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吉田松陰も渡った栃木町―開明橋

P8050353  栃木市河合町と室町の間に架かる『開明橋』が新しく建て替えられ、今年(平成25年)の6月から通行可能となった。橋幅と道路が拡張され、綺麗な橋となった。また、橋の畔にある熊野神社からうずま川沿いの綱手道に降りることができるようになった。しかし、新しい橋は車道を意識しているのか何か風情が感じられない。

 橋の欄干からうずま川を見る。

  江戸・明治期盛んだった舟運。この橋まで木材が一本づつ運ばれ、この開明橋のあたりで筏を組んだという。ここからうずま川を下り、部屋河岸でさらに大きくな筏を組み、東京深川まで運ばれた。物資の舟運が終了しても筏は最期までうずま川で運ばれた。

P8050352  この開明橋を吉田松陰が渡ったのだ。ぺりー来航一年前の嘉永5年(1852)4月2日に栃木宿に吉田松陰が宿泊をした。そして明くる朝の3日にこの開明橋を渡っている。日向野徳久著の「栃木市史通史編」に次のように記述されている。

 嘉永4年(1851)の12月15日に江戸を立った吉田松陰は水戸・白河・若松・新潟・佐渡・新潟・本庄・秋田・弘前・青森・野辺地・盛岡・一ノ関・仙台・米沢・若松・田島を経て、日光鉢石町に泊り、嘉永5年(1852)4月2日に栃木町に着いて一泊した。そして、その日記「東北遊日記」を引用している。

Photo 「二日 晴。早く発し、今市に至り直行す。即ち幕府由る所の道なり。(省略)鹿沼・奈佐原・楡木・金崎を経て、合戦場に至る。合戦場は其のづくる所を詳かにせず、或は宇都宮弥太郎、壬生忠宗と戦ひし所なりと云ふ。

ここを距ること遠からず、壬生村あり、栃木に宿す。栃木と嘉右衛門新田とは市街相連り、戸口繁股なり。旗本の士畠山民部少輔の陣屋あり、釆地三千石、行程十二里。

 三日 翳(かげる)、駅を発し、橋を渡る。岐(わかれみち)あり、右折していく。」(東北遊日記より)

P8050356_2  栃木市史では「橋とは河合町と室町の間の開明橋のこと。わかれみちありとは、当時、現在の両毛線の踏切(現在は高架線下)あたりまで、例幣使道と同じ位の道幅がまっすぐのびており、両側は家並みとなっていた」と記述してある。

以前、「高杉晋作は栃木宿に来たが、吉田松陰は来ていない」と聞かされていた。しかし、栃木市史で記述されていたのを読み、吉田松陰はここ栃木宿に泊り、開明橋を渡って行ったことを知り、うれしくなった。ミーハーかな…。

 吉田松陰の著「東北遊日記」(岩波書店)を図書館で初めて読んでみた。著書ではこの後、足利に宿し、足利学校を見てから館林を経て船で利根川を下り、関宿から江戸川、江戸橋到着まで記述されている。吉田松陰の文章は簡潔で生き生きしている。何かを学んでいく謙虚な姿勢が私にすがすがしさを与えてくれた。多くの門人が吉田松陰のもとに慕って集まってきたことが実感できる。まだ一部分の文章だが、そんな感想を得た。

  江戸期の栃木宿の絵地図を見たく問い合わせを栃木教育委員会にした。教育委員会伝建課の担当者から「栃木町並み景観」に記載されていることを教えていただき、図書館で閲覧できた。

Photo_9 天保8年の栃木宿地図では富田宿から続く例幣使道と古河から続く日光裏街道が結びつき、開明橋から栃木宿へと描かれている。吉田松陰が記述した岐(わかれみち)を起点とした栃木町の町並みの長さを出口(現在の万町交番)までを「下野一国」(慶安元年1648)では十町十二間(約1,111㍍)と記述されている。

