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栃木刑務所ー矯正展と旧刑務所の跡地

Photo_7 「午前中の所内見学は終わりです。午後は1時から受付します」とすでに満杯。所内見学はあきらめた。10月6日開催の「栃木刑務所矯正展」へ行っての話。「朝8時ころから並んで待っています。午後1時からの見学、予約はできません。見学できるかどうか分かりませんね」と話す女性看守。栃木市と壬生町の境にある栃木市総社町の栃木女子刑務所。「いつ頃、市内から移転したのかな?」と前から気にかけていた。近くを思川が流れている。何を思って塀の中で過ごしているのか、女子受刑者達…。罪を犯した人を拘留し、その更生と社会復帰を行う女性だけの矯正施設としての栃木刑務所がそこにある。

Photo_8 毎年開いている「栃木刑務所矯正展」は『関東地区唯一の女子刑務所である当所を知ってもらうため実施。刑務所作業製品の展示即売、所内見学』と栃木市広報に記載されていた。全国に8ヶ所ある女子刑務所で栃木刑務所は最大の施設になっている。

 定員648名で平成25年10月1日現在収容人員は727名。「定員の100名オーバーは許容範囲です」と係員が説明してくれた。紹介パネルの展示や模擬居室を見る。今は牢獄とか独房とは言わないで共同室とか単独室と表示してあった。

Photo_9 10月1日現在の受刑者727人のうち年齢別では20代が75人、30代が181人、40代が209人、50代が98人、そして60代以上が252人と1番多い、高齢化が進んでいるということだ。罪名別では覚せい剤が264人、窃盗が199人、殺人が107人、詐欺・横領が17人、放火27人、強盗・同死傷19人、交通14人で覚せい剤が最も多いが殺人も多い。刑期別では1年以下17人、2年以下155人、3年以下178人、5年以下136人、10年以下106人、10年超96人、無期39人となっており、10年以上と無期懲役で18.7%とを占めている。多い。

  出所後の職業につく際に「美容師を選ぶ受刑者は服役の長い人だ」と丸谷才一著の「たった一人の反乱」にでてくる。「確かに美容師になるには2年以上必要ですから、服役刑の長い人が選んでいますね」と係官が答えてくれた。

Photo_10   見学者が収容所の門から中に入っていったのが見えた。閉じられている門扉の左下の方に顔だけ見える窓口がある。「この塀の高さはどのくらいですか、意外と低いですね」と門扉の前に立っている女性看守官に尋ねた。「さあ、測ったことがないので」と返ってきた。目測で2.5メートルかなと思えた。この中に受刑者700人がいるのか。しかし、刑務所全体が見えてこない。ここは刑務所なのか?ピンク色した建物や塀。「平成18年の刑務所法改正で変わりましたから」と言われた。それまでの「監獄法」からの改正だ。丸谷才一の小説にある「出所後に元受刑者が訪問して宿泊していく」ことや「お雛祭り」等、「今はありませんねと」いう答えが返ってきた。

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  栃木刑務所は明治元年(1868)に栃木囚獄として後の栃木県庁敷地となる栃木町薗部に設立。明治5年、県庁建設のため七軒町(万町四丁目にあったというが、場所は不明)に移転。明治10年(1877)に旭町へ移転し栃木県監獄署と改称する。明治17年(1884)県庁宇都宮移転により栃木監獄署栃木支署と改称。明治39年(1906)には全国で初めて女子受刑者収容を開始。翌年、明治40年3月の本町大火で類焼し、定願寺を仮支署とし、明治42年に復興建設される。昭和23年(1948)に栃木刑務所と改称。昭和54年(1979)に現在地の栃木市総社町に移転(収容定員298名)。その後増築が行われ、現在の定員は648名となっている(『栃木刑務所の沿革としおり』、日向野徳久著『栃木市の歴史』より)。移転前の旧栃木刑務所には300人近い受刑者が服役をしていたのだ。

  「栃木の刑務所」と言えば「ああ、女性の刑務所ネ」と返ってくる。大正15年に「大逆事件・朴烈事件」で収監され刑務所で自死し、栃木刑務所共同墓地に仮埋葬された金子文子やあの阿部定などが服役していた女囚刑務所として全国的に有名な刑務所となっていた。その旧刑務所のジオラマが刑務所庁舎の玄関に展示されてあった。このジオラマを誰が作成したのか?

