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2014年4月

夏が楽しみな黒羽高校・荒川祐貴投手

017 栃木県春季高校野球が始まった。春の県大会に出場できるのは推薦を含め62高の内31高。残りの31高は地区代表選で敗退して夏とは違って県大会には出場できない。県大会での二回戦は実質三回戦と思っている。

 ゴールデンウイークの4月29日(火)に西川田にある栃木県営野球場に足を運んだ。

二回戦三試合が組まれ、勝者はベストエイトとなり、夏の大会のシード校になる。

 文星芸大付属校を破った栃木高校、速球投手のいる黒羽高校と甲子園出場を射程にするチームになってきた国学院栃木高校の試合を観るためだった。

018_2  第1試合の栃木高校と宇都宮北高。10対2で宇都宮北が勝った。コールドではなく9回まで戦った試合だった。5回までは互角の両チーム0だった。5回の裏、ノーアウトで栃高6番が3塁打を放つ。しかし続く3人の打者が連続三振。これで勝負が決まった。

 6回表から栃高の投手は18番左腕の津村から15番の前原に交代した。「何故、背番号1が投げないのか?」答えは9回表に1番の水沼投手が打たれたことでわかった。

 栃高2年生18番左腕の津村投手、先々が楽しみな投手が出てきた。 

021_2  昨年の秋の大会、延長15回を投げて栃木商業に惜敗した黒羽高校(銀次のブログ「延長15回栃木商業が制する」)。速球派の荒川祐貴投手がマウンドに上がった。一回戦は昨年敗れた栃商に2対1で勝っている。残念ながらこの試合を観に行くことができなかったが。

 今日の二回戦の相手は作新学院…。部員15名の黒羽高校はグランド整備ができる選手はいない。体つきから勝負は目に見えている。

 作新学院は1,2回で8点を取り、試合を早々と決めてきた。8対1で7回コールド負けとなった黒羽高校。しかし、3回から7回まで荒川投手は作新打線を無得点に抑えたのだ。強力打線を抑える投球術を学んだのではないかと伺える。

026 新装となった県営球場のスコワボードに球速141キロが表示される。スタンドは一瞬どよめく。ネット裏に陣取っている作新学院応援のおじさんたちをも「あれ?」顔をしていた。作新学院の打者は速球投手の対策をしてきた。立派なスイングをして荒川投手に応えていた。

 一塁側の黒羽高校の内野スタンド。観客が多い。地元の人たちなのだろう。厚い声援を送っていた。

 敗れたといえ、140キロをだす投手は数少ない。夏にはもっと注目されて出てくる。投げ方から中央大学時代、神宮球場でみた澤村拓一(現巨人)に似ている印象を受けた。夏が楽しみだ。

031 4番ピッチャアーでキャプテン。甲子園を目標とする高校の中で、その中に入ることのできない高校野球チーム。リトルリーグ出身で大勢の部員で構成するチームと少ない部員で県大会出場を目指すチーム。二極化の時代を迎えてきた高校野球。

 国学院栃木と名将金子安行監督が率いる宇都宮商業戦。5対4で国学院栃木が勝った。どうしたことかバント巧みに使う監督のいる宇商は送りバンド、スクイズと失敗している。安打数で国栃を上回りながらの敗退。勝利の要因は国栃の選球眼の良さだ。4球での出塁が 多かったことと集中打が目についた。昨年秋の大会で白鷗大足利 に9回逆転負けした試合を教訓に、粘りのあるチームになってきている。選手の個々のレベルから甲子園を狙う位置に立ってきていると感じた。

                                  《夢野銀次》

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結婚届の多い日―11月22日・7月7日

0508kekkon1_2 結婚式を挙げて、結婚の届け、つまり婚姻届を市町村の役場に提出する。「もう別れましょう」と言って簡単に男の前から去るわけにはいかなくなる。同棲とは違い、二人の決心が必要になる。江戸時代には「離縁状」はあったが「婚姻届」は無かった。代わりに盛大で何日も続く披露宴があった。

