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拝殿向拝にある龍亀の彫物―栃木市「今泉神社」

Photo_3  「この立札は何なのだ…?」。今泉神社の鳥居の前に立ち、参道奥の拝殿を見る。しかし、左側にある「立札」がすぐに目についた。明治40年栃木県の名前で境内での禁止事項が掲載されている。「車馬乗入事、魚鳥獣ヲ捕ル事、竹木ヲ伐採スル事、塵芥ヲ捨ル事」と年代ものと分かる薄汚れた板に書かれてある。かすかに読み取れる文字。「どうして明治の時にこうした禁止の立札を建てたのかな」と不思議な印象をまず受けた。

  栃木市中心街から約2キロ東方に位置する今泉1-25-5に今泉神社がある。

Photo_4  日本歴史地名大系によるとかつての今泉村のことを「今泉1、2丁目・日ノ出町・神田町」とし、「大宮村の西に位置し、北から西にかけては平柳村、南は栃木城内村。大宮村境に丸沼・長沼があり、村の西部に杢冷川の水源をなす湧水がある。南部は牛むぐり田とよばれるほどの深田がみられた」と江戸期の村の様子が書かれ、「慶長14年(1609)までは皆川広照領で開発地主が若色三郎衛門。若色氏が当時若色和泉と称したことから村名を今和泉と名付けたと」いう今泉の名前の起こりが記載されている。 

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  秋間恒一著「今泉神社と今泉」のはじめの中で「明治後期より昭和の初期は、栃木界隈の櫻の名所として四方より野道を伝わって来襲し、一日中酔歌嬌声絶え間なく、参道には所狭しと露天立ち並び隆盛を極めたもので有る」と記述さている。花見客ならば酔ってゴミを散らかし、馬でくる人もいたなと思えてきた。広い境内奥には「櫻が岡の碑」が建ててあることから、花見の賑わいは相当なものだったことが予想できる。

  同書には栃木県に出した立札許可願いの写し文が記載されている。しかし、その理由の解説記述が載っていない。同書を読みながら村を二分して確執が続いた別当である長清寺との紛争が100年ぶり、明治5年に解決したこと。そのことによって村人が一丸となり神社を再建し、立札を建てるほどの花見客で隆盛をみたことなのだと読み取れてくる。あたり一帯の村々からたくさんの人たちが花見に訪れていたのが思い浮かんでくる。

Photo_13 参道を進むと入母屋造の拝殿が見えてくる。唐破風の向拝が参拝者を迎える。幣殿、本殿が奥に控えている。 

 文禄年間(1592~96)に創建された今泉神社。天地創造の神、天御中主命(あまのなかぬしのみこと)を祀っている。しかし、明治5年に神仏分離令までは妙見宮とよばれていた。栃木県神社誌によれば「今泉神社 妙見様 御神体は龍亀に乗った妙見菩薩の乾漆像で、これを厨子に納めて本殿に奉斎している。天明2年(1782)に造営された現在の拝殿には、向拝正面に龍亀の彫物が施され、当時の名残がある」と紹介されている。

Photo_5  拝殿正面向拝の上に施されている龍亀の彫り物。亀が変形している姿のように見える。可愛いく愛嬌のある亀のようだ。妙見菩薩の乗り物としての龍亀。この神社周辺では亀は殺さない飼わないということだ。

  古来より北天に定位する北辰(北極星)は宇宙の全てを支配する最高の神、天帝として崇められてきた。傍らで天帝の乗り物とされる北斗七星は天帝から委託を受けて人々の行状を監視し、その生死禍福を支配するとされた。そこから、北辰・北斗に祈れば百邪を除き、災厄を免れ、福がもたらされ、長生きできる。半面、悪行があれば寿命が縮められ、死後も地獄の責め苦から免れないものとされる信仰が生まれた。

Photo  この北辰・北斗を神格化したのが道教の『鎮宅霊符神』(ちんたくれいふしん)で、それが仏教に入って『北辰妙見菩薩』と変じ、神道でいう『天御中主神』と習合したといわれている。いずれも天地創造の神として祀ることにより、護国鎮守、除災招福、長寿延命、人民安楽の功徳を得ることになるとされている。

