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高慶大師入定地「太平山真野入り谷(入定平)」と圓通寺

Photo  栃木市に住んでいながら「太平山」について混沌として分からない所がある。明治維新の廃仏分離令で自分の頭の中で混乱しているからだ。栃木明徳会百年誌「とちぎ神田のこと」の中で太平山の記述がある。

 「太平山山頂近くにある太平山神社は、天長4年(827)慈覚大師円仁により創建されたといわれ、明治維新までは三光神社太平山大権現と称し、本地は虚空菩薩、別当寺は連祥院般若寺でした。明治維新の神仏分離令により、仏閣、堂宇、別当所などはことごとく廃されて神祇に復した後、明治9年(1876)に拝殿、同年14年(1881)にも本殿が造営された」と説明されている。

Photo 太平山神社に参拝の際に宮司より「正式な名は三光神社太平山大権現というのですよ」と教えられたことがある。「神」や「仏」が仮の姿で現している神号のことを「権現」という。神仏混合としての「権現」という呼び名は明治政府の政策(神仏分離令)で一旦は廃止されている。どうもこのあたりが自分にとって混乱している所だ。神社のみの名称自体が新しいのだ。むしろ慈覚大師が開いた連祥院般若寺が、今の「あじさい坂」入口に建つ六角堂こそ太平山神社の本尊の一つだったということになる。だが、どうもしっくりいかない。太平山自体を見ていくつもりとする。

Photo_3    この古代より信仰の篤い「霊峰太平山」に慈覚大師円仁は連祥院般若寺、圓通寺、太山寺の三寺院を建立している。その一つの圓通寺の跡地には「圓通寺平」の事跡の石塔が建っている。太平山表参道(あじさい坂)に向い国学院栃木高校入口前の右側、遊覧道路に続く山道を登った所にある。

  圓通寺は天長2年(825)に創建され、敷地は遊覧道路大曲駐車場まであった云われている。平安・鎌倉を時代には天台宗密教修業の霊場、山伏修験の道場として発展した。しかし、南北朝の争乱期に衰退したが、比叡山より等海法印が来山し寺門復興を尽くし、圓通寺中興第一世とされている。戦乱の京都より優れた等海を下野に招いたことは圓通寺の名声を高めたことになった。

Photo  等海のあとを継いだのが中興第二世救海(ぐかい)、諡号は高慶(こうけい)大師であった。佐藤貞文著「寺史照顧(圓通寺開山と中興)」によれば「救海は南北朝の正平19年(1364)上都賀郡真名子村の名主出井家に生まれ、幼名は出井仁三郎と称した。永徳2年(1382)の小山義政の乱において父親が戦死して圓通寺の仏門に入り、等海の弟子となり、名を救海と改めた。救海は先師、等海より口伝法門の学問伝授と寺院経営を委託され、伝法と教化に力を注いだ」と記述されている。

  その救海高慶大師が53歳の時、応永23年(1416)3月11日に即身成仏を志し、石室に入って食を絶ち49日を以って入定した。この時の心情を記述した「入定記」4枚が圓通寺に保存されている。

Photo_12  入定地は圓通寺平の北の尾根の谷、真野入りの谷と云われている。現在は「入定平」と案内版で称されている。

  64段の狭く急な斜面の石段を降りた所に入定した石室跡地がある。北側の谷地にあるせいか、陽の射し具合なのか、なんとも不気味な雰囲気が漂う谷地だ。救海が籠った石室は崩れて見ることはできないが、数本の墓石が建っている。右端には高さ2メートル以上ある石碑「高慶大師讃徳碑」が建っている。昭和29年4月に地元の有志によって建てられた。石碑の中には行脚僧との問答の口承が彫刻されている。

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  石室に籠った救海高慶大師に行脚僧は「入るならば虚空の定に入りもせで 心せまげの真野入りかな」とさげすんで詠えば、高慶大師は「真野入りせましと言ふは迷いかな 定のうちうぞ虚空なり」 と返歌をしている。
 石室に籠って28日目に書かれた「入定記」第一紙には「石室狭く候へども、虚空の如く也。浄名方丈の室に十万の諸仏来集し、たがわず候也」と記述されている。佐藤貞文著「寺史照顧(圓通寺と中興)」の中で「最も苦しい中で釈迦と阿弥陀を観仏した狭い石室はまるで大宇宙を含む虚空のようで、娑婆の苦痛も消えて如来の浄土に遊ぶ大安楽の心境を表白している」と読解している。まさに想念の一筋の念ずる世界なのかと思える。

Photo_2   民衆の救済のため即身仏を目指す。その目的とは? 飢饉、天災、疫病などにより、飢え苦しみ、恐れおののく人々を救うために、この世の苦悩を一身に背負い、石室に籠る。そして最後には己の身に引換えに衆生救済を一心に祈願しながら入定をして念仏往生する。又は釈迦が入滅した五十六億七千万後に釈迦の救いに漏れた人々を救いに弥勒菩薩が下生するとの弥勒信仰説とがあるという。弥勒菩薩の到来を待ち、入定して身心を保ち、弥勒菩薩の手助けをしようと考える仏教的な救世主信仰により、即身仏になることを目指す考え方だ。「甦る」という考えがあるような思える。

