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島のアンコの黒髪を忘れないでね―島倉千代子

Photo_2 「神宮前のマンションを購入した時、『初めて自分でマンション買ったのよ』と嬉しそうに私に話してくれました。お世話になった人です」と島倉千代子の墓石の前で話してくれた男性がいた。その男性はほうきとちり取りを持参して墓石の掃除に来ていた。

 平成25年の11月8日に亡くなった島倉千代子のお墓は品川区にある東海寺大山墓地(品川区北品川4-11-1)にある。花で囲まれたピアノ型のお墓だ。墓地の崖下には東海道本線の電車が走っている。東海寺大山墓地は「沢庵和尚、賀茂真淵」のお墓があることで国の指定史跡になっている。生前島倉千代子は自身のブログで自分のお墓を「モニュメント」として紹介している。「ファンの皆さまを勇気づけられる何かを形にしたいと思ったんです。淋しい時、悲しい時、嬉しい時も、モニュメントに会いに来て下さいネ!きっと元気になりますヨ!」とつづっていた。

Photo_8 墓石正面には「こころ」と記され、戒名「寳しょう院千代歌愛大姉(ほうしょういんせんだいかわいだいし)」が刻まれている。墓石の背面には俗名「島倉千代子」と三人の子供の名前「島倉忍」が並んでいる。正面の左脇には「音の門」と刻まれた台座がある。

  一世を風靡した歌手がこの世を去る時、素晴らしい曲を残してくれる。美空ひばり「川の流れのように」。石原裕次郎「我が人生になし悔いなし」。そして島倉千代子には亡くなる3日前に自宅もマンションで「からたちの小径(こみち)」をレコーデイングした曲が残った。「私の部屋の中にスタジオができて、そこで私はできる限りの声で歌いました。自分の人生の最後に、2度と見られない風景を見せて頂きながら歌を入れられるって、こんな幸せはありませんでした。人生最後に素晴らしい時間をありがとうございました」と11月14日に執り行われた「島倉千代子葬儀」の際に青山葬儀場に島倉千代子のメッセージが流れた。

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   墓石に刻まれた「こころ」は何を語ろうとしているのだろうか? 「この世の花」「りんどう峠」「逢いたいなァあの人に」「からたち日記」など数々のヒット曲をだし歌手勝活動を続けてきた。しかし、華々しい歌手活動とは裏腹に離婚、保証人となったばかりに抱えた巨額な借金、乳がん手術、姉の入水自殺など苦難な人生を歩んだ。いつしか「泣き節お千代」と言われるようになっていた。しかし、幾多の苦難にもめげず「鳳仙花」「人生いろいろ」とヒット曲を飛ばし、借金返済を行ない、最後まで「懐メロ歌手」ではなく第一線で歌っていく歌手人生を歩んだ。

  昭和58年(19839)12月に出版した島倉千代子著「花のいのち」の中で結婚生活で胎児3人を堕していることや心を込めて歌うことの難しさを記述している。そして「騙され裏切られても、時がたてば憎しみは消えていく。子供の心があれば許すことができる」とし、「何のわだかまりもない子供の心を持てば、明日になれば、新しい遊びを見つけて夢中になるように、忘れることができるのです。これからも一生子供の心を持ち続けたいと思うのです」と島倉45歳の時に書いている。恨み節を一切言わなかったという人生を歩んだといえる。 

  女性セブン(平成25年11月28日号)では、産めなかった3人の子供に“忍(しのぶ)”と名付け片時も忘れることはなかったと記述されている。甥の行雄さんは「頼まれて忍って名前を彫った指輪を何本も作った」と記載されている。子供と一緒にお墓に入ったのだ。 

Photo1_2  昭和58年の自伝著書「花のいのち」で子供を堕ろしたことを公表したからなのか、翌年の昭和59年(1984)2月の「島倉千代子30周年記念パーティ」に突然美空ひばりが現れた。人のパーティーにはめったに参加しないというひばりが登場したことで会場は騒然としたと云う。田勢康弘著「島倉千代子という人生」の中で、美空ひばりがこの時のあいさつで「お千代さん、実印は人に渡さず、自分で持っていることよ。お千代にもさまざまなことがあったけど、私も母が亡くなっていろいろなことがわかったの。私たちは丈夫で長持ちしていきましょう。それが一番!」と述べたことを記述している。そして「島倉は涙が頬を伝いながらも、一言も聞き漏らすまいと聞いていた」と記述している。

 「YouTube」でずっと以前のこの場面を見ることができたが、その時のひばりの服装はパーティーに参加する服装ではなかったと記憶している。

 島倉千代子の葬儀で弔辞を行なった田勢康弘氏は「美空ひばりと島倉が心通うようになったのはこの瞬間からだ」と指摘を行ない、「動」のひばりと「静」の島倉の関係を説いている。さらに二人の声帯の違いから低音から高音にあがるひばりの唄声に対して高音から低音に抑えていく島倉千代子の唄声について分析をしている。ひばりが入院し、二人で病室で島倉千代子の好きな「鍋焼きうどん」を食べたことなども「島倉千代子という人生」の中で紹介記述されている。 ただ「美空ひばりにはすべてを仕切る母がいましたが、そういう人が島倉さんにはいなかった」とそばに信頼する人がいなかったことを「週刊新潮(11月21日号)」で述べている。

