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2014年7月

女の海峡-「男はつらいよ」から渥美清と都はるみをみる

4120000213357_1l1  「はるみちゃんは他の歌い手さんと違って、なんだかいやいや歌を歌っているように見えるんだよね。怠け者のおれに似ていて、歌を聞いていると親近感が湧いてきて安心するんだ」と都はるみを語った渥美清。(「昭和の自由と象徴『寅さん』を生きた男―渥美清」より)。

   スクリーンの中で、渥美清が都はるみをじーと見つめる小さな眼。真剣な眼差しは怖さを感じるシーンだ。「とらや」の庭先に集まった柴又界隈の人たちに縁側から「アンコ椿は恋の花」を歌う京はるみ(都はるみ)。縁側の脇から歌う京はるみの横顔を台所に立って見つめる寅(渥美清)。厳しく真剣な眼差しをした寅さん。いや役者渥美清が歌手都はるみに注ぐ視線となって映ってくる。山田洋次監督と渥美清は都はるみの何を描こうとしていたのだろうか?この映画は車寅次郎とか京はるみという役柄名より、渥美清と都はるみでみた方がおもしろいと思えた。

  映画「男はつらいよ」シリーズ31作目「旅と女と寅次郎」は今から31年前の昭和58年(1983)8月に公開された作品。マドンナ役は当時人気絶頂だった歌手の都はるみ。

3fd4266681dc63b40989ce715ab562e91 都はるみの役柄は人気歌手「京はるみ」。歌手都はるみがそのままの役柄に設定されての出演。映画の中で歌う曲「涙の連絡船、惚れちゃたんだよ、アンコ椿は恋の花、女の海峡」はいずれも都はるみの歌。シリーズの中でも異色の作品と位置づけされている。

 都はるみのファンであった渥美清の要望で企画されたとも言われている。「寅さんシリーズ」の企画に渥美清も加わっていたと云われている。

 「おれは歌手は、美空ひばり、都はるみ、大好きだよ。それに、中村美津子っていうの、一回見てみたいねぇ。まあ、この三人だな」と渥美清の付け人をしていた篠原靖治氏は「生きてんの精いっぱい 人間渥美清」の中で記述し、「おれは怠けもんだからねぇ」と渥美清はよく口にしていたことも書かれてある。

Img_11_2 佐渡島の民宿で「矢切の渡し」を浴衣姿のはるみが口ずさむ。「うまいな歌が、銭とれるよ」と思わず唸る寅さん。失踪してきたことを寅さんに話すはるみ。寅は黙って優しく聞く。酔ったはるみは「寅さん、明日は何時?」と聞く。「何時って、好きな時に起きればいいんだ」と答える寅。「そうなんだ。わたしは自由なんだ」と喜ぶはるみ。束縛された世界から自由に生きている寅さんを見るはるみ。浴衣姿の35歳の都はるみが若い娘のように映し出され艶を感じさせる。一年後に都はるみの引退宣言する心情がここに隠されているように見えてくる。

Hqdefault1 ~別れることは死ぬよりも もっと淋しいものなのね 東京をすてた女がひとり 汽車から船に乗りかえて 北へ流れる… 夜の海峡 雪が舞う~

~砕けた恋に泣けるのか 雪がふるからなけるのか ふたたび生きて逢う日はないと こころに決めた旅なのに みれん深まる… 夜の海峡 わかれ波~

~いのちと想う愛もなく 海の暗さが眼にしみる 汽笛よ波よおしえておくれ 私の明日はどこにある こころ冷たい… 夜の海峡 ひとり旅~  「女の海峡」(作詞:石本美由紀、作曲:猪俣公章)。

  平成2年(1990)5月10日、都はるみはNHKホールでの「都はるみ復帰コンサート」をネットで開き「女の海峡」をYouTubeで見ることができた。昭和47年(1972)発売の曲だが、NHKホールのステージで歌う都はるみの詞がズシーンと響いて来た。「別れることは死ぬよりももっと淋しいものなのね」…男(女)からの別離を受けグサッときている女(男)の心情だ。「砕けた恋に泣けるのか雪がふるから泣けるのか」…雪のように心が冷たく泣ける。そして、「私の明日はどこにある」…明日を模索しながら暗い波間の闇を見つめる姿が浮かびあがってくる。詞と曲と歌が一体となった深さを感じるステージでの歌だ。そこには復帰を決意し、真剣に緊張感を持って歌う都はるみが観客を魅了する姿が映っていた。この歌は「男はつらい」の中の最後に都はるみが歌っていたことを思い出した。DVDを借りてきて31年ぶりに「男はつらいよ 旅と女と寅次郎」を見た。