 市町村への婚姻届の受付は365日可能なのだ。よって土曜・日曜日も市の市民課は開いている。死亡届などがあるから。窓口には他の課の職員が交代で受け付け業務をすることになっているそうだ。

 昨年(平成25年)の7月7日は日曜日。朝、市民課の窓口が開く。夜中から待っていた一組のカップルがいた。婚姻届の提出だ。当日の市民課受付担当は普段は税務課に従事している男の職員。婚姻届を受け取ったその職員は自然に「おめでとうございます」とそのカップルに言った。市民課担当の職員は忙しくで普段から言わない言葉だ。その声で女性の方から、「写真撮っていただけますか?」「よろしいですよ」「市役所玄関の前でお願いします」。女性はもじもじしている男性の手をとり玄関前に行く。市の職員も閑散とした市役所ロビーを通って玄関にいく。携帯2台にデジカメ1台、計三台のカメラでシャッターをきる。友人や父母に送るということだ。

11_03_19_cats_wedding1  「ありがとうございました」女性は嬉しそうに語り、さらに「私たちの結婚届を受け付けしてくれた貴方も一緒に撮ってください」とお願いがあった。市の職員は別の職員を呼び二人の横に並びカメラに収まったそうだ。笑顔でそのカップルは市役所を後にした。

 その日、7月7日の日曜日に婚姻届は20件の受付があった。「他から言われていたんです。結婚届が多いぞって。覚悟はしていたのです」。「婚姻届の多い日は11月22日(いい夫婦の日)、12月24日のクリスマスイブ、2月14日のバレンタイン、7月7日の七夕(恋の日)など、二人が一生忘れない日に届けをするのが多いのですよね」とその市の職員が私に語ってくれた。市役所内部では有名な話だそうだ。一般市民は関心がない。しかし、写真を撮っていく新婚さんの話を聞くとほのぼのと心が温まってくるようになる。「市報などにこぼれ話として載せてくれたらいいね」とその職員に私は言った。

 私たち夫婦の婚姻届を提出した日は2月14日。平日で区の窓口は混雑していた。二人そろって婚姻届用紙を提出したら黙って受付して、「次の方どうぞ」という顔をした。女性だったな。一言「おめでとうございます」と言ってくれたら、その区の職員に「ありがとうございます」と礼を言っただろうな…。と今、思える。

                                 《夢野銀次》

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栃木刑務所共同墓地―金子文子の仮埋葬地

Photo  「やはりあった。首切り場が…。」

  冊子には「処刑場、幕末まで罪人を処刑したところ。現在は立派な供養塔があり、栃木刑務所が管理している」と都賀町教育委員会、歴史民俗資料館発行の冊子『都賀町の文化財巡り』に都賀町合戦場の所在地として記載されている。都賀町は現在の栃木市都賀町になっている。しかし所在を示している地図の位置は間違っている。冊子の載っている所在地は明治39年に合戦場旅籠から移転してできた「合戦場遊郭」の跡地になる(都賀町史より)。

  地元の人々の間では「首切り場」と言っていることを聞いていたが、場所が分からなかった。

Photo_2   首切り場とは処刑場を意味する言葉だ。栃木市都賀町合戦場にある「処刑場跡地」は現在の栃木刑務所共同墓地になっている。鹿沼市に向けて栃木市の大通りを抜け、合戦場に入る所に東武日光線の陸橋がある。陸橋の手前の左の側道に入り、すぐに左折して進むと右側に400坪ほどの広い敷地の共同墓地がある。

  共同墓地は金網のフェンスに囲まれ、鍵がかけられ、中に入ることはできない。正面の中央に「合葬の碑」と書かれた石碑が建っているのが見える。その左に地蔵尊、右に供養塔が建立されている。ひっそりとした風景だ。住宅に囲まれた広い敷地の空地。不思議な空間を漂わせる地帯になっている。「長くいる所じゃないな」と感じた。

Photo_4   栃木市在住の坂本富士朗著「田舎記」 (昭和55年発行)の中に「合戦場の処刑」が収録されている。明治12.3年頃に合戦場の雑木林で行われた処刑の様子を義父から聞いた話を執筆している。