 神仏習合の神社として今も現存している今泉神社。もとは「妙見宮」と称していた。北斗七星を神格化した妙見菩薩を信仰し、天御中主命を祀っている。地域の発展と結びつけている神社のように思える。

Photo_2  本尊とされてきている龍亀の乗った妙見菩薩の乾漆像。秋間恒一著「今泉神社と今泉」に写真が載っている。

 今泉村は慶長3年(1593)の時に皆川広照の命により、若色和泉助政房が開墾をしたと云われてきている。同書によれば若色家古文書から若色和泉助政房の嫡孫の若色茂三衛門(1659年没)の時に妙見菩薩像を神田町(栃木市)の大仏師に依り刻立したと記されている。その後、天保5年(1834)に石橋宿の法体孝運が修復したことの書付があることを紹介している。厨子に納められている本尊の妙見菩薩像。一度拝観をしたいと願う。11月第1日曜日が例祭と栃木県神社誌に記載されている。「妙見菩薩像」の御開帳があるのか、地元の人に訊ねてみていこうと思う。 

Photo_6  たびたび引用している著書「今泉神社と今泉」は平成13年(2001)に著者の秋間恒一自身が発行している非売品の自家本になっている。栃木市図書館郷土コーナーの書架で偶然、手にした書物だ。この本を読むまで「今泉神社」のことは、名称も場所さえも知らなかった。栃木のまちの歴史の古さを改めて知ることができた。

 著者の秋間恒一氏の名前は平成8年(1996)の氏子総代改選名簿の中で会長再任と記されている。今泉神社と強い関わりが示されている。以前私が記述した「銀次のブログ カエルの石像がある丸沼長瀞公園」のカエルの石像を建立した代表として秋間恒一の名前が刻字されていた。今泉環境対策委員会会長秋間恒一とある所から地域での活動を精力的に勧められた方だと推察する。機会があれば秋間恒一氏のプロフイールを訊ねていきたい。 

Photo_7  地域の在住者が身近な神社の歴史を記述し、一冊の本にまとめあげている。南にある神社の広い境内。その奥にある築山。築山の上には今泉神社の沿革碑が建っている。神社沿革内容の写しが同書に掲載されている。すぐそばには櫻が岡の碑が建つ。そして平成5年(1993)5月に「妙見宮」を合社した末社の建立。平成6年(1994)の本社拝殿の大改修と綴られている。

 そして、本の最後には拝殿に飾られてある俳句の額のこと、大正年間の栃木小金井街道のこと、子供のころの長瀞川、奉案殿のあった大宮北小学校ことなど昭和初期にかけての地域の歴史が書かれてあり興味深く読ませて戴いた。

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 慶長3年(1598)に皆川広照の命によって今泉村に開墾を始めた若色和泉助政房。もともと皆川家家臣ではなかったのではないかと思える。若色氏は芳賀地方に多い苗字とされている。前年の慶長2年(1597)に宇都宮国綱は秀吉により所領没収、改易され宇都宮氏は亡くなる。若色氏は宇都宮一族芳賀氏につながる。その一族の一人、若色政房が新たな主家を求め栃木皆川に移住して来たのではないかと推測する。

  皆川広照はこの時期には皆川城から栃木城に拠点を移してきている。そして巴波川を中心とした栃木の町づくりを本格的に進めている。若色政房は皆川氏の傘下となり、北辰・妙見菩薩を奉じて新たな時代にむけて栃木城の北にあたる今泉の地で開墾を進めていったのだと思える。

  境内にある末社再建の碑。その裏面には寄贈者の氏名が刻字されてあった。そっと寄贈者名一覧を見る。――あった。2万円寄贈者の中に今泉町に住む伯父さんの名前が。「名前が載るなら、もっと多く寄付しておけばよかったと生前、父が言ってましたよ」と従姉妹がニコニコしながら私に話してくれた。伯父さんの名前を見つけてくれたことが嬉しかったのかもしれない。

                                        《夢野銀次》

≪引用関連資料書≫

秋間恒一著「今泉神社と今泉」(平成13年10月発行)、栃木県神社庁編集「栃木県神社誌」(平成18年7月発行)、「日本歴史地名大系栃木県の地名」(株式会社平凡社発行)、ブログ戸原「社寺巡拝記」

 

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