Img_01_2  ~海は荒海、むこうは佐渡よ すずめ啼け啼けもう日はくれた みんな呼べ呼べ お星さま出たぞ~(「砂山」北原白秋作詞、中山晋平作曲)。岸壁から佐渡の碧い海に向かって明るく歌う。笑顔が可愛い都はるみ。そばには渥美清が優しい眼差しで見つめる。佐渡島のロケーションがきれいだった。31年前、最初に見た時、これは『ローマの休日』だと思っ。さらにラストで歌う「女の海峡」は何と暗いのだという印象を受けたのを憶えている。シリーズの中でこの作品は余興だと言う人もいた。しかし有名人へ思慕する寅さん「あってもいいな」と感想を持ったのだ。

 渥美清は感じていたのか、知っていたのか?都はるみが歌うことに葛藤していたことを。もしそうならば、渥美清という役者、映画を通して都はるみに向かい、同じ芸の世界で生きる者としての叱咤激励している映画に見えてくるのだ。田所康男が渥美清になる。北村晴美が都はるみになる。虚像と実像の狭間で芸に生きる世界を共に共有する二人。しかし、都はるみはこの映画公開の翌年の3月に引退発表を行う。そしてその年、昭和59年(1984)の大晦日の紅白歌合戦を最後に引退をする。大トリで「夫婦坂」を歌う都はるみ。その時の瞬間視聴率は84.4%と紅白史上最多の視聴率をあげた。美空ひばりの足跡を追いながらも「女のしあわわせ」を選んでの引退だ。映画「男はつらいよ」は都はるみの引退への呼び水になったのかは誰も述べていない。たまたま偶然が重なったということなのだろうか。

  昭和57年(1976)、「岬」で芥川賞を受賞し、平成4年(1992)に46歳の若さで死去した中上健次は「天の声 小説都はるみ」で都はるみを昭和62年(1987)に書いている。歌を歌う子供の頃から紅白歌合戦で引退するまでの都はるみの内面を書きながら、「天成の徴つきの歌手が今日、歌と心中する。心中するしか、歌の魔力からのがれる方法はない」と引退を決意するまで、歌の魔力と戦う都はるみの内面を描いた本だ。 

510b5cmrdml_sl500_aa300_1_2 「20年間の歌手生活をくくるとしたらこの5曲。《うなった》「アンコ椿は恋の花」、《泣いた》「涙の連絡船」、《ささやいた》「北の宿から」、《つぶやいた》「大阪しぐれ」、そして《遺書》としての「夫婦坂」が、都はるみの代表曲だと本人は思っている。またそれが大方の世間の意見でもあった」と引退後、プロデユーサーとして芸能会に復帰してきた頃のシンポジュウムでの都はるみの発言から記述している有田芳生著「歌屋 都はるみ」(1997年10月文春文庫本)を読んだ。

  ノンフイクションの同書は都はるみの子供の頃から、京都での母親から歌を教えられ、コロムビア全国歌謡コンクールで優勝、あこがれの美空ひばりと交流、市川昭介との出会いから、離婚、中村一好とのコンビと事実婚、引退、音楽プロデユーサーとして芸能界への復帰、美空ひばりの死をきっかけに歌手として復帰。復帰した都はるみの新たな「歌屋」として歌への挑戦など、詳細に丁寧に書いている都はるみそのものを著した本だ。同年輩の私にはいつも身近に存在した歌手であったため、今回、この本を読むことで多くの都はるみを知ることができた。本の最後は「歌屋」として歌手活動を続けていく都はるみを描いている。 

 中でも平成元年(1989)6月11日に放送された「サンデープロジェクト」中でコメンテーターとして出演していた都はるみの番組内でのコメント、全文が記載されている。美空ひばりの訃報を受けてのコメントだ。子供のころから美空ひばりの歌を聴きながら美空ひばりを目指してきたこと。北の宿でレコード大賞を受賞する時に週刊紙に差別中傷記事が載り、歌手を一番辞めたかったこと。その時に美空ひばりから「いろいろなこと書かれたねぇ。だけどまあ頑張って歌いなさいね」という励ましを受けたこと。引退する際には美空ひばりから、「あんた、自分のいちばん大事なものを捨てるんだから、幸せになんなきゃ怒るよ」と、ものすごい怖い顔でにらまれたこと。家族問題で同じようにマスコミから攻勢されてきた美空ひばりの励ましの言葉が大きかったことが記述されいる。読みながら改めて美空ひばりの存在が大きかったことと都はるみの歌手としての葛藤に唸ってしまった箇所だった。 

  同書「歌屋 都はるみ」の中で渥美清が出てくる箇所がある。昭和49年(1974)10月11日にNHKホールで開いた「都はるみ10周年記念リサイタル」での箇所。この時の演出構成はミュージカル演出家で「若者たち」「希望」の作詞家でもある藤田敏雄が手掛けている。藤田敏雄はまず「二時間を一人で勝負しなさい」と都はるみに宣告し、すべてフルコーラスで歌うこととしたこと。そして「戦友」という「弱い歌」(弱音)を歌わせている。当時、「できるだけ弱く」を体現していた歌手は美空ひばりと越路吹雪だった。都はるみという「こぶし」「うなり」という「強い歌」の間に弱音で歌いこなすことがプロ歌手の至芸だと考えていたからの選曲だった。渋った都はるみだったが勝気な性格は演出藤田敏雄に立ち向かい、歌いきったステージになったと記述されている。 