  「処刑当日の朝早く、栃木町から手足を縛られ馬に横乗り、うなだれている囚人とその後ろに人力車に乗った裁判官、警察署長、刑務所署長らの一行」と記述され、獄門台のある雑木林の一角で斬首の場面と首斬人が近くの小川でその首を洗うという光景を著している。そして、獄門にのった首を僧侶が読経を唱えるというところまでリアルに記述されている。明治 15年(1882)1月1日付けで明治政府は「斬首刑」の処刑を廃止にしている。

E6b5aae9809fe58891e58b99e689801  「今でも栃木刑務所では毎年共同墓地に墓参しています。共同墓地に納骨するかはケースバイケースですね」と栃木市総社町にある栃木刑務所の庶務課の刑務官が答えてくれた。

 女子刑務所として有名な栃木刑務所。服役中に亡くなった受刑者で引き取り人がいない場合、共同墓地に葬ることになっている。無縁仏として…。以前、拙著「銀次のブログ、栃木刑務所と矯正展」の中で 刑務所の塀が低いと感じたことを書いた。女子刑務所では一般の刑務所より1メートル低くしていることが分かった。「女性には優しく」という配慮からだ。

Photo_7   大正15年(1926)7月31日の未明、この合戦場にある栃木刑務所共同墓地に埋葬された金子文子の遺体を掘り出す一行がいた。7月23日に大逆事件として無期懲役の刑を受けていた金子文子が旭町にあった栃木刑務所の独房において自ら縊死した。その死因の改めと遺体を引き取るために来ていた。遺体の引取りについては刑務所側との交渉でやっとの思いで了解を取り付けていた。

  一行は金子文子の弁護をしてきた布施辰治弁護士、実母の金子きく、金子文子の自伝「何が私をこうさせたか」の出版を委託されていた栗原一男、馬島僴医師など数名とされている。この時の光景を瀬戸内晴美は「余白の春」(昭和47年6月刊)の中で、「何が私をこうさせたか」の序文を書いた栗原一男の文を引用している。

Photo_2   「恰度三時、月の明るい夜明けのこと、しっとりと降りた夜露は合戦場墓地一帯の雑草の上に蒼白く光って居り 、あたり一面の稲田は物凄いばかりに沈黙して、キラキラと葉末を光らせ、文字通り死の墓場、一行の足音のみが、異様な緊張と亢奮にかられて墓地深く進んで行った。それから、数輪のエゾ菊を手向けたばかりの墓所をあばいて、地下4尺(1.21m)の湿地の中から、水気をふくらんだふためと見られない無残なふみ子を棺桶の中から見出した」と記述している。

    この光景を見ていた車夫の小林常二郎氏は瀬戸内晴美に「棺の蓋を開いた時、喉のあたりが変だったのでしょう。大分慎重に見て居られましたが納得されたのか、問題にはならなかったようです」と手紙で知らせた。小林氏は一行を栃木町旅館、晃陽館から人力車で運んできた一人だった。その後は2キロ先の栃木町日ノ出町にあった火葬場まで荷車で遺体を運び、荼毘に付した。

Park_yeol_and_fumiko_kaneko1_2   昭和22年に刑法73条の中で削除された大逆罪。 天皇、皇太子などに危害を加える事を指した犯罪で計画段階でも処罰の対象とみなされ、刑罰は死刑のみであった。4件あった大逆事件のひとつ「朴烈事件」。

  大正12年(1923)年9月1日に起きた関東大震災の2日後に朴烈と内妻の金子文子は警察に連行された。震災後の混乱で朝鮮人が民衆によって私刑を受けるという事態で「保護検束」の名目で検挙されたのだ。以前からマークされていたのだ。予審を担当した東京地裁判事立松懐清は「爆発物取締罰則違反」で起訴したが、二人から「関東大震災がなければ大正12年(1923)秋に予定されていた皇太子の御成婚の儀の際に、皇太子を襲撃するため、爆薬の調達工作していた」との供述を受け、大正14年(1925)5月2日の予備尋問で大逆事件として二人の起訴を決めた。

