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2013年12月

高慶大師入定地「太平山真野入り谷(入定平)」と圓通寺

Photo  栃木市に住んでいながら「太平山」について混沌として分からない所がある。明治維新の廃仏分離令で自分の頭の中で混乱しているからだ。栃木明徳会百年誌「とちぎ神田のこと」の中で太平山の記述がある。

 「太平山山頂近くにある太平山神社は、天長4年(827)慈覚大師円仁により創建されたといわれ、明治維新までは三光神社太平山大権現と称し、本地は虚空菩薩、別当寺は連祥院般若寺でした。明治維新の神仏分離令により、仏閣、堂宇、別当所などはことごとく廃されて神祇に復した後、明治9年(1876)に拝殿、同年14年(1881)にも本殿が造営された」と説明されている。

Photo 太平山神社に参拝の際に宮司より「正式な名は三光神社太平山大権現というのですよ」と教えられたことがある。「神」や「仏」が仮の姿で現している神号のことを「権現」という。神仏混合としての「権現」という呼び名は明治政府の政策(神仏分離令)で一旦は廃止されている。どうもこのあたりが自分にとって混乱している所だ。神社のみの名称自体が新しいのだ。むしろ慈覚大師が開いた連祥院般若寺が、今の「あじさい坂」入口に建つ六角堂こそ太平山神社の本尊の一つだったということになる。だが、どうもしっくりいかない。太平山自体を見ていくつもりとする。

Photo_3    この古代より信仰の篤い「霊峰太平山」に慈覚大師円仁は連祥院般若寺、圓通寺、太山寺の三寺院を建立している。その一つの圓通寺の跡地には「圓通寺平」の事跡の石塔が建っている。太平山表参道(あじさい坂)に向い国学院栃木高校入口前の右側、遊覧道路に続く山道を登った所にある。

  圓通寺は天長2年(825)に創建され、敷地は遊覧道路大曲駐車場まであった云われている。平安・鎌倉を時代には天台宗密教修業の霊場、山伏修験の道場として発展した。しかし、南北朝の争乱期に衰退したが、比叡山より等海法印が来山し寺門復興を尽くし、圓通寺中興第一世とされている。戦乱の京都より優れた等海を下野に招いたことは圓通寺の名声を高めたことになった。

Photo  等海のあとを継いだのが中興第二世救海(ぐかい)、諡号は高慶(こうけい)大師であった。佐藤貞文著「寺史照顧(圓通寺開山と中興)」によれば「救海は南北朝の正平19年(1364)上都賀郡真名子村の名主出井家に生まれ、幼名は出井仁三郎と称した。永徳2年(1382)の小山義政の乱において父親が戦死して圓通寺の仏門に入り、等海の弟子となり、名を救海と改めた。救海は先師、等海より口伝法門の学問伝授と寺院経営を委託され、伝法と教化に力を注いだ」と記述されている。

  その救海高慶大師が53歳の時、応永23年(1416)3月11日に即身成仏を志し、石室に入って食を絶ち49日を以って入定した。この時の心情を記述した「入定記」4枚が圓通寺に保存されている。

Photo_12  入定地は圓通寺平の北の尾根の谷、真野入りの谷と云われている。現在は「入定平」と案内版で称されている。

  64段の狭く急な斜面の石段を降りた所に入定した石室跡地がある。北側の谷地にあるせいか、陽の射し具合なのか、なんとも不気味な雰囲気が漂う谷地だ。救海が籠った石室は崩れて見ることはできないが、数本の墓石が建っている。右端には高さ2メートル以上ある石碑「高慶大師讃徳碑」が建っている。昭和29年4月に地元の有志によって建てられた。石碑の中には行脚僧との問答の口承が彫刻されている。

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  石室に籠った救海高慶大師に行脚僧は「入るならば虚空の定に入りもせで 心せまげの真野入りかな」とさげすんで詠えば、高慶大師は「真野入りせましと言ふは迷いかな 定のうちうぞ虚空なり」 と返歌をしている。
 石室に籠って28日目に書かれた「入定記」第一紙には「石室狭く候へども、虚空の如く也。浄名方丈の室に十万の諸仏来集し、たがわず候也」と記述されている。佐藤貞文著「寺史照顧(圓通寺と中興)」の中で「最も苦しい中で釈迦と阿弥陀を観仏した狭い石室はまるで大宇宙を含む虚空のようで、娑婆の苦痛も消えて如来の浄土に遊ぶ大安楽の心境を表白している」と読解している。まさに想念の一筋の念ずる世界なのかと思える。