Img_41 観客の一人に渥美清がいた。同書には「のちに藤田敏雄に会ったとき、渥美(清)は(藤田)にこう言った。『いやー、あれは面白かったぞ、あれは』。なかなかそんな言葉を吐かない渥美だと知っている藤田は、内心うれしくてたまらなかった」と記述している。都はるみのターニングポイントになったステージだったと思える。山田洋次監督は渥美清のことを「あらゆる映画、あらゆる芝居を全部見て歩いている人でした。もしかして日本で映画と芝居を最もたくさん見た人じゃないかな…。僕は渥美清が映画評、演劇評をしたら、大変なベストセラーになると思ったな」と「昭和の自由と象徴『寅さん』を生きた男ー渥美清」に渥美清の眼識を大きく評価していることが記載されている。渥美清が都はるみのステージを常に注視していたことが見て取れるコメントだ。 

Mypictr_220x31738671755725191 平成20年(2008)の3月、その年の12月に閉館する新宿コマ劇場で私は「都はるみ公演」をみた。5年以上の前なのでわずかな記憶の中で記しておく。 

  その時の芝居は都はるみ母親役を本人が演じる都はるみの自伝「好きになった人・市川昭介」。劇中で「北の宿から」の歌唱方法に悩むシーンがでてくる。歌い方の「前に出る攻める歌唱」と「引き寄せる歌唱」についてだ。10周年記念リサイタルの歌い方がこの舞台でも表れていたのかもしれない。二部の歌謡ショウ。歌う都はるみの姿を見つめ、歌を聴きながら「違うな、違うんだよな、都はるみと…」という違和感の印象があったことが今でも心に残っている。「どうしてなのかな?よかったとは言えないステージだ」という感想は抱いた。その想いは今でも続いている。 

  平成2年(1990)5月NHKホールでの復帰コンサートと平成15年(2003)の日生劇場公演での「女の海峡」をYouTubeで見比べた。音楽には疎い私だが、どっちがいい?と問われれば、NHKホールでの復帰コンサートの「女の海峡」を選ぶ。保守的だと笑われるかもしれないなが。復帰後の都はるみの歌い方は大きく変化しているのを感じる。新しいジャンルへの挑戦、野外ステージでの公演と今までにないステージ公演を展開している。それも規模を大きくしていての公演だ。身近な歌手が遠くへ行ってしまったような感じがする。歌手ではなく自分は歌屋だと本に記載されている。「歌屋」いうのは何なのだろうか?

  「歌屋 都はるみ」のなかで「はるみの新しい生き方は、引退以前のように嫌でもやらねばならない仕事として歌うことではなく、自分の好きな曲を精一杯歌うことである。(略)歌屋―それは20年間歌いつづけてきた都はるみと一人の女性である北村晴美が一体となりうる唯一の職業だった」と記述している。歌謡曲、演歌という枠から新しいジャンルに挑戦するのは良いのだが、従来の都はるみも変えるということなのか?どうもよく分からない。都はるみファンに申し訳けないが「そばに近寄れない」「笑顔が見えない」「突き進んでいる」。復帰後の都はるにそんな怖さを感じる。「歌屋」ってもっと気軽に軒先で歌う世界ではないかとイメージしてしまうのだ。 

41rgfqnw1sl_sl500_aa300_1  復帰した都はるみが歌手活動を続けながら、平成9年(1997)~平成17年(2005)までの間に新聞や雑誌でのコメントを本にした「メッセージ」を平成18年(2006)8月に発行している。印象に残ったコメントを記載してみる。 

 「もう誰かに歌わされている都はるみはいません。私は『歌屋』です」(新潮、03年5月号)。「生意気かもしれないけど、最近は私が歌を選んだんじゃなくて、歌が私を選んでくれたのかなって、思うのです。私は『歌手』ではなく、『歌屋』なんですね」(02年9月12日朝日新聞)。「自分の言葉で、自分の視点で訴えられる歌を歌いたかった」(02年7月3日産経新聞)。「歌、うまいですねという言葉より、面白い人ですねと言われる方がうれしい」(99年10月22日読売新聞)。「年齢を重ねるにしたがって、とんがっていた部分が取れて、かわいい女になっていくのが私の理想。歌もしかりです」「歌の主人公に優しいまなざしを向ける語り部という距離感が、自分の歌を一番生かすという結論に達しました」(99年5月14日読売新聞)。「都はるみは、難しくなっちゃいけない。女王、横綱になるより、いつまでも大関でいたい」(99年4月21日毎日新聞)。 

