« 五月連休の時期は菜園作りに励む | トップページ | 我が家のイチゴを食べていますー11日目大相撲国技館 »

石に彫りこまれた四股名―富岡八幡宮「横綱力士碑」

Photo 元禄15年(1702)12月15日の明け方、本所吉良邸でみごと本懐をとげた赤穂浪士一同が高輪の泉岳寺に引き揚げる途中に渡った永代橋。その永代橋から東方に深川、富岡八幡宮がある。

 寛永元年(1624)に高野山真言宗永代寺を開山した長盛法印は同じ敷地内に富岡八幡宮を寛永4年(1627)に創祀した。八幡大菩薩、応神天皇を祀る神仏混合の時代、葦の生い茂る隅田川の中州だった深川の地にお坊さんが富岡八幡宮を創祀したのだ。

 江戸の街づくりは治水と埋立など開拓工事から始まり、400年たった今でも続けられている。東京23区の中で深川のある江東区だけの面積が年々広がり続けている。摩訶不思議な現象と言うべきなのか。

 D2_1307367_sip1_4 相撲、芝居、吉原は江戸の娯楽の華と云われている。しかし、江戸初期においては辻相撲などで双方がすぐに喧嘩沙汰を起こすため禁止されていた。貞亨元年(1684)に富岡八幡境内における勧進相撲興行が寺社奉行から許可がおりた。火災で焼失した八幡宮社の造営費用のための勧進相撲だった。これを契機に以後亨和元年(1801)までの120年間、回向院に本場所が移行するまで富岡八幡宮境内で冬と秋、年2回の定場所の勧進相撲興行が行われていた。故に大相撲興行発祥の地と云われている。

 松本伸也著「富岡八幡宮と勧進相撲」の中で富岡八幡宮での勧進相撲興行について「幕府としては年々拡大する江戸の発展に伴って、深川を江戸の新たな市街地・行楽地としていき、江戸の産業の拠点として整備しようと考えた」と指摘している。

 5月の晴れた日、私は地下鉄東西線「茅場町」で下車して、歩いて富岡八幡に向かった。隅田川に架かる永代橋を渡り、「佐久間象山砲術塾跡」「渋澤栄一宅跡」の標識が目に付いた。現在は深川公園となっている富岡八幡宮別当永代寺跡地を通って富岡八幡宮に着いた。

Photo_21 富岡八幡宮本殿東側の境内敷地に「明治28年3月吉日・横綱力士碑」と彫りこまれた石碑が建っている。江東区指定文化財に指定されている年代物の重量感溢れる石碑だ。縦3.5メートル、横3メートル、厚さ1メートル、重さ20トンの白御影石でできている。題字は筑前大宰府書家宮小路康文氏によって揮毫されている。そして横綱力士碑の落成式は明治33年11月21日に執り行われている。明治26年に東京府知事に石碑建設認可願いを出してから7年、準備期間を含めて9年間は要しているとされている。

 「横綱力士碑」の建設発起人は江戸期最後の横綱となった負けずの陣幕と言われた第12代横綱陣幕久吾郎となっている。

Photo_31_2   富岡八幡宮社務所にて販売していた松本伸也著の「富岡八幡宮と大相撲勧進相撲」によれば、陣幕久五郎の略歴を次のように記述している。「陣幕久五郎は第12代横綱で、江戸時代に横綱免許を受けた最後の力士です。文政12年(1829)出雲国意宇郡出身、徳島藩、次いで松江藩のお抱え力士として活躍し、元治元年(1864)以降は薩摩藩のお抱え力士として仕えました。相撲以外にも尽力し、戊辰の役において薩摩藩を助けて活躍、その後は実業家として主に相撲関係の建碑事業に力を入れました。晩年は相撲煎餅を商っていましたが、明治36年心臓病で病没しました。享年75歳でした」。