Photo_2   民衆の救済のため即身仏を目指す。その目的とは? 飢饉、天災、疫病などにより、飢え苦しみ、恐れおののく人々を救うために、この世の苦悩を一身に背負い、石室に籠る。そして最後には己の身に引換えに衆生救済を一心に祈願しながら入定をして念仏往生する。又は釈迦が入滅した五十六億七千万後に釈迦の救いに漏れた人々を救いに弥勒菩薩が下生するとの弥勒信仰説とがあるという。弥勒菩薩の到来を待ち、入定して身心を保ち、弥勒菩薩の手助けをしようと考える仏教的な救世主信仰により、即身仏になることを目指す考え方だ。「甦る」という考えがあるような思える。

 現在ではこの「即身仏」の修行は法律で禁じられている。自殺幇助罪となるからだ。

Photo_5  栃木市城内2丁目にある現在の圓通寺。山門脇には「前方後円墳」の史跡がある。平成25年9月に国学院栃木短期大學が発掘調査を行い「埴輪」が発掘された報道されている。田村町にある下野国府へと続く東山道が近くを通っていた。古代下野の豪族の跡として調査は今後も続けられる。

 15世紀後半に南会津長沼氏が皆川の地に移住してきて皆川氏を名乗る。永禄7年(1564)に小山氏攻略として小田原北条氏は皆川俊宗に小山氏の支城である榎本城攻略を命じ、榎本城攻城戦がある。その前年の永禄6年(1563)に皆川俊宗は佐野・宇都宮氏と結んだとされる川連氏の居城、川連城(栃木市大平町川連)を攻略し、榎本城を攻める態勢を作った。この永禄6年に俊宗は圓通寺を太平山圓通寺平から川連に移動させている。川連のどの地域なのかは不明だが、宗教を通しての地域支配もあったことが伺える。

Photo_2 俊宗の後を継いだ皆川広照は、天正7年(1579)栃木城築城の計画のもとに、圓通寺を川連から現在の栃木市城内2丁目の地に移し、その北接に栃木城を築いた(栃木市史より)。

 「太平山内にある三寺院の中でどうして圓通寺だけが皆川氏によって、大平町川連から栃木市城内に移動させられたのか?」と疑問が残っていた。栃木市史の中で執筆した日向野徳久氏は「太平山にあった頃、戦国武将皆川氏は、圓通寺を城の一つとして利用していたのかも知れない。圓通寺平からは、遠く小山方面まで指呼の間に見ることができる」と記述している。意外と近い距離にある小山氏を見ることができる圓通寺平。栃木城は対小山氏を想定して築城している。城の一つとしての圓通寺ならば、栃木城の一角としての移動であることが頷ける見解だ。

Photo_9 「前方後円墳の先は土塁ですよ。土塁は栃木城につながり、圓通寺を通ってうずまに川に続いていたと云われています」と圓通寺の住職は語ってくれた。山門両脇には土塁の跡地と見える。対小山氏を見据えての栃木城の前方郭となっているのが圓通寺敷地だと改めて分かる。皆川氏と圓通寺との繋がりは、天台宗比叡山を含めて何かがあると思えるのだ。今後、新たな発見が待たれる。

 圓通寺本堂は新しくなっている。本尊は「千手観音」。秘仏になっているが、前立の千手観音立像を拝観することができる。本堂の左脇には「高慶大師立像」と「高慶大師入定記」の石碑が建っている。

Photo_5 さらに右横には天保9年(1838)10月に第38世住職慈妙によって建立された「高慶大師定崛(ジャウタツ)之碑」がある。慈妙は江戸末期に誤って出火し、堂宇宝塔や古文書を焼失した。そのため後世に高慶大師入定の事や慈覚大師、等海の中興のことなど「伝燈録」に書き残している。この文書に加えて、慈妙は高慶大師の業績を石碑に彫刻し、高慶大師定崛之碑として寺の境内に建立している。(「寺史照顧(圓通寺と中興)」より)。

 救海高慶大師が石室に籠り、その心境を書き綴った4枚の「入定記」の全文が石碑として展示建立しているには驚いた。Photo_7
 再三引用してきた「寺史照顧(圓通寺と中興)慈覚大師・等海法印・高慶大師」は先代の第45世住職、佐藤貞文氏が執筆している自家本となっている書だ。檀家や知人に配布した本で絶版となっている。しかし栃木市図書館で閲覧借りて読むことができる。単に圓通寺の歴史を記述しただけではなく、即身成仏への修業の世界をも著している書だ。

