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2014年9月

あの宇工に勝った栃商―67回秋季高校野球栃木大会

Photo  7対2で栃木商業高が宇都宮工業高を下した。~みずきさやけき太平の山の麓の学舎に~相馬御風作詞・中山晋平作曲の栃商校歌が清原球場に流れ渡る。

 9月21日(日)清原球場第三試合の2回戦。 あの宇都宮工業高に栃商が勝ったのだ――。自分の胸の高鳴りが紺碧の空に響いていく。9回まで試合を行う、コールド負けはしないで欲しいと願いながら試合を観始めたのだ。しかし3回までパーフェクトに宇工打線を抑え、試合を作っていく栃商エースの山田投手。偉いぞと応援に力が入っていた。

  4回表に2点を栃商は先取した。いいぞ。しかし6回裏に同点とされ2対2となる。「ここまでかな…。強豪の宇工と互角以上に戦っている。凄いことだよ栃商」と思わずつぶやいてしまった。

  4回の表の栃商が長打で先取点をあげ、二死となったが宇工の小林投手のワイルドピッチでラッキーな2点目をあげている。一方の栃商の一年生ピッチャー山田俊太郎投手は1点は取られるが後続を断ち2点目を与えなかった。粘りのピッチングと内野の守備陣が支え守った。このことが大きい。勝因のひとつにもあげられる。

Photo_2  スピードガンでは球速120キロの山田投手だが、緩急を混ぜ(チエンジアップなのか)、宇工の打者はタイミングが合わず、空振りが多いの目立った。コントロールの良い投手だ。

  打者では、栃商11本の安打のうち三塁打が3本と長打が出ているのが目立った。3・4・5番の3人のクリンナップが打っている。とりわけ先制の三塁打を打った4番の上岡右翼手。8回の勝ち越し2点を三塁打で打った3番の福田左翼手。いずれも身体から力強くたくましさを感じた。 

  両チームノーエラーの中で宇工は負けた。一回戦の矢板中央高戦での15回延長、再試合での疲れがあったのか?宇工エースの山田投手は何故投げなかったのか?左打者の多い栃商打線に対して左の小林投手を先発とし、2番手には矢板中央高戦で好投した14番の佐野投手を起用している。

2  6回からマウンドにあがった佐野投手には矢板中央高戦で見せたような球に勢いと重さが感じられなかった。結局3番福田選手に2点三塁打を打たれ、9回にも3点を失う。8・9回の宇工の打線はフライをあげるなどタンパクになってしまっていた。打線がかみ合った栃商の打者をほめるべきなのか。

  2年前の秋季栃木県大会。栃木市総合運動公園野球場で栃商の試合を観に行った。メンバーは二年生が一人であとは一年生主体の構成になっていた。何かあったのだろうと思えた。翌年には多くの優秀な一年生が入部したことを球場のどこかで聞いた覚えがある。その一年生が二年生の秋を迎え、主力となった。

  一回戦の栃工に続き宇工を下し三回戦進出を決めた。組み合わせくじ運ではない三回戦進出。これまで勝てなかった高校を下しての三回戦進出だ。9月23日に栃木市総合運動公園野球場でこれまた強豪の白鷗大足利と戦う。打力は互角だ。だけど、まだどこかでコールド負けという意識もある。好ゲームを期待して9月23日には自転車で球場に行こう。

 (余談)第一試合の白鷗大足利高と栃木高校戦。3対0で白鷗大足利が勝利するが、栃高の投手が相手打者にデッドボールを与える。通常は投手と一塁手が帽子をとり打者にあやまる。しかし栃高は内野手全員が帽子をとり打者にあやまる。その光景に感心した。

                                              《夢野銀次》

≪追記≫9月23日に栃商は5対2で白鷗大足利に負けた。8回の裏に2対2の同点から白鷗大足利に3点を入れられた。しかし、互角の戦いをした栃商。栃工と宇工に勝ったのは付録ではなく実力であったことを証明した試合だ。栃商野球部の来年の戦いに期待したい。

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守り抜いた延長15回―宇都宮工業高対矢板中央高

Photo 「今日決めて欲しかったな…」、延長15の裏、宇都宮工業の攻撃が終わり、明日の再試合が決まった。6対6のまま延長15回を戦った宇都宮工業高と矢板中央高の一戦。

