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2014年10月

10月の朝、さつまいも・落花生の収穫を始める

Photo 朝夕の冷え込みが肌に感じる季節になった。

10月24日の早朝、さつまいもと落花生の収穫を始める。

さつまいもの種類はメモしていないため分からない。間違って50本苗を買ってしまった。

我が家の菜園ではとても50本は植えられない。しかし、継ぎ足しの畝をつくり、50本植えることができた。そのかわり、苗と苗の間隔は狭い。

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 畝から採りだしたさつまいも。

「どれも小さいさつまいもだなあ…」との実感。苗と苗の間が狭かったのだ。

でも、もぐらやねずみに食われずに育ったさつまいも。「まっいいか――」と自分自身に納得する。

 スペースを多くとるさつまいもだが、今年は葉に勢いが感じられなかった。しかし、妻がさつまいもの葉を「おしたし」にした。うまいのだ。今年はさつまいもの実より葉っぱの方がうまいかもしれない。

Photo_3 落花生の種を今年は一袋全部植えてみた。

良く実ったみたいだ。

土寄せを意識して行なってきた。浅い土の下に落花生は成るからだ。

収穫を遅くしたため、穴のあいた落花生の実が目立つ。

「もう少し早めに採るんだった」と少し悔しい。

採れた落花生は我が家ではゆでて食べる。

やわらかい落花生の実になるからだ。

Photo_4食べ始めると落花生はすぐなくなるのだ。

種をもっと多くまいて作ったほうが良かったのかな?しかし、我が家の菜園の広さには限度がある。

「さつまいもや落花生、サトイモなど、たくさんの種類を植えていて、よく区別できますね」とご近所の人から言われる。

 量を少なめに作る。食べきれないからだ。

この近辺の菜園をやっている人たちはネギならネギを沢山多く作る。家庭菜園ではなく農家の仕法を受け継いでいるのだ。

Photo_5 所沢の菜園の時、落花生の種をまいた翌日にカラスに種を取られた。落花生はカラスの好物なのだ。

 我が家の銀太はカラスが来ると隠れて唸る。追いかけることはできない猫だ。

しかし、採れたての落花生のそばにきて「守ります」と言って、待機する。

 

 10月の朝。朝日がさつまいもや落花生に注ぐ。

もうすぐ寒い冬がくる。ニンニクを植える準備をしよう。

                     《夢野銀次》

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入谷・三ノ輪大関横丁界隈、昭和通りを歩く―吉展ちゃん事件

Photo_4  国道4号線は青森から東京日本橋まで総延長が888.8kmと日本一長い国道になっている。隅田川に架かる千住大橋を渡り、台東区三ノ輪の大関横丁交差点から4号線の通称名は日光街道から昭和通りに変わる。

  明治通りと交差する大関横丁交差点。その名前の由来は栃木県の北方、大田原に隣接する黒羽藩1万3千石大関家の下屋敷がこの付近、荒川区南千住箕輪にあったことにより「大関横丁」として名をとどめている。

Photo  都電荒川線三ノ輪橋駅近くの第六瑞光小学校の西側、都電荒川線路沿いに「大関横丁由来之碑」が建っている。黒羽藩第11代藩主の大関増業(ますなり)を讃えて昭和39年(1964)に「大関横丁保存会」によって建てられたものだ。

  黒羽藩の藩政改革を進めた増業であったが、養子藩主の改革は重臣からの反発を招き、隠居したのがここ大関家箕輪下屋敷だった。隠居して弘化2年(1845)3月、65歳で死去するまでの21年間、医化学・茶道などの研究に没頭し、功績を遺したと評価されている。また水戸藩主徳川斉昭は増業を「天下の畏友」の一人として遇していた。

Photo_2   大関横丁交差点から上野にかけての昭和通りの下を南千住、三ノ輪、入谷、上野と続く地下鉄日比谷線の電車が走っている。

  地下鉄入谷駅口と言問通りが交差する「入谷交差点」の先に入谷交番がある。その交番の先の左斜めから清洲橋通りが始まる。清洲橋通りを南に200m進んで左折をする。左折した道路を300m行くと右側に「入谷南公園」がある。

 「思っていた以上に広い公園だなあ」と公園を見た時の最初の印象だ。目測で100m四方の広さがある。公園の東方には浅草国際劇場の跡地に建つ「浅草ビューホテル」の建物が道路沿いから見える。さらには東京スカイツリーも眺められる。「花やしき」のある浅草に近い公園だったのだ。

Photo_3 公園の西北の隅にある公衆便所。

 手洗い場で水の出ない水鉄砲に困り果てている4歳の男の子がいた。

「坊や、すごい水鉄砲を持っているな。どれ、おじちゃんに見せてご覧」とグレーのレインコートをきた30歳前後の男が寄ってきた。「うーん、この故障は道具ないとダメだな。おじちゃんの家で直してあげよう」

Photo_5早く直してもらいたい一心から、男の子は「うん」とうなずき、男の子とレインコートを着た男は昭和通りから三ノ輪方面に歩きだした。(中部英男著「誘拐捜査」より)

