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2013年9月

船に乗ったお地蔵さん―岩船地蔵尊

P9230606  「船に乗った岩船地蔵尊は西東京市保谷や静岡県裾野市今里等で確認されています。さらに亨保4年(1719年)の3月~7月の短期間で村々で地蔵送りが流行したのです。名主も加わわり、二千~三千人の村人によって地蔵尊を輿に担ぎ、派手に着飾り、幟を立て、三味線や太鼓を鳴らしながら念仏踊りをしながらねり歩き、次の村へ送る。こうした村人総出での地蔵送りは亨保4年(1719年)の3月から10月と短期間だけの動きでの流行で、後には確認されていないのです。何故こうしたことが起こったのか、分からないということしか言えません」と福田アジオ講師は語った。

  来年(平成26年)の4月に栃木市と合併する岩舟町主催の公民館講座、郷土史リレートーク「旅する岩船地蔵」の講座を9月15日に岩舟町文化会館において聞いてきた。講師の福田アジオ氏は神奈川大学教授を歴任し国立歴史民俗博物館名誉教授として民俗学を研究し柳田国男研究者として著名なお人だ。

  このリレートーク講座は10月に「円仁」、11月「小野寺氏」と岩舟町ゆかり歴史講座が行われる。 

P9230586  福田アジオ講師は「村から村へと岩船地蔵送りが行われた地域は群馬・上野から信濃千曲川に沿って越後へ。信濃から今の小梅線を通って甲斐へ。甲斐からは富士川に添って駿河と相模。別の甲斐から奥多摩を経て武蔵の国へと『地蔵送り』が行われたことが古文書史料で確認できます。また、同じ地域で船を台座にした岩船地蔵尊の存在が確認されています。しかし、この分布からは西の国や埼玉県では確認されていないのです」と語り、史料として『野津田村年代記』(亨保4年)、『柏木甚右衛門覚書帳』(駿河国駿東郡茶畑村)、『谷間氏見聞録』(武蔵二俣村、亨保4年)、『飯島家記』(信濃松代、亨保4年)、『一宮浅間宮帳』(甲斐一宮、亨保4年)とむら村における船地蔵送りの古文書としての史料を例示紹介を行った。

P9230589  「亨保4年(1719年)だけの短い時期と限られた地域でどうして『岩船地蔵送り』が行われ、船に乗った岩船地蔵尊があるのか?さらに村人達は下野にある岩船山の三大地蔵の一つである『高勝寺』のことを知らないと云う。現在まで高勝寺とこの『地蔵送り』を結びつける史料はないのです」と福田講師は述べていた。

  ブログネットの中で「屋根のない博物館、舟に乗ったお地蔵さん、岩船地蔵」の記載があった。相模原市周辺の地域についてのブログだが、この船に乗ったお地蔵さん(岩船地蔵)について次のように記載されている。「岩船地蔵の伝播の期間は非常に短く、今から凡そ300年前の享保4年から10年迄の7年間に集中しています。この時期は諶盛上人が江戸の東叡山から今の栃木県岩舟町にある高勝寺と云う寺に派遣された時期と重なります。高勝寺は天台宗の寺院で、青森の恐山、鳥取県の大山と並ぶ日本三大地蔵のひとつと数えられている霊地です」と記述されている。

P9230592  そして、この地蔵送りについて「屋根のない博物館」は天台宗高勝寺、諶盛上人による布教活動の一環ではなかったのではないかと推測をしている。その根拠として、享保5年(1720)高勝寺本堂地蔵尊堂の落成。享保9年(1724)高勝寺本堂前に天明鋳物でできた大仏が建立される。享保10年(1725)大慈寺、最澄が全国六ケ所に建立したひとつの相輪搭を天明鋳物で再建する。享保17年(1732)高勝寺、目黒で岩船地蔵尊の出開帳が行われる。寛保2年(1742)高勝寺仁王門が建立。寛延4年(1751)高勝寺三重塔が建立される。と挙げている。財政活動としての「地蔵送り」を指摘しているように受け止めた。 しかし、高勝寺は徳川幕府からの擁護があり、果たしてこのことが高勝寺による布教(財政)活動としての「岩船地蔵尊送り」と言えるかどうか疑問がある。福田アジオ氏は高勝寺と「地蔵送り」との関わりを示す史料はなく、関係性を全面否定していた。この流行としての「岩船地蔵村送り」の謎の究明は今後の課題としていくことにしていく。

P9230599_3  今年(平成25年)の3月23日、秋分の日に岩船山高勝寺に参詣してきた。600段の石段を昇った。石段の両脇には彼岸花が咲いていた。石段中頃にある縁起の地の船に乗っているお地蔵さんを参拝する。岩船山にたくさん祀られている観音菩薩や御地蔵尊で船に乗っている地蔵尊はここ縁起の地にある二体の地蔵尊だけだった。少ない。もう少しあっておかしくない筈だが?

