思った。

 高校野球は選手や応援席から吐き出される雰囲気によって、そのチームを好きになる。野球部員78人と大勢となったことで少し鼻高になっているのではないかと感じられた。負けた小山高校のユニホーム姿はこれが「高校野球」だと改めて感じた。何時かは復活することを願うのは私だけではないと確信している。

 《追記》

 宇商の金子安行監督の考え方を高崎ジャイアンツ倉俣監督がブログにて紹介記述している。引用させていただく。

 「金子監督の恩師は斎藤庄作先生」だと紹介し、「斎藤先生は足利工業監督時代、石井琢朗を擁し、二度甲子園出場を果たした監督。金子監督は8年間斎藤先生に仕え学んだ」

「斎藤先生の考えは、野球を将棋に例え、勝負の三要素は『確率、勢い、運』と説いている。また、『公立高校に素材の良い選手は来ない。いかに選手を鍛え上げ、徹底的に1点にこだわる野球を展開できるか?』と言われている」と紹介記述し、「斎藤先生は、『確率を高められる。打てなければ犠打で得点圏に送り、次打者に託す。託された選手は、どの球を狙い、どこに打てば得点になる確率が高いかを考える。エースがいなければ継投。四球や失策を減らし、余計な点を与えない。しぶとく、粘り強く、ポテンヒットでも1点を奪う敵時打を褒め、最後に1点差で勝つ野球』を理想とされた。金子監督は齋藤先生の教えから、この野球スタイルは、選手に考えることを要求する。個々の能力は違うから育て方も褒め方も怒り方も違う。生徒を思い指導する大切さを齋藤庄作先生から学んだ」と紹介記述している。

 この倉俣監督ブログの記述を読み、昨秋に見た宇商の野球スタイルが頷けた次第だ。金子安行監督は宇商の監督就任3年目。注目していくべき監督だ。

 

《追記2》

 宇商の新井投手は作新の山下捕手と共に法政大学の入学が決まった。今度は二人そろってバッティリーを組んで六大学野球で活躍し、プロ入りを目指して欲しいと期待する

                                        《夢野銀次》

 

 

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太平山あじさい坂「田村律之助」の胸像

Photo  たくさんの色とりどりのあじさいの花が咲いている栃木市太平山神社表参道の「あじさい坂」。その中腹の右横に田村律之助の胸像が建っている。明治39年にビール麦(二条大麦)の契約栽培を栃木県に導入し、普及させた最大の功労者として讃えての像である。ビール麦の生産では栃木県が現在も全国一位となっている。

  昭和10年にはあじさい坂入り口の連祥院六角堂の前に銅像が建てられていたが、戦時下により金属回収されてしまった。昭和26年に現在地に関係団体によって再建された。石像を以前の銅像として建て直そうという話も出てきている。

Photo_2  田村律之助の経歴について「大平町誌」では「慶応3年(1867)6月に隠れた維新の志士・豪農の田村治兵衛の孫として、現在の大平町西水代に生まれた。田村律之助は早くから農民の自治機関としての農業団体設立の必要性を主唱し、県内の有志と計らって明治25年(1892)に下野農会を結成し、幹事長となった。明治32年(1899)、栃木県農会が発足し副会長に就任(会長は代々県知事が兼任)したが、大正12年(1923)に民間人として始めて栃木県農会の初代会長となった」と記述されている。

   今の農協のはしりである栃木農会活動のかたわら明治35年(1902)に水代村長を4年間務めている。また、大正10年(1921)にはジュネーブでの第3回国際労働会議に日本の農業労働者使用者代表として出席して、日本の農業労働者の特殊事情と小作争議が起こる中で、地主の立場から主張を会議で述べたと伝えられているが、詳しい演説の内容について分からないとされている。

Photo_6  栃木県のビール麦の生産高は平成24年度では33,800㌧と全国一位となっている。二位が佐賀県32,800㌧、三位が福岡県の14,400㌧。全国117,800㌧の生産高で6割を栃木県と佐賀県で占めていることになる。

 二条大麦(ビール麦)は乾燥したところで育つ作物。栃木県は雪があまり降らず晴れの日が多く、乾燥した日が続き太陽が照っている時間が長い。そのことが麦が育つのに都合が良いからだ。また、栃木県の水田は、水を抜くと良く乾き、ジメジメした土が嫌いな麦には調度良い土壌になっている。栃木県では、水田を利用した二毛作が盛んに行われ、麦の生産量、全国一位となっている。

Photo_8  ビール麦は大手ビール会社と生産者団体による契約取引で行われている。まず全国段階で全農とビール酒造組合で価格設定の考え方や契約数量の限度、配分の大枠を定める(基本覚書)。そして、各県段階においてビール麦協議会が組織されており合意形成を進め、最終的に直接の契約は各ビール会社とJA間で締結される。

 このことをビール麦栽培契約取引と言い、明治39年に栃木県では田村律之助が主導して大日本麦酒株式会社と最初に契約を交わし、今日の栃木県ビール麦生産全国一位を築いたとされている。

  ビール会社は自分の試験場を持ち、自らも育種、改良している。栃木県にはアサヒビール試験場とキリンビール原料研究所がある。3大メーカーのうち2メーカーが栃木県にあることは、ビール麦の生産が高いということの現れだと言える。

P6130268   田村律之助の生家は現存している。立派な門構えの家だ。その生家の前には氏が卒業した西水代尋常小学校(現在の栃木市大平南小学校)があり、明治22年に建てられた校門が残っている。

  田村律之助の叔父(分家)に田中正造と同期の衆議院議員田村順之助がいる。さらに隠れた勤皇の志士と言われている祖父、田村治兵衛が大きな存在としている。

  治兵衛は弟の又助のように尊王攘夷の運動には表立って参加せず、豊富な財力で志士を養ったり、金品援助を行ない家運・家業を守った。勤王の志士で富田出身の松本暢(ちょう)や横堀の国分義胤、真弓の川連虎一郎などは治兵衛の薫陶を受け資金援助を受けたとされている(大平町誌より)。

Photo_7  日向野徳久著「栃木市の歴史」の中で松本暢と国分義胤について記述されている。

  国分義胤については「横堀出身、文久2年(1862)には領主の関宿藩の命によって農兵隊(101名)を組織し、その教育をおこなった」と概略が記されている。現在、横堀にある生家の庭には明治22年に門下生によって「国分義胤の石碑」が建てられている。

P6210299 松本暢については「富田出身、壬生藩医石崎家の婿養子となったが、明治維新の際壬生藩を脱藩、尊王の志士として活躍、のち尾張藩士に用いられた」と簡単に記述されている。別の日向野著「栃木県教育史」では壬生藩との軋轢、脱藩後の京都における長州の木戸孝允、土佐の後藤象次郎、佐賀の江藤新平らと交流があったことなどが記されている。大平町、幕末の勤皇の志士達の動きに興味が涌いてきた。

 そこで 国分義胤について追いかけてみようと思ってきた。日向野徳久氏の記述を参考として、現在自分自身で調べ始めている。後日「銀次のブログ」に記載できればいいナと思っている。

 今年の3月24日~4月7日にかけて、大平南小学校6年生による「郷土の偉人田村律之助」展が栃木市大平図書館で開催されていた。知人から聞いていたが、観に行く機会を逸してしまったことが悔やまれる。

                              《夢野銀次》

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