 現在ではこの「即身仏」の修行は法律で禁じられている。自殺幇助罪となるからだ。

Photo_5  栃木市城内2丁目にある現在の圓通寺。山門脇には「前方後円墳」の史跡がある。平成25年9月に国学院栃木短期大學が発掘調査を行い「埴輪」が発掘された報道されている。田村町にある下野国府へと続く東山道が近くを通っていた。古代下野の豪族の跡として調査は今後も続けられる。

 15世紀後半に南会津長沼氏が皆川の地に移住してきて皆川氏を名乗る。永禄7年(1564)に小山氏攻略として小田原北条氏は皆川俊宗に小山氏の支城である榎本城攻略を命じ、榎本城攻城戦がある。その前年の永禄6年(1563)に皆川俊宗は佐野・宇都宮氏と結んだとされる川連氏の居城、川連城(栃木市大平町川連)を攻略し、榎本城を攻める態勢を作った。この永禄6年に俊宗は圓通寺を太平山圓通寺平から川連に移動させている。川連のどの地域なのかは不明だが、宗教を通しての地域支配もあったことが伺える。

Photo_2 俊宗の後を継いだ皆川広照は、天正7年(1579)栃木城築城の計画のもとに、圓通寺を川連から現在の栃木市城内2丁目の地に移し、その北接に栃木城を築いた(栃木市史より)。

 「太平山内にある三寺院の中でどうして圓通寺だけが皆川氏によって、大平町川連から栃木市城内に移動させられたのか?」と疑問が残っていた。栃木市史の中で執筆した日向野徳久氏は「太平山にあった頃、戦国武将皆川氏は、圓通寺を城の一つとして利用していたのかも知れない。圓通寺平からは、遠く小山方面まで指呼の間に見ることができる」と記述している。意外と近い距離にある小山氏を見ることができる圓通寺平。栃木城は対小山氏を想定して築城している。城の一つとしての圓通寺ならば、栃木城の一角としての移動であることが頷ける見解だ。

Photo_9 「前方後円墳の先は土塁ですよ。土塁は栃木城につながり、圓通寺を通ってうずまに川に続いていたと云われています」と圓通寺の住職は語ってくれた。山門両脇には土塁の跡地と見える。対小山氏を見据えての栃木城の前方郭となっているのが圓通寺敷地だと改めて分かる。皆川氏と圓通寺との繋がりは、天台宗比叡山を含めて何かがあると思えるのだ。今後、新たな発見が待たれる。

 圓通寺本堂は新しくなっている。本尊は「千手観音」。秘仏になっているが、前立の千手観音立像を拝観することができる。本堂の左脇には「高慶大師立像」と「高慶大師入定記」の石碑が建っている。

Photo_5 さらに右横には天保9年(1838)10月に第38世住職慈妙によって建立された「高慶大師定崛(ジャウタツ)之碑」がある。慈妙は江戸末期に誤って出火し、堂宇宝塔や古文書を焼失した。そのため後世に高慶大師入定の事や慈覚大師、等海の中興のことなど「伝燈録」に書き残している。この文書に加えて、慈妙は高慶大師の業績を石碑に彫刻し、高慶大師定崛之碑として寺の境内に建立している。(「寺史照顧(圓通寺と中興)」より)。

 救海高慶大師が石室に籠り、その心境を書き綴った4枚の「入定記」の全文が石碑として展示建立しているには驚いた。Photo_7
 再三引用してきた「寺史照顧(圓通寺と中興)慈覚大師・等海法印・高慶大師」は先代の第45世住職、佐藤貞文氏が執筆している自家本となっている書だ。檀家や知人に配布した本で絶版となっている。しかし栃木市図書館で閲覧借りて読むことができる。単に圓通寺の歴史を記述しただけではなく、即身成仏への修業の世界をも著している書だ。

  同書には4枚の「入定記」の全文の記載と読解が詳細に記述されている。第1紙は27日目、第2紙は47日目、第3紙は57日目、第4紙は67日目と4枚ある入定記。佐藤貞文氏は「この入定記4枚は、和紙に毛筆で墨書したものです。書かれてから約600年がたちますが、文字はしっかりとしていて、判然と読むことができます。一字一字に崇高な気魄が感じられ、行者救海の心が伝わってくるようです。石窟内で禅定7週間にわたる断食修行中の日記です。」と感極まって記述している。

  祈願念じる世界は主観の世界になってしまう。断食修行の先に即身成仏となって甦る。自分には到底及びつかない世界だと思える。しかし、乱世の中で困窮した民衆を救う祈願の心は受け止めていく必要がある。それにしても慈覚大は有名だが高慶大師の名前はあまり知られていない。栃木市の三大上人は慈覚大師、日光開山の勝道上人、真言宗智山派総本山智積院開山の玄宥と云われている。高慶大師は入っていない。今後見直しがされる時期が来ると思える。

                                   《夢野銀次》

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