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2014年5月

四方を流れる栃木県庁掘―水源のある栃木高校

Photo2_2 明治6年(1872)から明治17年(1884)までに栃木町(現栃木市)には栃木県庁が置かれていた。県庁庁舎と官吏官舎を囲むように四方に県庁堀が流れていた。

 旧栃木市役所別館(水門・荷揚場跡付近)から漕渠(そうきょ)という運河がうずま川に繋がり、堀の水が注いでいた。うずま川舟運の盛んな時代、県庁敷地内にうずま川から直接舟で物資を運ぶ漕渠という運河を作っていた。敷地内に荷揚場もあったことが配置図でも確認されている。

 栃木市入舟町に旧栃木県庁堀としての遺構が今も流れている。栃木県指定文化財になっている。

Photo_17  県庁堀は平成26年の2月に福田屋跡地に移転した旧栃木市役所庁舎や第一・第二小学校を統合して開校した中央小学校、登録有形文化財(講堂・図書館・記念館)を有する栃木高校などを囲んで流れている。

 県庁堀は東西約246m、南北約315mの周長約1120mの南北方向に長い長方形を描いている。律令時代の国庁や中世の武家館のように旧県庁庁舎や官吏官舎を四方で囲んでいたのだ。現在は河川法の関連から正式な呼び名は「県庁堀川」という名称になっている。

Photo_10  県庁掘の水源は明治29年(1896)創立の県立栃木高校の校舎と校庭の境にある。北側の県庁堀にあたる。

 水源の水は取水ポンプで揚水され万遍なく湧き出ている。東側と西側に分かれゆったりと堀川となって校内を流れ出ている。東へ流れ出る堀川は東側の県庁堀として漕渠に繋がる。西に流れ出る堀川は校舎の塀と道路の下を通って西側に流れ、南側県庁堀に続いている。栃木市が平成11年3月にポンプを設置して維持管理を行なっている。

Photo_3  校舎と校庭の境に流れるその県庁堀川を見て驚いた。掘が綺麗に整備されているからだ。

 湧水あたりには鯉がたくさん泳いでいるのが見える。かつては堀のそばに地下水を汲み上げていた水泳プールがあった。冷たい水だった。

 小学校時代の夏。校門前の文房具店で入場券を買って、このプールで泳いだのだ。たくさんの子供たちがプールに入ってくるため、泳ぐより体を冷たい水にひたすようなものだった。底の深いプールだった。旧水泳プールの記念碑とた飛び込み台が堀のそばに展示されている。なつかしい。

Photo_19  県庁堀川の前には校庭がある。今は専用グランウドに移転した野球部がこのグランドで練習していた。夏の暑い昼さがりに自転車でプールから帰りながら、高齢の監督に打撃フォームの指導を受けている部員がいた。「こうやって先生から教えてもらえるのだ」とその時に子供心に思った光景が残っている。ところが、その時分に堀があったのかどうか、印象に残っていないのだ。傍らには県庁掘の標示板があった。

 標示板は平成7年(1995)11月に栃高創立百周年として敷地内を流れる県庁掘復元をおこなったとして第98回卒業生一同として建てられていた。歴史と伝統を重んじる栃木高校の姿勢に感心させられたので、その全文を記載する。

Photo_14  「本校を囲むように張り巡らされている総延長1260mの旧県庁堀川。校庭と校舎の境に東から西にかけて130mの堀があり湧き水が流れていた。しかし、授業や部活動において球が掘に飛び込むなど支障をきたしていたため昭和35、6年頃その大半を埋め立ててしまった。

 一方、残された堀は本校創立80周年記念として東の一部が池として回収された。その後本校に赴任した黒子教諭の呼び掛けによって更に整備が進められ『黒子池』と称され生徒の憩いの場となった。