 東京オリンピックを翌年に控えた昭和38年(1963)の3月31日の日曜日。夕闇がせまる午後6時15分頃、入谷南公園から4歳の男の子が姿を消した。公園の東隣りに住む村越吉展ちゃんが誘拐、殺害された戦後最大の誘拐事件と呼ばれた「吉展ちゃん誘拐事件」はこの公園から始まった。

Photo_6   犯人から7回に渡り村越家に身代金要求の電話があった。4分におよぶ脅迫電話であっても当時は電話の逆探知は採用されていなかった。

   本田靖春著「誘拐」の中で「この時期、日本の警察は、営利誘拐事件に対応する原則はまだ確立しておらず、捜査技術もはなはだしく未熟であった」とし、「捜査方針が公開、非公開、公開捜査と二転三転することや営利誘拐に対する捜査本部設置の遅れ」など捜査対応の甘さを指摘している。

   4月7日の深夜、午前1時25分。犯人から意表をついて取引場所の電話がかかってきた。村越家から昭和通りに向かって真っすぐ進み、昭和通り沿いにある品川自動車会社横の小型四輪車の荷台に今すぐ現金50万円を置けという指示であった。母親は従業員が運転する村越工務店のトラックで取引場所に行き、50万円の包んだ風呂敷包を車の荷台に置いた。

Photo_7   取引場所の品川自動車から村越家まで真っ直ぐの道路で300mの距離。一直線の道路のため車や人の動きが見通せることや身を隠すにも都合がよかったからだ。路地奥の鉄材倉庫の陰に隠れていた犯人は素早く風呂敷を掴み、鉄材倉庫の裏通りを突っ走って逃げた。3分後に刑事たちが現場に走って到着した時にすでに風呂敷包は消えていた。

  張り込み態勢の遅れから犯人を逃がす。さらに身代金50万円の1万円札の紙幣番号を控えていなかった等、捜査ミスがあげられた。

   現在は昭和通りの上には首都高速一号線が通っている。品川自動車のあった場所には葬祭センターの建物が建っている。「犯人が潜んだと言われている鉄材倉庫の建物は何処にあったのだろうか?」と思いながら入谷交差点に向けて歩く。

Photo_3  「吉展ちゃん誘拐事件」の捜査本部は172人体制で下谷北警察署に置かれた。地下鉄入谷駅と三ノ輪駅の中間、昭和通り沿いにある今の下谷警察署だ。署の建物左脇の所に初代警視総監川路利良の邸宅跡地の石碑が建っている。西南戦争における川路利良の動きなど興味があるのだが。

 私が歩いて下谷署の前を通った10月8日の時、「来週から建て替え工事を行う」と玄関前にいた署員から話を聞いた。仮の下谷署庁舎の場所は聞かなかったが、入谷交差点の近くではないかと思える。この警察建物は無くなるのかと思いながら歩く。

Photo_5  172人体制の捜査本部の唯一の手がかりは「録音した電話の声」であった。原警視総監による犯人への呼び掛けに続き、4月25日の早朝からは録音した犯人と母親との電話でのやりとりの声がテレビ、ラジオ放送から流れた。

   51年前、中学生だった私の記憶には放送された犯人のなまった声と子供の安否を心配する母親の必死な声が今も残っている。生々しい現実の事件が伝わって来て、怖さを感じたことを憶えている。

Image0011_2_3  吉展ちゃんが誘拐された入谷南公園において母の会連合会による集会と行進から始まる「吉展ちゃんを探そう」という運動は異常な広がりを見せる。配達集金人のいるクリーニング業、酒屋、米屋の諸組合、郵便局、東電、東京ガスの協力。青年会議所、歌などで多くの団体、企業がチラシ配布やポスター掲示を行ない吉展ちゃん探しの運動に参加していった。

   こうした動きについて中郡英男氏は自著「誘拐捜査」の中でこう記述している。「敗戦の惨禍から立ち直った当時の人々は、驚異的な経済成長へ向かってたくましく19630331歩み始めていた。まだ豊かさや飽食にはほど遠かったが、生死の境を共に乗り越えてきた連帯感の下に親身に励まし合い、助け合う人情が色濃く残っていた時代だ」と記述している。東京オリンピック前の変貌する都会の街の人たちの心情を言い当てている文言だと思える。

   「真人間になって死んでいきます」と言い残して、犯人小原保は昭和46年(1967)12月23日に宮城刑務所で処刑された。事件から2年3か月目の昭和40年(1965)7月4日に時計修理工小原保(30歳)は「吉展ちゃん誘拐事件」の容疑者として逮捕された。

T01870256_01870256103734148201   テレビ・ラジオから流れた犯人の声が小原保に似ているとの通報が19件寄せられ、2度に渡っての取り調べが行われてきた。しかし、物的証拠の不足、福島石川町の実家に帰っていたというアリバイから「シロ」となっていた。事件から2年3月後、捜査陣を刷新した警視庁は「昭和の名刑事」と言われた平塚八兵衛刑事を投入した。