  一方では開明橋を起点とした栃木町の町並みの長さを文化2年(1805)では八町五四間(約970㍍)と記述されている。木戸のある開明橋が栃木町の入り口といえる。よって 栃木町並みは南の開明橋から始まり、北は現在の万町交番までとなっている宝暦9年(1759)の絵図で確認できる。「天保7年栃木宿地図」には開明橋とその手前に木戸番P8050344_3
所が描かれている。また北の出口の万町交番の所にも木戸番所があったことが分かる。しかし念仏橋(現在の幸来橋)の所には木戸番所が描かれていない。「出流天狗事件」において栃木市史では「念仏橋を渡り木戸を開けての出流天狗と関八州との戦い」の記述があるが、実際は木戸があったのかどうか、江戸期の絵地図では確認はできない。

 「開明橋」は江戸期の時は「素杉橋」と言われていたことが伺える。稲葉誠太郎著「水戸天狗党栃木焼打事件」昭和58年(1983)と吉村昭著「天狗争乱」平成6年(1994)の2作品にいずれも開明橋を素杉橋と注釈を入れて記述されているからだ。元治元年(1864)6月6日の夜から7日の未明にかけて栃木町惣軒数350~400を焼き払った水戸天狗党別働隊、田中愿蔵による「愿蔵火事」の所にこの「開明橋」がでてくる。稲葉誠太郎著「水戸天狗党栃木焼打事件」から次の引用をさせていただく。

P8050348 「(田中)愿蔵は上町(現在万町)・中町(現在倭町)が燃え上がるや、『引太鼓』を打たせて同勢を下町(現在室町)に集め、両側民家一軒毎に火を放けさせた。土蔵造りは奥の頑丈な土戸まで破って火を投げ込んだため、下町の建家は全部廃燼に帰したのであった。田中勢は配下の死者・負傷者を全員収容し、人足等を叱咤して駕籠などで搬び、素杉橋(現在開明橋)を渡るや、これを破壊し陣屋勢の追撃を断ち、川間の民家に火を放ちつつ生駒街道(部屋街道)を急ぎ南下し、小山宿持宝寺で小憩し、7日雨ケ谷・塚崎を過ぎ常州へ去って行った」と開明橋を破壊して去って行ったと記述されている。なお、吉村昭著の「天狗争乱」においての愿蔵火事の描写は稲葉誠太郎氏の著書を参照しているため、ほとんど同じような描写となっている。素杉橋から開明橋に名称が変わったのは明治5年、町名変更や念仏橋が幸来橋に変わった時ではないかと推測するが、後で調べてみる予定。

 P8050345_2
  開明橋の橋の畔に熊野神社が鎮座している。栃木市史に云われがでていた。慶長14年(1609)に家康によって取潰された皆川広照・隆庸(たかつね)父子が復活を願い、皆川隆庸が箱森村日向野四郎兵衛家の熊野神をこの地に分祀してまつったと記されている。

 このあたりは天正年間に築城された栃木城に近い。小山氏・壬生氏が北条方に組みされたことで皆川広照はその備えとしてこの地に城を築いた。栃木城には東・南の二の丸はあるが西の二の丸はない。うずま川を堀として栃木宿あたりは西の二の丸の役割としていたのだと思える。そのためなのか、広照によって現在地に移転している定願寺、神明宮、金龍寺は防御を備えての西向きに建てられている。

Photo_4  開明橋を渡り160メートル行った所に分かれ道がある。そこにはかつて「道標」が建っていた。道標には「左こが 向日光道 右さの」と刻まれている。道標は向かって見てはいけないと教えられた。自分の背中を背にして見ると道標の建っている位置が分かる。栃木宿に入る開明橋を背にしてみると、右が例幣使道の佐野、左が部屋街道古河、背が日光栃木宿になる。

 この道標、現在は両毛線の高架線下の民家の庭先に建っている。栃木市で引き取り、熊野神社あたりにそのまま移転してくれれば、例幣使街道を研究している人達はもちろん観光客は大喜びすると思うがな。

 

                           《夢野銀次》

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