 Photo_21 旧県庁堀川は『県庁堀』として昭和47年(1972)に市指定の文化財となっていることもあり、市民の間からも埋め立てられた堀の全面復元を望む声があがった。平成7年(1995)2月から7月にかけて復元作業が行われ9月26日に竣工。同年11月17日に掘の復元と本校創立99周年を記念して生徒会によって99匹の鯉放流が行われ、校内を『鯉のいる掘』が流れる、全国でも珍しい学校として本校の新たな憩いの場となっている。創立百周年 第98回卒業生一同」。

 「学校に断って戴けば何時でも一般の方でも校内にある県庁堀を見学できますよ」と学校の受付窓口で言われた。一部の人しか知られていないのではないかと思える。かつての小中学校の校庭は自由に遊ぶ広場としてあった。「関係者以外は立ち入り禁止」の看板が校門前に掲示されている時代。どうも臆してしまう。観光ボランティアの案内ルートにも栃高の県庁堀は入っていなかったような気がする。

Photo_22  気軽に散歩コースとして栃高にある県庁掘を見ることができないものだろうか。土日限定で観光客や市民が公園を散策するように栃高の県庁掘を開放して、自由に見学できたら素晴らしいことだと思える。それだけ栃高の県庁掘は見る価値があるからだ。

 県庁堀川を見ながら何故栃高に進学しなかったかを自問した。小学校は第二小学校だったので近かくに通うのが嫌だったこと。勉強をしないため成績が良くなかったこと。何よりも男子高校だったことだ。吉永小百合ファンだった自分は男女通学の高校に憧れたからだ。しかし、栃高の県庁掘を見て、ここをセーラー服の女学生と一緒に歩きたかったと思えてきた。校内に入り、県庁掘の岸辺にたたずみ、何だか遠い子供の頃の日々を呼び覚ましてくれたようだった。

                           《夢野銀次》  

≪関連ブログ≫

銀次のブログ「城郭の名残り―栃木町・明治の栃木県庁堀跡」

 

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我が家のイチゴを食べていますー11日目大相撲国技館

055_2 我が家の前の麦畑、黄金色の穂が風に吹かれている。

 ジャガイモの苗から白い花が咲く始めている。

 毎年楽しみに私のジャガイモを待っている姉や友人。今年も7月には送ることができる。

 サトイモの芽もそろそろ出始めてきている。

ゴーヤの苗も一昨日に植えた。あとは虫をどうしていくかだ。薬品は使用しないでの対応になる。

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  赤い実のイチゴが畝に横たわっている。

「イチゴは一年一年、苗を新しくしないと大きな実がならないよ」と近くの農家の人から教えてもらった。道理で小さい実しかできない筈だった。それまではイチゴの苗を棄てるには惜しいと思い、何年も同じ苗でイチゴを育ててきたからだ。ケチっていたことだ。

050一日20個のイチゴをこの一週間収穫してきている。

 100個近くのイチゴを毎朝、妻と食べていることになる。ご近所に配るには甘さが足りないのだ。 

 ランナーが出始めている。新しいイチゴの苗を植える準備はできている。

054 御近所の前のお家の畑でも絹さやをやっていた。もう収穫は終了している。絹さやの種を植えたのが遅かったから今の収穫になっている。

 「もう絹さや終わりなの」と妻が言ってきた。少なかった…。来年は倍の畝(両側)で絹さやをやってみる。

 この4月から早稲田大学のオープンカレッジの講座「日本歴史近世」に毎週、水曜日に通い始めた。

 7月と8月の講座は幕末と薩摩と長州。今から楽しみだ。

4月21日の水曜日は朝から強い雨だった。

016 お昼の講座終了後に両国国技館に行った。大相撲五月場所を当日券で観ようと思ったからだ。チケットが購入できない場合は亀戸に寄って、餃子を食べて栃木に帰ろうと考えての行動だった。

 自由席とC席は売り切れ、一階Cのマス席にするか二階B椅子席にするか迷った。結局は予算の関係で二階席とした。後で後悔することになる。

 十両土俵入りでは若の里が見えた。長い相撲取り人生だ。十両の正式な呼び名は幕下の中で『幕下十枚目』までの力士のことを言う。当日の取組表でも『十枚目土俵入り、是より十枚目取組み』と記載され、十両という言葉はどこにも記載されていない。本筋を著している。

