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2013年8月

徳川幕府と共に消えた札差―浅草蔵前

Photo_2   隅田川に架かる蔵前橋手前の左側に東京都下水道局蔵前ポンプ所の建物がある。かつては栃若・柏鵬時代を築いた「蔵前国技館」跡地だ。その名残は蔵前ポンプ所入り口左にある「水の館」の中に関取の手形等が保存されているという。しかし、中を見るのは一週間前に予約をしなければ中に入れないと受付で断れられた。よって入ることができなかった。さらに「蔵前国技館跡地」の表示もない。跡地に立って往時を偲ぶ喜びを台東区は与えて欲しいと願う。

  蔵前橋手前には左側に「浅草御蔵の跡の碑」と右側に7代目を迎えた「首尾の松の跡碑」が建っている

Photo_4   この碑から約100メートル川下に「首尾の松」はあった。吉原に遊びに行く通人たちは、隅田川をさかのぼり山谷堀から入り込んだものだが、上がり下がりの舟が、途中この松陰によって首尾を求め語ったところから「首尾の松」という名が付けられたという説がある。柳橋から舟にのり吉原で豪遊した札差の業者の面々が浮かんでくる。札差はこの浅草御蔵(浅草米蔵)で生まれ、徳川幕府の崩壊とあわせて無くなった。

Photo_13  徳川幕府は天領・直轄からの年貢米を浅草御蔵と隅田川東側の本所御蔵に収納した。浅草御蔵は総坪3万6650坪の埋立地に、北から1番堀より8番堀まで、舟入り堀がくしの歯状に並び、54棟270戸前(寛政年間)の蔵が堀に立ち並んでいた。首尾の松は4番堀と5番堀の間にあった。

 さらに隅田川向いの東側に本所御蔵12棟88戸前ができ、浅草米蔵を主とし、本所が従という関係にあった(大野端男「浅草米蔵について」)。

  関東・東北をはじめ全国の幕府領から舟で運ばれた年貢米は、隅田川にそったこの2つの米蔵に収められた。浅草御蔵には常時40~50万石。本所御蔵には10~20万石が詰められていた。1石2.5表とするならば125万俵~175万俵が2箇所の米蔵にあったということだ。

Photo_16  ちなみに本所御蔵はもと竹木の倉庫だったところに建てられたことから御竹蔵とも呼ばれた。明治に入って一時陸軍被服廠(ひふくしょう)が置かれ、のちに広大な公園予定地(約2万平方メートル)として空地になっていた。

 しかし関東大震災の時にここに避難した東京市民3万8000人が猛火にまかれ犠牲となった所だ。昭和5年に建てられた東京都慰霊堂と復興記念館がある。昭和6年建造されている復興記念館には震災被害の資料、油絵や東京大空襲の被害資料が展示され大震災の記録を今も伝えている。6月に訪問し、何よりも堅固に建てられた建物の威厳に圧倒された。今年の9月1日で90年を迎える。

Photo_6   5,000人の旗本のうち蔵米取り(切米取り)旗本2,900人と御家人17,000人、計19,900人は毎年3回、俸禄としての御米を2月、5月に4分の1、10月に残り2分の1を受け取る。この蔵米取りは、俸禄高が記載された「支給手形」を受取り俸禄支給日に自ら浅草の御蔵に出頭し、支給手形=「札」を竹串に挟んで御蔵役所の入り口にある藁束に差して順番を待って蔵米を受取り、米問屋に売却していた。

  札差はこれら面倒な手続きを代行するところから生まれた。浅草御蔵の西側を中心に札差業者が店を出すようになってきた。

Photo_7    札差が旗本・御家人の代わりに俸禄米を受け取る手数料を札差料といい、蔵米100俵につき金1分(一両の4分の1)。これと米問屋に売却する手数料を100俵で金2分と定められており、蔵米100俵の受領と売却の手数料合計3分となっていた。