 高勝寺本堂では参詣者が卒塔婆を購入し、本堂裏にある急斜面の置き場に卒塔婆を祀っていた。卒塔婆置き場周辺は岩肌のあるうす暗い所だった。「この山ならば、姥捨て山と云われていても不思議ではない」と感じた。

P9230581  先述した「屋根のない博物館」の中で相模原市藤野町日蓮の杉並区に伝わるお念仏と和讃が紹介されている。

  ~きみょうちょうらい我が親よ 歌や念仏が好きならば 極楽船えと乗りたまえ 先船乗るのが釈迦様よ 中船乗るのが我が親よ 後船乗るのが阿弥陀様よ 蓮の蓮華にさおさして 極楽浄土へつきたまえ 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

  ~きみょうちょうらい 下つけのゆわ舟地蔵お召し舟 舟は白金 櫓は黄金 柱は金銀 蒔絵して 綾や錦の帆を上げて 極楽浄土へ乗り込むにゃ 極楽浄土の法門は知恵や力じゃ開きゃせん 念仏六でさらあけ 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

(会報/文化財第2号 お念仏 森久保花子 発行/昭和52年12月 藤野町文化財保護委員会)より

  この迎えにきた船には御地蔵様が乗っている。あの世への旅立ちは御地蔵様と旅立ちたいと願う。念仏を唱えて踊る歩く姿が浮かんでくる。

002_4 船の形をした岩船山。山全体が殺伐としている。高勝寺に来ると「あの世とこの世の境の世界」が浮かび上がってくる。「私もあの世に旅立つ時、船に乗ったお地蔵さんが迎えに来てくれる。そして一緒の船で旅立ちたい。そう念じる時がまもなくやってくる。そんな歳になっているんだ。」と胸の奥に閉まっておくとする。今は自分の生きざまを著していくことに専念していきたいと念じる。

P9230604   一昨年の3月9日にこの山に来た時、「わたしの両親は3月10日の大空襲で亡くなりました。わたしは佐野に学童疎開していたから…。毎年、3月に東京からこの岩船にお参りにくるのです」と本堂前でご婦人が話をしてくれた。霊が岩船山に帰ってくるのだ。翌々日の3月11日にあの大震災が起こった。

  「今年は露天商、一軒もでなかったわ」と石段前のダンゴ屋のオカミさんがこぼした。「昔は岩舟駅からこの石段まで列をなしてお参りにきていたのに」と近くの婆さまがこぼした。

  岩船地蔵のある山梨、神奈川や静岡の地域では栃木県の岩船山を知らないという。これからは、岩船地蔵尊がその地域とこの地域とを結びつけていく役割がある。

                               《夢野銀次》

 

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延長15回栃木商業が制する―秋季高校野球栃木県大会

P9210578  ♫みづきさやけき太平の 山の麓の学舎に 希望(のぞみ)はてなき日本(ひのもと)の 文化の潮血とたぎる みよや商業報国の理想に燃ゆる吾等あり~

  9月21日、午後5時15分夕闇迫る栃木県営球場に中山晋平作曲の栃木商業高校の校歌が流れた。

  延長15回の裏、黒羽高校は一死2.3塁と一打逆転サヨナラの場面を迎えた。遊フライ、三振と栃商三人目の投手堀田が抑え、決着した。延長15回、栃商対黒羽高校2回戦は5対4で栃商が勝った。

  勝った瞬間は両チームの選手は二試合分戦い、ヘトヘトの状態だった。とちわけ13人の選手で戦った黒羽高校。足がつっていた荒川投手の投球は執念を感じた。

  栃商が勝つことができたの20人対13人の登録選手数の数だった。控え選手が少ない中での体力勝負。それでもめげることなく15回を投げ続けた黒羽高校の荒川投手に頭が下がる思いがした。