 国技館はこれで3回目の観戦となるが、三人の横綱土俵入りを観ることができた。

003_2 それにしても国技館の館内は外国人の姿が目立って多いのには驚いた。モンゴル衣装したお客さんが歩いている。3割以上は外国人のお客さんのような気がした。

 隣の席には若い20歳くらいの女性が一人で観戦していた。シンガポールからの留学生だ。その娘さんが持っていた場内チラシは外国人向けのローマ字で書かれた取組表だった。さらに一列前にはアメリカ人団体客。通訳女性が「グランドチャンピオン(横綱)、ジム(所属部屋) 」と中入りの時に大きな声で通訳している言葉が聞こえた。

 幕下で栃の心が登場した。ケガで番付を下げていたのだなあ…。

040  幕内の取組みに入ると報道カメラマンからのフラッシュがまぶしくなってきた。土俵下からレンズを上に向けて撮っているからだ。二階席のつらさかな。

 結び三番前に「白鵬と豪栄道」の取り組み。豪栄道が白鵬を押し出しで勝った。座布団が飛んだ。両者の動きが速かった。一瞬の動きで勝負が決まったようだ。仕切りの時になんだか豪栄道がやってくれるような気がした。予感は当たったが、二階席からだと遠い世界のような気がした。近くで観たかった。残念だった。

 やっぱりマス席でないと重量感と迫力が伝わってこないのかもしれない。二階席は土俵から見上げれることで言わば天井席なのだなと思った。次回観に来るときはマス席を購入する。今回で分かったことは『マス席は一人分でも購入できる』ということだ。帰路の電車の中で「たとえ知らない人が座る4人席でも、相撲の臨場感を楽しむには一階のマス席なのだ」ということを己に言い聞かせた。 

※大相撲関連では銀次のブログ・石に彫りこまれた四股名―富岡八幡宮「横綱力士碑」もご覧ください。

                          《夢野銀次》

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石に彫りこまれた四股名―富岡八幡宮「横綱力士碑」

Photo 元禄15年(1702)12月15日の明け方、本所吉良邸でみごと本懐をとげた赤穂浪士一同が高輪の泉岳寺に引き揚げる途中に渡った永代橋。その永代橋から東方に深川、富岡八幡宮がある。

 寛永元年(1624)に高野山真言宗永代寺を開山した長盛法印は同じ敷地内に富岡八幡宮を寛永4年(1627)に創祀した。八幡大菩薩、応神天皇を祀る神仏混合の時代、葦の生い茂る隅田川の中州だった深川の地にお坊さんが富岡八幡宮を創祀したのだ。

 江戸の街づくりは治水と埋立など開拓工事から始まり、400年たった今でも続けられている。東京23区の中で深川のある江東区だけの面積が年々広がり続けている。摩訶不思議な現象と言うべきなのか。

 D2_1307367_sip1_4 相撲、芝居、吉原は江戸の娯楽の華と云われている。しかし、江戸初期においては辻相撲などで双方がすぐに喧嘩沙汰を起こすため禁止されていた。貞亨元年(1684)に富岡八幡境内における勧進相撲興行が寺社奉行から許可がおりた。火災で焼失した八幡宮社の造営費用のための勧進相撲だった。これを契機に以後亨和元年(1801)までの120年間、回向院に本場所が移行するまで富岡八幡宮境内で冬と秋、年2回の定場所の勧進相撲興行が行われていた。故に大相撲興行発祥の地と云われている。

 松本伸也著「富岡八幡宮と勧進相撲」の中で富岡八幡宮での勧進相撲興行について「幕府としては年々拡大する江戸の発展に伴って、深川を江戸の新たな市街地・行楽地としていき、江戸の産業の拠点として整備しようと考えた」と指摘している。