  しかし、旗本・御家人にとり一定の蔵米収入の枠では支配者武士としての体面を保ち続けるということは大変なことであった。そこで、蔵米を抵当にして札差から金を借りるとういうことになってきた。金を借りる武士は次回支給される蔵米の受領・売却を依頼すると確約し、借金をする。札差は蔵米の支給日に、売却した現金から手数料と借金の利息と元金を差引き、その残りを武家の屋敷に届ける。札差はこうした札旦那を何人も持つようになり、金融業の役割を持つようなってきた。

Photo  複数の札差から借金するというトラブルが生まれてきたことから亨保9年(1724)5月に109人からなる札差株仲間が南町奉行所(大岡越前守)を通して幕府によって許可された。これ以後、株仲間による独占営業となり、それ以外の者が新規に札差となることができなくなった。

Photo_8  株仲間結成時では法定金利は年利15パ-セントとした。しかし、それでは自前で資金運用していない札差にとり資金調達が難しくなり御家人の希望通りの金融ができないとい願書が奉行所にだされ、18パーセントになった。

 19,900人の旗本・御家人の蔵米とりの代行を1人の札差で平均182人抱えることになった。100俵を基準に考えると手数料収入平均で382両、利息収入819両で総計1200両あまりの年間収入を1軒の札差はあげていたことになる。

  明和~天明(1764~88)期、田沼時代最盛期が札差業大繁盛期の頃と目されている。蓄えた財力を札差は武士や町人に誇示しはじめた。吉原での豪遊、馬鹿馬鹿しい無駄を楽しみ、派手な浪費ぶりを見せびらかした。歌舞伎十八番というように「十八大通(だいつう)」といわれる者がいた。その中には浅草蔵前の札差が中心を占めていた。 

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  歌舞伎の「助六所縁江戸櫻(すけろくゆかりのえどざくら)」の主人公花川戸助六が十八大通達の理想的な姿の代表とされた。こそが大通の理想の姿とされた。

 北原進著「江戸の高利貸 旗本・御家人と札差」(吉川弘文館)の中で大通の逸話がいくつか記述されている。

 その中で下野屋十右衛門(号は祇蘭)は相模の大山参詣に行くのに、奉納の太刀を三間半(約6.4メートル)もの長さにこしらえて、若い者3-40人に揃いの浴衣をきせてかつがせ、自分はふとんを厚く重ねた駕籠の戸をあけさせて、一同の掛け念仏でよい気持ちゆられながら出かけた。しかしあまりに身分をはずれた派手な奢りに、町奉行所では捨てておけず、芝口から品川にかかるあたりで追手につかまり、牢に入れられてしまった逸話が紹介されていた。6.4メートルの太刀を40人で担がせての行列を江戸町民をどういう顔で見物したのだろうか?

Photo_9   寛政元年(1789)9月16日、寛政の改革の一環として札差に「棄捐令」(きえんれい)が発令された。御家人達の札差からの借金を6年以前の天明4年(1784)までの分は帳消し、5年以内(天明5年~寛政元年)の分の利子は年利18パーセントから3分の1の年利6パーセントに下げ、永年賦とする法令だった。

  これにより、伊勢屋四郎左衛門83,000両、笠倉屋平八48,060両等大口の棄捐を筆頭に当時96軒の札差達は全部で118万7008両の旗本・御家人への貸し金が無くなった。当初、借金を棒引きされた武士達は、老中松平定信に感謝した。しかし、札差達の締め貸し(金融拒否)により生活が困窮し逆に幕府の政策を恨むようになった。「白河の 清きに魚の 住みかねて もとの濁りの 田沼恋しき」 のような。

Photo   棄捐令から札差者達の姿を描いた著書に山本一力著「損料屋喜八郎始末控え」がある。庶民の鍋釜を担保に両国で融資する元武士の損料屋喜八郎と札差、米屋政八を通して札差の世界が描かれている。とりわけ、8万3千両を棒引きされた伊勢屋四郎左衛門の灰汁の強さや借金の返済で贋金造りを画策する笠倉屋平八を登場させている。深川富岡八幡の祭りの明るさと蔵前の町の暗さを対比させている。著書の中で当時の蔵前あたりの雰囲気を記述してある箇所を引用する。

