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桜並木があった権現山―栃木市本町「日光神社」

Photo_17 「桜の木が多い神社だな」と権現山を訪ねてたどり着いた「日光神社境内」の第一印象だ。和田鎮一著の「神明宮と黒宮家」の中で前の神明宮が鎮座していた神田町一帯のことを「近くに権現山があり、その東部一帯は、一面の湿地帯で綺麗な湧水が流れ出し、杢冷(もくれい)川もその中の一筋になる」と記述している箇所がでてくる。

 この地図にも載っていない権現山ってどこにあるのだろう?郷土史に詳しい知人に訊ねたら「栃木市本町にある神社あたりのことを言うんだよ」と教えてくれた。権現山に行く途中、カキ氷で有名な「山田屋」に立ち寄り、権現山の所在を再度確認して本町公民館のある日光神社に着いた。地元の人には権現山は良く知られている地名なのだと分かった。 

Photo_2  「ここを権現山って言うのは日光東照宮の関係かな。このあたりは昔、小高い丘だったらしいんだ。狭い道路が通っていたけど通りの両側には桜並木が続いていたんだ。夏にはこの境内から花火が打ち上げられたんだ。あたり一面田圃だった」と近所の古老の人が語ってくれた。

 栃木県神社誌(栃木県神社庁編集発行)によると栃木市本町にある日光神社は権現様と記載されている。祭神は日光二荒山神社と同じく大己貴命(おおむらのみこと)。創立は不詳であるが、正保4年(1647)の創立とも伝えられる。境内、木の樹齢から200年以上は経っているものと考察されると記述されている。

Photo_4  神社の創立が正保4年(1647)ということは徳川家光の時代ということになる。秀忠が建てた社殿の建造物を現在の華麗な東照宮に大造営したのが寛永13年(1638)。そして後光明天皇より宮号宣旨が下され、東照社が東照宮になったのが正保2年(1645)。東照宮大造営工事の資材運搬、例幣使の開始、利根川東遷工事とうずま川 舟運が盛んになってきた時代と重なってくる。

 日光とのつながりなのか。日光二荒山神社と結びつける神社として建立されたのだと思える。総社町にある大神(おおみわ)神社の社殿を建て直したのは家光だ。大神神社の御神体は男体山。日光とのつながりを強めていく一例でもある。

Photo_23 昭和26年作成の栃木市の鳥瞰図を見る。地図の上(西)に神明宮があり、東へと続く道路があり、その道路沿いに日光神社がある。日光神社前の道路には、今は無い桜並木が描かれている。

 境内にある16本の桜の木や神社前の道路にあった桜並木。何故、桜の木が多いのか。地元の人にいずれ訊ねるつもりだが、私の推論は近くにある栃木八景の一つ「たむらが原の桜」に起因していると思える。栃木八景は幕末から明治初年にかけて栃木町の風流人たちが選んだ。金龍寺の晩鐘、定願寺の月、うずま川のほたる、新大橋の引き舟、田むらが原の桜、市中の人、えびすの夜桜、太平山の雪であった(目で見る栃木市史より)。

Photo_5 栃木市史によれば「田むらが原とは現在の田村小路すなわち桜が岡のことである。源義家がこの岡にのぼったとき『ここは大和国に似ている』とほめ、勿来(なこそ)の関から持ってきた桜の木を植えたので、それから桜が岡と呼ぶようになった」と記述され、「昭和32年にこの地の一角に公民館が竣工された」と記載されている。昔の万町3丁目にある田村小路自治会館の庭先には桜の木が植えられている。焼失した明治座の裏側に位置する。この一帯は田村家の歴史が埋もれているという。また、ここは義家が大和の国に似ていると言った地域は栃木町時代に城内大和と称した今の日ノ出町のことを指すと栃木市史で記述している。

 「田むらが原の桜」の影響は近在に強い影響を与えてきたのだと思える。

Photo_6  大正元年生まれの栃木市在住の作家、坂本富士朗著に「田舎記」という栃木まちの事を書いた本がある。絶版なので栃木図書館で借りることができた。この本の中に「権現山奇談」が収録され、こう書いている。少し長い引用となるが、昭和初期の権現山あたりの風景を良く著している。