 5月の晴れた日、私は地下鉄東西線「茅場町」で下車して、歩いて富岡八幡に向かった。隅田川に架かる永代橋を渡り、「佐久間象山砲術塾跡」「渋澤栄一宅跡」の標識が目に付いた。現在は深川公園となっている富岡八幡宮別当永代寺跡地を通って富岡八幡宮に着いた。

Photo_21 富岡八幡宮本殿東側の境内敷地に「明治28年3月吉日・横綱力士碑」と彫りこまれた石碑が建っている。江東区指定文化財に指定されている年代物の重量感溢れる石碑だ。縦3.5メートル、横3メートル、厚さ1メートル、重さ20トンの白御影石でできている。題字は筑前大宰府書家宮小路康文氏によって揮毫されている。そして横綱力士碑の落成式は明治33年11月21日に執り行われている。明治26年に東京府知事に石碑建設認可願いを出してから7年、準備期間を含めて9年間は要しているとされている。

 「横綱力士碑」の建設発起人は江戸期最後の横綱となった負けずの陣幕と言われた第12代横綱陣幕久吾郎となっている。

Photo_31_2   富岡八幡宮社務所にて販売していた松本伸也著の「富岡八幡宮と大相撲勧進相撲」によれば、陣幕久五郎の略歴を次のように記述している。「陣幕久五郎は第12代横綱で、江戸時代に横綱免許を受けた最後の力士です。文政12年(1829)出雲国意宇郡出身、徳島藩、次いで松江藩のお抱え力士として活躍し、元治元年(1864)以降は薩摩藩のお抱え力士として仕えました。相撲以外にも尽力し、戊辰の役において薩摩藩を助けて活躍、その後は実業家として主に相撲関係の建碑事業に力を入れました。晩年は相撲煎餅を商っていましたが、明治36年心臓病で病没しました。享年75歳でした」。

 横綱力士碑の前には幕内不知火と幕下11枚目の陣幕が取り組んだ顕彰碑が建っている。安政4年正月場所2日目のこと。肥後と蜂須賀藩候のからみで、陣幕が勝った一番だ。

  慶応3年11月に陣幕は突然引退をする。同年12月の江戸薩摩藩邸屋敷焼き打ちに遭遇し、京都へ知らせるたり、翌年京都においては薩摩島津候の警護をなどを行なうなど倒幕戦に参加していったとされている。幕末の動乱期、相撲どころではなかったのか?(小島貞二著「歴代横綱おもしろ史話」、小池謙一編「大相撲鬼才人物列伝」より)

311    陣幕久五郎は「横綱免許」から「横綱力士」を考案し、石碑の建碑を行なったと指摘されている。横綱力士碑は横綱の名を後世に伝え、後進の力士への励みとして建設場所を富岡八幡宮境内に選んだ。八幡宮の氏子でもあるが、その理由として、①八幡宮境内に相撲の祖先とされる野見宿祢(のみのすくね)が祀られていること(現在は境内東側の末社に祀られている)、②かつての大相撲興行の地であることなどを挙げている。さらに明和8年(1771)に建てられた釈迦ケ嶽の等身碑(現在は大関力士碑の右前にある)と野見宿祢公とは同じ出雲出身でもあったからでもある。

 Photo 300有余の協賛者を集めて建設した横綱力士碑は当初、富岡八幡宮本殿の裏手、二本の大銀杏木の間に建設された。『深川公園横綱記念碑の図』では二本の大銀杏(現存)の間に建っており、東隣には釈迦ケ嶽等身碑や野見宿祢社が描かれている。

 本殿裏の御神木一帯は立ち入り禁止になっている。裏手に回り、垣根越しから注連縄をした大銀杏二本を見ることができた。以前はここにあったのだと改めて眺めた。鬱蒼と生い茂っている鎮守の杜は健在なのだ。陣幕が亡くなる前に横綱力士碑のそばで花相撲が行われたと記録されている。さぞかし満足して往生遂げたとことだろうと勝ってに想像した。