 「通りの両側には札差が軒を連ねている。道幅は日本橋本通りに肩を並べる広さだが、蔵前の商家はどこも看板が出ていない。暖簾もさがっていない。鼠色の空の下に渋くくすんだ大店(おおだな)が並ぶ様は、あるじの度外れた遊興ぶりとは裏腹に、華やぎに欠けていた。」と暗い稼業の世界を感じさせた。

Photo_11   天保改革における厳しい無利子、20年賦返済令から文久2年の年利7パーセントに下げる年賦済み仕法は発令されても、旗本・御家人の借金は増え続けた。

 そして慶応3年(1867)の大政奉還とそれに続く戊辰戦争を経て徳川幕府は倒れ、大きな時代の節目を迎えた。駿府(静岡)70万石になった徳川家は江戸を去った。徳川幕府が無い以上、旗本・御家人に蔵米は支給されなくなった。蔵米支給を基本に商いが成立する札差も無くなるということだ。明治になり、札差から金融業として成功した者はいないという。どうしてなのか?

Photo_12  今回、蔵前付近を歩いても札差のあった足跡は皆無だった。浅草文庫跡碑と蔵前工業学園の碑の残る「榊神社」は元の御蔵役人所のような気がする(未確認)。柳橋や浅草橋の裏通りを歩いても、問屋を中心に小さなビルが建ち並んでいただけだ。問屋業なら蔵や商家が残る。札差という高利貸し業は所詮あぶくのような業だったのか。幕末、人材に投資した豪農・豪商等の影を見ることはできない。商家や産業を育てるといった明日を見据えての金融ではなかった所に生き残れなかった要因があると思える。無駄を楽しむ。文化にはなれない世界だったのか。

 帰路は35年ぶり「駒形どぜう」に入り、ランチ定食「どぜう鍋」を賞味した。味は初めて食べた頃の方が美味かったような気がした。店の造りなど、雰囲気を味わえただけでもうれしかった。浅草駅に近いことも知った。

参考資料/「江戸の高利貸し 旗本・御家人と札差」北原進著(吉川弘文館)・「損料屋喜八郎始末控え」山本一力著(文藝春秋)

                                《夢野銀次》

 

 

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吉田松陰も渡った栃木町―開明橋

P8050353  栃木市河合町と室町の間に架かる『開明橋』が新しく建て替えられ、今年(平成25年)の6月から通行可能となった。橋幅と道路が拡張され、綺麗な橋となった。また、橋の畔にある熊野神社からうずま川沿いの綱手道に降りることができるようになった。しかし、新しい橋は車道を意識しているのか何か風情が感じられない。

 橋の欄干からうずま川を見る。

  江戸・明治期盛んだった舟運。この橋まで木材が一本づつ運ばれ、この開明橋のあたりで筏を組んだという。ここからうずま川を下り、部屋河岸でさらに大きくな筏を組み、東京深川まで運ばれた。物資の舟運が終了しても筏は最期までうずま川で運ばれた。

P8050352  この開明橋を吉田松陰が渡ったのだ。ぺりー来航一年前の嘉永5年(1852)4月2日に栃木宿に吉田松陰が宿泊をした。そして明くる朝の3日にこの開明橋を渡っている。日向野徳久著の「栃木市史通史編」に次のように記述されている。

 嘉永4年(1851)の12月15日に江戸を立った吉田松陰は水戸・白河・若松・新潟・佐渡・新潟・本庄・秋田・弘前・青森・野辺地・盛岡・一ノ関・仙台・米沢・若松・田島を経て、日光鉢石町に泊り、嘉永5年(1852)4月2日に栃木町に着いて一泊した。そして、その日記「東北遊日記」を引用している。

Photo 「二日 晴。早く発し、今市に至り直行す。即ち幕府由る所の道なり。(省略)鹿沼・奈佐原・楡木・金崎を経て、合戦場に至る。合戦場は其のづくる所を詳かにせず、或は宇都宮弥太郎、壬生忠宗と戦ひし所なりと云ふ。