  同書には4枚の「入定記」の全文の記載と読解が詳細に記述されている。第1紙は27日目、第2紙は47日目、第3紙は57日目、第4紙は67日目と4枚ある入定記。佐藤貞文氏は「この入定記4枚は、和紙に毛筆で墨書したものです。書かれてから約600年がたちますが、文字はしっかりとしていて、判然と読むことができます。一字一字に崇高な気魄が感じられ、行者救海の心が伝わってくるようです。石窟内で禅定7週間にわたる断食修行中の日記です。」と感極まって記述している。

  祈願念じる世界は主観の世界になってしまう。断食修行の先に即身成仏となって甦る。自分には到底及びつかない世界だと思える。しかし、乱世の中で困窮した民衆を救う祈願の心は受け止めていく必要がある。それにしても慈覚大は有名だが高慶大師の名前はあまり知られていない。栃木市の三大上人は慈覚大師、日光開山の勝道上人、真言宗智山派総本山智積院開山の玄宥と云われている。高慶大師は入っていない。今後見直しがされる時期が来ると思える。

                                   《夢野銀次》

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深澤家土蔵から甦る「五日市憲法草案」

Photo   立川駅から青梅線に乗り換え、拝島駅でさらに五日市線に乗り換えて武蔵五日市駅に下車した。駅の北側には「都指定史跡深澤家屋敷跡3100m」と記載された案内表示板が建てられてあった。途中の案内表示板で確認をしながら西多摩の山あいの道を歩いて45分。「五日市憲法草案」が発見された土蔵のある深澤家跡地に着いた。以前「五日市憲法見学会バスツアー」で参加した際には、34人乗りバスでは深澤家跡地には行けないと地元の解説者にいわれ、深澤家土蔵を見ることが中止となった。

  「土蔵を見ないことには」その想いで駅から歩いて来たのだ。「途中の穴澤天神社までならバスで来ることができる。そこから20分歩けば深澤家跡に来ることができたな」と感じた。栃木駅を朝の7時33分に立ち、午前11時35分到着、4時間かかった。それでも深沢川をながれる山峡の深沢集落の家々は静かな佇まいをしていた。いくつかの家の軒先には懐かしい「まき束」が積まれていた。暖房に使うのかなと思えた。深澤家跡地は山道の一番奥、行き止まり所にあった。

File00561  昭和43年(1968)8月27日に東京経済大学教授色川大吉とゼミ生徒達によって朽ちかけた土蔵の扉が開けられた。土蔵の中の二階にあった箪笥や行季(こうり)、長持ちなどの中から古文書1万点が発見された。「日本帝国憲法 陸陽仙台千葉卓三郎草」と毛筆で書かれた24枚の和紙は行李の中に古びた小さな風呂敷包まれていた。発見した色川ゼミグループはこの草案を「五日市憲法草案」と名付けた。草案作成者は千葉卓三郎であることも分かった。86年間、土蔵の中で眠っていたこの「五日市憲法草案」は私擬憲法として高い評価を受けている。

  発見された昭和43年という年は明治100年祭を政府はうたっていたが、沖縄返還をめぐり10月、11月には佐藤訪米阻止闘争が羽田事件で激化し拡大を始めた年である。そして三派全学連から学園闘争としての全共闘運動に様変わりしてゆく年でもあった。

201204161329161 「五日市憲法草案は、人権の規定、平等権、教育を受ける権利と受けさせる義務、地方自治などで、今の憲法と同じかあるいはそれ以上に明確な考え方を憲法草案に書き込んでいる」と鈴木富雄著「今、五日市憲法草案が輝く」に記述され、内外に高い評価を受けている憲法草案と明記されている。

  起草者、無名の千葉卓三郎について発見した色川ゼミは追跡調査を行い明らかになった。千葉卓三郎が五日市小学校の前身の「勧能学校」の正式な教員になるため明治14年(1881)に書いた一枚の履歴書からだった。その行動の足跡は色川ゼミの一員として土蔵の中を調査した新井勝紘著「自由民権と近代社会」に詳細に書かれてある。しかし、ここでは日本思想史家の前田勉著「江戸の読書会 会読の思想史」より千葉卓三郎のプロフィールを引用させていただく。