 昭和2年に横綱力士碑は現在地の本殿東側に移転した。大正13年の関東大震災で御本社や付属建物が焼失し、復興整備の一環として力士碑の移転が行われた。その費用は国技館における花相撲によって賄われた。(松本伸也著「富岡八幡宮と江戸勧進相撲」より)

Photo_61_7  横綱力士碑の裏面には初代横綱明石志賀之助から45代横綱若乃花勝治まで刻名されている。建設の際に陣幕久五郎は初代の明石志賀之助から16代横綱西ノ海までの横綱の四股名を列挙した。しかし、初代明石から2代横綱綾川五郎次、3代横綱丸山権太左衛門まで史実的な裏付けがなく異論が出された。4代横綱の谷風梶之助と5代横綱小野川喜三郎からは横綱伝授や土俵入りを著した記述から確認はされている。

 あいまいだった歴代横綱。陣幕が列挙して刻名した四股名は石のように強く、今では歴代横綱として相撲協会公認となっている。

 石碑の左端には「無頼力士雷電為右衛門」と刻まれている。史上最強の大関とうたわれた雷電の四股名が刻名されている。雷電が横綱免許を受けなかった理由は諸説ある。しかし、記録に残る資料からも大鵬、白鵬をしのぐ実績(勝率962、30連勝4回)を有していることから、横綱と同列に扱うことで横綱力士碑に刻名され、永くその名を残すことなのだなと感じた。

Photo_12  かつての横綱は綱を締めることが許された資格で、横綱免許を持つ大関に対する名誉称号に過ぎなかった。しかし今の年寄株取得と同じくらいの金銭が必要だったとも云う。

 横綱が初めて番付上に登場するのが明治23年(1890)5月場所からで、明治42年(1909)に相撲規約改正に伴い横綱は大関以上の最高地位と定められた。(ウイベギア「横綱」より)

 昭和25年(1950)に横綱審議会が発足した。41代横綱千代の山雅信より吉田司家からの横綱免許授与ではなく、横綱審議会による横綱を推挙する仕組みに変更になった。これによって横綱の強さと品格が問われる地位になった。

Photo_2  横綱力士碑に刻名するスペースが一杯になったため46代以降は側面に刻名していた。昭和58年10月5日に高さ3メートルの石2基が横綱力士碑の両側に建てられたことにより、右側の石碑は46代横綱朝潮太郎から66代横綱若乃花勝の四股名が刻名されている。その裏面には67代横綱武蔵丸光洋から70代横綱日馬富士公平が刻名されているのが読み取れる。

 刻名する石碑のスペースはたくさんある。一日も早く日本人の横綱の四股名が刻まれることを楽しみにしている。

Photo_91_2  64代横綱曙太郎と65代横綱貴乃花光司の刻名披露を平成7年(1995)4月23日に富岡八幡宮にて執り行った。それまでは時期を見て石碑に刻名したのだ。八幡宮から相撲協会へ奉告祭実施の打診があり、相撲協会も快諾し実現した行事だ。以後、66代横綱若乃花勝より刻名奉告祭と奉納土俵入りを富岡八幡宮にて行うようになってきた。

 平成26年(2014)5月場所から横綱として土俵に上がっている71代鶴竜力三郎の奉告祭刻名は同年10月7日に予定しているという。神社と大相撲との関係は深いと改めて感じた。

 昭和58年(1983)に大関力士碑が建設された。鳥居の先の右側に大関力士碑が建っている。引退した後に刻名が行われ、刻名されている最後の四股名は雅山哲士となっている。

Photo_81_2  その大関力士碑の手前左側に強豪関脇力士碑が昭和62年(1987)に建設されている。選考者3名の氏名が左脇に刻まれている。選考者の一人の小島貞二著の『江戸勧進相撲と富岡八幡宮』の中で選考内容の記述がある。要約すると「宝暦7年(1757)からの関脇124名の内三役力士としての勝率でピックアップして42名。ポイントを三役を含めて幕内上位の実績が豊富で、現在でいう三賞に値する成績を重視して脱退や死亡で大関を棒に振った力士も考慮に加えた」としている。