Photo_11   平塚刑事らは電話の声は小原保に間違いないと確信した。福島実家での小原のアリバイを崩し、前橋刑務所で2年の懲役に服役していた小原を巣鴨東京拘置所(今の池袋サンシャインビル)に移管させ、10日間の任意取り調べをおこなったが、小原は落ちなかった。以後の捜査方針はアメリカのFBIに声紋鑑定を依頼するすることになり、10日目の夕方、平塚刑事ら小原の声の録音を雑談から始めた。取り調べが終わったことに気が付いた小原は心に隙間が出てくる。「4月3日の日暮里の火事を見た」と喋った小原。日暮里の火事は4月2日。その日小原は福島ではなく東京にいたことを認める発言だった。一気に平塚刑事はたたみ掛け、50万円の授受を自白する小原。翌日の7月4日、警視庁取り調べ室にて吉展ちゃん殺害と遺体の隠し場所を自供した。

  中郡英男氏は「誘拐捜査」の中で、この事件を契機に日本の捜査は声紋鑑定など自白から科学捜査を重視していくこになると記述している。 

Photo_6   福島県石川町からずーと奥に入った僻村の農家の10番目に生まれた小原保。小学5年の時に骨膜炎を患い、右足が不自由になって歩行する身障者になっていた。仙台の職業訓練所で時計修理の修行したが、2年間窃盗罪で服役した後に27歳で上京してくる。

  上野アメ横の時計修理店に勤めた小原は三ノ輪近くの簡易旅館から自転車で昭和通りを通って通う。やがて大関横丁交差点そばの都電荒川線三ノ輪橋駅付近にあった一杯飲み屋の2階にその店の女将と住むようになる。しかし、修理依頼品の横流しなどで時計店を解雇され、弁償金など借金22万円を抱える。弁済を強く催促された小原は金策に実家に帰るが、実家には寄らず帰京する。その時に以前、三ノ輪の映画館で見た「天国と地獄」の予告編を思い出し、誘拐を思いついたという。

   都電荒川線の終着駅の三ノ輪橋駅。付近は細い道路をはさんで細々した店が並んでいる。昭和通りに面したビルや店舗と正反対の小さな商店と家並みが残っている。歩いている若い女性の顔つきは渋谷や銀座で見かける顔や姿ではなく、親しみのある表情を浮かべている。

Photo_7   小原保の生い立ちから辿った内容は本田靖春著の「誘拐」に詳細に書かれてある。ノンフィクション作品として高く評価されている本だ。この本を原作として昭和54年(1979)に「戦後最大の誘拐―吉展ちゃん事件」がテレビ映画としてテレビ朝日から放映されている。監督恩地日出夫監督。主役の小原保役を泉谷しげる。飲み屋の女将に市原悦子、平塚刑事を芦田伸介が演じたドキメンタリータッチで描いた作品だ。

  もう一度観たいテレビ映画だが、再放送はされていない。主演の泉谷しげるの足を引きずって歩く後ろ姿に強い印象を受けた作品だ。また、泉谷しげるを初めて知った作品でもある。この作品を2008年に観た人のブログ「Simply Dead映画の感想文」に「主役に抜擢された泉谷しげるは、まさに野良犬のような男として犯人・小原保を演じ、実に素晴らしい。哀愁も憐憫も一切背負わず、ただダメになっていく男の姿を、最小限の演技でリアルに演じている。その自然体の堕ちっぷりが圧巻だ」と称賛している。この文言通り泉谷しげるが演じた小原保の像が私の脳裏にはまだ入っている。

Photo_8  吉展ちゃんをつれて入谷南公園を出て昭和通りを歩く二人。遅れてついてくる小原の足の運びに目を止めて言った。「おじちゃんは足が悪いんだね」。この足の特徴に気づかれた。無事に帰すことはできないと小原に殺意が生まれた。三ノ輪の大関横丁交差点を過ぎると日光街道に通称名が変わる。東京スタジアム(現荒川総合スポーツセンター)から引き返し、日光街道沿いにある円通寺の境内に入る。この間、入谷南公園から円通寺まで二人は4キロ歩いたことになっている。

 夜の8時、小原はこの寺の境内で吉展ちゃんを殺害し、遺体を墓の下にある納骨室に隠す。誘拐したその夜に殺害していたのだ。 

 上野彰義隊の戦死者を荼毘に付し、境内に墓石を建てて供養している円通寺。上野戦争の遺構である黒門と彰義隊の墓がある。「明治になってしばらくして、静岡から元彰義隊だった父の遺骨を持って来て、このお墓に納めて欲しいと言ってくる人がおりました。賊軍として唯一、公に法要できたのが円通寺なのです」と若い住職の方が話してくれた。

Photo_9  「この先には行けません」と若い住職は私の足を止めた。吉展ちゃんが遺棄された本堂裏の墓所への立ち入りを禁止しているからだ。

 「吉展ちゃんの遺体を発見した真夜中、うちの住職は二階の部屋から見ていたと言っています。同級生だったのですネ」。遺体はすでに白骨化していて、口元から2年目で発芽するネズミモチが生えていたと言われている。

  黒門のそばには昭和41年(1996)3月に建立された「吉展ちゃん慰霊地蔵」が立っている。

 現在も花を手向ける参拝者が多い。

71dhm1kuvbl_sl1219_1_4  昭和通りを歩きながら坂本九が歌っていた「一人ぼっちの二人」の歌詞が浮かんできた。昭和37年(1962)の作詞/永六輔、作曲/中村八大の歌だ。

