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社会福祉活動の父―平岩幸吉の足跡

Photo  「太平山のあじさい坂に平岩幸吉の碑が建っているの、知っているか?写真でよく見る荷車で廃品回収している人の碑だよ」と知人に言われた。「栃木市で知っていてほしい人物は作家では山本有三と吉屋信子、それに栃木老人ホームを作った平岩幸吉なんだよな」とも忠言された。

  太平山表参道(あいじさい坂)の登り口、蓮祥院六角堂の右側、参道側からは左側に高さ2メートル強、幅1メートル弱の碑が建っている。碑の中央には「平岩幸吉氏善行旌表(せいひょう)碑」と書かれており、左側には「澁澤栄一書」と添えられ澁澤栄一が撰筆している。

  背面(碑陰)には明治43年7月10日に55歳で死去した平岩幸吉の死を悼み、平岩幸吉の善い行いを褒め称え公表して世間の人々に知らせ、後世まで伝えるために翌年の明治44年7月10日に栃木婦人協会の会員と有志達によって建立したと記されている。背面の善行碑文は作家吉屋信子の父、当時下都賀郡長をしていた吉屋雄一が書いている。

0181_2  この平岩幸吉善行碑文について小川澄江国学院栃木短期大學教授は「平岩幸吉の善行と保育場」(『栃木文化への誘い』下野新聞発行)で考察文を著している。

  碑文から平岩幸吉の善行について小川澄江氏はこう要約している。「平岩幸吉は、明治34年(1901)4月に栃木婦人協会を創設し、常務幹事となって日露戦役の際には金品を募って戦地の兵士や残された家族に贈呈して慰労し、また栃木保護会を組織して女性更生者の自活を援助し、さらに私財をなげうって困窮者を救済を救済するなど、たくさんの善行を積んでいます」と記述し、「私は、これらの平岩幸吉の善行のなかで、とくに『栃木婦人協会ノ事業トシテ、保育場ヲ開設シ、労働者ノ幼童ヲ教養セント事緒ニ就クニ当リ不幸ニシテ溘然(こうぜん)トシテ逝ク』と刻まれていたところに目を引かれました」と栃木婦人協会の活動と「保育場」について注目していることを挙げている。平岩幸吉の社会福祉活動としての「保育場」の 開設は大きな現代的な意味を持っているからだと指摘をしている。

Photo  小川澄江著の中では「明治21年に栃木県下で2番目の幼稚園が設立された栃木幼稚園は明治28年頃、櫻井源四郎(栃木町町長)と平岩幸吉に受け継がれ、栃木町入舟町の大日堂の境内にあった松井医院の跡に移っています」と記述され、大日堂前での児童29人、保母2名と櫻井と平岩が写っている写真を掲載している。さらに平岩幸吉は明治44年『現代之栃木』によれば栃木幼稚園に『保育場』を付設して『労働者』の子どもたちや受刑者の子どもたちを保育・教育しようとしたのです」と記述している

  この「保育場」を併設した栃木幼稚園は大正の中ごろまで存続したとされているが、詳細については記録がなく、不明な所が多々あるように文面から受けた。「保育場」の跡地である「大日堂」(栃木市入舟町)は栃木市役所に向かってうずま川「常盤橋」を渡り、県庁堀に向かう運河の中間あたりの道路右側の奥にある。 
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  昭和34年東映映画作品「六人姉妹」の中で、六人姉妹達の叔母がしている美容院前の道路がロケで映しだされている。私にとり栃木市街で愛着のある風景の一つでもある。道の奥には私が通った旧栃木第二小学校があるからだ。

 平岩幸吉の「保育場」運営は明治43年(1910)7月10日、急逝によって頓挫する。しかし、小川澄江氏は指摘する。岩幸吉が目指した福祉・保育の志は「平岩幸吉氏善行旌表碑」に「栃木婦人協会ノ事業トシテ、保育場ヲ開設シ、労働者ノ幼童ヲ教育セントシ」刻まれていることから後世まで残そうした当時の栃木婦人協会の会員及び有志の方々の志によって今日まで受け継がれていると指摘している。子供を抱え働く女性を見つめ「保育場」を設置する活動を始めていたのだ。働く者の生活を見つめる視点は平岩幸吉が学んだ久松義典によるとされている。

 
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  石崎功一著「平岩幸吉翁のあしあと」では久松義典の言葉として「政治は弱者に光を当てなければならぬ。でなければ、文明国とはいえまい。しかし、だ、いいかね?ここが大切なところだ。政治が、社会が悪い、というのは子どもでも言える。そうではなく、大事なことは、我々自身身近に何ができるか、だ。」と平岩幸吉に強い影響を与えたことを記載している。

 
  久松義典は栃木師範学校校長を務めた後、明治31年から明治37年までの7年間、栃木町大杉新田に私塾「名教院」を開いた。しかし、栃木町での暮らしは危険思想の人物だとされて
不遇だったと云われている。金沢市の金沢女学校校長に招聘されたが明治38年6月に急逝している。金沢市は市葬で報いている。当時の第一級の民権派知識人と云われた人物だとされている。その久松私塾に平岩幸吉は息子平八郎とともに学んだ。「名教院」のあった場所は大杉新田7番地(現在の栃木市大町)となっているが、跡地は不明だ。栃木市史では久松義典が栃木養老院の前身をなす婦人協会を創設したと記述されている。