  いずれも抜粋のコメントが抽出され、写真と組み合わされて構成されている本になっている。コメントを読みながら、私には復帰後の都はるみは、このコメントと違う道を歩いているのではないかと思えるのだ。そういえば新宿コマで都はるみのステージを見てから、私の中では都はるみへの関心が薄くなっていたことに気が付いた。復帰後の歌や曲が難しくなってきているからだ。歌う動作がオーバーになっている。自然体の歌ではなく、素直さが消え、どこか作っている歌に聞こえてくるのだ。現在の若者の歌をあまり聞かなくなっていることと同じような気がしているのだ。 

Sora3_49881050153191_3   映画「男はつらいよ」の中で「とらや」の縁側を舞台に柴又の人々の前で歌う「アンコ椿は恋の花」。うっとりと聞き惚れるタコ社長と源公。にこにこ笑いながら聞き入る柴又界隈の人たち。明るい雰囲気が描かれている。佐渡島の岸壁で地元の魚師と歌う「佐渡おけさ」のどこか切なさを感じるシーン。これらのシーンこそが「歌屋」の世界を表しているのではないかと思える。歌い手と観客で作る心が動く感動の空間…一体感。芸が目指す世界はそこにあると思えるのだ。

  映画の最後に「女の海峡」を大ステージでスポットを浴びて歌う都はるみを持ってきた。「女の海峡」を歌う前にはるみは寅さんのことを語る。歌うことと一人の女としての迷い、旅をしたこと。「その人はわたしに何も聞こうとしませんでした。でも、その人の小さな細い目はわたしを優しく見つめてくれました。面白い冗談を言って笑わせてもくれました。名前を寅さんと言いました。今ごろどこにいるのかしら寅さんは」。ステージで歌う「女の海峡」は二番目まで。画面は北海道でテキヤ仲間とじゃれ合っている笑顔の寅さんを映し、映画は終わる。歌詞の三番目にある「~私の明日はどこにある こころ冷たい… 夜の海峡 ひとり旅~」。暗いひとり旅のなかで寅さんや妹さくらたちに出会う。心が穏やかに和む世界を作っていく。映画「男はつらい」にはそれがあるとしみじみと感じることができた。

  ファンあっての歌手。中上健次が言う天成の徴を持つ歌手、都はるみ。選らばれて世に出たからには逃れられない歌の世界。今、都はるみは歌の世界で確かに挑戦しているのだと思う。10代の頃から同世代の歌手として私の中に都はるみはいた。しかし、この5年間は都はるみはいなかった。映画「男はつらい」を見直すことによって、もう一度都はるみを見つめていこうと思えてきた。

                                   《夢野銀次》

《参考引用資料本》 

 中上健次著「天の歌 小説都はるみ」(1987年発行毎日新聞社)、有田芳生著「歌屋 都はるみ」(1997年発行文春文庫)、都はるみ著「メッセージ」(2006年発行樹立社)、篠原靖治著「生きてんの精いっぱい 人間渥美清」(1997年発行主婦と生活社)、ブログ「昭和の自由と象徴『寅さん』を生きた男ー渥美清』、小西良太郎著「美空ひばり『涙の河』を越えて」、塩澤実信著「昭和のすたるじい流行歌(はやりうた)」(1991年発行第三文明社)、

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悔いが残るのか―黒羽高校・荒川裕貴投手

Photo  「一年の秋から投げ続けたからな」と黒羽高校の関係者が小さく語る。「春の大会でのひじのけがは完治しいていたんだが、9回は持たないと思い先発をはずしたんだろう。一年生では夏の大会は重かったのだな」と半ば当然の結果として、その人はグランドを見つめていた。先発投手が荒川祐貴ではないという私の疑問に答えてくれた。

 「四番ピッチャー嘉久和君」との城内アナウンス。「え!どうして荒川じゃないんだ?」。体調不良なのか、しかし、一回の黒羽の守りの時に一塁側ブルペンで荒川投手は練習ピッチングを行なっている。Photo_12

 一回の裏、宇都宮青陵高校は一年生投手から簡単に4点を取る。荒川投手がマウンドに向かう。140キロ前後の球を投げる。しかし、追加点を与え、勝負は決した。
 8対0で宇都宮青陵高校にコールド負けをした黒羽高校。

 第96回全国高校野球選手権栃木大会を迎えるにあたり、下野新聞をはじめ大手新聞の地域版には143キロの速球投手として黒羽高校の荒川投手の活字が眼についていた。無名の高校から注目される投手がいると報道されていた。 Photo_11

 「リリーフで投げられるのなら、何故最初からいかないのだ。やれるところまでやるのも一つ選択ではなかったのか」。そう監督に問いかけをしたくなる。ここまで支えてきた荒川投手。しかし、彼の野球生命を終わりにはできないと思ったのだろう。