01l0001000021_2  「千葉卓三郎(嘉永5年‐明治16年、1852‐1883)は仙台藩の下級武士の生まれで、12歳から17歳まで藩校養賢堂学頭副役であった大槻磐渓(おおつきばんけい)に学んだ。慶応4年(1868)の戊辰戦争(白河口の戦闘)で仙台藩として従軍したが敗退した(16歳だから白虎隊と同世代となる)。明治維新後は東京に出て、ロシア宣教師ニコライから洗礼を受けたり、安井息軒(やすいそっけん)に入門したり、精神的遍歴を重ねた。明治13年(1880)には五日市町の小学校である勧能学校に赴任し、翌年には千葉と同じく養賢堂で大槻磐渓と学んでいた仙台藩出身の永沼織之丞の後を受けて、勧能学校の校長になった」と記述されている。

  学問遍歴が深澤父子との出会いにつながる。そして学習民権結社「五日市学芸講談会」や「五日市学術討論会」に加わり、そこでの徹底した討論を経ることにより「五日市憲法草案」を起草することができた。地域の人が加わることにより「国会といえども地方自治に対して干渉妨害をしてはいけない」という地方自治権の条文が生まれている。中央集権化を目指す明治政府には考えられない条文でもあり、他の私擬憲法にもない特徴をもっている。2年後の明治16年(1883)11月12日に千葉卓三郎は31歳の若さで亡くなっている。上野谷中、天王寺のキリスト教共同墓地に埋葬された。現在は仙台市北山の資吹寺の千葉家の墓所に改葬されている。 

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  戊辰戦争において東北列藩同盟に加わった戦士は賊軍の汚名を着せられた。明治維新後の明治を生きていくための辛苦の人生でもあった。

 深澤家は江戸中期から育成林業を家業として始め、秋川舟運、筏で多摩材、炭を江戸に供給することにより近在に聞こえる財をなしてきた。天保年間には深沢村名主となり村政を行い、幕末には千人株を購入しているが、支配領主本多氏は幕府の戦費増加からの財政窮乏となり、度重なる金銭の要求に対して「いい加減にしろよ」不信感が募っていった。深沢名生(なおまる)の時に明治元年に清水姓から地名の深澤を名乗った。

 Yjimagecaf97wsb  明治5年ころより地租改正(年貢納入から金銭での納税)の重税、教育費負担増、徴兵制、市町村合併などの負担や怒りが行政に対して広がり始めてきた。深沢村名主深澤名生(なおまる)の長男として文久元年(1861)に生まれた権八は大区小区制の時に村用掛(今なら村長)に15歳でなる。急激な時代の変化を読み取ろうとしたのか、勉強家だった深澤権八は膨大な書籍を購入していく。さらに勧能学校を通して千葉卓三郎と出会いがあった。千葉卓三郎の学識を深く敬愛すると共に彼の憲法研究におしげもなく資金をつぎ込む。憲法起草において権八は五日市学芸講談会の中心となって数多くの「討論メモ」を残すなど「五日市憲法草案」起草作業に積極的に参加していることが明らかになっている。

  深澤権八は明治23年(1890)12月に29歳の若さで亡くなっている。父の名生も2年後の明治25年(1892)8月に権八の後を追うように世を去って行った。

Pb190081_2    色川大吉著「自由民権」(岩波新書)によれば、当時の五日市地方には深澤父子の他に大山地主の内山安兵衛や町長の馬場勘左衛門や土屋常七などそうそうたる平民民権がいて、国会開設運動から貧民救助事業にいたるまでの多彩な住民運動をくり広げていたことが記述されている。そして、色川氏は強調している。「彼らの革命精神が必ずしもミルやスペンサーの舶来の近代主義からのみ来たものではなく、百姓一揆の指導者や維新期の革命家たち、大塩平八郎や高野長英、吉田松陰や雲井竜雄ら刑死者の意志を継いでいたこと」と記述し、「維新革命を実現するために権力と闘って処刑されたかれらの伝統型革命家の延長線上に、明治の民権の姿を認めることができる」と指摘している。「外来思想だけではなく、伝統の中から革新性をひきだし、新しい西欧近代の知識をみがきをかけるという発想様式は、現代の私たちが彼らから学ばねばならない」と江戸期から明治前期にいたる思想潮流の視点を提示している。「五日市憲法草案」はこうした土着の考えに裏付けされて作成されていると改めて感じる。

 
11062206232_4  昨年(平成24年)出版された前田勉著「江戸の読書会 会読の思想史」を読んだ。「会読」という江戸期まであった学習方法を初めて知ることができた。前から分からなかった「適塾」や「松下村塾」で行なっていた学習方法。数多くの幕末の歴史小説には書かれていない内容がこの書には記述されていた。

