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2014年3月

栃木町の神明宮と東宮神社―湧水と大相撲板番付表

Photo 栃木市総鎮守の神明宮。自分は子供のころから神明さんと呼んでいる。旭町にある神明宮本殿の裏側(東側)に湧水があったのだ。今まで知らなかった。「水温は夏・冬でも16°Cと変わらないんですよ。第二公園の池の噴水の動力でこの湧水も汲み上げられてるのです。もちろん地下水ですよ」と神明宮の宮司が応えてくれた。「去年からこのお堀沿いにホタルを飛ばすことを挑戦中なんです」とにこやかに語ってくれた。

Photo_3 「神明さんの社は以前は南を向いて建てられていたのですね」と訊ねると「明治16年に本殿を建造する際に現在の西向きに建てられたのです」。ずーと西向きの社と思っていたので意外に感じた。本殿建立者の協力者の名前が明治16年という年号と共に刻まれている石碑が湧水のそばに建っている。注意しないと見逃すほどの小さな石碑でもある。万町、倭町など町名の次に人名が刻まれている。知っている人の名前は見当たらなかった…。

Photo_2 湧き水は第二公園の噴水池に注いでいる。この堀にホタルが飛び交う光景を目に浮かべると楽しくなる。

 土地の古老曰く「戦争中、栃木の町では防空壕を作ることができなかったんだ。掘るとすぐ地下水が湧きでてきたからな」と。

 栃木の町のある地帯は大昔、思川が濁流となって流れていたと思える。そのことを人に話すと笑われるけど。思川の名残が地下に流れ、湧水となって現れてくる。市内に数多くあった共同井戸、うずま川の源流の「しめじが原」、大町にある大杉神社の湧水、日ノ出町にある杢冷川の水源や大正元年創業の老舗の割烹料亭「壬子倶楽部(じんしくらぶ)」の池など今なを湧水は現存している。

 0051  「このあたりは沼地から湿地帯に変わった地帯とされている」と和田鎮一著「神明宮と黒宮家」(平成2年9月発行)の書に記述されている。同書には明治5年作成神明宮境内の古地図が添付されている。南向きの社の裏側には大きな池が描かれているなど現在の位置と見比べると面白い資料となる。この「神明宮と黒宮家」の書は17代目の黒宮淳元の依頼によって執筆されたと著者は記述している。

 初代黒宮兵部から14代目の黒宮織江まで神明宮の宮司を務め、現在の神山家に代わっている。応永10年(1403)に伊勢神宮信仰の影響により黒宮兵部によって伊勢神宮から栃木神田町に遷宮してきた。どうして由緒ある伊勢神宮が地方の無名の栃木の町に遷宮できたのか?と著者は問いかけている。当時の領主との関係など明らかになっていない点を指摘している。

 黒宮家は藤原北家、摂政関白藤原師実の孫忠親を祖とした中山家の子孫とされている。その子孫の黒宮家は伊勢神宮の祭祀に加わり、栃木への遷宮に際して神主として栃木に移住してきた。明治期の14代目の黒宮織江をもって神明宮の宮司を現在の神山家に代わっている。この黒宮織江は戊辰戦争のおり、壬生町雄琴神社の黒川豊麿によって結成された「利鎌隊」に参加していると紹介されている。いずれ「利鎌隊」についてブログに書きたいと思っている。この書は明治初期の栃木町の戸数や人口なども記述され、参考資料として価値ある書物だ。栃木図書館で同書を借りることができる。

Photo  天正17年(1589)に皆川広照によって神明宮は現在の旭町に移転する。神田町の跡地には東宮神社が建立され、小さな祠が建っている。皆川広照によってすぐそばの城内町に築城した栃木城。この栃木城の東北に新しく建立された東宮神社が位置する。城の鬼門にあたる。さらにこの地は小高い丘となっていることから、壬生氏に対する栃木城の郭の役割を果たす意味があったと思える。栃木の町づくりのため神明宮の移転を中心に考えていたが、現在の東宮神社の位置と役割を考えると皆川広照の築城の考えが浮かんできて興味深い。さらに天正年間の栃木の市街はうずま川周辺の湿地帯であり人家はなく、わずかにうずま川の西側、太平山麓とこの神田町周辺だったと伝われている。いずれもうずま川より高台となっていた所に人家があったということだ。