  後に「朴烈怪写真事件」となった二人が写っている写真はこの日に立松判事が予審廷で撮ったとされている。怪文書と共にこの写真が金子文子が自死した6日後の7月29日に何者かによって東京市内各所にばらまかれた。翌年の昭和2年の1月の国会においても取り上げられた。

Photo   大正15年(1926)年3月25日に二人に死刑の判決が下されるが、4月5日、無期懲役に減刑される。「天皇の慈悲」と言う名目で市ヶ谷刑務所所長より特赦状が二人に渡された。しかし金子文子は怒りをもって特赦状をバリバリと破り捨てたと云われている。そして7月23日の早朝に金子文子は栃木刑務所独房で自ら編んだマニラ麻の縄で縊死した。死体検案書の作成は刑務所委託医師の粟田口留三栃木病院の院長。現在の栃木病院院長の曽祖父にあたる人だ。

  瀬戸内晴美は「余白の春」で 「彼女(金子文子)が自分で書いた自伝(何が私をこうさせたか)以後の彼女、朴烈と宿命的なめぐりあいをしたその出逢いから、一挙に栃木刑務所での自殺まで急調子でなだれこんでいく時間に、より一層惹かれるのである。とりわけ彼女の孤独な死の瞬間、彼女の内部にどのような力が充満し、彼女の首に自分の手で縄をかける意志を支えたのか、それが知りたい」と書いている。瀬戸内晴美の執着するものへの考察は凄さを感じる。

O03440400113127583921_2  「総ての人間が人間であるというただ一つの資格によって平等である。地上の平等なる人間の生活を蹂躙している権力という悪魔の代表が天皇だ」と予審尋問で金子文子は話す。「単に生きる事には何の意味がない。行為があって初めて生きて居ると言える。したがって自分の意志で動いた時、それが肉体の破滅に導こうとそれは生の否定ではない。肯定である」と言い切る金子文子。瀬戸内晴美は朴烈との出逢いで金子文子を思想行動家としてとらえていると思えた。

  そして金子文子の自死を「国家権力に抵抗することによって得た死刑は、文子の思想が選びとったものであった。その栄光を奪われた文子は、国家権力によって与えられた生を否定し、自殺するしか自分の思想を貫く方法はないと判断し決定した」と 結んでいる。

51coj0exnql_sl500_1   金子文子が出生届がない故に学校に行けなかったこと。父親が母の妹と同棲、9歳から16歳まで朝鮮の生活での祖母や叔母から差別。17歳で上京、新聞売りをしながら正則英語学校に通い 、おでん屋での朴烈との出逢いまでを瀬戸内晴美は検証していく。具体的には山梨にある母方の生家や16歳まで過ごした朝鮮の芙江での学校跡や山奥の秘境にある朴烈方に眠る金子文子の墓を訪ねていく。雑草におおわれ、ひっそりとただ一つ、世の中から忘れられたような土饅頭の金子文子の墓を訪ねていく記述は哀切を帯びている。

  「余白の春」の最後は、昭和47年(1972)の1月に前述した車夫の小林常二氏の案内で栃木市都賀町合戦場にある栃木刑務所共同墓地を訪れるところで終わる。栃木の元読売新聞の記者をしていた小林氏の実家が俥屋だったため、金子文子の遺体を掘り出すところを見ることになったのだ。

Photo_12   共同墓地に訪れた瀬戸内晴美は台石に彫ってある「無縁仏たちを合葬し、その霊を弔うため地蔵尊を建てる」という文言を見て、「引取りのない受刑者の死体は、すべてこの墓地に埋められていたらしい。文子の死体も、文子の母が引取りに出むかなかったため、この墓地にいったん埋められてしまったのだ」と記述されている。

  仮埋葬となったこの地に立ち、「物音しない静寂がこの世のものと思えなくなり、鶯や山鳩が鳴りやむと南鮮の山奥の秘境にあった文子の墓地と自分が運び去られるのを感じた」と結んでいる。瀬戸内晴美、現在の瀬戸内寂聴が金子文子を蘇らせた作品だ。願わくば再度、この地を訪れ読経を唱えて欲しいと願うのだ。