  江戸期まであった学習方法としての「会読」を通して「幕末志士の遊学」から「明治民権運動の学習結社」を結びつけて、近代国家の成立する思想史の潮流を著している優れた書物だ。著者の前田氏は同書で五日市憲法草案条文の中に会読の三つの原理(相互コミュニケーション、対等性、結社性)が「討論演説(51条)」「平等(47条)」「結社集会(58条)」として国民の権利として盛り込まれていると指摘している。このことから「会読」そのものが条文作成の支えになっていることを説いている。江戸から明治へと土着の精神が結合しているといえる。

 Photo  深澤家土蔵に埋もれていた「五日市憲法草案」の発見は小田急電鉄創業者、利光鶴松の「手記」がきっかけとなっている説がある。発見者の色川大吉氏は「新編明治精神史」の冒頭に「私と学生たちは武蔵五日市駅から渓流にそって山道を4㌔ほどのぼった文字通り深い沢の村に入りこんだ。戸数2、30戸ほどの深沢部落。だが、そこには『あかず蔵』があり、万巻の書が眠っているかもしれないということを、私はある人の証言を読んで知っていた。かつては名主邸を誇っていた深沢家も、今ではまるで廃墟で、たったひとつ半壊の土蔵が残っているにすぎなかった」と記述している。山峡に佇む深澤家跡地とその周辺を著している名文だ。当初は土蔵に眠るだろう多数の書籍を調査することが目的で「五日市憲法草案」の発見は偶然だったということだ。
41bbp916xwl_ss500_1_2 「私はある人の証言を読んで」と色川氏は名前を記述していない。昭和32年に小田急電鉄は創業者「利光鶴松翁手記」を公刊している。栃木県立図書館にて拝読してきた。

  利光鶴松は文久3年(1863)12月31日大分県に生まれ、明治17年(1884)2月に乞食のような姿で上京する。同年9月に五日市町勧能学校の教員を務め、深澤家に寄宿するなど3年間五日市町で過ごす。明治19年(1886)4月に代言人(弁護士)を目指し、明治法律学校(明治大学)に入学のため五日市町を離れる。五日市で過ごしたその3年間を手記の中で記述している。勧能学校については「関東自由党の本場なり」「勧能学校は公立小学校なれども全国浪人引受所」と全国から民権活動家が集まっていたことを書いている。深澤家については「深澤権八氏は五日市地方の豪農にて、頗(すこぶ)る篤学の人なり、凡そ東京にて出版する新刊の書籍は悉(ことごと)く之を講求して書庫に蔵し居たり。氏は予に対して、氏の蔵書は好むに任せて、之を読むの絶対自由を与えられ、予は読むべき書籍は曾て不自由を感じたることなし」と深澤家において蔵書をなに不自由なく読み勉学することができたと記述している。

Photo_2  漢学中心の学問から利光鶴松は深澤家土蔵にある翻訳書を悉く読むことにより、法律、政治学に自信を深めていった。そして明治法律学校(明治大学)に進み弁護士となり神田で弁護士事務所を開設する。顧問先となったのは深川の材木問屋だった。材木供給業者の五日市町深澤名生の紹介で多くの顧問先を獲得できたことを手記に書いている。さらに材木問屋のある深川・本所を基盤に東京府議会議員、衆議院議員と政界入りした後は実業家として名を成すことができた。それも五日市町に来て、深澤名生・権八父子との出会いがあったからだといえる。

Photo  戊辰戦争から明治20年にかけて、時代に翻弄されながらも業績を残していった人や時代に向き合って倒れていった草莽の人々がたくさんいる。五日市町深澤名生・権八父子との出会いにより実業家として名を成した利光鶴松がいる。逆に無名だった千葉卓三郎のように歴史の潮流から浮かびあがってきた人もいる。いや、開かずの朽ちかけた土蔵の中から「五日市憲法草案」を現代に甦らせた色川大吉ゼミグループの努力と歴史への研究成果こそが大きいと言うべきだ。

  晩秋の五日市町にある深沢集落。集落入口の山道には深澤名生の父清水茂平が神官を務めた穴澤天神社が鎮座している。境内に道祖神とその右側には「芭蕉の句碑」があることを自宅に帰ってきて知った。その句碑は「山路来て何やら床(ゆ)かし菫(すみれ)草」(芭蕉、野ざらし紀行)。山峡の深沢村に「とぼとぼと歩いてよくいらっしゃいましたね」と出迎えてくれたようだった。

                            《夢野銀次》

 

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