 ~しあわせは僕のもの 僕たち二人のもの だから二人で手をつなごう 愛されているのにさびしい僕 愛しているのに悲しい僕 一人ぼっちの二人~ 

 ――坂本九の中で私が一番好きな歌だ。

  同じ年に「ひとりぼっちの二人だが」という題名で吉永小百合、坂本九、高橋英樹出演の映画が日活で映画化されている。柳橋の芸者置屋から逃げた吉永小百合が坂本九と共に浅草の街を駆け巡る映画だった。花やしきや六区の映画街など昭和30年代後半の浅草が映し出されていた映画だと記憶している。

  昭和35年の60年安保闘争の終了後、当時の若者にとり一人という個人への問いかけが行われていく時代であった。「一人ぼっちの二人」の歌の中にはこの時代を生きていくための隠された悲しさと寂しさ、孤立が秘められている。そして、作詞することを辞めた永六輔の詞には「一人」という言葉が数多く出てきている。「一人」って、昭和30年代後半から今の時代までずーと問いかけが続いていると思えてくる。この時代の一人に小原保がいた。そして中学生だった私も今もいるのだ。

  都会の片隅の底辺で、社会から疎外されて生活している人は今の時代、高齢者から若者までたくさんいる。夕食の一番の御馳走がカレーライスであった昭和30年代。皆が我慢して生きていこうとした時代。追い込まれて、苦しい生活から逃れていった世界を「吉展ちゃん事件」を私に提示している。華やかな生活と人の交流の格差が以前より増して広がってきている現代。弱者がより弱い弱者に牙を向けてきている。どうすれば良いか? …考えていこう。

〈参考・引用資料〉

本田靖春著「誘拐」ちくま文庫・2005年10月発行、中郡英男「誘拐捜査 吉展ちゃん事件」2008年6月発行株式会社創美社、ブログ「Simply Dead映画の感想・戦後最大の誘拐―吉展ちゃん事件」ブログ「吉展ちゃん事件 オワリナキアクム」、栃木県立博物館「改革と学問に生きた殿様ー黒羽藩主 大関増業」平成22年10月発行

                                            《夢野銀次》

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栗橋から関宿23キロ歩く―栃木市民大学現地ウォーク①

012  「私の計測器では23キロになっている。歩いたなあ。――23キロだよ」と古河駅から乗車し、解散地の栃木駅に向かうJR宇都宮線の電車の中で話す参加者の声が聞こえた。「そうか…。23キロ、歩いたんだ」と私もコックリと頷いた。

  10月11日(土)の「26年度栃木市民大学現地学習―利根川・江戸川ウォーキング」の第1回目に参加した。「~川沿いと旧街道で辿る栃木・江戸の舟運~」と副題となっていいる現地学習は10月11日から12月15日までに全5回に渡って実施していく日程になっている。

  早朝の6時30分に栃木駅北口に集合したのは参加者14人と栃木市役所生涯学習課職員3人の計17人。「倉賀野から日光、例幣使道ウォーキングから始まり、4年前に古河までの巴波川沿いのウォーキングを行ないました。今回はその続編として企画しました。利根川沿いの栗橋宿、利根川・江戸川の分岐点の関宿、江戸川沿いにある野田、新川の行徳、そして中川船番所のある深川小名木川に向けて徒歩を中心に電車、バスを使って辿って行きます。また本日の歩く距離は約20キロで5回の中で一番長い距離になっています。頑張って歩きましょう」と講師兼案内の栃木市文化課のベテラン担当職員K氏の挨拶があった。その言葉にはどこか総仕上げの響きが感じられた。救護を兼ねた市の車が待機しながら後走するということだ。

  江戸期から明治中期まで栄えた「うずま川舟運」。栃木河岸から巴波川を下りー渡良瀬川―利根川ー江戸川ー新川ー中川―小名木川―隅田川ー日本橋小網町河岸へと繋がっていた舟運。何年か前に栃木東中の生徒がこのコースの現地学習を実施している筈だ。先輩の私も負けないで歩き辿っていく。

Photo_2 1回目(10月11日)の行程は栃木駅(電車)-栗橋駅…利根川土手…旧日光街道栗橋宿…権現堂川右岸…旧日光街道道標…権現堂公園堤…幸手市運動公園…関宿橋…江戸川左岸…関宿関所跡碑…関宿博物館…境大橋…境町バス停(バス)-古河駅(電車)-栃木駅になっている。(上流からみて左岸と右岸を記載する)。

  栗橋駅東口から歩きだすと、すぐに「静御前のお墓」があった。義経のいる平泉向かう途中に義経の死を知り、悲しみと長旅の疲れfでこの地で亡くなったと伝えられている。初めて知ったお話だ。しかし、義経が平泉で自刃する時に共に亡くなる正妻の河越氏の娘のことはあまり語られていない。静御前には白拍子としての華があったからかもしれない。

Photo_3  右手下流に4号線の橋が見える。栗橋の土手に立ち朝靄の利根川を眺めながら土手下に降りる。宿場北端の八坂神社から栗橋宿を歩き始める。左側には「栗橋関所跡碑」がある筈だが、本日は省略通過。今度見に来る。

