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城郭の名残り―栃木町・明治の栃木県庁堀跡

Photo  「県庁跡にある堀は押し寄せる農民一揆から県庁を守るためできていたのかな?」と、小学校に通っていた頃、県庁堀を見ながら思っていた。

  今の栃木中央小学校になった栃木第二小学校の傍を県庁掘が流れていた。小学校は栃木高校と同じく県庁堀の中にあった。平成26年2月に栃木市万町にあった福田屋跡地に移転した栃木市役所の庁舎も南側の堀沿いにあった。大正10年(1921)に建築された旧市役所別館は今も空き家として県庁堀の水門・揚場跡に建っている。文化遺産の市役所別館を「栃木市歴史資料館」として活用して欲しいと願っているのだが…。

10  県庁堀は明治6年(1873)1月から明治17年(1884)1月の間、栃木町に栃木県庁が置かれていた時に、県庁舎や官吏宿舎の敷地を囲むように造られていた。水源は堀の北側、現在の栃木高校の校舎と校庭の境目にあり、東西に現在も流れ出ている。東西約246m、南北約315mの堀と巴波川から県庁に直接舟が着くように造られた長さ120mの漕渠(そうきょ、運河)があり、合わせて総延長1260m、堀の幅3.5~5.5mとなっている。

  平成8年(1996)8月に栃木県指定文化財に登録されている。県庁堀の正式な名前は県庁堀川と称し、堀にはニシキ鯉の群れが、清流の中を生き生きと泳いでいる。平成8年に水源のある栃高の堀を含め護岸工事によって県庁堀全体が整備されている。

Photo  明治4年(1871)6月に鍋島貞幹(なべしまさだもと)日光県知事は本庁を日光から栃木町への移転と日光県から栃木県に名称を変更する願出を明治中央政府に出している。移転したい理由として、①巴波川舟運の発達により輸送が便利、②下野国の中央に位置し、道路が各方面に通じていて交通が便利、③人家が密集していて豪農商家があり、人や物資が集中する土地、④その一方、無頼の徒が流れ込んで来ることもあり、かつて足利藩が出張陣屋を設置して取り締まってきた場所だと挙げている。この時初めて「栃木県」という名称が現れたと栃木県史に記述されている。これに対する指令(返答)はなかった。

Photo_9  日光県(2万石)は明治2年(1869)7月に真岡県(8万3千石)と合わせて設置された。宇都宮藩7万石を超える10万石の支配地を有する石高となった。下野には藩や諸藩飛び地と徳川幕府・旗本領地があった。幕府領を管轄にしていたのが真岡代官所だった。慶応4年(明治元年・1868)6月に真岡代官所管轄地を中央政府の直轄地とし、真岡県と称した。その支配地は芳賀郡2ヵ町75ヵ村、河内郡4ヵ宿44ヵ村、都賀郡4ヵ宿50ヵ村、塩谷郡9ヵ村、那須郡1ヵ宿60ヵ村、5郡合わせて238ヵ村9ヵ宿2ヵ町と日光神領・旗本領合わせると下野国20%(下野国全体55万石)を占める。武蔵・相模・伊豆の幕領26万石を所管轄する韮山代官所には及ばないが、下野国最大の所管轄・石高を有する県になった。この真岡県知事に鍋島藩家士鍋島貞幹が「総野鎮撫府」(長官は鍋島藩主、鍋島直大)から任命された。

Photo_3  下野新聞社発行「明治百年野州外史」によれば、総野鎮撫府とは下総と下野の2国支配下として「一国鎮圧・政務採決」を任務とした軍政機関であった。鍋島直大(なべしまなおひろ)長官に対する命令書には『2国近辺に賊軍が出没して官軍に抵抗し、王民を苦しめ、まだ平定に至らないから、賊軍を鎮圧し、2国の各藩の動向をよく見極め、民政を取り締まり、人民が家業に安んじうるように指揮せよ』と記述されている。

  藩主が受けた命令はそのまま下野真岡県知事となった家臣の鍋島貞幹にも同様の命令となって、戊辰戦争東北の戦いという戦時下の考えで下野国支配が根底に流れていったと考えられる。謎の多い真岡代官山内原七郎処刑にもつながり、以後明治16年(1883)まで下野栃木県の知事(県令)は鍋島貞幹、藤川為親と佐賀藩士の支配下とつづくことになり、藩主の受けた命令が影響を与えていくと推察する。

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  「昔からここを大手前と言っていて、盆踊りなどいろんな地域の行事をやっていた。桜も植えられていた。今は両側に家が建っているが幅の広い道路と言うよりも広場だったんだ。この道路は第一小学校の敷地の一部だと役所は言っているな」と第一小学校校門前の皆川街道沿いに建つ設備会社「ナガサワ」の会長が話してくれた。
Photo_2   地図に記載されていない「大手前」という地域で使われてきている道路の名称。「ナガサワ」の店舗にその看板が掲げられている。「ナガサワ」の店舗から第一小学校の校門を見る。校舎の北側に県庁堀があり、この道路は県庁の表門へと繋がっていることが分かる。表門は城の大手門を意味する。大手門に繋がる道として「大手前」と呼んでいることになる。地域の人の間には県庁舎を城郭として見ていたのではないかと思えてくる。