ここを距ること遠からず、壬生村あり、栃木に宿す。栃木と嘉右衛門新田とは市街相連り、戸口繁股なり。旗本の士畠山民部少輔の陣屋あり、釆地三千石、行程十二里。

 三日 翳(かげる)、駅を発し、橋を渡る。岐(わかれみち)あり、右折していく。」(東北遊日記より)

P8050356_2  栃木市史では「橋とは河合町と室町の間の開明橋のこと。わかれみちありとは、当時、現在の両毛線の踏切(現在は高架線下)あたりまで、例幣使道と同じ位の道幅がまっすぐのびており、両側は家並みとなっていた」と記述してある。

以前、「高杉晋作は栃木宿に来たが、吉田松陰は来ていない」と聞かされていた。しかし、栃木市史で記述されていたのを読み、吉田松陰はここ栃木宿に泊り、開明橋を渡って行ったことを知り、うれしくなった。ミーハーかな…。

 吉田松陰の著「東北遊日記」(岩波書店)を図書館で初めて読んでみた。著書ではこの後、足利に宿し、足利学校を見てから館林を経て船で利根川を下り、関宿から江戸川、江戸橋到着まで記述されている。吉田松陰の文章は簡潔で生き生きしている。何かを学んでいく謙虚な姿勢が私にすがすがしさを与えてくれた。多くの門人が吉田松陰のもとに慕って集まってきたことが実感できる。まだ一部分の文章だが、そんな感想を得た。

  江戸期の栃木宿の絵地図を見たく問い合わせを栃木教育委員会にした。教育委員会伝建課の担当者から「栃木町並み景観」に記載されていることを教えていただき、図書館で閲覧できた。

Photo_9 天保8年の栃木宿地図では富田宿から続く例幣使道と古河から続く日光裏街道が結びつき、開明橋から栃木宿へと描かれている。吉田松陰が記述した岐(わかれみち)を起点とした栃木町の町並みの長さを出口(現在の万町交番)までを「下野一国」(慶安元年1648)では十町十二間(約1,111㍍)と記述されている。

  一方では開明橋を起点とした栃木町の町並みの長さを文化2年(1805)では八町五四間(約970㍍)と記述されている。木戸のある開明橋が栃木町の入り口といえる。よって 栃木町並みは南の開明橋から始まり、北は現在の万町交番までとなっている宝暦9年(1759)の絵図で確認できる。「天保7年栃木宿地図」には開明橋とその手前に木戸番P8050344_3
所が描かれている。また北の出口の万町交番の所にも木戸番所があったことが分かる。しかし念仏橋(現在の幸来橋)の所には木戸番所が描かれていない。「出流天狗事件」において栃木市史では「念仏橋を渡り木戸を開けての出流天狗と関八州との戦い」の記述があるが、実際は木戸があったのかどうか、江戸期の絵地図では確認はできない。

 「開明橋」は江戸期の時は「素杉橋」と言われていたことが伺える。稲葉誠太郎著「水戸天狗党栃木焼打事件」昭和58年(1983)と吉村昭著「天狗争乱」平成6年(1994)の2作品にいずれも開明橋を素杉橋と注釈を入れて記述されているからだ。元治元年(1864)6月6日の夜から7日の未明にかけて栃木町惣軒数350~400を焼き払った水戸天狗党別働隊、田中愿蔵による「愿蔵火事」の所にこの「開明橋」がでてくる。稲葉誠太郎著「水戸天狗党栃木焼打事件」から次の引用をさせていただく。

P8050348 「(田中)愿蔵は上町(現在万町)・中町(現在倭町)が燃え上がるや、『引太鼓』を打たせて同勢を下町(現在室町)に集め、両側民家一軒毎に火を放けさせた。土蔵造りは奥の頑丈な土戸まで破って火を投げ込んだため、下町の建家は全部廃燼に帰したのであった。田中勢は配下の死者・負傷者を全員収容し、人足等を叱咤して駕籠などで搬び、素杉橋(現在開明橋)を渡るや、これを破壊し陣屋勢の追撃を断ち、川間の民家に火を放ちつつ生駒街道(部屋街道)を急ぎ南下し、小山宿持宝寺で小憩し、7日雨ケ谷・塚崎を過ぎ常州へ去って行った」と開明橋を破壊して去って行ったと記述されている。なお、吉村昭著の「天狗争乱」においての愿蔵火事の描写は稲葉誠太郎氏の著書を参照しているため、ほとんど同じような描写となっている。素杉橋から開明橋に名称が変わったのは明治5年、町名変更や念仏橋が幸来橋に変わった時ではないかと推測するが、後で調べてみる予定。