  日光街道幸手宿の次となる7番目の栗橋宿。左上の4号線はひっきりなしに走る車の音が聞こえてくる。そういえば車で4号線は走ったが、栗橋宿を歩くことはなかった。北に一直線に伸びている旧日光街道は道幅が広い。街並みは趣のある景観が漂っている。通りに立っている電柱には昭和22年のカスリーン台風で浸水した高さ3メートル地点が青線で表示されている。住む土地より高い所を流れる利根川。天明3年(1783)の浅間山大噴火で底上げされ、天井川として流れる利根川の大河の怖さを感じた。

Photo  南端の街道出入り口の道は曲がっている。「宿場町特有の鍵の手だよ」と市のK氏が教えてくれた。宿の防衛のため見通しがきかないようにするのが狙いだというが、実際は怪しい旅人を吟味するのが目的だった。ちなみに例幣使道沿いの栃木宿も現在の南端の開明橋、北端の万町交番に関を設け、まっすぐに宿場に入ることができないようにしていることを思い浮かべた。 

Photo_2  その南の出入り口の左側に「炮烙(ほうらく)地蔵尊」が祭られている。そばの標示版には「関所を通らないで利根川を渡った者や渡ろうとした者を捕え、この地で火あぶりの刑に処していた。こうした処刑者を憐み、火あぶりになぞらえて、土地の人が供養のため炮烙地蔵として祭った」と記載されている。炮烙というのは低温で焼かれた薄赤い土器のことを言う。地蔵尊の祠の中には奉納されている炮烙がたくさん見えた。どこか安心した気持ちになる。それにしても街道沿いで火あぶりの処刑を本当にしたのだろうか?疑問が残った。

Photo_6 利根川から分流する権現堂川跡の右岸を通り、幸手宿に続いている旧日光街道をひたすら歩く。旧街道の道幅は狭い。道幅は目測で二間半(約4.5m)かな。先頭をあるく市のK氏の歩く速度が速い。歩きなれている人だ。早い速度のためなのか参加者も余計な話はしないで必死に歩いているように感じた。

 「右はつくば、左は日光道、東は前ばやし」と刻字されたた道標が栗橋宿と幸手宿の間に建っていた。こうした道標を見ると、旧街道を歩いているだなという気持ちになる。あたりはのどかな田園風景になっている。街道沿いのどこかの幼稚園から運動会の音楽が聞こえてくる。 

Photo_7 明治の御代から櫻で有名な権現堂公園の堤を歩く。権現堂公園史には「利根川や江戸川などの流路変更により権現堂川は昭和のはじめに廃川になる。大戦時には櫻が伐採されるなど堤防は荒れ果てた。しかし、昭和24年(1949)に旧権現堂川堤防のうち、中川の堤防として残った土手堤に改めてソメイヨシノを植樹したのが現在の権現堂堤」と記述されている。

 新聞や観光案内で櫻の他に「菜の花畑と権現堂堤」や「曼珠沙華の花」など目にする。土手堤に沿って咲き終わったばかりのたくさんの曼珠沙華の花が目立つ。復活させた櫻の名所。守り育て整備されている権現堂公園堤を歩きながら幸手市の力の入れ方が伝わってくる。

  権現堂堤から幸手市総合運動公園、工業団地を横に見ながら、中川堤防の上を歩く。非常に高い堤防の上をあるく。この堤防工事の顕彰碑が建っている。内閣総理大臣田中義一の名前が彫られていたのが目についた。 

Photo_8 江戸川大橋と利根川境橋を通る県道26号を歩き、関宿橋を渡り始める。江戸川上流、右の方に平成7年(1995)に建てられた千葉県立関宿城博物館が見える。「あそこが目標ネ。目標が見えてくると力が湧いてくるわ」と橋を渡りながら参加者からの声が聞こえてくる。

 江戸城富士見櫓を模擬して建てられた天守閣。中世・近世の関宿城とはまったく関係ない所に建っている。江戸時代近世の関宿城跡はこの博物館の手前、江戸川沿いに300m下流左岸土手下のところにあり、関宿城址の石碑が建っている。

  江戸湾に注いでいた利根川を銚子沖、太平洋に河流を変え、その利根川と東京湾に注ぐ江戸川の分流点として関宿がある。江戸時代初期から始まった「利根川東遷工事」により現在の河川・河流の原型が出来上がってきた。しかし、中世の関宿周辺は幾流にも蛇行する河川と沼地であったとされている。

Photo_4  この時代の風景を「ブログ埋もれた古城、関東地方の城」にこう記述されている。「中世の利根川本流は現在の古利根川・中川筋であり、江戸川筋には利根川とは別水系の渡良瀬川、その東には常陸川が流れていた。この利根川と常陸川は江戸期のはじめに赤堀川開削によって接合され、利根川は旧常陸川の流れに乗って香取海、そして銚子から太平洋へと注ぐ、現在の利根川の原型が築かれた」としている。なかなか難しく理解できない点だ。

 渡された資料「利根川変流図」を見ると利根川は西の加須、幸手、春日部を流れていた古利根川として江戸湾に注ぎ、最初から銚子には流れていなかったこと。藤岡赤麻沼や古河思川を合流させた渡良瀬川が栗橋を通り太日川になり江戸湾に注いでいた。寛永16年(1641)に利根川から江戸川の開削通水により太日川は廃川となる。しかし、それ以前は栃木県下野から流れてくる渡良瀬川が江戸川に変わる太日川に繋がり、江戸湾に流れていたのだ。関東地方の真ん中に位置する古河や栗橋付近は多くの沼がある湿地帯であった。沼から流れる渡良瀬川の河流を追っていくと水運をめぐり、平将門以来、中世・戦国期の幾つかの合戦の要因や様相が見えてくるような気がしてくる。