Photo_7 かつて神明宮が神田町にあった時、遠方から小高い丘に建っている社の屋根を見ることができた。社に架かる伊勢神宮同様の千木が十本あることから「杤木」という地名がおこったと今なお語られている。しかし、栃木市史などでこの説は日向野徳久氏によって否定されている。橡の木の橡木という地名が鎌倉時代にすでに表れているからだ。

 境内には本殿と右側に小さな祠と神明宮と東宮神社の合併記念碑、「天照皇太神御寳前」と書かれた石碑が建っている。社の裏側には「十九夜供養塔」が建立されている。境内の横の道をはさんでお世話になった「栃木県シルバー大学南校」の校舎が建っている。脇には杢冷川に分流が流れている。東武日光線の踏切を電車がゴーと通過して行った。

Photo_8 現在の旭町にある神明宮の拝殿は明治8年(1875)に造られた中教院講堂の建物で時代の重さを感じる。中教院は地方において神官や僧など教導職の任命や昇級試験を実施した機関とされている。県庁所在地に中教院が置かれた。明治17年まで栃木県庁が栃木の町にあっが故に置かれた機関の名残だ。拝殿前には文化14年(1817)に建立された「金毘羅大権現の常夜燈」が建立されている。かつてうずま川舟運で栄えた栃木の町の歴史を物語る貴重な遺跡だ。

Img_7853_s1_2  平成24年(2012)に「栃木の在村記録 幕末維新期の胎動と展開 岡田嘉右衛門親之日記」が栃木市教育委員会で発行されている。慶長17年(1612)に奉行より正式に認められた「嘉右衛門新田」。以来、代々岡田嘉右衛門を名乗り現在にきている。歴代の嘉右衛門の中で嘉右衛門新田名主としての岡田親之の日記を田中正弘国学院大学栃木短期大學教授によって翻刻(ほんこく)されている書物だ。

  第1巻の書は幕末、天保15年・弘化元年(1844)から安政6年(1859)までの日記が記載されている。江戸の政治や対外情報、例幣使街道を通行する日光例幣使や参詣する諸大名、安政の大地震による栃木町の様子、地頭畠山家の動静とその家臣団の人事や財政事情、冠婚葬祭の儀礼や贈答、お伊勢参りなどの参詣、相撲興行、人々の迷信やはしかなど病気の流行、栃木町から江戸に出府する行程など余すことなく日記として書かれ、幕末の栃木の町を知る貴重な史料書だ。島崎藤村の「夜明け前」と大変類似している。同じ名主という立場なのかもしれないが、小説ではなく日記として当時の生活をリアルに読めるのがうれしい。

Photo_4  神明宮拝殿内に10枚の大相撲板番付表が飾られている。宮司の好意で拝見することができた。「栃木山」と書かれたしこ名が読めた。昭和29年に境内で行われた出羽一門による栃木山供養大相撲。砂被りの席で父と一緒に観た。自分の席の前に栃錦が土俵控えとして座ったことを憶えている。栃錦の背中は綺麗でなかったことも。

 「岡田嘉右衛門親之日記」の中に神明宮の相撲興行がでてくる。安政2年(1855)11月8日から10日まで神明宮境内にて相撲興行する際に足利藩栃木陣屋より「太鼓お触れの禁止や喧嘩御法度の諌め」がでてくる。11月2日の安政の大地震により江戸藩邸の焼失により自粛の沙汰である。さらに面白いのは伊勢の海力士一行が大地震によって次の興行ができないため1日多く開催を申し入れていることも記述していること。江戸期の栃木の町には神明宮をはじめ定願寺、大杉新田神社境内にて頻繁に相撲興行があったことが記述されている。柏戸という関取しこ名も記されている。神社の境内は多くの人が集まる、集まれる場所であったことが分かってきて読んでいて楽しくなる。

 「岡田嘉右衛門親之日記の第2巻」の発行が楽しみだ。天狗党源蔵火事や出流天狗事件など幕末から戊辰戦争について岡田嘉右衛門親之はどのように記述しているのか、発行を楽しみに待っている。

 

                                《夢野銀次》 

《郷土の参考資料書》 

和田鎮一著「神明宮と黒宮家」(平成2年9月、黒宮淳元発行)、田中正弘編「栃木在村記録 幕末維新期胎動と展開第一巻 岡田嘉右衛門親之日記」(平成24年3月、栃木市教育委員会発行)、「栃木市史」 

 

