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栃木刑務所共同墓地―金子文子の仮埋葬地

Photo  「やはりあった。首切り場が…。」

  冊子には「処刑場、幕末まで罪人を処刑したところ。現在は立派な供養塔があり、栃木刑務所が管理している」と都賀町教育委員会、歴史民俗資料館発行の冊子『都賀町の文化財巡り』に都賀町合戦場の所在地として記載されている。都賀町は現在の栃木市都賀町になっている。しかし所在を示している地図の位置は間違っている。冊子の載っている所在地は明治39年に合戦場旅籠から移転してできた「合戦場遊郭」の跡地になる(都賀町史より)。

  地元の人々の間では「首切り場」と言っていることを聞いていたが、場所が分からなかった。

Photo_2   首切り場とは処刑場を意味する言葉だ。栃木市都賀町合戦場にある「処刑場跡地」は現在の栃木刑務所共同墓地になっている。鹿沼市に向けて栃木市の大通りを抜け、合戦場に入る所に東武日光線の陸橋がある。陸橋の手前の左の側道に入り、すぐに左折して進むと右側に400坪ほどの広い敷地の共同墓地がある。

  共同墓地は金網のフェンスに囲まれ、鍵がかけられ、中に入ることはできない。正面の中央に「合葬の碑」と書かれた石碑が建っているのが見える。その左に地蔵尊、右に供養塔が建立されている。ひっそりとした風景だ。住宅に囲まれた広い敷地の空地。不思議な空間を漂わせる地帯になっている。「長くいる所じゃないな」と感じた。

Photo_4   栃木市在住の坂本富士朗著「田舎記」 (昭和55年発行)の中に「合戦場の処刑」が収録されている。明治12.3年頃に合戦場の雑木林で行われた処刑の様子を義父から聞いた話を執筆している。

  「処刑当日の朝早く、栃木町から手足を縛られ馬に横乗り、うなだれている囚人とその後ろに人力車に乗った裁判官、警察署長、刑務所署長らの一行」と記述され、獄門台のある雑木林の一角で斬首の場面と首斬人が近くの小川でその首を洗うという光景を著している。そして、獄門にのった首を僧侶が読経を唱えるというところまでリアルに記述されている。明治 15年(1882)1月1日付けで明治政府は「斬首刑」の処刑を廃止にしている。

E6b5aae9809fe58891e58b99e689801  「今でも栃木刑務所では毎年共同墓地に墓参しています。共同墓地に納骨するかはケースバイケースですね」と栃木市総社町にある栃木刑務所の庶務課の刑務官が答えてくれた。

 女子刑務所として有名な栃木刑務所。服役中に亡くなった受刑者で引き取り人がいない場合、共同墓地に葬ることになっている。無縁仏として…。以前、拙著「銀次のブログ、栃木刑務所と矯正展」の中で 刑務所の塀が低いと感じたことを書いた。女子刑務所では一般の刑務所より1メートル低くしていることが分かった。「女性には優しく」という配慮からだ。

Photo_7   大正15年(1926)7月31日の未明、この合戦場にある栃木刑務所共同墓地に埋葬された金子文子の遺体を掘り出す一行がいた。7月23日に大逆事件として無期懲役の刑を受けていた金子文子が旭町にあった栃木刑務所の独房において自ら縊死した。その死因の改めと遺体を引き取るために来ていた。遺体の引取りについては刑務所側との交渉でやっとの思いで了解を取り付けていた。

  一行は金子文子の弁護をしてきた布施辰治弁護士、実母の金子きく、金子文子の自伝「何が私をこうさせたか」の出版を委託されていた栗原一男、馬島僴医師など数名とされている。この時の光景を瀬戸内晴美は「余白の春」(昭和47年6月刊)の中で、「何が私をこうさせたか」の序文を書いた栗原一男の文を引用している。

Photo_2   「恰度三時、月の明るい夜明けのこと、しっとりと降りた夜露は合戦場墓地一帯の雑草の上に蒼白く光って居り 、あたり一面の稲田は物凄いばかりに沈黙して、キラキラと葉末を光らせ、文字通り死の墓場、一行の足音のみが、異様な緊張と亢奮にかられて墓地深く進んで行った。それから、数輪のエゾ菊を手向けたばかりの墓所をあばいて、地下4尺(1.21m)の湿地の中から、水気をふくらんだふためと見られない無残なふみ子を棺桶の中から見出した」と記述している。

    この光景を見ていた車夫の小林常二郎氏は瀬戸内晴美に「棺の蓋を開いた時、喉のあたりが変だったのでしょう。大分慎重に見て居られましたが納得されたのか、問題にはならなかったようです」と手紙で知らせた。小林氏は一行を栃木町旅館、晃陽館から人力車で運んできた一人だった。その後は2キロ先の栃木町日ノ出町にあった火葬場まで荷車で遺体を運び、荼毘に付した。

Park_yeol_and_fumiko_kaneko1_2   昭和22年に刑法73条の中で削除された大逆罪。 天皇、皇太子などに危害を加える事を指した犯罪で計画段階でも処罰の対象とみなされ、刑罰は死刑のみであった。4件あった大逆事件のひとつ「朴烈事件」。