P9210572  第2試合、佐野日大対石橋の対戦は5回コールドで佐野日大が圧勝した。佐野日大の田嶋投手のピッチングはさすが。1安打のピッチングがほぼノーヒットと言ってよい内容だった。また、佐野日大の遊撃手が竹村一年生が守っていた。栃木西中出身ということは浦和学院の竹村選手の弟ではないかと思えた。

  3回戦は栃木商業との対戦。佐野日大は危なげなく勝ち進むだろう。

 昨年の秋季大会の時、栃商の試合を見に行って驚いた。当時の2年生は1人しかいなく、1年生がレギラーを占めていた。何かあったのだろうと思えた。今年の秋は昨年の1年生だった選手が主体となっていた。小柄な捕手、キャプテンの和泉選手、何故か9番を打っていた。3番を打ってもおかしくない。さらに1年生のサード、背番号15の児玉選手。5番を打っていたが、野球センスの良さを感じた。楽しみな選手がまた1人増えた。

 延長15回、4時間に渡るの試合は小さなミスが重なっての試合になってしまったが、両チームとも大きな教材を得たのではないか。

 栃商の校歌、ありがとう。バックネット前で整列して歌っている選手の姿をカメラで撮ることを失念したことを後悔した。

                             《夢野銀次》

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水田に咲く―ホテイアオイの花畑

Photo_2 水田には稲の穂が黄色みを増して来ている。その一角の水田に青紫のホテイアオイの花が一面に咲き誇っている。

 東武特急スペーシアが走る抜ける。

栃木市大平町川連の水田の一角にあるホテイアオイ畑。畑の向こうには栃木翔南高校の校舎がある。20年ほど前から自分の水田の一角にホテイアオイを植え続けていると云う。

Photo_4  3・4年前に下野新聞にこのホテイアオイ畑の写真が走るスペーシアと共に記載された。

 マニアは走る。

今日も一眼レフやビデオを設定している人達がいた。朝からじっと待っていると言う。スペーシアが上りと下りが、この畑に前で交差するのをじっと待ち続ける。

「魚釣り」の心境なのかなと思えた。

スペーシアをデジカメで撮ることができた!幹事の時間配慮に感謝感謝。

Photo_2  ホテイアオイのことをまったく知らない自分はたまたま見たのだ。級友が幹事をしている栃木市老人クラブの9月9日のウオーキングに初参加して、このホテイアオイの花畑を見ることができたのだ。確か金魚鉢の中を漂っていることしか頭に浮かばない。

 ネットで検索すると「葉柄が丸く膨らんでいることで、浮き袋の半ばまでが水の中にある。日本では、この浮き袋のような丸い形の葉柄を布袋(ほてい)の膨らんだ腹に見立てて『ホテイアオイ(布袋のような形をしているアオイ』と呼ばれるようになった」と記述されていた。「ホテイ」が最初、分からなかったが、「布袋」という文字で理解できたような気がした。

Photo_5 青紫一面の「ホテイアオイ」は少しの苗から繁殖が進むと言われている。

 さらに、水が大量に必要とする。

 水田だから出来るのかな。近辺は水田用の地下水を組み上げるポンプが多く、火曜日以外はポンプで汲み上げた地下水が用水路を伝わり、万遍なく周囲の水田に水が引かれている。

Photo    冬には枯れても翌年には咲かせている。

東武日光線で栃木駅から上り電車(浅草方面)で栃木駅を発車して1,2分で高架線を下って直ぐ右側に青紫色をした「ホテイアオイの花畑」が見えてくる筈だ。

電車から一度見てみるかな。

 しかし、栃木の街の水田をこうして鑑賞する風景も悪くないと思った。 

                    《夢野銀次》

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65歳を迎えて―小津安二郎「東京物語」から

Photo   「世界に先駆けて日本は超高齢社会を迎えた。80歳を超えてからの人生設計を組むことが必要だ」と五木寛之は語る。6月8日放送の阿川佐和子のトーク番組「サワコの朝」においてだ。さらに「80歳からの人生は誰も教えてくれない。今を一つ一つ積み重ねていくことが大切だ」と80歳になった五木寛之は阿川佐和子に淡々と語っていた。