Photo_3  戦国時代、永禄8年(1565)から天正2年(1574)かけて関宿城の争奪戦が繰り広げられた。江戸城、岩槻城からの出陣に加え、江戸湾からも太日川(渡良瀬川)の上流をのぼり関宿城を攻める小田原北条。関宿城を守る古河公方重臣梁田氏。援護する上杉との三次に渡る関宿合戦。この合戦を制した北条氏康・氏政・氏照父子は関宿城を関東支配の一大拠点にして水運を活用して常陸逆井城や下野小山祇園城に攻め上ることになる。 
Photo_7  この関宿合戦で北条の寄せ手に加わった栃木市にある皆川城の領主、皆川俊宗が討つ死にしたという通説があった。私もそう思っていた。しかし、栃木県立博物館人文課長の江田郁夫氏は自著「下野長沼氏」の中でその通説を覆している。俊宗の死去を天正元年(1573)9月11日からして、この年に小山領など下野南部を中心に北条方と佐竹・宇都宮方との激戦で、北条方の皆川俊宗は小山領の粟志川城攻めにて討ち死にした可能性があると指摘しているのだ。

  私には粟志川城の位置が分からない。ネットで検索していくが、どうも壬生と小山の間の思川沿いにあったらしい城だということが推測される。1万3千石クラスの戦国領主にとり傘下を宇都宮氏、北条氏と頻繁に変え戦国の生き抜いた皆川氏。そして俊宗の子息、皆川広照は巴波川を中心にした栃木の町づくりの原型を作っていく。

Photo_8   関宿城博物館に向かう途中に関宿関所跡の石碑が町の入り口、県道26号沿い建っている。ここも宿場の出入り口として道が曲がっている。「実際にこの地点に関所があった所なのか、あいまいなんです」と市のK氏が話す。

 関宿関所について川名登著「ものと人間の文化史 河岸」の中で、「関宿関所は、通過する船の積荷と乗客を改める関所であるが、江戸へ往来する船が必ず通る場所である。そのため関所前は大混雑した。その混雑緩和のため、通船改めの一部を船問屋に代行させ通船に対して責任を持たせた。関宿の船問屋は『お手形宿』や『付船宿』と呼ばれ、関宿関所の下役人的な性格が強かったのである」と記述されている。関宿特有の河岸問屋だったのだ。

    関宿河岸もこのあたりにあった。関宿河岸跡の標札が江戸川土手にある筈だが今日は省略。平成24年(2012)に「栃木の在村記録 幕末維新期の胎動と展開 岡田嘉右衛門親之日記」が田中正弘氏の翻刻によって栃木市教育委員会から発行されている。

Img_7853_s1_21_3  岡田家は江戸初期に栃木市の嘉右衛門新田を開発し、名主をかねて畠山陣屋の手代となり、代々岡田嘉右衛門を名乗り現在まで続いている。歴代当主のなかでの岡田嘉右衛門親之の日記(天保15年・1844年~安政6年・1859年)を第1巻として発行している。

  その日記の中に栃木嘉右衛門自宅から江戸畠山家に出府する旅程の記述が再三出てくる。例えば「弘化5年(1848)2月21日、今朝出立(栃木嘉右衛門自宅)いたし、関宿木村清兵衛宅より乗船いたし22日到着、麻屋藤之助方へ一宿いたし候(略)、24日出立(江戸)いたし幸手泊り、25日夕方帰宅いたし候」。「嘉永元年(1848)11月18日、今朝出立(自宅)出府いたし候、関宿へ木村より乗船いたし、19日朝着いたし、小網町壱丁目麻屋藤之助方止宿いたし候(略)、22日出立、杉戸泊り、23日帰宅いたし候」。

 この日記から栃木町から江戸へ行くのは関宿まで徒歩で行き、関宿から乗船して江戸川を下り江戸日本橋に行っている。帰路は徒歩で幸手、杉戸泊りで翌日夕方に栃木嘉右衛門町へ帰宅している。江戸へは船を使用した場合は1日半。この岡田嘉右衛門の江戸への行程を読むと、「朝(江戸に)着く」と記述されており、関宿河岸から夜船を使っていたのではないかと思っていた。

319314701  前述の川名登著「河岸」を読んでいたら、境河岸・関宿河岸から江戸までの乗合夜船が定期的に出航していたことの記述がでてきた。「境河岸から乗船し、関宿関所の改めを受け、関宿を夕暮れに出航し、朝早く江戸に着く乗合夜船があった」とあり、翌朝に岡田嘉右衛門が江戸に着いていたことが分かった。同書には「境河岸の特権であった乗合夜船を関宿河岸問屋が文化年間(1806)頃から出船し始めたことにより乗船客の争奪の訴えが幕府勘定奉行にあった」ことの記述がある。境・関宿両河岸から江戸までの乗合夜船が運行されていて、旅人や大山参詣者には大変な人気でもあったのだ。さらに江戸川と並行している日光道中の幸手宿や粕壁宿からは江戸川の乗合夜船禁止を幕府に訴えていたことだ。旅人客の確保に向けて宿場と河岸との争いがあった等興味ある。

