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船に乗ったお地蔵さん―岩船地蔵尊

P9230606  「船に乗った岩船地蔵尊は西東京市保谷や静岡県裾野市今里等で確認されています。さらに亨保4年(1719年)の3月~7月の短期間で村々で地蔵送りが流行したのです。名主も加わわり、二千~三千人の村人によって地蔵尊を輿に担ぎ、派手に着飾り、幟を立て、三味線や太鼓を鳴らしながら念仏踊りをしながらねり歩き、次の村へ送る。こうした村人総出での地蔵送りは亨保4年(1719年)の3月から10月と短期間だけの動きでの流行で、後には確認されていないのです。何故こうしたことが起こったのか、分からないということしか言えません」と福田アジオ講師は語った。

  来年(平成26年)の4月に栃木市と合併する岩舟町主催の公民館講座、郷土史リレートーク「旅する岩船地蔵」の講座を9月15日に岩舟町文化会館において聞いてきた。講師の福田アジオ氏は神奈川大学教授を歴任し国立歴史民俗博物館名誉教授として民俗学を研究し柳田国男研究者として著名なお人だ。

  このリレートーク講座は10月に「円仁」、11月「小野寺氏」と岩舟町ゆかり歴史講座が行われる。 

P9230586  福田アジオ講師は「村から村へと岩船地蔵送りが行われた地域は群馬・上野から信濃千曲川に沿って越後へ。信濃から今の小梅線を通って甲斐へ。甲斐からは富士川に添って駿河と相模。別の甲斐から奥多摩を経て武蔵の国へと『地蔵送り』が行われたことが古文書史料で確認できます。また、同じ地域で船を台座にした岩船地蔵尊の存在が確認されています。しかし、この分布からは西の国や埼玉県では確認されていないのです」と語り、史料として『野津田村年代記』(亨保4年)、『柏木甚右衛門覚書帳』(駿河国駿東郡茶畑村)、『谷間氏見聞録』(武蔵二俣村、亨保4年)、『飯島家記』(信濃松代、亨保4年)、『一宮浅間宮帳』(甲斐一宮、亨保4年)とむら村における船地蔵送りの古文書としての史料を例示紹介を行った。

P9230589  「亨保4年(1719年)だけの短い時期と限られた地域でどうして『岩船地蔵送り』が行われ、船に乗った岩船地蔵尊があるのか?さらに村人達は下野にある岩船山の三大地蔵の一つである『高勝寺』のことを知らないと云う。現在まで高勝寺とこの『地蔵送り』を結びつける史料はないのです」と福田講師は述べていた。

  ブログネットの中で「屋根のない博物館、舟に乗ったお地蔵さん、岩船地蔵」の記載があった。相模原市周辺の地域についてのブログだが、この船に乗ったお地蔵さん(岩船地蔵)について次のように記載されている。「岩船地蔵の伝播の期間は非常に短く、今から凡そ300年前の享保4年から10年迄の7年間に集中しています。この時期は諶盛上人が江戸の東叡山から今の栃木県岩舟町にある高勝寺と云う寺に派遣された時期と重なります。高勝寺は天台宗の寺院で、青森の恐山、鳥取県の大山と並ぶ日本三大地蔵のひとつと数えられている霊地です」と記述されている。

P9230592  そして、この地蔵送りについて「屋根のない博物館」は天台宗高勝寺、諶盛上人による布教活動の一環ではなかったのではないかと推測をしている。その根拠として、享保5年(1720)高勝寺本堂地蔵尊堂の落成。享保9年(1724)高勝寺本堂前に天明鋳物でできた大仏が建立される。享保10年(1725)大慈寺、最澄が全国六ケ所に建立したひとつの相輪搭を天明鋳物で再建する。享保17年(1732)高勝寺、目黒で岩船地蔵尊の出開帳が行われる。寛保2年(1742)高勝寺仁王門が建立。寛延4年(1751)高勝寺三重塔が建立される。と挙げている。財政活動としての「地蔵送り」を指摘しているように受け止めた。 しかし、高勝寺は徳川幕府からの擁護があり、果たしてこのことが高勝寺による布教(財政)活動としての「岩船地蔵尊送り」と言えるかどうか疑問がある。福田アジオ氏は高勝寺と「地蔵送り」との関わりを示す史料はなく、関係性を全面否定していた。この流行としての「岩船地蔵村送り」の謎の究明は今後の課題としていくことにしていく。

P9230599_3  今年(平成25年)の3月23日、秋分の日に岩船山高勝寺に参詣してきた。600段の石段を昇った。石段の両脇には彼岸花が咲いていた。石段中頃にある縁起の地の船に乗っているお地蔵さんを参拝する。岩船山にたくさん祀られている観音菩薩や御地蔵尊で船に乗っている地蔵尊はここ縁起の地にある二体の地蔵尊だけだった。少ない。もう少しあっておかしくない筈だが?

 高勝寺本堂では参詣者が卒塔婆を購入し、本堂裏にある急斜面の置き場に卒塔婆を祀っていた。卒塔婆置き場周辺は岩肌のあるうす暗い所だった。「この山ならば、姥捨て山と云われていても不思議ではない」と感じた。

P9230581  先述した「屋根のない博物館」の中で相模原市藤野町日蓮の杉並区に伝わるお念仏と和讃が紹介されている。

  ~きみょうちょうらい我が親よ 歌や念仏が好きならば 極楽船えと乗りたまえ 先船乗るのが釈迦様よ 中船乗るのが我が親よ 後船乗るのが阿弥陀様よ 蓮の蓮華にさおさして 極楽浄土へつきたまえ 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

  ~きみょうちょうらい 下つけのゆわ舟地蔵お召し舟 舟は白金 櫓は黄金 柱は金銀 蒔絵して 綾や錦の帆を上げて 極楽浄土へ乗り込むにゃ 極楽浄土の法門は知恵や力じゃ開きゃせん 念仏六でさらあけ 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

(会報/文化財第2号 お念仏 森久保花子 発行/昭和52年12月 藤野町文化財保護委員会)より

  この迎えにきた船には御地蔵様が乗っている。あの世への旅立ちは御地蔵様と旅立ちたいと願う。念仏を唱えて踊る歩く姿が浮かんでくる。

002_4 船の形をした岩船山。山全体が殺伐としている。高勝寺に来ると「あの世とこの世の境の世界」が浮かび上がってくる。「私もあの世に旅立つ時、船に乗ったお地蔵さんが迎えに来てくれる。そして一緒の船で旅立ちたい。そう念じる時がまもなくやってくる。そんな歳になっているんだ。」と胸の奥に閉まっておくとする。今は自分の生きざまを著していくことに専念していきたいと念じる。

P9230604   一昨年の3月9日にこの山に来た時、「わたしの両親は3月10日の大空襲で亡くなりました。わたしは佐野に学童疎開していたから…。毎年、3月に東京からこの岩船にお参りにくるのです」と本堂前でご婦人が話をしてくれた。霊が岩船山に帰ってくるのだ。翌々日の3月11日にあの大震災が起こった。

  「今年は露天商、一軒もでなかったわ」と石段前のダンゴ屋のオカミさんがこぼした。「昔は岩舟駅からこの石段まで列をなしてお参りにきていたのに」と近くの婆さまがこぼした。

  岩船地蔵のある山梨、神奈川や静岡の地域では栃木県の岩船山を知らないという。これからは、岩船地蔵尊がその地域とこの地域とを結びつけていく役割がある。

                               《夢野銀次》

 

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