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春を迎えた我が家の菜園

015_2 2月には記録的な大雪を経験した我が菜園。

3月18日は春一番が吹いた東京や千葉。しかし、わたしのいる栃木は春一番があったのか。

それより、ここの北西からの風はたまらなく強く、冷たいのだ。3月16日にジャガイモの苗、4㌔を植えた。男爵、きたあかり、メークインの三種類だ。妻は男爵だけで良いと言っているが…。

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 強い西北風の防御として使用した肥料ビニールで風よけを設置している。結構、効果がある。

 3月1日に種を植えた「絹さや」。芽が出てきたぞ。ネットをはる準備をしよう。

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 昨年のイチゴ苗から新しい苗が生まれてきている。

 一年一年、新しいイチゴの苗を植えていく。

 年月が繋がっていくな…。

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スーパーの野菜売り場で購入した青森産のニンニク。

芽が出てきて、追肥をして畝を固めた。

大きな実を作るため寒い冬を越えていく。

それがニンニクの使命なのだ。


 021所沢から育ってきたラズベリー。何年目になるのか?毎年赤い実がなる。

ラズベリーでジャムと果実酒を造っていく。

ラッキョウに追肥をした。このラッキョウも昨年できたラッキョウを植えている。

何代も続けて行く。時代が流れていくのを感じる。

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 小さいながらも椿の木に花が咲き始めた。

椿の後には杏や雪ヤナギが咲き始める。

 春本番を迎えた我が家の菜園。暖かな朝を迎え、これから畑作業が忙しくなる。

 

                    《夢野銀次》

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桜並木があった権現山―栃木市本町「日光神社」

Photo_17 「桜の木が多い神社だな」と権現山を訪ねてたどり着いた「日光神社境内」の第一印象だ。和田鎮一著の「神明宮と黒宮家」の中で前の神明宮が鎮座していた神田町一帯のことを「近くに権現山があり、その東部一帯は、一面の湿地帯で綺麗な湧水が流れ出し、杢冷(もくれい)川もその中の一筋になる」と記述している箇所がでてくる。

 この地図にも載っていない権現山ってどこにあるのだろう?郷土史に詳しい知人に訊ねたら「栃木市本町にある神社あたりのことを言うんだよ」と教えてくれた。権現山に行く途中、カキ氷で有名な「山田屋」に立ち寄り、権現山の所在を再度確認して本町公民館のある日光神社に着いた。地元の人には権現山は良く知られている地名なのだと分かった。 

Photo_2  「ここを権現山って言うのは日光東照宮の関係かな。このあたりは昔、小高い丘だったらしいんだ。狭い道路が通っていたけど通りの両側には桜並木が続いていたんだ。夏にはこの境内から花火が打ち上げられたんだ。あたり一面田圃だった」と近所の古老の人が語ってくれた。

 栃木県神社誌(栃木県神社庁編集発行)によると栃木市本町にある日光神社は権現様と記載されている。祭神は日光二荒山神社と同じく大己貴命(おおむらのみこと)。創立は不詳であるが、正保4年(1647)の創立とも伝えられる。境内、木の樹齢から200年以上は経っているものと考察されると記述されている。

Photo_4  神社の創立が正保4年(1647)ということは徳川家光の時代ということになる。秀忠が建てた社殿の建造物を現在の華麗な東照宮に大造営したのが寛永13年(1638)。そして後光明天皇より宮号宣旨が下され、東照社が東照宮になったのが正保2年(1645)。東照宮大造営工事の資材運搬、例幣使の開始、利根川東遷工事とうずま川 舟運が盛んになってきた時代と重なってくる。

 日光とのつながりなのか。日光二荒山神社と結びつける神社として建立されたのだと思える。総社町にある大神(おおみわ)神社の社殿を建て直したのは家光だ。大神神社の御神体は男体山。日光とのつながりを強めていく一例でもある。

Photo_23 昭和26年作成の栃木市の鳥瞰図を見る。地図の上(西)に神明宮があり、東へと続く道路があり、その道路沿いに日光神社がある。日光神社前の道路には、今は無い桜並木が描かれている。

 境内にある16本の桜の木や神社前の道路にあった桜並木。何故、桜の木が多いのか。地元の人にいずれ訊ねるつもりだが、私の推論は近くにある栃木八景の一つ「たむらが原の桜」に起因していると思える。栃木八景は幕末から明治初年にかけて栃木町の風流人たちが選んだ。金龍寺の晩鐘、定願寺の月、うずま川のほたる、新大橋の引き舟、田むらが原の桜、市中の人、えびすの夜桜、太平山の雪であった(目で見る栃木市史より)。