 岡田嘉右衛門が定宿として乗船利用していた関宿の木村清兵衛宅は同書「河岸」の中に「向河岸の清兵衛」という記述があるところから関宿の河岸問屋だったと分かった。

Photo_7  関所のあった江戸川の両河岸には一対の「棒出し」といわれる堤防が設置されていた。江戸川下流への流れを緩和、調整するためだと言われている。関宿関所はその「棒出し」のそばに設けられていたのが関宿城博物館に展示してあるジオラマで見ることができる。関所のそばには渡し舟があったことも展示してある絵図から見ることができた。

Photo_3   昼食の後に博物館学芸員の案内で特別展示の蒸気船「通運丸」の説明を受ける。明治初期に利根川舟運で活躍した蒸気船の「通運丸」。その模型や両国からの銚子までの所要時間と運賃などの特別展示の開催中であった。

  しかし、今の私は幕末の関宿藩の方に興味を抱いている。幼弱な久世家藩主を擁して彰義隊に参加していくなど藩内が分裂し、混乱状態で明治維新を迎える動向の方に興味があるから、学芸員の説明を良く聞いていなかった。

Photo_6 「ここが皆さん一番喜ぶ所なのですよ」と語る学芸員。博物館最上階、天守閣展望階。左側は東京湾へと流れていく江戸川。右側は銚子・太平洋にむけて流れていく利根川。両川の分岐点として眺めることができる。「以前、この地は洪水のため三軒しか家がなく、現在も三軒町という地名になっているのです」という話を学芸員の方から聞く。

  関宿藩は徳川家康の異父弟、松平康元により天正19年(1590)に家康の江戸城入定と合わせて2万石として始まった。関宿藩を引き継いだ久世家は幕末には5万8千石を有すようになる。久世家は江戸に入る水運の監視という重要な役目を負い、幕閣老中に歴代4人を輩出するなど徳川家の重臣、譜代大名になっていった。江戸期の巴波川沿いの村々の領主は古河藩土井家か関宿藩久世家の領地が多かった。明治の御代を迎え、この両家は徳川と共に衰退する。天守閣展望台から江戸川、利根川の分岐点を眺めながら、戊辰戦争、西南戦争を通して明治新政府の巴波川を中心とした河川輸送への対策などこれから学んでいく事項がでてきたなと思えてきた。

Photo_16  ~旅空夜空で いまさら知った 女の胸の底の底 ここは関宿大利根川へ 人にかくして流す花 だってヨー あの娘川下 潮来笠~「潮来笠」(歌/橋幸夫・詞/佐伯孝夫・曲/吉田正)

  水戸街道の南柏から左にそれて今の県道17号流山街道から関宿を通り、結城へと続いた旧日光東往還道。結城に向かう県道17号には関宿町から境町をつなぐ「境大橋」が架けられてある。両岸に渡し舟があった所だ。その境大橋の横には歩行者専用の橋も架けられてある。下を利根川がゆったりと銚子に向けてと流れている。歌に歌われた関宿大利根川。橋の欄干から眺める利根川は「雄大だなア」と感嘆する。

 橋の中央には千葉県と茨城県の境を表示する文字が橋桁に書かれてあるのが見えた。栃木県、埼玉県、千葉県と通過し、最終の茨城県の境町に辿り着いた。橋を渡り、境町よりバスにて古河駅に行く。バスの乗車賃が620円。長い距離のバス運行を表す料金だ。鉄道が通っていない町であることがしみじみと分かる。

 「次回は江戸川野田市内を中心に歩きます」という言葉で栃木駅で解散となる。しっかりと歩き学んだ一日だった。

≪関連ブログ≫

◆野田市・江戸川の河岸問屋―栃木市民大学現地ウォーク②

◆水運の近道、利根運河・流山―栃木市民大学現地ウォーク③

◆江戸へと続く行徳・新川―栃木市民大学現地ウォーク④

◆江戸の出入り口・小名木川―栃木市民大学現地ウォーク⑤

◆発祥地の多い日本橋川河口―栃木市民大学現地ウォーク⑥

                                          《夢野銀次》

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収穫の秋を迎え、今を生きる―映画「おかんの嫁入り」

Photo  我が家の周りの水田は黄金色に染まっている。収穫の始まった稲穂の田圃。耕運機で代かきが始まり、田植え機によって田植えを行ない、最後はコンバインという機械で稲狩りを行なう。稲穂の生育は一人の機械の操作で終わっていく。広い稲穂の田圃の光景を見ながらどこかに寂しさを感じる。 

Photo_2  ――秋を迎えた。

  菜園から落花生を収穫した。

妻が落花生をゆでてくれた。口に含んだ落花生は柔らかくて甘い。うまい落花生になっている。

   平成22年(2010)作品の「おかんの嫁入り」を図書館からDVDを借りて観る。娘月子(宮崎あおい)と母親陽子(大竹しのぶ)の優しく心温まる世界を描いた作品だ。「おかん」は関西弁で母親のこと。関東では「かあちゃん」と呼ぶ。私は母親のことを「かあちゃん」と呼んでいた。