  金子文子に関連して、かつての朝鮮半島への圧政や関東大震災朝鮮人虐殺などの検証、見直しなど多くの人によって研究が進められている。このブログではそのことへの言及はしていない。現在も鍵で閉ざされ、無縁仏の栃木刑務所共同墓地があることの想いを書いたからだ。仏になってからも鍵で囲まれた墓地に眠るには酷さを感じる。80年代からたくさんの住宅が建てられ、人家がこの共同墓地の周りを囲むようになっている。鍵のかかったフェンスで共同墓地を囲うということは、かつての雑木林や稲田のあった辺鄙な地帯から変わって来ていること示している。しかるべき寺院などに葬り直し、ここを公園にするなど地域のために活用を考える時期に来ていると思える。

                                   《夢野銀次》 

 

 

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満開の宮の桜堤を歩く―栃木市宮町永野川沿い

009 「太平山の桜は古いしなあ」「宮の町の桜、土手づたいできれいだぜ。第一、車が通らねえんだ」「へえー、今度行ってみっかあ」とある時乗ったバスの後ろから話し声が聞こえた。

宮の桜? 私も聞いたことがなかった。

 4月3日(木)小雨の中、皆川城址のある皆川公民館に車を走らせた。栃木市老人クラブ、健康ウオーキングで「満開の宮の桜と皆川城址公園の眺望」に参加するためだ。

015 「明日はもっと雨が降るようですので本日、宮の桜堤を歩きます」と幹事の挨拶。

参加者3分の2の女性が占める中、ぞろぞろと若い高齢者40人は歩き始めた。

 皆川城内の東宮神社の参拝と本殿の彫り物を見る。5月には流鏑馬が行われるとのこと。永野川に架かる対嶺橋(たいりょうばし)渡る。

「冬の永野川には水がないんですね」と先生に言ったら、「永野川は伏流水で川底の下を流れているんだ」と教えてもらったことを想い出した。

006_2 対嶺橋を渡り左折すると、左側に栃木ボーイズの室内練習場が見えた。「高校野球をやるなら中学から硬球でやってないとレギラーはとれないんだな」と誰かが大きな声で話していた。高校から硬球を握る場合、肩作りから始めるため時間がかかるということだ。佐野日大の田嶋投手は鹿沼ボーイズ、竹村遊撃手は小山ボーイズだったな。

 東北道の下を歩き、すぐに左折した。永野川の土手に着いた。

 008_3  「これが宮の桜堤か!」

栃木の観光案内では隠れた桜の名所として、約1.5キロメートルの堤に桜の木が500本植えられていると紹介されている。

 「最初は皆川新町の方で植えたんだ。市は駄目だと言ったけど、議員の力で実現したんだ。それからだよ、宮町でも桜を植え始めたのだ」と後ろからわが町こそを喋る参加者もいる。約40年位前に桜の苗木を植え始めたそうだ。

024_3  車の通らない桜並木の土手は気持ちが良い。

晴れていたらもっと鮮やかに桜がみえるだろうなあと思える。

  宮町に架かる宮の橋。

売店が一軒出ているが、本日は休みとなっている。車で来るなら、この宮の橋付近に停めることができる。

017_2 この宮の橋を渡り、少し上流に行くと、天然のスケート場があった。

「2,3年前までスケート場、やっていたよ」と教えてくれた。お袋からスケート靴を買ってもらって、自転車で通ったスケート場。昼近くにはリンクの氷の表面がグジョグジョになってしまったことを思い出す。

 宮の橋を渡り、左折して反対側から桜堤を見る。

023  荒宿の遺跡古墳と市営のお墓を眺め、皆川公民館を目指す。山の上まで続く墓石群。

 「仏さんには眺めが良いと思えるけどお墓詣りが大変だわ」と女性の声が聞こえた。階段を上る己の年齢と躰を見つめる生活の実感が出る。

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  途中に持明院の「しだれ桜」を眺める。「栃木まちを売り出すには三大名僧ですよ」と「下野の動乱」を執筆した大森隆司氏がいつか講演で述べていた。