Photo_15  平岩幸吉は名教院で学ぶ傍ら、師の教えを受け継ぎ明治34年(1901)4月15日に栃木町沼和田26番地に養老院を栃木町の篤志婦人達で栃木婦人協会を88人で設立している。この養老院は東京の聖ヒルダ養老院と神戸養老院に次いで、日本で3番目となっている。

  明治12年(1879)23歳の時に日本橋の米問屋に生まれた平岩幸吉は栃木の町に来ている。後に結婚する田畑シカの故郷が栃木町だったからだ。うずま川の川岸、倭橋近くに川魚と牛肉を扱う料理屋、金来屋を開業している。因みに現在の金来屋跡地は空地となっているが、向かいの家が郷土史家「水戸天狗党栃木町焼打事件」の著者、稲葉整太郎の家となっている。 吉村昭が「天狗争乱」を執筆する際には稲葉家に度々訪問し、稲葉誠太郎所蔵の資料を調べていっている。「何度きたかしら?」と稲葉家の店先で家の女(ひと)が話してくれた。

Photo_17 当時の栃木町は鉄道開業により舟運業が衰退し、失業者が増加した。さらに日露戦役を迎え、窮民層が拡大していった。栃木婦人協会を作り、窮民救済の活動を行うには資金が必要であった。個人からの寄贈や寄付だけでは限界だとして、稼業の金来屋を妻に任せ、廃品回収を平岩幸吉は始めた。自ら草鞋、饅頭笠を被って、牛乳配達車を改造した荷車に「栃木婦人会喜捨函」と書いた箱を積んで、家々を回った。栃木婦人協会の活動を説明しながら紙くずや襤褸(ぼろ)布を回収している姿が今も写真(片岡写真館蔵)に残されている。

Photo_13  養老院は大正6年(1917 )に栃木町沼和田442番地に移転し、名称を栃木婦人協会養老院と改めた。昭和22年(1947)には栃木養老院と名称を変更した。その跡地には栃木県南児童相談所と保育園が建っている。 
  昭和44年(1969)
4月には現在地の栃木市梓455-27に移転を行い、「社会福祉法人栃木老人ホームあずさの里」として100名を収容して、今も運営を行なっている。

  私は栃木老人ホームの当初の名称が栃木婦人協会と名乗っていたことを今回知った。私自身、栃木婦人協会はどこに行ってしまった分からなくなっていたからだ。今の栃木老人ホームを訪ねてみて、平岩幸吉及び栃木婦人協会の志は生き続けていることが実感できた。ただ、後日、平岩幸吉の写真がホーム内に飾られてあることが分かり、再度訪ねて行くつもりだ。

Photo_18  明治39年(1906)11月に現在の栃木刑務所の前身の栃木監獄署、栃木支署が女子受刑者の受け入れを開始した。栃木婦人協会として子女養育や里親探しを行なったとされている。服役後の女子受刑者に自活の道を与えて再犯者をなくそうと、平岩幸吉らの働きかけで町内の各宗寺院住職達によって托鉢修行の浄財をもって更生保護事業を始めている。

 この更生保護事業は下野保護会、下都賀郡保護会と継っていき、昭和8年(1933)に名称を栃木明徳会に改めら、現在の更生保護法人栃木明徳会と受け継がれている。

 栃木市神田町にある「更生保護法人栃木明徳会」会館の収容人員は20名になっている。出所後の自活の生活を目指している。昨今では「薬物」による服役、出所が短いため再犯防止・保護のため法改正が行われ、執行猶予を伸ばす措置をとり、「薬物」から守る体制を作っていくとされている。

Photo_19  「男体山が見える墓に入ることが遺言だったと孫の平岩慎一郎医師が語っていた」と栃木明徳会理事長の石崎功一氏が話してくれた。「今は男体山が見えないけれどネ」とも付け加えて。

  その平岩幸吉のお墓は栃木市大町の「ならび塚」にある。例幣使街道の橋本ガソリンスタンド手前を左に曲がり、100メートル行った左側に墓地がある、平岩家の墓地は左に入ったすぐにある。平岩幸吉のお墓がここにあることは一部の人しか知られていない。

  社会福祉活動やボランティア活動において平岩幸吉について今一度見直されることが必要だと思える。今なお100年を経過しても平岩幸吉がおこなった事業は継続されているからだ。これは重く、いかに優れた事業を行なったかを示している。社会福祉活動の実践は個人の力では限界がある。久松義典の「大事なことは、我々自身身近に何が出来るかだ」という言葉の意味と平岩幸吉の続けるという考えだ。何よりも栃木婦人協会を設立、組織化したことが大きく注目される。また個人からの寄贈・寄付を募るだけではなく、廃品回収等をおこない、資金を捻出していくなど、事業の継続化と組織作り考えて行動を行なっていることだ。栃木が生んだ社会福祉活動の父、平岩幸吉については、これからも背景、検証、考察をしていきたい。

(参考・引用資料文献)

「栃木文化への誘い、平岩幸吉の善行と保育場」小川澄江著(下野新聞社)/「栃木史学第25号、平岩幸吉と栃木婦人協会の活動」小川澄江著(国学院栃木短期大学史学会)/「ボラティア活動の父 平岩幸吉翁のあしあと」石崎功一著/「栃木市小学校社会科副読本読物資料」栃木教育委員会/「社会福祉法人栃木老人ホーム百年史」社会福祉法人栃木老人ホーム/「栃木市史通史編」/「創立百年史とちぎ神田のさと」更生保護法人栃木明徳会。

                             《夢野銀次》

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