Photo_5 旭町にあった旧栃木刑務所の跡地には昭和58年(1983)に栃木文化会館、昭和61年(1986)に栃木図書館が建設、開館されている。敷地内には栃木刑務所跡地という表示がない。そのため、栃木刑務所がここにあったことを知らない人が多くなってきているのではないか。行政側を含め栃木市全体で触れたがらない事項なのかもしれない。

  昭和12年(1987)に林芙美子が旧栃木刑務所に来所して「新生の門―栃木の女囚刑務所を訪ねて」という随筆を執筆している。「白く反射した明るい栃木の町は、たいへん素朴な町におもえました。宿屋だの、バスの発着所だの、小さな飲食店だの、わたしは自動車の窓から、これらの町の景色を眺めていましたが、案外なことには、駅から刑務所まで五分とかからないところにあって」と刑務所が栃木駅から遠くない所にあったと書いている。

Photo_6  林芙美子の随筆の引用を続ける。「灰色の鉄門を入ると古い木造建ての建物がある」とし、さらに「房の建物の入口は厚い板戸になっていて、大きな南京錠がかかっています。なかに這入ると、広い廊下を真中にして、左右二列に太い格子のはまった小さな独房の部屋々々があって、わたしは何だかそれらの部屋々々をカナリヤの巣をみているようだとおもいました」と独房を部屋々々をカナリヤの巣と綴っているのが興味深い。刑務所の印象として「中庭の柵のなかには、赤ちゃんのおしめが沢山干してあります」「たいへん明るい庭を持っている」「空地の向こうには女囚のつくる野菜畑もつくってありました。野菜畑へ出ると、寺の屋根や、よその庭の櫻の花もこのひとたちの眼を慰めてくれることでしょう」と結んでいる。

Photo_2   旧刑務所のジオラマを見ながら現在と比較してみる。正面に建つ栃木文化会館の大ホールの建物。その建物の右側あたりが当時の正門扉と庁舎があったと思われる。左側が面会所。文化会館入口・ホールあたりは独房や共同房等3棟の獄舎が建っていたと思われる。その獄舎から裏の作業所、食堂に講堂でつながっていた。会館裏の南側駐車場が作業所跡地とだったいうことになる。その右端が林芙美子が記述した野菜畑となる。杢冷川(もくれいがわ)の東側にある駐車場は塀に挟まれた運動場となっていた。西側には医療棟があり、現在の栃木図書館が建っている。医療棟と庁舎との間には通路はあるが、塀で遮断されていた。医療棟の西側には待機所という建物があった。何の待機所なのか分からない。現在の文化会館の建物は一段高い所に建っている。以前は平地だったのではないかと思える。わざわざ高く盛土したのは建物の構造なのか。林芙美子が記述している受刑者が見たお寺の屋根とは西側にある定願寺の屋根瓦だったと思える。

 明治41年(1908)には社会福祉活動の父と言われた平岩幸吉らの働きかけで寺院住職らが出獄者に自活の道を与えて再犯者をなくそうと、免囚保護の目的の下、托鉢修業の浄財をもって更生保護事業が開始された。現在の更生保護法人栃木明徳会につながっている。(石崎功一発行「ボランティア活動の父 平岩幸吉翁のあしあと」より)