 上半身の強さとバネで速球を投げる投法では限界がある。下半身を鍛え直して、神宮球場で投げる荒川祐貴を観ることを楽しみにする。

 大学野球に挑戦をして欲しい。

 昨年の秋の大会、栃木商業との延長15回を投げた姿。今年の春の大会、3回以降作新学院をパーフェクトで抑えた投球。何かに向かって挑戦していく強い投法は記憶に残る投手の一人だ。

Photo_5 黒羽高校は栃木県大田原市の黒羽城の東方にある400人規模の男女共学の県立高校。小高い丘陵から八溝山から那須連峰の頂きを見渡せる所に建っている。

 近年では相撲部が栃木県下トップの位置になってきている。元黒羽町の小さな町の高校。近くには山城として有名な黒羽城址がある。

 校庭に立つと校舎とグランドの風景からある高校を思い出した。徳島県池田町にある池田高校の校舎とグランドの造りがこの黒羽高校は類似しているのだ。以前、車で通りながら眺めた池田高校を連想させた。山あいの高校から「さわやかイレブン」として大きな甲子園で羽ばたいた池田高校。
 

Photo_10 小学校から甲子園目指して、硬球の野球をする子供たち。片や三角ベースの延長として高校野球がある子供たち。100人近い野球部員を抱える高校。一方では夏の大会が終われば部員9人がいるのどうかわからない高校。二極化が進んでいる中での黒羽高校は私に強い希望を与えてくれた。野球って楽しいゲームなんだ。真剣に勝負するって気持ちがいいものなのだと…。

 夏の地方大会は三年生には悲しい時間が待っている。負ければ最後の試合となるからだ。悔いのない試合をしたいと誰でもが思う。しかし、そうはいかないのが現実の世界でもある。

 すべては己の鍛錬不足だったのだ。この悔しさを生かすも殺すも本人次第だ。次のページをめくるため、これから何をしていくべきか。明日は待っていない。分からなければ身体に聞くのだ。期待しています。そして待っています―荒川祐貴投手。

                                               《夢野銀次》

≪関連ブログ≫

・銀次のブログ:夏が楽しみな黒羽高校・黒川祐貴投手 

・銀次のブロ;延長15回栃木商業が制する―秋季高校野球栃木県大会 

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城郭の名残り―栃木町・明治の栃木県庁堀跡

Photo  「県庁跡にある堀は押し寄せる農民一揆から県庁を守るためできていたのかな?」と、小学校に通っていた頃、県庁堀を見ながら思っていた。

  今の栃木中央小学校になった栃木第二小学校の傍を県庁掘が流れていた。小学校は栃木高校と同じく県庁堀の中にあった。平成26年2月に栃木市万町にあった福田屋跡地に移転した栃木市役所の庁舎も南側の堀沿いにあった。大正10年(1921)に建築された旧市役所別館は今も空き家として県庁堀の水門・揚場跡に建っている。文化遺産の市役所別館を「栃木市歴史資料館」として活用して欲しいと願っているのだが…。

10  県庁堀は明治6年(1873)1月から明治17年(1884)1月の間、栃木町に栃木県庁が置かれていた時に、県庁舎や官吏宿舎の敷地を囲むように造られていた。水源は堀の北側、現在の栃木高校の校舎と校庭の境目にあり、東西に現在も流れ出ている。東西約246m、南北約315mの堀と巴波川から県庁に直接舟が着くように造られた長さ120mの漕渠(そうきょ、運河)があり、合わせて総延長1260m、堀の幅3.5~5.5mとなっている。

  平成8年(1996)8月に栃木県指定文化財に登録されている。県庁堀の正式な名前は県庁堀川と称し、堀にはニシキ鯉の群れが、清流の中を生き生きと泳いでいる。平成8年に水源のある栃高の堀を含め護岸工事によって県庁堀全体が整備されている。

Photo  明治4年(1871)6月に鍋島貞幹(なべしまさだもと)日光県知事は本庁を日光から栃木町への移転と日光県から栃木県に名称を変更する願出を明治中央政府に出している。移転したい理由として、①巴波川舟運の発達により輸送が便利、②下野国の中央に位置し、道路が各方面に通じていて交通が便利、③人家が密集していて豪農商家があり、人や物資が集中する土地、④その一方、無頼の徒が流れ込んで来ることもあり、かつて足利藩が出張陣屋を設置して取り締まってきた場所だと挙げている。この時初めて「栃木県」という名称が現れたと栃木県史に記述されている。これに対する指令(返答)はなかった。