 第67回秋季栃木県高校野球が9月13日に開幕した。9月15日の敬老の日、栃木市総合運動公園野球場に一回戦の三試合を観てきた。

 秋季高校野球は意外と人気がある。県大会で決勝まで進めば関東大会に出場できる。関東大会でベストフォーに勝ちあげれば、来春の甲子園、選抜大会出場を確実するからだ。スタンドはほぼ満席。

Photo_3 埼玉に住んでいた頃から、秋季埼玉大会の準決勝を大宮県営野球場に足を運んだ。

そこには甲子園出場をかけての真剣勝負の試合が見られたからだ。

 第三試合の宇都宮工業高対矢板中央高の一戦。ベストエイト以上の力をもつ両チーム。どちらも一回戦で消えるのは惜しいと思って見た。2回1点、3回2点と宇工は先取点を重ねたが4回の表、矢板中央の8番打者がレフトオーバーのスリーランホームランで同点とした。「あれ?」という感じ。まさかのホームランだった。勢いに乗った矢板中央は宇工の二番手投手から6回表に2点を追加した。しかし、その裏宇工はこの日不振だった4番打者が逆転のタイムリーで6対5にした。

Photo_4 このまま宇工が逃げ切るのかな。

しかし、二番手投手はコントロールがなく、8回に同点とされ、延長戦になった。宇工はスピードのある佐野投手。大柄な身体を生かして投げる球が重く感じられた。

 矢板中央はエースナンバーをつけた小林投手。6回まで6点入れられた。しかし、7回以降から延長15回まで無得点に抑えた。球のキレがでてきたことがわかった。非常にしなやかな身体だ。広島の前田投手に似ているいるように感じた。1回から延長15回まで一人で投げきった投球数は150球を超えていたのではないか。

Photo_5 延長戦の試合は守りの戦いとなる。

 延長10回の表、二死3塁に走者をおいて矢板中央の打者が放ったセンターへの鋭い打球。宇工のセンターがジャンプして捕球した。スタンドから拍手と大声援が飛んだ。

 延長13回の裏。今度は二死3塁に走者をおいて宇工の4番打者の打った打球は三遊間の深い所。矢板中央のショートが捕球し、一塁へ送球。カンイッパツアウトの判定。自分にはセーフとも見えたが、ジャッジはアウト。ここで15回までいって再試合だなと思えてきた。この延長戦では一死満塁などものすごく緊迫する場面がなかったの少し残念。贅沢な希望かな…。再試合は翌日午前10時から栃木県営球場で行われる。 この試合で矢板中央の小林投手と4番打者、深沢遊撃手の守備とシャープな打撃が印象に残った。

Photo_6 夏の大会が終わると三年生は野球部を離れ、1,2年生の新チームがスタートする。8月下旬に交流戦が行われ、秋季大会のシード校が決まる。

  学校関係者より高校のOB達は秋季大会で我が母校の新チームの姿を見る。その眼は厳し眼なのか、優しい眼なのか? とにかく心配なのだ。秋の大会では守備が整っていない。投手のコントロールが定まっていない。ボークが多発する。その中でコントロールの良い投手を中心に守備力のまさっているチームが勝ちあがることができる。

Photo_7 第一試合の宇都宮商業高対小山高。期待した試合だったが6対2で宇商が勝った。点差より宇商の一方的な試合だった。かつての甲子園出場したころの小山高はどうしたのだろうか。「小山ボーイズや下野ボーイズでレギラーになれなかった選手が小山に入ってくるんだよな」とずっと以前に知人が嘆いていたのを思い出す。

 今は中学校から硬式野球のボーイズリーグでの活躍した選手が高校野球の強豪チームの主力になってきている。

 四球やボークを連発して点を献上する投手、エラーした選手など宿題を見つけた選手もいる。ゲッツーを採っていれば無失点にできた守備。多くの課題と宿題を秋季大会は与えてくれる。負けたチームは寒い冬を超して、来年の春・夏の大会に向けてチームのメンバーと共に支え合いながら練習を続けていく。 楽しいだろうな…。

                                       《夢野銀次》

※9月16日栃木県営球場で行われた宇都宮工業高対矢板中央高の再試合は宇工が5対1で矢板中央を下し、2回戦進出を決めた。2回戦の相手は我が母校の栃木商業高となる。9月21日(日)清原球場で行われる。