Photo_3  日ノ出町を水源とする杢冷川が刑務所前から塀の東脇を流れ、うずま川にそそいでいる。川幅がさほど広くない杢冷川には旭橋が架かっている。小山へとつづいている道だ。江戸期にはここに栃木町の東木戸があったと云う。斜め向かいの栃木陣屋跡地には裁判所が建っている。子供の頃、この通りを自転車で通る度毎に、恐る恐る刑務所を横目で見た。刑務所正面の閉ざされた門扉と高くそびえる白い塀が私の脳裏にある。塀の周りは堀だと思っていたが、杢冷川だったのだ。日ノ出町にある水源の沼で夏は水浴びをしてよく遊んだ。湧き水のため非常に冷たい水だったと肌が記憶している。

51az3tpq5rl_sl500_aa300_1_41_2_3   船村徹著「私の履歴書 歌は心でうたうもの」の中に船村徹が行なっている「演歌巡礼」にこの旧栃木刑務所と岐阜県にある笠松刑務所についての記述がある。北海道を旅している時に峠のドライブンでの昼食。その時の係の中年のウェイトスが船村徹に「栃木でお世話になりました」と語った。その一言ですべてがわかった。「二度と栃木はだめだよ」と答える船村徹。演歌巡礼を昭和33年から始め、最初の刑務所慰問が旧栃木刑務所だった。さらに笠松刑務所で受刑者と歌う「希望(のぞみ)」(作詞作曲・船村徹)の記述が感動的だ。

 ~ここから出たら 母に会いたい おんなじ部屋で ねむってみたい そして そして 泣くだけ泣いて ごめんねと おもいきりすがってみたい~ 

  船村徹は記述する。「受刑者が刑期を終えても世間は以前と同じように彼女を扱ってくれない。白い目に囲まれて過去を隠しながら生きていかねばならない。だからこそ、母親にだけは許してほしい。受けとめてほしいのだ」と…。 

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  ~ここからでたら 旅に行きたい 坊やをつれて 汽車にのりたい そしてそして 静かな宿で ごめんねと おもいきり抱いてやりたい~

 「笠松刑務所の受刑者の平均年齢は41歳。多くが結婚して子供がいる。母親である彼女たちにとって最も胸痛むのは塀の外に残してきた子供のこと。私はギターを弾きながら歌い始めた。歌詞が『坊やをつれて』に差し掛かったところですすり泣きが耳に届いた。一人また一人と涙を拭う。『さあ、こんどはみんなで歌おう』、私のギターに合わせて300人の斉唱になった。最初は小さくやがて大きく、歌声が講堂に響く、多くの受刑者が泣いた。泣きながら歌った」と記述されている箇所。私も読みながら涙が出てきた。 

  学生時代の友、『K』は同居の女性に灯油をかけられ、火だるまになって亡くなったのは38年も前だ。同居の女性は歳の離れたスナックのママだった。21歳の頃からその女性のつばめになっての生活だった。その女性がママをしていたスナックでは森昌子の「せんせい」の歌が流れていたのを憶えている。サラリーマン生活を始め、別れ話のもつれからだ。「おい、冗談だろ」と言って意識を失い、そのまま逝ってしまった。面倒見が良く、いずれ事業を起こしていくような奴だった。その女性は懲役7年の判決を受けたと聞いている。栃木刑務所に服役し、今はどうしているのか。女性の顔は浮かんでこない。ただ、彼の葬儀の時、お寺の本堂から出てきた彼の母親の引き留めを拒否し、即退去してきた。その時の自分が情けなく、『K』に済まないと胸の奥で後悔の念が残っている。

 栃木刑務所庁舎に展示してある旧栃木刑務所のジオラマ。栃木市に歴史資料館があれば、そこで展示すべきだと思う。しかし、栃木市にはそうした歴史文化資料館がないのだ。残念なことだ。 

                                   《夢野銀次》

≪関連ブログ≫

 銀次のブログ「栃木刑務所共同墓地―金子文子の仮埋葬地」

 銀次のブログ「社会福祉活動の父―平岩幸吉の足跡」

 

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