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神木・霊石の中に鎮座する「鹿島神宮」

Photo_2 鬱蒼と覆われた樹木の森の中に鹿島神宮は鎮座している。70ヘクタール(約21万坪、東京ドーム15個分)を誇る広大な森は「鹿島神宮樹叢(じゅそう)」と言われている。杉をはじめタブノキ、クスノキなど老樹木がそそり立っている。

 「どのくらいの樹木が生育いているの?」と尋ねると案内のガイドさんも、「600種類と言われているが樹木の本数は分からないですね」と答えてきた。皇紀元年(紀元前660年)創建された鹿島神宮はそれだけ深い森と一体になっている神社だと感じた。平成26年、新年早々の1月8日に栃木県シルバー大学南校のOB・健康クラブバスツアーで初めて鹿島神宮を参拝してきた。鹿島神宮では現地観光ボランティアのガイドを受けての参拝と境内の散策だった。 

Photo_28  3度の温度差があるという境内に入るとひんやりとした冷気が漂い、より以上の寒さを感じた。まず仮殿、拝殿の参拝を行なう。

  鹿島神宮は香取神宮と並び朝廷から崇敬されてきた神宮だ。その背景には藤原氏を中心としたヤマト政権における蝦夷制覇に向けての軍事的拠点でもあったからだと思える。

 古地図を見ると鹿島神宮一帯は内海と太平洋に挟まれた台地になっている。古代関東平野の北にある上野・下野・常陸の山々から流れる大河は常総・下総の平野に達して湿地帯を形作り、太平洋へと続いていく。流れくる大河によって関東東部には現在の霞ヶ浦(西浦・北浦)・印旛沼・手賀沼を含む一帯に香取海という内海が広がり作られていた。この香取海は北の蝦夷進出の輸送基地として機能したとみられている。東海沿岸部からの回漕や東山道・東海道から陸送された物資は香取海を通して鹿島・香取神宮に運ばれ、北に向けて軍事上・交通上の重要な位置を占めていたからだ。

Photo 鹿島神宮の御祭神は武甕槌大神(たけみかつちのおおかみ)、近くのペアでもある香取神宮の御祭神は経津主大神(ふつぬしのおおかみ)でいずれも出雲の国譲りに登場する軍神である。軍神を祀ることはヤマト政権の姿勢でもあった。

 鹿島神宮の本殿は北を向いて建てられている。北方、蝦夷への進出に向けて配置されていることを現しているからだ。さらに律令国家時代には常陸国鹿島郡として郡全体を神領として有すなどヤマト政権の軍事上重要な位置を示し、国家の厚い庇護を受けていた。さらに、この地で生まれたという中臣鎌足は鹿島神宮を氏神として春日神社を建立して、藤原氏との厚い関係となっている。

Photo_15 武人の神としても鎌倉・江戸期には武家によって祀られてきている。桜門は徳川水戸藩祖の頼房公によって寛永11年(1634)に奉納されている。当初は白木の門が何時の時代からなのか朱色の門になっているとガイドさんからの説明があった。朱色の門は徳川将軍を迎える門であることをも意味している。

 本殿は元和5年(1619)に二代将軍徳川秀忠によって奉納建立しされている。国の重要文化財となっている。正月用のテントでよく見ることができなかったが、わずかに社殿や茅葺の屋根を見ることができた。あざやかな極彩色豊かな華麗な容姿していたのが目に残った。 

Photo_16  本殿の後ろには樹齢1200年の杉の大木が神木としてそそり立っている。さらには拝殿の前にも高くそびえる樹齢600年以上の杉の木が立っていた。この杉の木の真ん中には「しいの木」が宿っている。杉の木を伝わって、しい木が根本まで続く。杉の木としいの木がそびえている。大変めずらしい樹木だと思い眺めた。

 拝殿から奥参道を歩き奥宮に向かう。この奥参道では5月に「流鏑馬神事」を行なっている。

 Photo_2
  奥
参道の左側が見物席となり流鏑馬が走る。右側の参道の土は盛り上がっている。馬が走りやすい状態を作るため盛り土を施すからだ。ガイドさんから流鏑馬神事の写真を見せてもらったが、的が大きく見えた。豊作祈願の流鏑馬神事ではないかと思えた。武士の流鏑馬は的が小さいからだ。

Photo_17  奥宮は元の本殿で慶長10年(1605)に家康によって奉納建立されている重要文化財の社殿。秀忠が本殿奉納造営をすることにより、現在の地に遷っている。奥宮の社殿は地味な作りとなっている。家康の性分を現していると思える。

Photo_8  奥宮の参拝では二拝二拍手一拝の際に二拍手は音を立てないとされている。「うるさいからでしょ」とガイドさんは述べていた。因みに二拝は人間同士で頭を下げるが、神様にはそれ以上に敬意を示すことから二拝となる。二拍手は自分の願いを神様に伝え、一拝して自分のお祈りを終わるにあたり感謝の意味を込めるとされている。

  奥宮の社の裏側には本殿の下まで根の張った老齢の御神木・杉の老木が立っている。この樹木に寄り添い願いごとを行ない、力を授かるということが参拝者の習わしなっていると言う。さっそく参加者一同、御神木に寄り添い、願いごとを行ない、パワーを授かる。「両手を広げて御神木に抱きついて願いをする人もいますよ」とガイドさんが語ってくれた。 

Photo_20 今年に入ってから体に感じる震度2から3の地震が起こっている。千葉県東方沖周辺の「スロースリップ」とういう地殻変動によるとされている。先の東日本大震災では鹿島神宮の大鳥居が崩れた。平成26年の6月には石の鳥居から杉の木でできた高さ10.2mの大鳥居が完成する。身代わりに石の大鳥居は崩れたのか?