 刻名された力士の中に力道山光浩の四股名を見ることができた。他の力士には四股名の下に出身地が刻まれいるが力道山には刻まれていない。相撲界を去りプロレス界への転身は国籍問題が含まれていたと聞いている。昭和30年代、国民的ヒーローとなった力道山。その刻名されている四股名は白くなっている。どうして力道山だけ白いのか?社務所に訊ねたら「隠れて拓本をとっていく人がいるのですよ」と答えが返ってきた。

 横綱力士碑、大関力士碑、強豪関脇力士碑に刻まれている四股名。子供のころから知っている四股名を見ると、その当時の自分の姿が想い浮かんでくる。自分だけの思い出を呼び覚ましてくる。石に刻まれた四股名は永く続く。石には神が宿るから。

 《参考・引用資料》

 「富岡八幡宮と江戸勧進相撲」松本伸也著・発行、平成25年11月/「江戸東京物語下町編」新潮社編集・発行1993年12月/「大相撲鬼才人物烈伝」小池謙一編、東京堂出版発行、1994年9月/「歴代横綱おもしろ史話」小島貞二著、毎日新聞社発行、1993年/「ウイベギア・横綱」

                                 《夢野銀次》

  

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五月連休の時期は菜園作りに励む

049 夏野菜の畝作りは4月から始まり、5月の連休の時に苗を植えて一段落を迎える。

 毎年、この時期は菜園作りに励み、身体を酷使する。そのため今年もベルトの穴が一つ縮んだ。

 3月15日に植えたジャガイモは間もなく花が咲くな。

小玉のスイカの苗、2本植えた。

絹さやは遅く種をまいた関係でようやく白い花が咲き始めてきている。奥にあるイチゴ。赤い実を間もなく見ることができる。 

050_3  夏野菜の定番、ピーマン・シシトウ・ナス・キュウリ。

 キュウリの苗を3本植えた。後から種4つを植える予定。一度に食べられないため時間差を作るためだ。キュウリの支柱、突風に負けずに建っていて欲しい。

 ナスの横に枝豆の苗を植える。虫よけになるという。

051 大玉のトマトは作らない。中玉とミニトマトをこの数年間、やってきている。

 4段まで育てる。5段目までトマトの枝を伸ばす人が多いが、自分には無理だと思っている。トマトには水は控える。

063 サトイモをの苗を4月20日に植え、マルチで覆った。

 最初は昨年のサトイモの苗を植えた。しかし、苗が良くない。結局、ホームセンターでサトイモの苗を追加購入した。

 

サツマイモの苗をこれから植える。

奥のゴヤの畝。支柱を建てこれから植える。この畝は昨年まで駐車場だった所を土を掘り起こして作った。土壌作りの途中だが、やってみる。

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 メロンを植えた畝も土を掘り起こして作った新手の土壌だ。近所のばあ様がやっている畑の土を分けてもらい、混ぜあわせて作った畝。メロンは難しいと思うが、実りを目指す。

 スーパーで購入したカボチャ。その種で今年も苗が出てきた。

 奥にあるラッキョウ、どうも生きが良くない。土壌のせいなのか?それとも苗が良くなかったのか…?

038   所沢から移植してきたつつじ。白い花が咲いた。全部で6本あるつつじ。どうも今年はあまりよく咲かなかった。何故だろうか?

064 

 これからはラッカセイとイチゴの畝作りを行なう。

   イチゴのランナーをほろうして新しいイチゴを育てるつもりだ。

 4月から5月にかけての家庭菜園作り。 これで山を越した。この間、お勉強をおろそかにしていた分を取り戻すのだ。

ガンバロウ、なあ銀太。

      《夢野銀次》 

 

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