 
  明治4年(1871)の廃藩置県を前に明治3年(1870)7月に日光県は足利藩と村々の交換を行っている。足利藩領だった栃木城内村が日光県に組み入れらたことにより栃木町は足利藩栃木陣屋の支配から日光県管轄地となった。この領地交換については栃木市史では鍋島貞幹が栃木町に県庁を移転させるため行なったと記述している。栃木県史では領地交換の結果として、群馬県館林藩を含め地理的中間地の栃木町が栃木県庁設置となったとしている。明治17年(1884)1月の栃木県庁宇都宮への移転の関係で市史と県史では微妙に違っている。

Photo_4   栃木町が日光県になったことから鍋島県知事は明治4年(1871)5月に宇都宮の手前にあった日光県石橋出庁所を栃木町旭町の定願寺に移転させている。そして明治4年7月の廃藩置県、11月の全国の県改廃を受け、下野国は栃木県と宇都宮県の2県に整理統合された。県知事の名称が県令に変わった。この時、初めて「栃木県」の県名が登場した。栃木県の管轄区域は下野国の足利郡、梁田郡、寒川郡、阿蘇郡、都賀郡に加え館林県である上野国邑楽(おうら)・新田・山田の三郡が栃木県の管轄となった。

  どうして上野(群馬県)の館林県三郡が栃木県の管轄となったか?明治4年11月に栃木県が誕生した時に上野国三郡は栃木県管轄に入ったと群馬県史には理由の記載もなく記述されている。

 高野澄著「廃藩置県物語・館林藩」の中で「館林県が群馬県から除外されたのは渡良瀬川をはさんで下野国につながる関係の強さが考慮されたからだろう」と指摘している。上野三郡と下野国の梁田と足利は利根川と渡良瀬川に挟まれたこの地域では、幕府領と私領が入り乱れているため水利の配水を間違えると不穏な情勢になる。これまで管理をしてきた徳川幕府から慶応4年の4月、田植えを前にこの地域の水利の管理を明治新政府は館林藩に委譲した。このことが館林県が栃木県の管轄になった大きな理由だとしている。

 やがて明治9年(1876)には埼玉県統合により熊谷県が廃され、上野三郡は栃木県から元の上野国群馬県に帰属していく。この上野三郡の群馬県への帰属は栃木県の県庁所在地が地理的に南に偏っていることから栃木町から宇都宮町への県庁移転への理由のひとつになってくる。

013_3 栃木県設置にともない、定願寺(栃木市旭町)を仮庁舎として翌5年(1872)5月に栃木町園部村(現栃木市入舟町)に県庁舎建築の伺いをたて、8月着工11月に落成させている。翌明治6年(1873)1月に新県庁舎で執務が開始された。明治5年は太陽暦変更のために12月3日をもって明治6年(1873)1月1日となる。そして明治6年6月15日に宇都宮県が栃木県に編入となり下野国は栃木県という一つの県になった。

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  新庁舎の建物は地域住民の文明開化をはかるため西洋建築として造営され、明治17年(1884)1月の県庁移転まで栃木県庁舎として使われたと栃木県史に記述されている。

  敷地は2万654坪5合5勺で総工費8296両永9文6分で費用負担は4587両永184文6分は官費(1/3)と郡割(2/3)、残りの3708両3分永75文は一般からの献金・献夫となっている(とちぎ市民学舎講座「栃木町と栃木県庁」資料)。実に45%が一般からの献金で県庁舎が建築されていることに驚く。当時の県庁舎の建築負担は何も栃木県だけではなく、江戸時代と同じく命令として町民・村民に下していた。しかし、明治5年頃の栃木町の商家は徳川幕府消滅で衰退した日本橋から山車(静御前人形)を購入するなど財力が豊富だったこともあり、負担を受けられた理由になる。

Photo_10  当初、敷地は水田のため盛土と堀が必要であったが、建物下のみの盛土と外廻り小土手のみが許可されたにすぎなかった。しかし、周囲一面が水田であるため、盛土がなければ県庁への往来に差支えることや、強雨の際には巴波川からの押水の被害が懸念されるため悪水堀はどうしても必要なことから、再度伺書を提出した結果、県庁・官舎地面の盛土と周囲堀など聞届けられたと栃木県史に記述されている。

  悪水堀(排水処理用)として造られた県庁堀は城郭としての堀と果たしていえるのだろうか?考察していくことにした。

Photo_8  栃木市の東方にある田村町に律令時代の下野国府政庁跡地がある。南北96.6m、東西94.5mの周囲を版築土塁と濠に囲まれていたとされている。濠の存在は確認できないが、栃木町にあった栃木県庁庁舎と類似している。古代律令体制の中での政庁(国府)は中央政権を確立維持するため出先機関施設として築城という手段を用いた。実際、下野国府政庁は天慶2年(939)の11月の「天慶の乱」で平将門に攻められ、落城している。