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  開明橋の橋の畔に熊野神社が鎮座している。栃木市史に云われがでていた。慶長14年(1609)に家康によって取潰された皆川広照・隆庸(たかつね)父子が復活を願い、皆川隆庸が箱森村日向野四郎兵衛家の熊野神をこの地に分祀してまつったと記されている。

 このあたりは天正年間に築城された栃木城に近い。小山氏・壬生氏が北条方に組みされたことで皆川広照はその備えとしてこの地に城を築いた。栃木城には東・南の二の丸はあるが西の二の丸はない。うずま川を堀として栃木宿あたりは西の二の丸の役割としていたのだと思える。そのためなのか、広照によって現在地に移転している定願寺、神明宮、金龍寺は防御を備えての西向きに建てられている。

Photo_4  開明橋を渡り160メートル行った所に分かれ道がある。そこにはかつて「道標」が建っていた。道標には「左こが 向日光道 右さの」と刻まれている。道標は向かって見てはいけないと教えられた。自分の背中を背にして見ると道標の建っている位置が分かる。栃木宿に入る開明橋を背にしてみると、右が例幣使道の佐野、左が部屋街道古河、背が日光栃木宿になる。

 この道標、現在は両毛線の高架線下の民家の庭先に建っている。栃木市で引き取り、熊野神社あたりにそのまま移転してくれれば、例幣使街道を研究している人達はもちろん観光客は大喜びすると思うがな。

 

                           《夢野銀次》

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勢いを感じる夏野菜

P8030322 7月前半の猛暑から一転して梅雨が戻った7月の後半。各地でのゲリラ豪雨が報道されている。

 この雨の影響なのか…。

 カボチャ、サツマイモ、里イモの生育が勢いを増してきているのを感じる。

 カボチャは去年、スーパーで4分の1の切り端の種から芽が出た苗を植えた。5本の苗で一本だけがぐんぐん成長してきた。実は白いカボチャとなってる。白いカボチャは始めて見る。食べられるのかな?

P8030323 二本の苗からゴーヤが成長してきた。

支柱と網を横に継ぎ足したが重い。

先日の強い風雨で南側にバサッと倒れた。二本の支柱でカバーしてたが、今度来る風雨でも倒れるだろう。

 何本ゴーヤが取れるか。ニラ同様、食べるのが大変だ。

P8030328 この土では里イモは大きくならないと思っていた。土に小石が多いからだ。

 しかし、今年は大きく成長してきた。

やはり雨がたくさん降ったからなのか。

所沢の地のように赤土の上ならば里イモはもっと多くなる。より水分が貯めることができるからだ。その土地の土壌によって、できる作物とできない作物があることを改めて感じる。

 それにしても里イモの葉っぱ。なんとなく人が笑っている顔に映ってくる。

P8030331

 妻が植えた朝顔。白い朝顔が伸びてきた。

右のキュウリの支柱まで伸びてきている。

今年のキュウリ。畝の半分が購入した苗を植え、残り半分には種を植えた。購入した苗が伸びきった後はまいた種の芽が伸びてきた。時間差を置けば少しづつキュウリを食べていけるからだ。

P8030332 夏はスイカだ。

 黒小玉スイカができてきた。他に小玉と大玉スイカを植えた。

 大玉スイカは3個できてきていた。そのうちの一つは割れてしまった。暑い日から急に雨が降ったためだからだ。残り2個のスイカは食べ終わり、今度は黒小玉スイカの番になる。その後は小玉スイカが出来てきている。八月一杯は毎日スイカを食べられる。

 それにしても今年の野菜、勢いを感じる。雨のせいなのか、それとも三年目を迎えたこの地での家庭菜園。土壌が良くなってきているからなのか…。

                               《夢野銀次》

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