Photo_9  日光県(2万石)は明治2年(1869)7月に真岡県(8万3千石)と合わせて設置された。宇都宮藩7万石を超える10万石の支配地を有する石高となった。下野には藩や諸藩飛び地と徳川幕府・旗本領地があった。幕府領を管轄にしていたのが真岡代官所だった。慶応4年(明治元年・1868)6月に真岡代官所管轄地を中央政府の直轄地とし、真岡県と称した。その支配地は芳賀郡2ヵ町75ヵ村、河内郡4ヵ宿44ヵ村、都賀郡4ヵ宿50ヵ村、塩谷郡9ヵ村、那須郡1ヵ宿60ヵ村、5郡合わせて238ヵ村9ヵ宿2ヵ町と日光神領・旗本領合わせると下野国20%(下野国全体55万石)を占める。武蔵・相模・伊豆の幕領26万石を所管轄する韮山代官所には及ばないが、下野国最大の所管轄・石高を有する県になった。この真岡県知事に鍋島藩家士鍋島貞幹が「総野鎮撫府」(長官は鍋島藩主、鍋島直大)から任命された。

Photo_3  下野新聞社発行「明治百年野州外史」によれば、総野鎮撫府とは下総と下野の2国支配下として「一国鎮圧・政務採決」を任務とした軍政機関であった。鍋島直大(なべしまなおひろ)長官に対する命令書には『2国近辺に賊軍が出没して官軍に抵抗し、王民を苦しめ、まだ平定に至らないから、賊軍を鎮圧し、2国の各藩の動向をよく見極め、民政を取り締まり、人民が家業に安んじうるように指揮せよ』と記述されている。

  藩主が受けた命令はそのまま下野真岡県知事となった家臣の鍋島貞幹にも同様の命令となって、戊辰戦争東北の戦いという戦時下の考えで下野国支配が根底に流れていったと考えられる。謎の多い真岡代官山内原七郎処刑にもつながり、以後明治16年(1883)まで下野栃木県の知事(県令)は鍋島貞幹、藤川為親と佐賀藩士の支配下とつづくことになり、藩主の受けた命令が影響を与えていくと推察する。

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  「昔からここを大手前と言っていて、盆踊りなどいろんな地域の行事をやっていた。桜も植えられていた。今は両側に家が建っているが幅の広い道路と言うよりも広場だったんだ。この道路は第一小学校の敷地の一部だと役所は言っているな」と第一小学校校門前の皆川街道沿いに建つ設備会社「ナガサワ」の会長が話してくれた。
Photo_2   地図に記載されていない「大手前」という地域で使われてきている道路の名称。「ナガサワ」の店舗にその看板が掲げられている。「ナガサワ」の店舗から第一小学校の校門を見る。校舎の北側に県庁堀があり、この道路は県庁の表門へと繋がっていることが分かる。表門は城の大手門を意味する。大手門に繋がる道として「大手前」と呼んでいることになる。地域の人の間には県庁舎を城郭として見ていたのではないかと思えてくる。

 
  明治4年(1871)の廃藩置県を前に明治3年(1870)7月に日光県は足利藩と村々の交換を行っている。足利藩領だった栃木城内村が日光県に組み入れらたことにより栃木町は足利藩栃木陣屋の支配から日光県管轄地となった。この領地交換については栃木市史では鍋島貞幹が栃木町に県庁を移転させるため行なったと記述している。栃木県史では領地交換の結果として、群馬県館林藩を含め地理的中間地の栃木町が栃木県庁設置となったとしている。明治17年(1884)1月の栃木県庁宇都宮への移転の関係で市史と県史では微妙に違っている。

Photo_4   栃木町が日光県になったことから鍋島県知事は明治4年(1871)5月に宇都宮の手前にあった日光県石橋出庁所を栃木町旭町の定願寺に移転させている。そして明治4年7月の廃藩置県、11月の全国の県改廃を受け、下野国は栃木県と宇都宮県の2県に整理統合された。県知事の名称が県令に変わった。この時、初めて「栃木県」の県名が登場した。栃木県の管轄区域は下野国の足利郡、梁田郡、寒川郡、阿蘇郡、都賀郡に加え館林県である上野国邑楽(おうら)・新田・山田の三郡が栃木県の管轄となった。

  どうして上野(群馬県)の館林県三郡が栃木県の管轄となったか?明治4年11月に栃木県が誕生した時に上野国三郡は栃木県管轄に入ったと群馬県史には理由の記載もなく記述されている。

 高野澄著「廃藩置県物語・館林藩」の中で「館林県が群馬県から除外されたのは渡良瀬川をはさんで下野国につながる関係の強さが考慮されたからだろう」と指摘している。上野三郡と下野国の梁田と足利は利根川と渡良瀬川に挟まれたこの地域では、幕府領と私領が入り乱れているため水利の配水を間違えると不穏な情勢になる。これまで管理をしてきた徳川幕府から慶応4年の4月、田植えを前にこの地域の水利の管理を明治新政府は館林藩に委譲した。このことが館林県が栃木県の管轄になった大きな理由だとしている。