 「円仁こと比叡山延暦寺座主慈覚大師は栃木市になる岩舟町、日光開山の勝道上人は栃木市都賀町、皆川広照の叔父で真言宗智山派総本山京都智積院開基の玄侑は栃木市皆川城内町、この3人の名僧のゆかりのまちとしての栃木市をPRしたらどうですか」と煽っていた。

≪本日のコース≫

皆川地区公民館…東宮神社…対嶺橋…宮の桜・宮の橋…荒宿B古墳群…持明院…皆川地区公民館

  皆川地区公民館に到着するころには雨足が強くなってきた。よって皆川城址見学は取りやめとなった。ウオーキングとお酒のない花見は健康に良いと改めて実感した。

                   《夢野銀次》 

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大雪の後に咲きましたー杏、レンギョウ、雪柳

Photo 2月の8日(土)と14日(金)に記録的な大雪が降った今年の冬。大雪の日は旧暦なら1月5日から10日となる。正月ということになる。

 「正月に降る雪は良い年となると言われているのですよ」と3月22日の国学院栃木短期大學の公開講座「平安時代の結婚」の冒頭で林田孝和講師が述べた。万葉集から2点引用紹介してくれた。

万葉集(巻17-3925)に ~新しき 年の初めに 豊の年 しるすとならし 雪の降れるは~ と詠われている。

 「新しい年の初めにこんなに雪が降った、今年は豊かな年になるといことの印であろう」と正月の雪は豊の年になると万葉集では詠んでいる。

2点目は一番最後の(巻20-4516)で ~新しき 年の始めの 初春の 今日降る雪の いや重(し)け吉事(よごと)~

Photo_7 「新年、初春、降る雪が重なって積もるように吉事も重なって欲しい」と詠っている。平安時代には雪の降った正月にはお公家さんたちは牛車で宮中に参内し、宴を催したと林田講師は教えてくれた。雪の中、牛も大変だったろうな。

 それにしても2月の雪は凄かった。 庭先から畑一面の雪化粧。猫どもは雪の庭先を見て動くことができなかった。

 大雪で桜が倒木した話を聞くと、雪国の人には申し訳ないが、雪はほどほどに降って欲しいと願う。

Photo_11雪が溶けて春、4月1日を迎えた。

今年も杏の花、黄色のレンギョ、白い雪柳の花が咲きました。

  鉢植えから植え替えて4年目を迎えたあんずの木。去年から三倍のあんずの木に成長してきた。

幹はまだまだ細いが、あとはしっかりと実がなることを願う。

 Photo_9 黄色の花のレンギョ。

黄色は人を元気にさせるものが宿る感じがする。しっかりと根が着いている。漢方薬の解毒剤にもなると云う。

  雪柳はしなやかなに咲いている。

白く咲いた雪柳はゆったりと風に揺れている。

その枝には柔軟に対応して咲いていく強さが見えてくる。

019 一昨年に妻が購入してきた「アーモンド」の苗。

 さくらの花のように咲いてきた。いずれ5メートルくらいの幹に成長するという。

妻はひょっとしてアーモンドの実でチョコレートを作るつもりなのかな…。

庭木の花が咲き始めると畑作業の本番を迎える。

大雪のあった年、豊かにみのることを願い、始めるか。

雄ネコの「銀太」の縄張りは自宅の庭と我が家の畑周辺だ。気が弱い猫のためあまり遠くに行けないのだ。

077_2 20匹以上の猫を飼っている農家が近所に2軒ある。畑のネズミ対策として農家は猫の役割を重視しているのが伺われる。

 銀太は我が家を訪れる他家の猫どもに対して唸る。自分の縄張りを死守する。しかし、他家にはいかない。

 雌ねこの「夢野」は昼間はほとんどどこかに行っている。「猫には別宅が3軒ある」とある動物病院の先生がおっしゃっていた。ネズミ捕りが得意な夢野はどこの家の軒先にいるのかな?

 しばらく帰ってこない時、私が近所を回って歩く。するとしばらくすると帰ってくる。飼い主の臭いを嗅ぐ能力が高いと言えるのだ。

                                《夢野銀次》

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