  大正12年(1923)年9月1日に起きた関東大震災の2日後に朴烈と内妻の金子文子は警察に連行された。震災後の混乱で朝鮮人が民衆によって私刑を受けるという事態で「保護検束」の名目で検挙されたのだ。以前からマークされていたのだ。予審を担当した東京地裁判事立松懐清は「爆発物取締罰則違反」で起訴したが、二人から「関東大震災がなければ大正12年(1923)秋に予定されていた皇太子の御成婚の儀の際に、皇太子を襲撃するため、爆薬の調達工作していた」との供述を受け、大正14年(1925)5月2日の予備尋問で大逆事件として二人の起訴を決めた。

  後に「朴烈怪写真事件」となった二人が写っている写真はこの日に立松判事が予審廷で撮ったとされている。怪文書と共にこの写真が金子文子が自死した6日後の7月29日に何者かによって東京市内各所にばらまかれた。翌年の昭和2年の1月の国会においても取り上げられた。

Photo   大正15年(1926)年3月25日に二人に死刑の判決が下されるが、4月5日、無期懲役に減刑される。「天皇の慈悲」と言う名目で市ヶ谷刑務所所長より特赦状が二人に渡された。しかし金子文子は怒りをもって特赦状をバリバリと破り捨てたと云われている。そして7月23日の早朝に金子文子は栃木刑務所独房で自ら編んだマニラ麻の縄で縊死した。死体検案書の作成は刑務所委託医師の粟田口留三栃木病院の院長。現在の栃木病院院長の曽祖父にあたる人だ。

  瀬戸内晴美は「余白の春」で 「彼女(金子文子)が自分で書いた自伝(何が私をこうさせたか)以後の彼女、朴烈と宿命的なめぐりあいをしたその出逢いから、一挙に栃木刑務所での自殺まで急調子でなだれこんでいく時間に、より一層惹かれるのである。とりわけ彼女の孤独な死の瞬間、彼女の内部にどのような力が充満し、彼女の首に自分の手で縄をかける意志を支えたのか、それが知りたい」と書いている。瀬戸内晴美の執着するものへの考察は凄さを感じる。

O03440400113127583921_2  「総ての人間が人間であるというただ一つの資格によって平等である。地上の平等なる人間の生活を蹂躙している権力という悪魔の代表が天皇だ」と予審尋問で金子文子は話す。「単に生きる事には何の意味がない。行為があって初めて生きて居ると言える。したがって自分の意志で動いた時、それが肉体の破滅に導こうとそれは生の否定ではない。肯定である」と言い切る金子文子。瀬戸内晴美は朴烈との出逢いで金子文子を思想行動家としてとらえていると思えた。

  そして金子文子の自死を「国家権力に抵抗することによって得た死刑は、文子の思想が選びとったものであった。その栄光を奪われた文子は、国家権力によって与えられた生を否定し、自殺するしか自分の思想を貫く方法はないと判断し決定した」と 結んでいる。

51coj0exnql_sl500_1   金子文子が出生届がない故に学校に行けなかったこと。父親が母の妹と同棲、9歳から16歳まで朝鮮の生活での祖母や叔母から差別。17歳で上京、新聞売りをしながら正則英語学校に通い 、おでん屋での朴烈との出逢いまでを瀬戸内晴美は検証していく。具体的には山梨にある母方の生家や16歳まで過ごした朝鮮の芙江での学校跡や山奥の秘境にある朴烈方に眠る金子文子の墓を訪ねていく。雑草におおわれ、ひっそりとただ一つ、世の中から忘れられたような土饅頭の金子文子の墓を訪ねていく記述は哀切を帯びている。

  「余白の春」の最後は、昭和47年(1972)の1月に前述した車夫の小林常二氏の案内で栃木市都賀町合戦場にある栃木刑務所共同墓地を訪れるところで終わる。栃木の元読売新聞の記者をしていた小林氏の実家が俥屋だったため、金子文子の遺体を掘り出すところを見ることになったのだ。

Photo_12   共同墓地に訪れた瀬戸内晴美は台石に彫ってある「無縁仏たちを合葬し、その霊を弔うため地蔵尊を建てる」という文言を見て、「引取りのない受刑者の死体は、すべてこの墓地に埋められていたらしい。文子の死体も、文子の母が引取りに出むかなかったため、この墓地にいったん埋められてしまったのだ」と記述されている。

  仮埋葬となったこの地に立ち、「物音しない静寂がこの世のものと思えなくなり、鶯や山鳩が鳴りやむと南鮮の山奥の秘境にあった文子の墓地と自分が運び去られるのを感じた」と結んでいる。瀬戸内晴美、現在の瀬戸内寂聴が金子文子を蘇らせた作品だ。願わくば再度、この地を訪れ読経を唱えて欲しいと願うのだ。

  金子文子に関連して、かつての朝鮮半島への圧政や関東大震災朝鮮人虐殺などの検証、見直しなど多くの人によって研究が進められている。このブログではそのことへの言及はしていない。現在も鍵で閉ざされ、無縁仏の栃木刑務所共同墓地があることの想いを書いたからだ。仏になってからも鍵で囲まれた墓地に眠るには酷さを感じる。80年代からたくさんの住宅が建てられ、人家がこの共同墓地の周りを囲むようになっている。鍵のかかったフェンスで共同墓地を囲うということは、かつての雑木林や稲田のあった辺鄙な地帯から変わって来ていること示している。しかるべき寺院などに葬り直し、ここを公園にするなど地域のために活用を考える時期に来ていると思える。

                                   《夢野銀次》 

 

 

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