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拝殿向拝にある龍亀の彫物―栃木市「今泉神社」

Photo_3  「この立札は何なのだ…?」。今泉神社の鳥居の前に立ち、参道奥の拝殿を見る。しかし、左側にある「立札」がすぐに目についた。明治40年栃木県の名前で境内での禁止事項が掲載されている。「車馬乗入事、魚鳥獣ヲ捕ル事、竹木ヲ伐採スル事、塵芥ヲ捨ル事」と年代ものと分かる薄汚れた板に書かれてある。かすかに読み取れる文字。「どうして明治の時にこうした禁止の立札を建てたのかな」と不思議な印象をまず受けた。

  栃木市中心街から約2キロ東方に位置する今泉1-25-5に今泉神社がある。

Photo_4  日本歴史地名大系によるとかつての今泉村のことを「今泉1、2丁目・日ノ出町・神田町」とし、「大宮村の西に位置し、北から西にかけては平柳村、南は栃木城内村。大宮村境に丸沼・長沼があり、村の西部に杢冷川の水源をなす湧水がある。南部は牛むぐり田とよばれるほどの深田がみられた」と江戸期の村の様子が書かれ、「慶長14年(1609)までは皆川広照領で開発地主が若色三郎衛門。若色氏が当時若色和泉と称したことから村名を今和泉と名付けたと」いう今泉の名前の起こりが記載されている。 

 Photo_2
  秋間恒一著「今泉神社と今泉」のはじめの中で「明治後期より昭和の初期は、栃木界隈の櫻の名所として四方より野道を伝わって来襲し、一日中酔歌嬌声絶え間なく、参道には所狭しと露天立ち並び隆盛を極めたもので有る」と記述さている。花見客ならば酔ってゴミを散らかし、馬でくる人もいたなと思えてきた。広い境内奥には「櫻が岡の碑」が建ててあることから、花見の賑わいは相当なものだったことが予想できる。

  同書には栃木県に出した立札許可願いの写し文が記載されている。しかし、その理由の解説記述が載っていない。同書を読みながら村を二分して確執が続いた別当である長清寺との紛争が100年ぶり、明治5年に解決したこと。そのことによって村人が一丸となり神社を再建し、立札を建てるほどの花見客で隆盛をみたことなのだと読み取れてくる。あたり一帯の村々からたくさんの人たちが花見に訪れていたのが思い浮かんでくる。

Photo_13 参道を進むと入母屋造の拝殿が見えてくる。唐破風の向拝が参拝者を迎える。幣殿、本殿が奥に控えている。 

 文禄年間(1592~96)に創建された今泉神社。天地創造の神、天御中主命(あまのなかぬしのみこと)を祀っている。しかし、明治5年に神仏分離令までは妙見宮とよばれていた。栃木県神社誌によれば「今泉神社 妙見様 御神体は龍亀に乗った妙見菩薩の乾漆像で、これを厨子に納めて本殿に奉斎している。天明2年(1782)に造営された現在の拝殿には、向拝正面に龍亀の彫物が施され、当時の名残がある」と紹介されている。

Photo_5  拝殿正面向拝の上に施されている龍亀の彫り物。亀が変形している姿のように見える。可愛いく愛嬌のある亀のようだ。妙見菩薩の乗り物としての龍亀。この神社周辺では亀は殺さない飼わないということだ。

  古来より北天に定位する北辰(北極星)は宇宙の全てを支配する最高の神、天帝として崇められてきた。傍らで天帝の乗り物とされる北斗七星は天帝から委託を受けて人々の行状を監視し、その生死禍福を支配するとされた。そこから、北辰・北斗に祈れば百邪を除き、災厄を免れ、福がもたらされ、長生きできる。半面、悪行があれば寿命が縮められ、死後も地獄の責め苦から免れないものとされる信仰が生まれた。

Photo  この北辰・北斗を神格化したのが道教の『鎮宅霊符神』(ちんたくれいふしん)で、それが仏教に入って『北辰妙見菩薩』と変じ、神道でいう『天御中主神』と習合したといわれている。いずれも天地創造の神として祀ることにより、護国鎮守、除災招福、長寿延命、人民安楽の功徳を得ることになるとされている。