 横綱力士碑の前には幕内不知火と幕下11枚目の陣幕が取り組んだ顕彰碑が建っている。安政4年正月場所2日目のこと。肥後と蜂須賀藩候のからみで、陣幕が勝った一番だ。

  慶応3年11月に陣幕は突然引退をする。同年12月の江戸薩摩藩邸屋敷焼き打ちに遭遇し、京都へ知らせるたり、翌年京都においては薩摩島津候の警護をなどを行なうなど倒幕戦に参加していったとされている。幕末の動乱期、相撲どころではなかったのか?(小島貞二著「歴代横綱おもしろ史話」、小池謙一編「大相撲鬼才人物列伝」より)

311    陣幕久五郎は「横綱免許」から「横綱力士」を考案し、石碑の建碑を行なったと指摘されている。横綱力士碑は横綱の名を後世に伝え、後進の力士への励みとして建設場所を富岡八幡宮境内に選んだ。八幡宮の氏子でもあるが、その理由として、①八幡宮境内に相撲の祖先とされる野見宿祢(のみのすくね)が祀られていること(現在は境内東側の末社に祀られている)、②かつての大相撲興行の地であることなどを挙げている。さらに明和8年(1771)に建てられた釈迦ケ嶽の等身碑(現在は大関力士碑の右前にある)と野見宿祢公とは同じ出雲出身でもあったからでもある。

 Photo 300有余の協賛者を集めて建設した横綱力士碑は当初、富岡八幡宮本殿の裏手、二本の大銀杏木の間に建設された。『深川公園横綱記念碑の図』では二本の大銀杏(現存)の間に建っており、東隣には釈迦ケ嶽等身碑や野見宿祢社が描かれている。

 本殿裏の御神木一帯は立ち入り禁止になっている。裏手に回り、垣根越しから注連縄をした大銀杏二本を見ることができた。以前はここにあったのだと改めて眺めた。鬱蒼と生い茂っている鎮守の杜は健在なのだ。陣幕が亡くなる前に横綱力士碑のそばで花相撲が行われたと記録されている。さぞかし満足して往生遂げたとことだろうと勝ってに想像した。

 昭和2年に横綱力士碑は現在地の本殿東側に移転した。大正13年の関東大震災で御本社や付属建物が焼失し、復興整備の一環として力士碑の移転が行われた。その費用は国技館における花相撲によって賄われた。(松本伸也著「富岡八幡宮と江戸勧進相撲」より)

Photo_61_7  横綱力士碑の裏面には初代横綱明石志賀之助から45代横綱若乃花勝治まで刻名されている。建設の際に陣幕久五郎は初代の明石志賀之助から16代横綱西ノ海までの横綱の四股名を列挙した。しかし、初代明石から2代横綱綾川五郎次、3代横綱丸山権太左衛門まで史実的な裏付けがなく異論が出された。4代横綱の谷風梶之助と5代横綱小野川喜三郎からは横綱伝授や土俵入りを著した記述から確認はされている。

 あいまいだった歴代横綱。陣幕が列挙して刻名した四股名は石のように強く、今では歴代横綱として相撲協会公認となっている。

 石碑の左端には「無頼力士雷電為右衛門」と刻まれている。史上最強の大関とうたわれた雷電の四股名が刻名されている。雷電が横綱免許を受けなかった理由は諸説ある。しかし、記録に残る資料からも大鵬、白鵬をしのぐ実績(勝率962、30連勝4回)を有していることから、横綱と同列に扱うことで横綱力士碑に刻名され、永くその名を残すことなのだなと感じた。

Photo_12  かつての横綱は綱を締めることが許された資格で、横綱免許を持つ大関に対する名誉称号に過ぎなかった。しかし今の年寄株取得と同じくらいの金銭が必要だったとも云う。

 横綱が初めて番付上に登場するのが明治23年(1890)5月場所からで、明治42年(1909)に相撲規約改正に伴い横綱は大関以上の最高地位と定められた。(ウイベギア「横綱」より)