Photo_18 大山墓地の帰路には島倉千代子が生まれ育った北品川2丁目界隈を歩いた。疎開先で左腕47針を縫う大けがをした島倉千代子は暗い少女になっていた。北品川の家に戻り、その暗さは歌を歌うことで克服を歩み始めた。 

 「ひばりさんの歌が好きで、レコードを買ったり譜面を揃えました。アコーディオンを買い、家のすぐそばに荏原神社があって、そこの境内で歌ったり、目黒川の橋の上で大きな声で歌ったりしました」(花のいのちより)。

Photo_8 北品川の商店街の若者で結成していた「若旦那楽団」に島倉千代子は加わる。中学生の島倉千代子はアコーディオンを奏でながら「人気の歌姫」となり、「品川神社」で開いていた「のど自慢大会」に出場するようになる。そして昭和29年(1954)9月の「第5回コロムビア歌謡コンクール」に優勝し、翌年3月に16歳で「この世の花で」でデビューする。

Photo_20  山手通り「北品川2丁目交差点」、京急線高架線を通り過ぎですぐ右折する。狭い道だが目黒川にぶつかる。目黒川沿いを左に歩くと「荏原神社」がある。その先に旧東海道「品川橋」がある。左折して旧東海道沿いの新馬場商店街を歩いた。路地に入ってみると、そこは「路地裏」の家がぎっしり立ち並んでいる。昭和期の家並だ。東京にもまだ残っている昭和の匂いのする一画地帯だった。

  新馬場商店街を歩くと山手通り「聖跡公園」の交差点にでる。旧東海道品川宿本陣跡地の「聖跡公園」がある。このあたりで「旧東海道を歩く」グループの人たちを目にすることができた。旧街道を歩く旅は高齢者に人気がある。「東海寺大山墓地(沢庵和尚・賀茂真淵・島倉千代子のお墓)散策と旧東海道品川宿を歩く」というツアーの見出し文句が浮かんできた。面白い企画だなと思える。

E5b3b6e58089e58d83e4bba3e5ad90e38_2  「島倉千代子ショー」を観たのは今から13年前だ。会場は小平市民会館だった。オープニングでは白のウエディングドレスを着て「この世の花」を歌って登場した。62歳とは思えない声に力強さを感じた。

  そして圧巻は「東京だョおっ母さん」だった。真っ暗な中、スポットライトに浮かぶ島倉千代子が『ねぇ、おっ母さん、久しぶりにこうして手をつないでおっ母さんと一緒に東京見物できるなんて、ああ、とっても嬉しいわ。ほら、おっ母さん、見てごらんなさい。ここが宮城、二重橋よ』とそばにいるおっ母さんに語りかけるところから歌は始まる。会場はシーンと静まり返る。自分の涙腺が緩み始めた。 「歌は心が伴なわなければと言うことは容易です。一所懸命に真心こめて歌ったはずの歌が、お客様には白けたものに聞こえてしまうことだってあります。そこで、私はいっぺんつき放して、客観的に考えてその歌に入っていきます。そうすると、感情を抑えた形の歌になり、そうすることで抑えられた情感が湧きあがるのに気づきました」と45歳時の自伝著「花のいのち」で記述している。かつて古賀政男から感情を抑えて歌いなさいと指導を受けていた島倉千代子は歌の坪を得とくしたのだ。

Photo_5 《東京だョおっ母さん》(昭和32年) 

 野村俊夫作詞/船村徹作曲

♪久しぶりに 手をひいて 親子で歩ける 嬉しさに 小さい頃が 浮かんで来ますよ おっ母さん ここが ここが 二重橋 記念の写真を とりましょうね

♪やしかった 兄さんが 田舎の話を聞きたいと 桜の下で さぞかし待つだろう おっ母さん あれが あれが 九段坂 逢ったらなくでしょう 兄さんも

♪さあさ着いた 着きました 達者で永生き するように お参りしましょよ 観音様です おっ母さん ここが ここが 浅草よ お祭りみたいに 賑やかね

Photo_6  『ねぇおっ母さん、戦争で亡くなった兄さん、ここに眠っているのよ』『お兄ちゃん、お兄ちゃんが登って遊んだ庭の柿の木もそのままよ。見せてあげたいわ』

 原作には台詞は入っていない。島倉がコロンビア・トップと地方公演で回り、トップが母親、セーラー服の島倉が娘という役で芝居をしたとき台詞ができた。台詞はトップが作った。この台詞がなければ、歌の魅力は半減する。(田勢康弘著「島倉千代子という人生」より)。