 神仏習合の神社として今も現存している今泉神社。もとは「妙見宮」と称していた。北斗七星を神格化した妙見菩薩を信仰し、天御中主命を祀っている。地域の発展と結びつけている神社のように思える。

Photo_2  本尊とされてきている龍亀の乗った妙見菩薩の乾漆像。秋間恒一著「今泉神社と今泉」に写真が載っている。

 今泉村は慶長3年(1593)の時に皆川広照の命により、若色和泉助政房が開墾をしたと云われてきている。同書によれば若色家古文書から若色和泉助政房の嫡孫の若色茂三衛門(1659年没)の時に妙見菩薩像を神田町(栃木市)の大仏師に依り刻立したと記されている。その後、天保5年(1834)に石橋宿の法体孝運が修復したことの書付があることを紹介している。厨子に納められている本尊の妙見菩薩像。一度拝観をしたいと願う。11月第1日曜日が例祭と栃木県神社誌に記載されている。「妙見菩薩像」の御開帳があるのか、地元の人に訊ねてみていこうと思う。 

Photo_6  たびたび引用している著書「今泉神社と今泉」は平成13年(2001)に著者の秋間恒一自身が発行している非売品の自家本になっている。栃木市図書館郷土コーナーの書架で偶然、手にした書物だ。この本を読むまで「今泉神社」のことは、名称も場所さえも知らなかった。栃木のまちの歴史の古さを改めて知ることができた。

 著者の秋間恒一氏の名前は平成8年(1996)の氏子総代改選名簿の中で会長再任と記されている。今泉神社と強い関わりが示されている。以前私が記述した「銀次のブログ カエルの石像がある丸沼長瀞公園」のカエルの石像を建立した代表として秋間恒一の名前が刻字されていた。今泉環境対策委員会会長秋間恒一とある所から地域での活動を精力的に勧められた方だと推察する。機会があれば秋間恒一氏のプロフイールを訊ねていきたい。 

Photo_7  地域の在住者が身近な神社の歴史を記述し、一冊の本にまとめあげている。南にある神社の広い境内。その奥にある築山。築山の上には今泉神社の沿革碑が建っている。神社沿革内容の写しが同書に掲載されている。すぐそばには櫻が岡の碑が建つ。そして平成5年(1993)5月に「妙見宮」を合社した末社の建立。平成6年(1994)の本社拝殿の大改修と綴られている。

 そして、本の最後には拝殿に飾られてある俳句の額のこと、大正年間の栃木小金井街道のこと、子供のころの長瀞川、奉案殿のあった大宮北小学校ことなど昭和初期にかけての地域の歴史が書かれてあり興味深く読ませて戴いた。

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 慶長3年(1598)に皆川広照の命によって今泉村に開墾を始めた若色和泉助政房。もともと皆川家家臣ではなかったのではないかと思える。若色氏は芳賀地方に多い苗字とされている。前年の慶長2年(1597)に宇都宮国綱は秀吉により所領没収、改易され宇都宮氏は亡くなる。若色氏は宇都宮一族芳賀氏につながる。その一族の一人、若色政房が新たな主家を求め栃木皆川に移住して来たのではないかと推測する。

  皆川広照はこの時期には皆川城から栃木城に拠点を移してきている。そして巴波川を中心とした栃木の町づくりを本格的に進めている。若色政房は皆川氏の傘下となり、北辰・妙見菩薩を奉じて新たな時代にむけて栃木城の北にあたる今泉の地で開墾を進めていったのだと思える。

  境内にある末社再建の碑。その裏面には寄贈者の氏名が刻字されてあった。そっと寄贈者名一覧を見る。――あった。2万円寄贈者の中に今泉町に住む伯父さんの名前が。「名前が載るなら、もっと多く寄付しておけばよかったと生前、父が言ってましたよ」と従姉妹がニコニコしながら私に話してくれた。伯父さんの名前を見つけてくれたことが嬉しかったのかもしれない。

                                        《夢野銀次》

≪引用関連資料書≫

秋間恒一著「今泉神社と今泉」(平成13年10月発行)、栃木県神社庁編集「栃木県神社誌」(平成18年7月発行)、「日本歴史地名大系栃木県の地名」(株式会社平凡社発行)、ブログ戸原「社寺巡拝記」

 

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