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栃木町の神明宮と東宮神社―湧水と大相撲板番付表

Photo 栃木市総鎮守の神明宮。自分は子供のころから神明さんと呼んでいる。旭町にある神明宮本殿の裏側(東側)に湧水があったのだ。今まで知らなかった。「水温は夏・冬でも16°Cと変わらないんですよ。第二公園の池の噴水の動力でこの湧水も汲み上げられてるのです。もちろん地下水ですよ」と神明宮の宮司が応えてくれた。「去年からこのお堀沿いにホタルを飛ばすことを挑戦中なんです」とにこやかに語ってくれた。

Photo_3 「神明さんの社は以前は南を向いて建てられていたのですね」と訊ねると「明治16年に本殿を建造する際に現在の西向きに建てられたのです」。ずーと西向きの社と思っていたので意外に感じた。本殿建立者の協力者の名前が明治16年という年号と共に刻まれている石碑が湧水のそばに建っている。注意しないと見逃すほどの小さな石碑でもある。万町、倭町など町名の次に人名が刻まれている。知っている人の名前は見当たらなかった…。

Photo_2 湧き水は第二公園の噴水池に注いでいる。この堀にホタルが飛び交う光景を目に浮かべると楽しくなる。

 土地の古老曰く「戦争中、栃木の町では防空壕を作ることができなかったんだ。掘るとすぐ地下水が湧きでてきたからな」と。

 栃木の町のある地帯は大昔、思川が濁流となって流れていたと思える。そのことを人に話すと笑われるけど。思川の名残が地下に流れ、湧水となって現れてくる。市内に数多くあった共同井戸、うずま川の源流の「しめじが原」、大町にある大杉神社の湧水、日ノ出町にある杢冷川の水源や大正元年創業の老舗の割烹料亭「壬子倶楽部(じんしくらぶ)」の池など今なを湧水は現存している。

 0051  「このあたりは沼地から湿地帯に変わった地帯とされている」と和田鎮一著「神明宮と黒宮家」(平成2年9月発行)の書に記述されている。同書には明治5年作成神明宮境内の古地図が添付されている。南向きの社の裏側には大きな池が描かれているなど現在の位置と見比べると面白い資料となる。この「神明宮と黒宮家」の書は17代目の黒宮淳元の依頼によって執筆されたと著者は記述している。

 初代黒宮兵部から14代目の黒宮織江まで神明宮の宮司を務め、現在の神山家に代わっている。応永10年(1403)に伊勢神宮信仰の影響により黒宮兵部によって伊勢神宮から栃木神田町に遷宮してきた。どうして由緒ある伊勢神宮が地方の無名の栃木の町に遷宮できたのか?と著者は問いかけている。当時の領主との関係など明らかになっていない点を指摘している。

 黒宮家は藤原北家、摂政関白藤原師実の孫忠親を祖とした中山家の子孫とされている。その子孫の黒宮家は伊勢神宮の祭祀に加わり、栃木への遷宮に際して神主として栃木に移住してきた。明治期の14代目の黒宮織江をもって神明宮の宮司を現在の神山家に代わっている。この黒宮織江は戊辰戦争のおり、壬生町雄琴神社の黒川豊麿によって結成された「利鎌隊」に参加していると紹介されている。いずれ「利鎌隊」についてブログに書きたいと思っている。この書は明治初期の栃木町の戸数や人口なども記述され、参考資料として価値ある書物だ。栃木図書館で同書を借りることができる。

Photo  天正17年(1589)に皆川広照によって神明宮は現在の旭町に移転する。神田町の跡地には東宮神社が建立され、小さな祠が建っている。皆川広照によってすぐそばの城内町に築城した栃木城。この栃木城の東北に新しく建立された東宮神社が位置する。城の鬼門にあたる。さらにこの地は小高い丘となっていることから、壬生氏に対する栃木城の郭の役割を果たす意味があったと思える。栃木の町づくりのため神明宮の移転を中心に考えていたが、現在の東宮神社の位置と役割を考えると皆川広照の築城の考えが浮かんできて興味深い。さらに天正年間の栃木の市街はうずま川周辺の湿地帯であり人家はなく、わずかにうずま川の西側、太平山麓とこの神田町周辺だったと伝われている。いずれもうずま川より高台となっていた所に人家があったということだ。

Photo_7 かつて神明宮が神田町にあった時、遠方から小高い丘に建っている社の屋根を見ることができた。社に架かる伊勢神宮同様の千木が十本あることから「杤木」という地名がおこったと今なお語られている。しかし、栃木市史などでこの説は日向野徳久氏によって否定されている。橡の木の橡木という地名が鎌倉時代にすでに表れているからだ。

