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徳川幕府と共に消えた札差―浅草蔵前

Photo_2   隅田川に架かる蔵前橋手前の左側に東京都下水道局蔵前ポンプ所の建物がある。かつては栃若・柏鵬時代を築いた「蔵前国技館」跡地だ。その名残は蔵前ポンプ所入り口左にある「水の館」の中に関取の手形等が保存されているという。しかし、中を見るのは一週間前に予約をしなければ中に入れないと受付で断れられた。よって入ることができなかった。さらに「蔵前国技館跡地」の表示もない。跡地に立って往時を偲ぶ喜びを台東区は与えて欲しいと願う。

  蔵前橋手前には左側に「浅草御蔵の跡の碑」と右側に7代目を迎えた「首尾の松の跡碑」が建っている

Photo_4   この碑から約100メートル川下に「首尾の松」はあった。吉原に遊びに行く通人たちは、隅田川をさかのぼり山谷堀から入り込んだものだが、上がり下がりの舟が、途中この松陰によって首尾を求め語ったところから「首尾の松」という名が付けられたという説がある。柳橋から舟にのり吉原で豪遊した札差の業者の面々が浮かんでくる。札差はこの浅草御蔵(浅草米蔵)で生まれ、徳川幕府の崩壊とあわせて無くなった。

Photo_13  徳川幕府は天領・直轄からの年貢米を浅草御蔵と隅田川東側の本所御蔵に収納した。浅草御蔵は総坪3万6650坪の埋立地に、北から1番堀より8番堀まで、舟入り堀がくしの歯状に並び、54棟270戸前(寛政年間)の蔵が堀に立ち並んでいた。首尾の松は4番堀と5番堀の間にあった。

 さらに隅田川向いの東側に本所御蔵12棟88戸前ができ、浅草米蔵を主とし、本所が従という関係にあった(大野端男「浅草米蔵について」)。

  関東・東北をはじめ全国の幕府領から舟で運ばれた年貢米は、隅田川にそったこの2つの米蔵に収められた。浅草御蔵には常時40~50万石。本所御蔵には10~20万石が詰められていた。1石2.5表とするならば125万俵~175万俵が2箇所の米蔵にあったということだ。

Photo_16  ちなみに本所御蔵はもと竹木の倉庫だったところに建てられたことから御竹蔵とも呼ばれた。明治に入って一時陸軍被服廠(ひふくしょう)が置かれ、のちに広大な公園予定地(約2万平方メートル)として空地になっていた。

 しかし関東大震災の時にここに避難した東京市民3万8000人が猛火にまかれ犠牲となった所だ。昭和5年に建てられた東京都慰霊堂と復興記念館がある。昭和6年建造されている復興記念館には震災被害の資料、油絵や東京大空襲の被害資料が展示され大震災の記録を今も伝えている。6月に訪問し、何よりも堅固に建てられた建物の威厳に圧倒された。今年の9月1日で90年を迎える。

Photo_6   5,000人の旗本のうち蔵米取り(切米取り)旗本2,900人と御家人17,000人、計19,900人は毎年3回、俸禄としての御米を2月、5月に4分の1、10月に残り2分の1を受け取る。この蔵米取りは、俸禄高が記載された「支給手形」を受取り俸禄支給日に自ら浅草の御蔵に出頭し、支給手形=「札」を竹串に挟んで御蔵役所の入り口にある藁束に差して順番を待って蔵米を受取り、米問屋に売却していた。

  札差はこれら面倒な手続きを代行するところから生まれた。浅草御蔵の西側を中心に札差業者が店を出すようになってきた。

Photo_7    札差が旗本・御家人の代わりに俸禄米を受け取る手数料を札差料といい、蔵米100俵につき金1分(一両の4分の1)。これと米問屋に売却する手数料を100俵で金2分と定められており、蔵米100俵の受領と売却の手数料合計3分となっていた。

  しかし、旗本・御家人にとり一定の蔵米収入の枠では支配者武士としての体面を保ち続けるということは大変なことであった。そこで、蔵米を抵当にして札差から金を借りるとういうことになってきた。金を借りる武士は次回支給される蔵米の受領・売却を依頼すると確約し、借金をする。札差は蔵米の支給日に、売却した現金から手数料と借金の利息と元金を差引き、その残りを武家の屋敷に届ける。札差はこうした札旦那を何人も持つようになり、金融業の役割を持つようなってきた。

Photo  複数の札差から借金するというトラブルが生まれてきたことから亨保9年(1724)5月に109人からなる札差株仲間が南町奉行所(大岡越前守)を通して幕府によって許可された。これ以後、株仲間による独占営業となり、それ以外の者が新規に札差となることができなくなった。

Photo_8  株仲間結成時では法定金利は年利15パ-セントとした。しかし、それでは自前で資金運用していない札差にとり資金調達が難しくなり御家人の希望通りの金融ができないとい願書が奉行所にだされ、18パーセントになった。

 19,900人の旗本・御家人の蔵米とりの代行を1人の札差で平均182人抱えることになった。100俵を基準に考えると手数料収入平均で382両、利息収入819両で総計1200両あまりの年間収入を1軒の札差はあげていたことになる。