 やがて明治9年(1876)には埼玉県統合により熊谷県が廃され、上野三郡は栃木県から元の上野国群馬県に帰属していく。この上野三郡の群馬県への帰属は栃木県の県庁所在地が地理的に南に偏っていることから栃木町から宇都宮町への県庁移転への理由のひとつになってくる。

013_3 栃木県設置にともない、定願寺(栃木市旭町)を仮庁舎として翌5年(1872)5月に栃木町園部村(現栃木市入舟町)に県庁舎建築の伺いをたて、8月着工11月に落成させている。翌明治6年(1873)1月に新県庁舎で執務が開始された。明治5年は太陽暦変更のために12月3日をもって明治6年(1873)1月1日となる。そして明治6年6月15日に宇都宮県が栃木県に編入となり下野国は栃木県という一つの県になった。

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  新庁舎の建物は地域住民の文明開化をはかるため西洋建築として造営され、明治17年(1884)1月の県庁移転まで栃木県庁舎として使われたと栃木県史に記述されている。

  敷地は2万654坪5合5勺で総工費8296両永9文6分で費用負担は4587両永184文6分は官費(1/3)と郡割(2/3)、残りの3708両3分永75文は一般からの献金・献夫となっている(とちぎ市民学舎講座「栃木町と栃木県庁」資料)。実に45%が一般からの献金で県庁舎が建築されていることに驚く。当時の県庁舎の建築負担は何も栃木県だけではなく、江戸時代と同じく命令として町民・村民に下していた。しかし、明治5年頃の栃木町の商家は徳川幕府消滅で衰退した日本橋から山車(静御前人形)を購入するなど財力が豊富だったこともあり、負担を受けられた理由になる。

Photo_10  当初、敷地は水田のため盛土と堀が必要であったが、建物下のみの盛土と外廻り小土手のみが許可されたにすぎなかった。しかし、周囲一面が水田であるため、盛土がなければ県庁への往来に差支えることや、強雨の際には巴波川からの押水の被害が懸念されるため悪水堀はどうしても必要なことから、再度伺書を提出した結果、県庁・官舎地面の盛土と周囲堀など聞届けられたと栃木県史に記述されている。

  悪水堀(排水処理用)として造られた県庁堀は城郭としての堀と果たしていえるのだろうか?考察していくことにした。

Photo_8  栃木市の東方にある田村町に律令時代の下野国府政庁跡地がある。南北96.6m、東西94.5mの周囲を版築土塁と濠に囲まれていたとされている。濠の存在は確認できないが、栃木町にあった栃木県庁庁舎と類似している。古代律令体制の中での政庁(国府)は中央政権を確立維持するため出先機関施設として築城という手段を用いた。実際、下野国府政庁は天慶2年(939)の11月の「天慶の乱」で平将門に攻められ、落城している。

  三代目県令となった三島通庸は明治9年(1876)に統一山形県ができた時に山形県庁舎を新たに建築している。丸山光太郎著「土木県令三島通庸」の中で山形県庁舎建築の項で「坪数3841坪の敷地全般に盛土をし、西北で10尺以上、東南で7,8尺を盛り上げ、土塁は亀甲型の間知石積とした。その土留石積の外に堀を設けることにした」と記述されている。現在は堀は確認されていないが、盛土と堀は一対となっていることが読み取れる。

Photo_10  西ヶ谷恭弘著「日本史小百科・城郭」の中で、城は人間の生命、生活空間、財産を守るために構築した施設である。城は土でできている構築施設であり、これをさらに取り囲む郭(かく)が生まれ、城郭と称されるようになった。城という『土を掘り土を盛る』行為は、原始以後変わることなく、城づくりの基本」と規定している。盛土と堀は一対だと指摘しているのだ。

  さらに築城者からみた城郭の最大の目的を「土豪や武士階級による在地支配の拠点、または軍事目的として築城」と西ヶ谷恭弘氏は記述をしている。

  地域支配の拠点として鍋島貞幹栃木県令は堀を巡らせ、人民に城郭としての県庁舎を見せるために造ったのではないかと思えてくる。第一小学校校門前を現在でも「大手前」と呼ばれ、使われていることにつながってくる。

Photo_13  明治新政府の地方支配の拠点としての県庁の果たす役割は大きかった。農民一揆が多発しているなか、中央集権化(富国強兵)に向け、明治4年の廃藩置県での統一国家、明治5年の戸籍法の実施で人民の掌握、明治6年の徴兵令発布と地租改正と続く制度の改定実施は一般民衆に大きな影響を与えている。

  とりわけ壬申(明治5年)の戸籍と言われる戸籍制度ができることにより、これまでその筋(寺社奉行と代官)からのみの適用であった治安取締りが地域全体を網羅できることになり、県庁の支配権限が拡大されていくことになる。獄舎も備えている県庁には警察制度が整い警察力も強化されていく。物納年貢から金券納入としたことによる農民の負担増加が増してきた。「中央からの指揮監督のもとに中央の政策法令を施行する純然たる行政機関」と井上清氏は「日本の歴史20・明治維新」(中央公論社版)で府県を位置づけをしている。