Photo_5 栃木市史によれば「田むらが原とは現在の田村小路すなわち桜が岡のことである。源義家がこの岡にのぼったとき『ここは大和国に似ている』とほめ、勿来(なこそ)の関から持ってきた桜の木を植えたので、それから桜が岡と呼ぶようになった」と記述され、「昭和32年にこの地の一角に公民館が竣工された」と記載されている。昔の万町3丁目にある田村小路自治会館の庭先には桜の木が植えられている。焼失した明治座の裏側に位置する。この一帯は田村家の歴史が埋もれているという。また、ここは義家が大和の国に似ていると言った地域は栃木町時代に城内大和と称した今の日ノ出町のことを指すと栃木市史で記述している。

 「田むらが原の桜」の影響は近在に強い影響を与えてきたのだと思える。

Photo_6  大正元年生まれの栃木市在住の作家、坂本富士朗著に「田舎記」という栃木まちの事を書いた本がある。絶版なので栃木図書館で借りることができた。この本の中に「権現山奇談」が収録され、こう書いている。少し長い引用となるが、昭和初期の権現山あたりの風景を良く著している。

 「第二公園の池は、むかしむかし冷水の湧き出ている泉であって、それを現在のように拡げたものに違いない。壬子倶楽部(じんしくらぶ)の池も同様であろう。それに杢冷川の水源は、日の出町にある。そんなところから私は、第二公園から権現山にかけての一帯は、所々に豊かな地下水が小さな沼となって溢れていたために、遠い昔は沼沢地であったと勝ってに推測する。その後は湿地帯になった時期があるだろう」、さらに引用を続ける。「私の少年時代、昭和の初期まで、あの辺り、湿地同様なところで第二公園の裏口に立つと、一面に拡がる水田だった。水田と水田の間には、細い川が流れて、その川沿いの至るところには、川柳やあかざの木が茂って、畦道同様の狭い道が、第二公園裏口から権現山まで、まっすぐに通じていた」。この本には桜並木のことが書かれていないが、何時ごろ道路沿いの桜並木が植えられ、何時ごろ伐採されたのだろうか? 

Photo  この本にでてきている壬子倶楽部(じんしくらぶ)に立ち寄った。神明宮の第二公園から日光神社に向かう通り右側の杢冷川沿いにある。大正元年創業の現在も続く栃木の老舗の割烹料亭だ。栃木市地域女性史編さん委員会が作成した「わたしたちが綴る栃木市の女性たち」に三代にわたる女将さんの紹介記事が記述されている。「当時、ビリヤード場として使用された洋館と日本庭園を背景とした日本家屋が今も残る」として、「商人たちの商談として、また碁を打ったり俳句を詠んだり、趣味の場、社交場として使用された」と記述されている。「写真撮影はご遠慮願います」と言いながら、三代目の女将さんは私を座敷にあげてくれ、古風な日本間座敷から四方に広がる湧水の池を見せてくれた。池の水は杢冷川に注いでいる。樹木に囲まれた池は思ったよりも広く深い。深閑とした佇まい。しっとりとした木造家屋。趣のある雰囲気が漂う料亭だと感じた。座敷から独占して眺める池や樹木の風景は隔絶された歴史の空間を呼び覚ますような気分に浸ることができる。完全予約制とのこと。繁栄した栃木町を見ることのできる隠れた文化財だと思えた。

Photo_7  権現山がでてくる「田舎記」を書いた坂本富士朗については、北関東の小さな町、栃木の美しい自然と愛すべき郷土の人々を書いた人としかネットから検索できなかった。「合戦場の処刑」「うなぎ物語」「トロッコ橋」など明治から昭和初期までの「栃木のまち」が書かれている貴重な本だ。とりわけ「栃木市の今昔」では栃木市の景観について蔵をはじめ伝統的建造物を保全していくならば、50年後には全国的に注目を浴びるだろうと記述している。昭和55年(1980)7月発行の本で著している。栃木市が蔵の町づくりを中心に動きだしたのは昭和63年(1988)からだ。深い見識を持った人だったと思える。著者の坂本富士朗について人と作品について私としても可能な限り調べ、検証していきたい。