 境内には本殿と右側に小さな祠と神明宮と東宮神社の合併記念碑、「天照皇太神御寳前」と書かれた石碑が建っている。社の裏側には「十九夜供養塔」が建立されている。境内の横の道をはさんでお世話になった「栃木県シルバー大学南校」の校舎が建っている。脇には杢冷川に分流が流れている。東武日光線の踏切を電車がゴーと通過して行った。

Photo_8 現在の旭町にある神明宮の拝殿は明治8年(1875)に造られた中教院講堂の建物で時代の重さを感じる。中教院は地方において神官や僧など教導職の任命や昇級試験を実施した機関とされている。県庁所在地に中教院が置かれた。明治17年まで栃木県庁が栃木の町にあっが故に置かれた機関の名残だ。拝殿前には文化14年(1817)に建立された「金毘羅大権現の常夜燈」が建立されている。かつてうずま川舟運で栄えた栃木の町の歴史を物語る貴重な遺跡だ。

Img_7853_s1_2  平成24年(2012)に「栃木の在村記録 幕末維新期の胎動と展開 岡田嘉右衛門親之日記」が栃木市教育委員会で発行されている。慶長17年(1612)に奉行より正式に認められた「嘉右衛門新田」。以来、代々岡田嘉右衛門を名乗り現在にきている。歴代の嘉右衛門の中で嘉右衛門新田名主としての岡田親之の日記を田中正弘国学院大学栃木短期大學教授によって翻刻(ほんこく)されている書物だ。

  第1巻の書は幕末、天保15年・弘化元年(1844)から安政6年(1859)までの日記が記載されている。江戸の政治や対外情報、例幣使街道を通行する日光例幣使や参詣する諸大名、安政の大地震による栃木町の様子、地頭畠山家の動静とその家臣団の人事や財政事情、冠婚葬祭の儀礼や贈答、お伊勢参りなどの参詣、相撲興行、人々の迷信やはしかなど病気の流行、栃木町から江戸に出府する行程など余すことなく日記として書かれ、幕末の栃木の町を知る貴重な史料書だ。島崎藤村の「夜明け前」と大変類似している。同じ名主という立場なのかもしれないが、小説ではなく日記として当時の生活をリアルに読めるのがうれしい。

Photo_4  神明宮拝殿内に10枚の大相撲板番付表が飾られている。宮司の好意で拝見することができた。「栃木山」と書かれたしこ名が読めた。昭和29年に境内で行われた出羽一門による栃木山供養大相撲。砂被りの席で父と一緒に観た。自分の席の前に栃錦が土俵控えとして座ったことを憶えている。栃錦の背中は綺麗でなかったことも。

 「岡田嘉右衛門親之日記」の中に神明宮の相撲興行がでてくる。安政2年(1855)11月8日から10日まで神明宮境内にて相撲興行する際に足利藩栃木陣屋より「太鼓お触れの禁止や喧嘩御法度の諌め」がでてくる。11月2日の安政の大地震により江戸藩邸の焼失により自粛の沙汰である。さらに面白いのは伊勢の海力士一行が大地震によって次の興行ができないため1日多く開催を申し入れていることも記述していること。江戸期の栃木の町には神明宮をはじめ定願寺、大杉新田神社境内にて頻繁に相撲興行があったことが記述されている。柏戸という関取しこ名も記されている。神社の境内は多くの人が集まる、集まれる場所であったことが分かってきて読んでいて楽しくなる。

 「岡田嘉右衛門親之日記の第2巻」の発行が楽しみだ。天狗党源蔵火事や出流天狗事件など幕末から戊辰戦争について岡田嘉右衛門親之はどのように記述しているのか、発行を楽しみに待っている。

 

                                《夢野銀次》 

《郷土の参考資料書》 

和田鎮一著「神明宮と黒宮家」(平成2年9月、黒宮淳元発行)、田中正弘編「栃木在村記録 幕末維新期胎動と展開第一巻 岡田嘉右衛門親之日記」(平成24年3月、栃木市教育委員会発行)、「栃木市史」 

 

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コメント

『旭町にある神明宮本殿の裏側(東側)に湧水があったのだ。今まで知らなかった』につきまして

私も今貴兄に教えて頂くまで知りませんでした。

私は第二公園の池の水が湧水じゃないかと考えて、栃木市に住んでる兄に確かめたら、「あれば湧水じゃない。他所から水を引いてきてるんだ」との事でした。それで非常に残念な思いをしました。

『『旭町にある神明宮本殿の裏側(東側)に湧水があったのだ。』
そう!それですよ。「室の八島」の残骸です。

投稿: 八島 守 | 2014年5月30日 (金) 16時06分

『水温は夏・冬でも16°Cと変わらないんですよ。』につきまして

私は、巴波橋のすぐ東側に生まれ育ちましたが、『水温は夏・冬でも15°Cと変わらないんですよ。』
165°Cと15°Cは温度計の誤差範囲ね。

投稿: 八島 守 | 2014年5月30日 (金) 16時30分

『神明宮の宮司』って、今誰なの?