Photo_14  片岡写真館蔵の「明治10年代ころの県庁堀」の写真を見ると、幅広い水堀は城を防衛する本格的な水堀として城郭の姿に見えてくる。戦国時代の長槍は5メートル。その長槍が届かない距離が堀の幅だったとされている。

  明治初期、真岡代官から受け継いだ下野国の地方支配としての栃木県庁舎。排水処理のみでなく堀を巡らせた城郭としての建造物を地域に見せること。それは強固な権力誇示であり支配力を目で見せることにあったと思える。しかし、県庁官舎建設に多額の献金をして支えた栃木町の商人にとっては、県庁堀から見える県庁官舎は「武士の城」から「商人の城」に変貌したことを実感したのではないだろうかと思えてくるのだ。

  もし第一小学校の建物がなく、大手前通りから県庁表門まで歩くことができれば、明治初期の栃木県庁舎が浮かびあがってくるような気がしてくる。南側堀には県庁表門跡地には移転した元栃木庁舎が建っている。せめて南側の堀の中間あたりに「旧栃木県庁舎表門跡地」という標識を建ててくれるとありがたい。そうすれば憲法に地方自治権のなかった時代の明治期の役人様と対面できるかもしれない。そう勝手に想像してみると、県庁堀は城郭として水掘りに見えてきた。

※関連ブログ―「銀次のブログ、四方を流れる栃木県庁堀―水源のある栃木高校

≪参考・引用資料≫

栃木県史・栃木市史・群馬県史(通史)、井上清著中央公論社版「日本の歴史20・明治維新」、下野新聞社発行村上喜彦執筆「明治百年野州外史」、高野澄著「廃藩置県物語」。西ヶ谷恭弘著「日本史小百科・城郭」、丸山光太郎著「土木県令三島通庸」、とちぎ市民学舎講座「栃木町と栃木県庁」(講師:栃木県立文書館丸茂博)、栃木市民大学講座「県庁があった時代の栃木町」(講師;大原悦子)、片岡写真館、その他ネット記載のブログ「栃木県庁堀」関連記事多数。

                                        《夢野銀次》

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夏野菜の収穫と秋に向けて

010 雨が多かった6月。それも激しい雨が吹きつけた。空模様を気にしての生活だった。以前の梅雨とは違ってきていることを感じる。

 7月に入った。空模様を見ながらジャガイモの収穫を始めた。雨の影響でいくつか割れているジャガイモがある。

キタアカリ、メークイン、男爵の三種類。姉妹に送る。

このところ毎朝、キュウリを採っている。浅漬けにして食べる毎日。ナスの実も日ごと大きくなってきている。

Photo_14 

  島崎藤村の「夜明け前」、何とか読み終えた。おもしろかったか?では済まない小説だ。歴史小説なのか、歴史叙述小説なのか、今考えている。吉村昭の作品(天狗争乱、桜田門外の変、彦九郎山河)に強い影響与えているなと感じた。青山半蔵が狂気となり52歳で悶死する前に次の文章が引っ掛かった。

 「世にいう漁(ぎょ)、樵(しょう)、耕(こう)、牧(ぼく)の四隠のうち、彼(青山半蔵)のはそのいずれでもない。老い衰えて安楽に隠れ梄(す)むつもりもない彼は、寂しく、悲しく、血のわく思いで、ただただ黙然とおのれら一族の運命に対していた。これがついの梄家か、と考えて、あたりを見回すたびに、彼は無量の感慨に打たれずにはいられなかった。

Photo_15――たとい、お民のような多年連れ添う妻がそばにいて、共に余生を送るとしても、なんと言っても旧(ふる)い馬籠の宿場の跡には彼の少年時代から記憶が残っている。夕方にでもなると、彼は街道に出て往来の人にまじりたいと思うような時を迎えることが多かった」

 長い引用になったが、岩波文庫4冊の「夜明け前」の中で一番印象に残った箇所だ。

 今は「分かるんだけどな…」という感想を記しておく。

Photo_16 秋に向けてサトイモの土寄せを行なった。

サツマイモの苗が根付いている。今年は間違って苗を50本買ってしまった。

狭い菜園の中、どうにか場所をやり繰りをして確保した。

40本は育ち始めてきている。10月にはイモ堀をしよう。

Photo_18

 

メロンの苗、2本を植えた。

001_2

 杏の木に2歳になった「ポン太」が登り降りを始めた。木登りが好きになるのだ。

 あまり杏の幹を痛めつけるなよ。カキの木が4年目を迎え、少し柿の木らしくなってきている。いずれ柿の木に登る日が近いな。

       《夢野銀次》


 

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