 「権現山」は地域や地元の人たちが知っている地名と所在。地図に記載できないのならば、日光神社境内にある公園。その小さな公園に「権現山児童公園」とかを名付けて看板を掲示していって欲しいと願う。地域に知れ渡っている地名は何らかの方法で残していくべきだと考えているからだ。

                               《夢野銀次》

≪関連ブログ≫

「銀次のブログ」(2016年11月4日) 江戸の香りが漂う―栃木市杢冷川、旭町「本橋」界隈

(参考郷土の書籍)

坂本富士朗著「田舎記」(昭和55年7月発行)、栃木市地域女性史編さん委員会編「わたしたちが綴る栃木市の女性たち」(平成19年3月、栃木市発行)、「目で見る栃木市史」(栃木市発行)、栃木県神社庁編集発行「栃木県神社誌」(平成18年7月)

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津軽の海を越えて来た―53年ぶりの「こまどり姉妹」

107 ~なにも言うまい言問橋の 水に流した あの頃 鐘が鳴ります浅草月夜 化粧なおしてエー化粧なおして 流し唄~ 

「浅草姉妹」(昭和34年10月)作詞:石本美由紀/作曲:遠藤実。

 舞台の幕があがり、デビュー曲「浅草姉妹」を歌うこまどり姉妹。53年ぶりのステージを3月5日、栃木市大平文化会館で観た。

 「私たちは北海道炭鉱の町に生まれ、門付けをしながら上京してきました」と妹の敏子が語る。門付(かどつ)けをしていたのか…。歌手でギター片手に流しをしていたと語る歌手が多いなか、門付けをしていたとはっきり語る歌手は初めて聞いた。

 門付けは一軒一軒、家の門口で三味線を弾き、歌を唄いながら日銭を得る放浪芸の世界だ。江戸期には日和下駄に編み笠スタイルで三味線を弾きながら唄う門付けを行なう。あるいは女性の盲人芸能者の瞽女(ごぜ)が連想されてくる。デビュー当時、門付け芸人出身ということで「差別」を受けてきたのではないかと想像できる。昭和30年代はまだまだ放浪芸人は一段低い芸人と見る風習が残っていた筈だからだ。

Img_376211_3 北海道から津軽海峡を渡り上京した親子。そして東京山谷の木賃宿に父親と暮らしながら浅草を流し歩いての生活。

 五木寛之小説「海峡物語」に登場してくる「演歌の竜、高円寺竜三」のモデルとなったディレクター馬淵玄三によってコロンビアのテストを受ける。「二人そろってマイクの前に立つ」ことでかろうじて合格した。立ち会った遠藤実は「可憐でありながら、想像もつかない人生の哀感を感じさせる歌声に私は驚いた。流しの臭いがする」と遠藤実著「涙の川を渉るとき—遠藤実自伝」の中で記述している。実際、遠藤実自身も新潟での門付けや荻窪や西荻での流しの貧しい生活を経験して来ている。こまどり姉妹の歌声に相通じるところがあったのだろう。二人は遠藤実の指導を受け、昭和34年(1959)10月に「浅草姉妹」でデビューする。

Ph04b1_31  作詞石本美由紀の「何も言うまい言問橋の」の隅田川に架かる言問橋の浅草よりのコンクリートの橋台の横には黒い焦げ跡がある。3月10日の東京大空襲の爪跡が今も残っている。橋の畔の隅田公園の下には空襲で被災した多くの人たちの涙が埋まっている。昭和3年に言問橋の完成で東海林太郎、島倉千代子が唄う「すみだ川」にでてくる「竹屋の渡し」も消えた。

 デビュー1ケ月後の同年11月には遠藤実作詞作曲の「三味線姉妹」のレコードがすぐさま発売される。

 ~お姉さんのつまびく三味線に 唄ってあわせて今日もゆく 今晩は今晩は 裏町屋台はお馴染みさんが待っている つらくてもつらくても 姉妹流しは涙を見せぬ~ 

 大平文化会館でこの歌を聴いた時、涙腺が緩んできた。三味線片手に浅草の路地裏を流す姉妹。そして悩みながら、この歌を発表させるために苦渋の決断をしてコロンビアに移籍した遠藤実。「三味線姉妹」の詞と曲には遠藤実の想いが強く響いてくると感じた。蜷川幸雄演出「さいたまネクスト・シアター」2012年公演でこまどり姉妹を舞台へ登場させる際に、蜷川幸雄が歌わせた曲はこの「三味線姉妹」だと聞いている。蜷川幸雄も選んだこの曲には口に出せない心の底に潜む哀しい情感が滲み出てくる。