 島倉千代子の歌う「東京だョおっ母さん」は亡くなった母が甦ってくる。初期のレコードをラジオで聞いたことがある。その時は若い娘が母を連れての東京見物の歌だと思えた。しかし、小平市民会館で生で聞いたこの歌は最初から涙だった。他の歌とは違うのだ。低音と高音がジワーと会場全体に鳴り響く。生で聞くことにより島倉千代子が描く歌の世界に引き込まれ、暗闇の空間に母の偶像が浮かんでくる。歌謡曲の域を超えている歌だ。亡くなった私のお袋が現れてくる歌だった。

Photo_7  学生時代、お袋は毎月、生活費を持参して栃木から上京してきた。東武日光線新栃木駅までに帰るには、渋谷から地下鉄銀座線で浅草にでる。浅草までお袋を送っていった。好きだった「こまどり姉妹」が唄う浅草観音様にも二人してお参りをした。本堂前の宝蔵門の所で露店の出店があった。磁石のネックレスや指輪を売る露店だった。お袋が「磁石はからだにいいのかね」と露店の親父に聞いているのを何故か憶えている。お袋は体があまり丈夫ではなかったからだ。地下鉄銀座線浅草駅から松屋にある東武線浅草駅に通じている天井の低い地下道がある。ここに来ると「駅の階段がきついんだ」とよくこぼして歩いていたお袋を思い出す。

  この東京だョおっ母さんは島倉千代子が「波止場だよおっ父つぁん」の曲を聴き、船村徹に直にお願いして作られた歌だ。それよりも35回も出場したNHK紅白歌合戦に一度もこの歌が歌われなかったことでも不思議なお話として有名なのだ。   

 212pxtokyo_no_hito_sayonara_poste_2 島倉千代子を初めて知ったのは東宝映画「東京の人さようなら」で島のアンコ姿とその歌声だった。当時はテレビはなく、映画で歌手を見ていた。大島の桟橋で見送るアンコ姿の島倉千代子。そしてバックには「東京の人さようなら」の透き通るようなきれいな歌声が流れた。そのシーンのアンコ姿が目に焼き付いている。「姉のような人」だと目に写った。

   昭和32年(1957)の作品だから、私が小学3年生だったということになる。この年に美空ひばりが主題歌を歌った日活作品「力道山物語怒涛の男」、ひばり三役の新東宝作品「雪之丞変化」の歌と映画が今でも子供心にわくわくして映画を観たことを記憶している。怒涛の男では母親の飯田蝶子が相撲部屋に入門した力道山と隅田川のほとりのベンチに腰かけて、隅田川を行き交うポンポン蒸気船を見ているシーンが残っている。いずれ大きくなった母子で相撲見物したいなあと思ったりした。実現しなかったことを悔やんでいる。

《東京の人さようなら》(昭和32年)

   石本美由紀作詞/竹岡信幸作曲

♪海は夕焼け 港は小焼け 涙まじりの 汽笛がひびく 

   アンコ椿の恋の花 風も吹かぬに 泣いてちる 東京の人よ  さようなら

♪君の情けに 咲く花ならば 君と別れりゃ 涙の花よ

 島のアンコの黒髪を 忘れないでね また来てね 東京の人よ  さようなら

♪岬廻って 消えゆく船を 泣いて見送る 日暮れの波止場 

   アンコ椿の花びらに にじむ狭霧よ かなしみよ 東京の人よ さようなら

Ent13110816430010p121_4 「四十九日を先日行いました。借金はありませんでした」と島倉千代子のお墓にいた男性は言いながらも、「あまり喋ることのできないことが多いんですよ」と黙した。お墓の台座には門の音と記されていた。細木数子との関係を記述した週刊新潮11月21日号では「門と音で闇となる」と結んでいる。

  島倉千代子追悼番組の中で「からたちの小径」に関わる放送の中で、南こうせつ日比谷野音コンサートの舞台の上で腰を掛けている島倉千代子が映し出されていた。ジーンズとジャンバー姿の地味な服装でにこにこして南こうせつの歌を聴いている。本当に質素な生活だったのだと思えた。自宅マンションのある神宮前は原宿だ。若者の街で時代の流行を発信していく街でもある。原宿の街から代々木公園を島倉千代子がよく散歩をしていたと云う。地味な服装の島倉千代子に誰も気が付かない。そういう私も勤め先へは原宿駅を使用していた。ひょとしたらすれ違っていたのかもしれない。

  文化とは人の心に感動を与えるものだといわれている。人の心を動かすもの。島倉千代子の歌の中にはまぎれもなく、それがある。墓地に書かれている「こころ」は自分の歌を聴いて喜び、悲しみ、感動した人との心の結びつきをメッセージとして残していると思えてきた。

 「島のアンコの黒髪を忘れないでね また来てね」と歌う島倉千代子は大人になれない少女のような気がしてきた。

          ―合掌―

                                 《夢野銀次》

(引用・参考資料)

島倉千代子著「花のいのち」(みき書房・昭和58年)/田勢康弘著「島倉千代子という人生」(新潮社・1999年、平成11年)/齋藤秀隆著「東京だョおっ母さん‐野村俊夫物語」(歴史春秋出版社・2005年、平成17年)/「週刊新潮・2013年、平成25年11月21日号」/「船村徹の世界」(下野新聞社・1997年、平成9年)

 

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