 9月1日で私は65歳を迎えた。「介護保険証」も届き、高齢者の仲間入りとなった。総人口においての65歳上の割合を示す高齢化率が、平成24年(2012)では23.3パーセントを示した。高齢化率が20パーセントを超えれば「超高齢社会」と定義されている。17年後の高齢化率は28パーセントと予測されている。世界に先駆けて日本はどの国も経験していない本格的な「超高齢社会」を迎えてきた。

Tokyo_monogatari_poster_21  介護や介護保険、社会保障費の増加等数ある高齢化社会問題の中で高齢者の「孤立」が問われてきている。核家族化がすすむ中で65歳以上の単身者高齢者がこの30年間で88万人から480万人と急増してきたからだ。

 昨年の平成24年版高齢社会白書の中で「地域社会のなかでの人間関係を含め、地域力や仲間力が弱体化、喪失する中で、社会的孤立や孤立死の問題が出てきた」と地域社会の崩壊を指摘し、「新たな超高齢社会に適合した地域社会の再構築の必要性」が強調されている。

 昭和28年(1953)公開の小津安二郎監督、笠智衆主演の「東京物語」のDVDを図書館から借りて来て観た。戦後から8年がたち、核家族化が進む中で家族の崩壊を描いた優れた作品だと思えた。 「年老いた両親の一世一代の東京旅行を通じて、家族の絆、夫婦と子供、老いと死、人間の一生を冷徹な視線で描いた作品である。今日の核家族化と高齢化の問題を先取りした作品だ」と批評家の評価を待つものではない。

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 この「東京物語」の中で、わたしの胸にズシーンと突き刺さったシーンがラストに出てきた。

 それは、母とみ(東山千栄子)の葬儀が終わった後、長女の志げ(杉村春子)は次女の京子(香川京子)に、母とみの形見の品をよこすよう催促する。そして志げは、とみよりも父周吉(笠智衆)が先に死ぬのが望ましかったと主張し、長男の幸一(佐分利信)もそれに同調する。そして、戦死した次男の嫁、紀子(原節子)以外の子供たちは、葬儀が終わらるとそくそくと帰って行った。父と尾道で暮らす小学校教諭の京子は帰って行った兄や姉の姿勢に憤慨する。紀子は京子に「歳を取れば誰でも自分の生活が一番大切になるものだ」と諭す。その京子も東京に帰る時、義父の周吉に再婚を考えていることを打ち明ける。

Tokyostory2ssss1_2  これらのシーンから母の葬儀の際にそくそく帰ってしまったわたしの姿が見えた。この映画の通りだった。自分の生活を優先させる「わたし」がいたからだ。

 平成23年(2012)、10年おきに行われている英国映画協会の「世界で最も優れた映画50選」で、358人の映画監督が選ぶ(監督部門)で小津安二郎監督の「東京物語」が1位となった。日常の出来事の中で誰もが向き合っていく別れを行間と言葉に思いを込めて、それぞれが持つ孤独を演出する最高傑作としての評価を得ての1位だった。

 若い頃見た時の小津作品は「こんにちわ」などの日常挨拶のセリフが多く、見る気を無くしていた。しかし、日常の挨拶の言葉から人間関係が始まることがようやく最近わかってきた。「おはよう」と言いながら心ではさらに「お元気ですか」ということを追加してく挨拶。

P6210304_2  今から2年半前にこの地に引っ越してきた。自治会は4つの坪から構成されている。江戸期の年貢米を納める集落単位のことを「坪」ということを最近になって知ることができた。葬儀では地域の人が墓の穴を掘る床取り(とことり)という役割が今なお存続してる。さらに全戸総出で用水溝の「堀ざらい」や神社の草むしり等を取り組む。都会暮らしのわたしには、当初戸惑いを感じた。しかし、最近ではこれらの役割や行事を行うことが地域の人々を結ぶ支えになっているのではないかと思うようになってきた。江戸期の農村社会の分野を身近に学ぶ機会を得たと思ってきている。

 「地域社会の崩壊」から「新たな地域社会の構築」を国や地方自治体での施策が進められると思う。超高齢社会では、より社会参加の姿勢が重要になってくる。「生涯学習」を基本に身近な地域社会と向き合い、「栃木のまち」を変えていくとりくみに参加していくつもりだ。 65歳を迎えたわたしの心づもりとしていく。

                             《夢野銀次》

 

 

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