1947年生まれの「神山?」が宮司をしていた事あるよね?

彼とは中学生時代の思い出があるんです。
「鯉やす」の1947年生まれの山口と三人だけの思い出が。


投稿: 八島 守 | 2014年5月30日 (金) 16時46分

『戦争中、栃木の町では防空壕を作ることができなかったんだ。掘るとすぐ地下水が湧きでてきたからな』につきまして

だから、防空壕を掘るって、すぐに横に掘るもんだという印象で古老の話を聞いていました。私も今では古老ですけどね。

勉強しました。「巴波川低地」っていう学術用語があるんです。

次も勉強しました。どうも、思川の水が金崎辺りで伏流して、巴波川低地で湧出しているらしいんです。

投稿: 八島 守 | 2014年5月30日 (金) 17時07分

『大町にある大杉神社の湧水、日ノ出町にある杢冷川の水源や大正元年創業の老舗の割烹料亭「壬子倶楽部(じんしくらぶ)」の池など今なを湧水は現存している。』
に尽きまして

それらがまさに、かつての「室の八島」の名残なんですよ。

投稿: 八島 守 | 2014年5月30日 (金) 17時13分

『社に架かる伊勢神宮同様の千木が十本あることから「杤木」という地名がおこったと今なお語られている。しかし、栃木市史などでこの説は日向野徳久氏によって否定されている。橡の木の橡木という地名が鎌倉時代にすでに表れているからだ』につきまして

『橡の木の橡木という地名が鎌倉時代にすでに表れている』のは知りませんでしたが、「千木が十本」だからなんてのは大人がバカだからだまされるんです。 子供は決してだまされません。

栃木市の歴史を正しく解説できるのは、残念ながら日向野徳久先生だけですね。

最近は、まともな先生も生まれてきているようですが。
 


投稿: 八島 守 | 2014年5月30日 (金) 17時41分

『天正年間の栃木の市街はうずま川周辺の湿地帯であり人家はなく、わずかにうずま川の西側、太平山麓とこの神田町周辺だったと伝われている。いずれもうずま川より高台となっていた所に人家があったということだ』にっきまして

時代についてはよくわかりませんが、この解析は正しいと思います。

うずま川の西側にはかつて荘園がありました。

東側は、東山道の東の突き当たりに集落がありました。
それから北に上った所に下野国庁がありました。
と私は考えています。

国庁の前の道は南北の道です。しかし東山道は東西に走ってたんです。

投稿: 八島 守 | 2014年5月30日 (金) 18時09分

『嘉右衛門新田』が作られた後はどうでもよい。
新田が作られる前はどんな土地だったのか、が知りたい。室の八島の湿地帯ではなかったのか?

その辺の情報がもっと知りたい。大杉新田その他。


投稿: 八島 守 | 2014年5月30日 (金) 18時21分

『昭和29年に境内で行われた出羽一門による栃木山供養大相撲。』につきまして

私も見た記憶があります。

投稿: 八島 守 | 2014年5月30日 (金) 18時29分

『定願寺』の思い出

小学生の頃、定願寺の近所の子と、墓石の上を飛び回って鬼ごっこして遊んでました。

そう言えばあそこに、昔の相撲取りの墓がありましたね。

参拝客が皆削り取っちゃうんで、墓石に文字が無いんです。

投稿: 八島 守 | 2014年5月30日 (金) 19時05分

八島守さん、たくさんのコメントありがとうございました。この記事内容に強い関心を示してくれてうれしく思います。今のうずま川に注ぐ市内の数か所の水源が「湧水」と言えるのか疑問もあります。神明宮裏の湧水や栃高の県庁堀の湧水の水源を取水ポンプで稼働して揚水している。「うずま川環境整備事業」として年間維持管理費用は栃木市財政が負担しているということ。水源が豊富でなくなっていることもおさえておく必要があると思っています。

投稿: 銀次 | 2014年5月31日 (土) 04時30分

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