  三代目県令となった三島通庸は明治9年(1876)に統一山形県ができた時に山形県庁舎を新たに建築している。丸山光太郎著「土木県令三島通庸」の中で山形県庁舎建築の項で「坪数3841坪の敷地全般に盛土をし、西北で10尺以上、東南で7,8尺を盛り上げ、土塁は亀甲型の間知石積とした。その土留石積の外に堀を設けることにした」と記述されている。現在は堀は確認されていないが、盛土と堀は一対となっていることが読み取れる。

Photo_10  西ヶ谷恭弘著「日本史小百科・城郭」の中で、城は人間の生命、生活空間、財産を守るために構築した施設である。城は土でできている構築施設であり、これをさらに取り囲む郭(かく)が生まれ、城郭と称されるようになった。城という『土を掘り土を盛る』行為は、原始以後変わることなく、城づくりの基本」と規定している。盛土と堀は一対だと指摘しているのだ。

  さらに築城者からみた城郭の最大の目的を「土豪や武士階級による在地支配の拠点、または軍事目的として築城」と西ヶ谷恭弘氏は記述をしている。

  地域支配の拠点として鍋島貞幹栃木県令は堀を巡らせ、人民に城郭としての県庁舎を見せるために造ったのではないかと思えてくる。第一小学校校門前を現在でも「大手前」と呼ばれ、使われていることにつながってくる。

Photo_13  明治新政府の地方支配の拠点としての県庁の果たす役割は大きかった。農民一揆が多発しているなか、中央集権化(富国強兵)に向け、明治4年の廃藩置県での統一国家、明治5年の戸籍法の実施で人民の掌握、明治6年の徴兵令発布と地租改正と続く制度の改定実施は一般民衆に大きな影響を与えている。

  とりわけ壬申(明治5年)の戸籍と言われる戸籍制度ができることにより、これまでその筋(寺社奉行と代官)からのみの適用であった治安取締りが地域全体を網羅できることになり、県庁の支配権限が拡大されていくことになる。獄舎も備えている県庁には警察制度が整い警察力も強化されていく。物納年貢から金券納入としたことによる農民の負担増加が増してきた。「中央からの指揮監督のもとに中央の政策法令を施行する純然たる行政機関」と井上清氏は「日本の歴史20・明治維新」(中央公論社版)で府県を位置づけをしている。

Photo_14  片岡写真館蔵の「明治10年代ころの県庁堀」の写真を見ると、幅広い水堀は城を防衛する本格的な水堀として城郭の姿に見えてくる。戦国時代の長槍は5メートル。その長槍が届かない距離が堀の幅だったとされている。

  明治初期、真岡代官から受け継いだ下野国の地方支配としての栃木県庁舎。排水処理のみでなく堀を巡らせた城郭としての建造物を地域に見せること。それは強固な権力誇示であり支配力を目で見せることにあったと思える。しかし、県庁官舎建設に多額の献金をして支えた栃木町の商人にとっては、県庁堀から見える県庁官舎は「武士の城」から「商人の城」に変貌したことを実感したのではないだろうかと思えてくるのだ。

  もし第一小学校の建物がなく、大手前通りから県庁表門まで歩くことができれば、明治初期の栃木県庁舎が浮かびあがってくるような気がしてくる。南側堀には県庁表門跡地には移転した元栃木庁舎が建っている。せめて南側の堀の中間あたりに「旧栃木県庁舎表門跡地」という標識を建ててくれるとありがたい。そうすれば憲法に地方自治権のなかった時代の明治期の役人様と対面できるかもしれない。そう勝手に想像してみると、県庁堀は城郭として水掘りに見えてきた。

※関連ブログ―「銀次のブログ、四方を流れる栃木県庁堀―水源のある栃木高校

≪参考・引用資料≫

栃木県史・栃木市史・群馬県史(通史)、井上清著中央公論社版「日本の歴史20・明治維新」、下野新聞社発行村上喜彦執筆「明治百年野州外史」、高野澄著「廃藩置県物語」。西ヶ谷恭弘著「日本史小百科・城郭」、丸山光太郎著「土木県令三島通庸」、とちぎ市民学舎講座「栃木町と栃木県庁」(講師:栃木県立文書館丸茂博)、栃木市民大学講座「県庁があった時代の栃木町」(講師;大原悦子)、片岡写真館、その他ネット記載のブログ「栃木県庁堀」関連記事多数。

                                        《夢野銀次》

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コメント

旧栃木県庁のことを調べていてここに参りました。
栃木県の成立と県庁の移転、とてもよくわかりました。
ありがとうございます。
ブログに引用、リンクを張らせていただきました。

投稿: 小林力 | 2017年6月12日 (月) 13時47分

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