  明和~天明(1764~88)期、田沼時代最盛期が札差業大繁盛期の頃と目されている。蓄えた財力を札差は武士や町人に誇示しはじめた。吉原での豪遊、馬鹿馬鹿しい無駄を楽しみ、派手な浪費ぶりを見せびらかした。歌舞伎十八番というように「十八大通(だいつう)」といわれる者がいた。その中には浅草蔵前の札差が中心を占めていた。 

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  歌舞伎の「助六所縁江戸櫻(すけろくゆかりのえどざくら)」の主人公花川戸助六が十八大通達の理想的な姿の代表とされた。こそが大通の理想の姿とされた。

 北原進著「江戸の高利貸 旗本・御家人と札差」(吉川弘文館)の中で大通の逸話がいくつか記述されている。

 その中で下野屋十右衛門(号は祇蘭)は相模の大山参詣に行くのに、奉納の太刀を三間半(約6.4メートル)もの長さにこしらえて、若い者3-40人に揃いの浴衣をきせてかつがせ、自分はふとんを厚く重ねた駕籠の戸をあけさせて、一同の掛け念仏でよい気持ちゆられながら出かけた。しかしあまりに身分をはずれた派手な奢りに、町奉行所では捨てておけず、芝口から品川にかかるあたりで追手につかまり、牢に入れられてしまった逸話が紹介されていた。6.4メートルの太刀を40人で担がせての行列を江戸町民をどういう顔で見物したのだろうか?

Photo_9   寛政元年(1789)9月16日、寛政の改革の一環として札差に「棄捐令」(きえんれい)が発令された。御家人達の札差からの借金を6年以前の天明4年(1784)までの分は帳消し、5年以内(天明5年~寛政元年)の分の利子は年利18パーセントから3分の1の年利6パーセントに下げ、永年賦とする法令だった。

  これにより、伊勢屋四郎左衛門83,000両、笠倉屋平八48,060両等大口の棄捐を筆頭に当時96軒の札差達は全部で118万7008両の旗本・御家人への貸し金が無くなった。当初、借金を棒引きされた武士達は、老中松平定信に感謝した。しかし、札差達の締め貸し(金融拒否)により生活が困窮し逆に幕府の政策を恨むようになった。「白河の 清きに魚の 住みかねて もとの濁りの 田沼恋しき」 のような。

Photo   棄捐令から札差者達の姿を描いた著書に山本一力著「損料屋喜八郎始末控え」がある。庶民の鍋釜を担保に両国で融資する元武士の損料屋喜八郎と札差、米屋政八を通して札差の世界が描かれている。とりわけ、8万3千両を棒引きされた伊勢屋四郎左衛門の灰汁の強さや借金の返済で贋金造りを画策する笠倉屋平八を登場させている。深川富岡八幡の祭りの明るさと蔵前の町の暗さを対比させている。著書の中で当時の蔵前あたりの雰囲気を記述してある箇所を引用する。

 「通りの両側には札差が軒を連ねている。道幅は日本橋本通りに肩を並べる広さだが、蔵前の商家はどこも看板が出ていない。暖簾もさがっていない。鼠色の空の下に渋くくすんだ大店(おおだな)が並ぶ様は、あるじの度外れた遊興ぶりとは裏腹に、華やぎに欠けていた。」と暗い稼業の世界を感じさせた。

Photo_11   天保改革における厳しい無利子、20年賦返済令から文久2年の年利7パーセントに下げる年賦済み仕法は発令されても、旗本・御家人の借金は増え続けた。

 そして慶応3年(1867)の大政奉還とそれに続く戊辰戦争を経て徳川幕府は倒れ、大きな時代の節目を迎えた。駿府(静岡)70万石になった徳川家は江戸を去った。徳川幕府が無い以上、旗本・御家人に蔵米は支給されなくなった。蔵米支給を基本に商いが成立する札差も無くなるということだ。明治になり、札差から金融業として成功した者はいないという。どうしてなのか?

Photo_12  今回、蔵前付近を歩いても札差のあった足跡は皆無だった。浅草文庫跡碑と蔵前工業学園の碑の残る「榊神社」は元の御蔵役人所のような気がする(未確認)。柳橋や浅草橋の裏通りを歩いても、問屋を中心に小さなビルが建ち並んでいただけだ。問屋業なら蔵や商家が残る。札差という高利貸し業は所詮あぶくのような業だったのか。幕末、人材に投資した豪農・豪商等の影を見ることはできない。商家や産業を育てるといった明日を見据えての金融ではなかった所に生き残れなかった要因があると思える。無駄を楽しむ。文化にはなれない世界だったのか。

 帰路は35年ぶり「駒形どぜう」に入り、ランチ定食「どぜう鍋」を賞味した。味は初めて食べた頃の方が美味かったような気がした。店の造りなど、雰囲気を味わえただけでもうれしかった。浅草駅に近いことも知った。

参考資料/「江戸の高利貸し 旗本・御家人と札差」北原進著(吉川弘文館)・「損料屋喜八郎始末控え」山本一力著(文藝春秋)

                                《夢野銀次》

 

 

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