O03500350125026870821  ~津軽の海を越えて来た ねぐら持たないみなしごつばめ 江差恋しや鰊場恋し 三味を弾く手に想いをこめて ヤーレンソーランソーランソーラン 唄うソーラン ああ渡り鳥~

 ~瞼の裏に咲いている 幼馴染みのはまなすの花 辛いことには泣かないけれど 人の情けが欲しくて泣ける ヤーレンソーランソーラン 娘ソーラン ああ渡り鳥~ 「ソーラン渡り鳥」(昭和36年4月)作詞:石本美由紀/作曲遠藤実。……名曲だ。

 長い間、「津軽海峡を越えて来た」いう歌の言葉が私の心のどこかに支えとなっきた気がする。仕事で覚悟、決断するとき「津軽の海を越えて来た」というフレーズが何回浮かんできたことか。

 錦糸町駅前にあった楽天地「江東劇場」。そこでお袋と一緒に「こまどり姉妹ショー」を観たのは今から53年も前だ。当時は映画と併用しての歌謡ショー。黒沢明の「用心棒」と森重久弥の「社長シリーズ」が上映していた。昭和36年(1961)の5月ころということになる。幕が開くと舞台の船に乗ったこまどり姉妹が三味線を弾きながら登場してきて「ソーラン渡り鳥」を歌った。下から見上げる自分の目に歌うこまどり姉妹の姿が残っている。「父ちゃんには内緒だよ」とお袋が私の耳元でささやいた。北砂街銀座の叔母御の下駄屋を訪問して、栃木に帰る途中でのこと。こまどり姉妹のファンだったお袋。それから53年ぶりの今回の「こまどり姉妹」のステージ。懐かしさと頑張ってきた姿が交差する。ほかの出場歌手(佐藤勢津子・三門忠司)とは違い、歌う姿から光を放っていた。オーラを感じた。ヒット曲を持ち歌い続けてきた歌手生活の強さなのだろう。

Img_347701_61525708_01_3 「3月19日に私たちの新曲 が発売されるの。もう歳だからキャンペーンはできませんけど。聞いてください」とステージ最後の曲として紹介、歌う「ラーメン渡り鳥」(作詞作曲オオガタミヅオ)。サッポロラーメン、喜多方ラーメン、東京ラーメン、博多ラーメンとコミカルに歌と曲が流れていく。18年ぶりの新曲。ヒットすれば化けるかもしれない。

 姉の栄子はおとなしいが艶っぽさを滲ませてくる。「テレビで私たちがラーメンをおいしくいただいているのが、この曲のきっかけなんですよ」と妹敏子が明るく語る。しかし、この歌は昭和38年(1963)の「涙のラーメン」(遠藤実作詞作曲)とも連動しているのではないかと思える。~あたたかいラーメン忘れぬラーメン 貧しくもくじけず笑ってゆきなと いつもなだめた人ねラーメン ナルトに支那竹チャーシュー いやいや情けの味がした ツルツルすするショッパサは泣いている 涙かしら夢かしら~。

 こまどり姉妹の曲を手掛けた遠藤実。今度、じっくりブログに書きたいと思ってきた。また2009年公開映画「こまどり姉妹がやってきたヤアーヤアー」を観るつもりだ。Okmusic_1226_11_4 

 歌手八代亜紀は「情歌(なさけうた)」として500~600人の会場でコンサートを展開している。日刊ゲンダイで「流行歌は過去の遺物ではない。今こそ生の歌唱が求められている。若者たちもデジタルな長くついていけない今の歌より流行歌を求めている。懐メロではない流行歌に飢えている。流行歌には情けがあるから」と若い観客層からの手応えを感じていることを記述している。

 最近、昭和40年代の複数の歌手達が一緒に公演を組むことが目立ってきている。そして今回の公演を支えていたのが地元の複数のカラオケグループの団体だった。地元のカラオケグループとの結びつきが今後強まっていくと思える。歌謡曲に飢えた人々がたくさんいる。若い人より同世代に向けて歌を発信していくことを舟木一夫はいち早く見抜き、15年頃前から全国ツアーを展開し、成功している。地方にはたくさん建てられた立派な小ホールがある。そこでの生の歌謡ショーなどが公演されていく機会が増えていく。そんな予感がしてくる。

                                    《夢野銀次》

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