 地震を起こすのは「大なまず」。地表から抑えるのが「要石」として鹿島神宮の奥深い森の中にある。神は樹木や岩に宿る。神が鎮座する社ができる前は樹木や岩、とりわけ太陽がそそぐ岩にこそ神が宿るとされた「磐座(いわくら)」信仰。大地震を何とか抑えて欲しい。

Photo_4 中世の山城の本郭のそばにあった大きな岩石。鹿島神宮の「要石」は小さい。しかし、地下深くどのくらい埋まっているか分からない石とされている。香取神宮の要石の先端が凸状で鹿島神宮の要石の先端が凹状になっている。両神宮は下の台地で繋がっているのではないかと思える。この凹状の要石めがけて一円玉を投げて凹の中に入ったら願いは叶うと云う。早速一円玉を投げた。入らなかったです。

Photo_23 さらに境内には「さざれ石」が展示されていた。~さざれ石の巌(いわを)となりての「君が代」に詠われている「さざれ石」。歌詞のさざれ石は細かい石が長い年月を経ていく中で巌(いわお)となった状態を呼ばれている。

 石灰質の角礫岩(かくれきがん)と呼ばれる小さなさざれ石(石灰岩)が雨水で溶解して生じる粘着力の強い乳状液で、少しずつ小石を凝結して、固まってできる岩のことを言うそうだ。

  「何年もかけて大きな巌となるのかな」と思えた。君が代の君とは天皇ではなく我々日本人を指しているのではないだろうか? 一人一人の小さな繋がりが大きな力となる。そんな国歌「君が代」でありたいと願う。

Photo_25 「龍が水を飲み来ていると見えませんか」とガイドさんに言われ、確かに枝の張った松の木が龍の頭に見えてきた。

 東側にあるこの御手洗池はかつての鹿島神宮の参拝入口であった。船で東の香取海を航行して鹿島神宮に到着して参拝する際に禊を行なう池であった。現在でも大寒には池に入り大禊が行なわれている。男は褌一つで池に入水して禊を行なうという。白の襦袢を着て婦人も参加している。寒いが池からあがった時はぽかぽかしているだろう。

 ガイドさんの説明では池の手前が深く奥が浅く見える。逆から見ると今度は奥の水面が浅く、手前が深く見える。澄んだ池。霊水だ。

Photo_10 御手洗池に入る手前に芭蕉の句碑が建っていた。

 「此松の実生せし代や神の秋」

  貞享4年(1687)8月、芭蕉が鹿島神宮の「神前」で詠んだ句。「実生え」は実生(みしょう)のこと。種子から発芽し、生育した植物。近くには松の木がなかったような気がする。この句碑は明和3年(1766)に建てられたと云うから大変古い句碑となっている。

 句碑のそばには参拝者からの俳句の受け入れ小箱がある。3か月ごとに箱を開け、句を公表していると言う。俳句を詠む人、楽しいだろうな。

Photo_6 現在、地域にある神社には複数の神が祀られている。「当神社は00神社の00を合祀しています」と記載されている案内を見る。それがどうしてなのか分からなかった。あるブログから明治39年(1906)の神社合祀令のことを知った。そのブログには明治以前は集落ごとに大小さまざまな神社があり、それぞれに鎮守の森があった。しかし明治の神社合祀令で大きく減少した」と記述されていた。

 明治政府は神社合祀によって神社を行政村1つにつき1つだけ整理することにより、土着の信仰を国家神道に組み込むため行われたという。大正3 年(1914)までに20万の神社のうち7万社が取り壊された。同時にそこにあった鎮守の森は伐採された。一説には鎮守の森に立っているクスノキの大木から生まれる樟脳等の利権獲得などが目的だったという説がある。神が宿る鎮守の森は人的にさらに狭められていく。

 Photo_7 幕末、22歳の吉田松陰は嘉永4年(1851)の12月19日に水戸を訪れ、翌年嘉永5年(1852)正月19日まで滞在した。その間に水戸藩の会沢正志斎や豊田天功らと会談・交流し、活ける学問をしていった。「東北遊日記」では正月6日に吉田松陰は鹿島神宮を参拝し、2人の祠官に会っている。しかし松陰は「齷齪(あくせく)たる人物で話し合う者ではない」と切り捨てている。国防の見地から実地調査としての旅行と称しながら実質はその土地の人物と会談し学ぶことを目的とした旅だった。会談への厳しい姿勢を感じる。後に松下村塾で「新論」を教材としたことから会沢正史斎と中身について相当論議したことが伺える。水戸から長州へと攘夷思想は進んでいった。

 北への備えとしての「鹿島神宮」は後期水戸学の攘夷策に影響を与えたのか?検証していってみたい。次は水戸だなと境内を歩きながら思った。

 鹿島神宮の参道は堅く整然と続いている。森は鬱蒼として老樹木が立ち並び、原生林の奥は何も見えてこない。残念なことには3メートルの長刀が展示されている「宝物館」を観ることができなかったことだ。いずれ機会があったならば再度参拝をして、境内をゆっくり歩いていきたい。

                          《夢野銀次》

 

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