 昭和25年(1950)に横綱審議会が発足した。41代横綱千代の山雅信より吉田司家からの横綱免許授与ではなく、横綱審議会による横綱を推挙する仕組みに変更になった。これによって横綱の強さと品格が問われる地位になった。

Photo_2  横綱力士碑に刻名するスペースが一杯になったため46代以降は側面に刻名していた。昭和58年10月5日に高さ3メートルの石2基が横綱力士碑の両側に建てられたことにより、右側の石碑は46代横綱朝潮太郎から66代横綱若乃花勝の四股名が刻名されている。その裏面には67代横綱武蔵丸光洋から70代横綱日馬富士公平が刻名されているのが読み取れる。

 刻名する石碑のスペースはたくさんある。一日も早く日本人の横綱の四股名が刻まれることを楽しみにしている。

Photo_91_2  64代横綱曙太郎と65代横綱貴乃花光司の刻名披露を平成7年(1995)4月23日に富岡八幡宮にて執り行った。それまでは時期を見て石碑に刻名したのだ。八幡宮から相撲協会へ奉告祭実施の打診があり、相撲協会も快諾し実現した行事だ。以後、66代横綱若乃花勝より刻名奉告祭と奉納土俵入りを富岡八幡宮にて行うようになってきた。

 平成26年(2014)5月場所から横綱として土俵に上がっている71代鶴竜力三郎の奉告祭刻名は同年10月7日に予定しているという。神社と大相撲との関係は深いと改めて感じた。

 昭和58年(1983)に大関力士碑が建設された。鳥居の先の右側に大関力士碑が建っている。引退した後に刻名が行われ、刻名されている最後の四股名は雅山哲士となっている。

Photo_81_2  その大関力士碑の手前左側に強豪関脇力士碑が昭和62年(1987)に建設されている。選考者3名の氏名が左脇に刻まれている。選考者の一人の小島貞二著の『江戸勧進相撲と富岡八幡宮』の中で選考内容の記述がある。要約すると「宝暦7年(1757)からの関脇124名の内三役力士としての勝率でピックアップして42名。ポイントを三役を含めて幕内上位の実績が豊富で、現在でいう三賞に値する成績を重視して脱退や死亡で大関を棒に振った力士も考慮に加えた」としている。

 刻名された力士の中に力道山光浩の四股名を見ることができた。他の力士には四股名の下に出身地が刻まれいるが力道山には刻まれていない。相撲界を去りプロレス界への転身は国籍問題が含まれていたと聞いている。昭和30年代、国民的ヒーローとなった力道山。その刻名されている四股名は白くなっている。どうして力道山だけ白いのか?社務所に訊ねたら「隠れて拓本をとっていく人がいるのですよ」と答えが返ってきた。

 横綱力士碑、大関力士碑、強豪関脇力士碑に刻まれている四股名。子供のころから知っている四股名を見ると、その当時の自分の姿が想い浮かんでくる。自分だけの思い出を呼び覚ましてくる。石に刻まれた四股名は永く続く。石には神が宿るから。

 《参考・引用資料》

 「富岡八幡宮と江戸勧進相撲」松本伸也著・発行、平成25年11月/「江戸東京物語下町編」新潮社編集・発行1993年12月/「大相撲鬼才人物烈伝」小池謙一編、東京堂出版発行、1994年9月/「歴代横綱おもしろ史話」小島貞二著、毎日新聞社発行、1993年/「ウイベギア・横綱」

                                 《夢野銀次》

  

|

« 五月連休の時期は菜園作りに励む | トップページ | 我が家のイチゴを食べていますー11日目大相撲国技館 »

歴史散策」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1233525/56195279

この記事へのトラックバック一覧です: 石に彫りこまれた四股名―富岡八幡宮「横綱力士碑」:

« 五月連休の時期は菜園作りに励む | トップページ | 我が家のイチゴを食べていますー11日目大相撲国技館 »