 「第二公園の池は、むかしむかし冷水の湧き出ている泉であって、それを現在のように拡げたものに違いない。壬子倶楽部(じんしくらぶ)の池も同様であろう。それに杢冷川の水源は、日の出町にある。そんなところから私は、第二公園から権現山にかけての一帯は、所々に豊かな地下水が小さな沼となって溢れていたために、遠い昔は沼沢地であったと勝ってに推測する。その後は湿地帯になった時期があるだろう」、さらに引用を続ける。「私の少年時代、昭和の初期まで、あの辺り、湿地同様なところで第二公園の裏口に立つと、一面に拡がる水田だった。水田と水田の間には、細い川が流れて、その川沿いの至るところには、川柳やあかざの木が茂って、畦道同様の狭い道が、第二公園裏口から権現山まで、まっすぐに通じていた」。この本には桜並木のことが書かれていないが、何時ごろ道路沿いの桜並木が植えられ、何時ごろ伐採されたのだろうか? 

Photo  この本にでてきている壬子倶楽部(じんしくらぶ)に立ち寄った。神明宮の第二公園から日光神社に向かう通り右側の杢冷川沿いにある。大正元年創業の現在も続く栃木の老舗の割烹料亭だ。栃木市地域女性史編さん委員会が作成した「わたしたちが綴る栃木市の女性たち」に三代にわたる女将さんの紹介記事が記述されている。「当時、ビリヤード場として使用された洋館と日本庭園を背景とした日本家屋が今も残る」として、「商人たちの商談として、また碁を打ったり俳句を詠んだり、趣味の場、社交場として使用された」と記述されている。「写真撮影はご遠慮願います」と言いながら、三代目の女将さんは私を座敷にあげてくれ、古風な日本間座敷から四方に広がる湧水の池を見せてくれた。池の水は杢冷川に注いでいる。樹木に囲まれた池は思ったよりも広く深い。深閑とした佇まい。しっとりとした木造家屋。趣のある雰囲気が漂う料亭だと感じた。座敷から独占して眺める池や樹木の風景は隔絶された歴史の空間を呼び覚ますような気分に浸ることができる。完全予約制とのこと。繁栄した栃木町を見ることのできる隠れた文化財だと思えた。

Photo_7  権現山がでてくる「田舎記」を書いた坂本富士朗については、北関東の小さな町、栃木の美しい自然と愛すべき郷土の人々を書いた人としかネットから検索できなかった。「合戦場の処刑」「うなぎ物語」「トロッコ橋」など明治から昭和初期までの「栃木のまち」が書かれている貴重な本だ。とりわけ「栃木市の今昔」では栃木市の景観について蔵をはじめ伝統的建造物を保全していくならば、50年後には全国的に注目を浴びるだろうと記述している。昭和55年(1980)7月発行の本で著している。栃木市が蔵の町づくりを中心に動きだしたのは昭和63年(1988)からだ。深い見識を持った人だったと思える。著者の坂本富士朗について人と作品について私としても可能な限り調べ、検証していきたい。

 「権現山」は地域や地元の人たちが知っている地名と所在。地図に記載できないのならば、日光神社境内にある公園。その小さな公園に「権現山児童公園」とかを名付けて看板を掲示していって欲しいと願う。地域に知れ渡っている地名は何らかの方法で残していくべきだと考えているからだ。

                               《夢野銀次》

≪関連ブログ≫

「銀次のブログ」(2016年11月4日) 江戸の香りが漂う―栃木市杢冷川、旭町「本橋」界隈

(参考郷土の書籍)

坂本富士朗著「田舎記」(昭和55年7月発行)、栃木市地域女性史編さん委員会編「わたしたちが綴る栃木市の女性たち」(平成19年3月、栃木市発行)、「目で見る栃木市史」(栃木市発行)、栃木県神社庁編集発行「栃木県神社誌」(平成18年7月)

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