Img_01_2    監督はこの作品が二作目となる呉美保(お みほ)。因みに三作目「そこのみ光輝く」は今年(2014年)のモントリオール世界映画祭において最優秀監督賞を受賞し、今一番注目されている監督の一人になっている。

  ある雨の降る深夜に金髪のリーゼットの若い男研二(桐谷健太)を家に入れ、娘に結婚することを宣言する母親。母娘のいさかいの中、末期癌である母親陽子は白無垢姿で娘月子に向き合い語る。白無垢姿で語る大竹しのぶの台詞と聞き入る宮崎あおいの表情が感動的だ。

 「残りの時間の中で何をすべきなのかを考えました。私が今すべきことは私の人生を私らしく幸せに生きることであり、それを月ちゃんに見せることによって、月ちゃんも自分の生き方を見つけてもらいたい。そう思いました。月ちゃん、こんな身勝手でわがままで、どうしょうもないお母さんですが、どうか最後の日まで、どうか一緒にいてください。よろしくお願いします。…こういうのいっぺんやってみたかってん」。涙を浮かべて母を見つめる月子。柳田國男が説いている「ハレとケ」の世界だなと思えた。ハレという非日常的な世界での衣装―白無垢の花嫁姿は普段の自分をも変身させ、言えない言葉を自然に喋れる世界を描いていると思えた。

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  25歳の月子は退職して一年、犬との散歩など周辺を出歩くことはできるが、電車に恐怖を抱き、社会に復帰できないニートになっている。同僚からストーカーに会ったからだ。自転車置き場でのその同僚の男から突き飛ばされるシーンなど怖さを感じる。母親は娘と一緒に電車に乗って白無垢衣装合わせに行くことを誘う。電車に乗ろうとしても、なかなか前へ進めないでもがく娘月子。プラス思考のおまじない「ツルカメ」をつぶやき続ける。その時、月子の耳元に「ツルカメ ツルカメ ツルカメ」と母親の陽子のつぶやきが聞こえる。二人は共に電車に飛び乗る。やったあ、できたあ――。と抱き合い喜ぶ母娘。とても温かいシーンだ。

  研二やさく(絵沢萠子)と共に食事しながら母親の結婚にふて腐れる娘に「放さない、放さない」と娘月子を抱きしめる母親の陽子。「あんたら目くそ鼻くそや」と敷地内に住む大家のさくから言われる母娘の関係。

Ph211 この映画の人物たちの関係性が陰鬱ではなくカラットと描いているのが気持ち良い。それは食事のシーンが多いということだ。10月4日ラジオ放送のNHK第一の「かんさい土曜ほっと」の中で、大学教授でもある司会者の佐藤誠司氏は「家族の定義は食事を共にすることだ」ということを引用して語っていた。共に食事をすることこそ人を結びつけるということなのだ。

 陽子の結婚に異を唱えず、怒った月子を泊める隣の大家さく。さくは陽子の家にあがり食事もする。しかし、結婚には異を言わず、母娘の微妙なやりとりには足を踏み込まず距離を置く。陽子が勤める村上医師(國村隼)も板前をしていた研二がつくる料理をうまいと言って食べる。そして陽子の結婚に異は唱えない。

 いい加減な若者と思えた母親の結婚相手の研二。おばあちゃんを亡くしたことを月子に語る。「今当たり前に思ってることが、すぐ先で、そうじゃなくなるかもしれんことを、結局死んでしもうてから気づかされて――。もう二度とばあちゃんに会うことも、謝ることもずーっと ずーっと後悔しながら…」と祖母の思いを語る。娘月子がいない家では縁側の下で寝るなどけじめを知っている青年に描いているのが印象的だ。

 母娘の周りの親しい人たちはちょっとした距離を置いて見守る姿勢を描いている。ドロドロした関係を作らない世界。それがこの映画全体を包んでいるように思えた。「おかん」という語感も暗くないのだ。

003_2  先日、五木寛之の講演「いまを生きる力を」を聞いてきた。主催が浄土宗関係だったためか会場には宗教色も感じられたが、講演内容には仏教色が無かった。生命は有限であることを改めて知った講演だった。

  昭和7年9月30日に生まれの五木寛之は82歳を迎えている。「人生をどう生きるかを書いた本はたくさんあるが、60歳以後の生き方を書いた書物は少ない。生命は無限ではない。人間の一番強い欲である生存欲。誰もが迎える逝くといこと。その生存欲を克服、断ち切るには今をどう生きるかだ」と指摘した。

  さらに慈悲という言葉の持つ意味を述べた。印象深い指摘だった。慈と悲をわけて考える。オーム真理教で服役中の息子に会う父と母。慈父―厳格だが優しさと厳しさを持ちながら息子を理解しようとオーム教関連の書物を読破する。息子の思考を理解し、支えようとする。悲母ー父と息子が理論抗争していても、じっと黙って息子の手を握りつづける母親。末期を迎えた時に慈が病院の治療ならば悲は看取る家族の優しさなのだと五木寛之は語った。

Photo 若い女性も多かった五木寛之の講演を聴きながら、いずれ自分にも別れを告げる時が確実にやってくることが胸に浮かんできた。66歳という年齢は、その時が来るのが近いことだ。その時に向けてどう生きていくのか…。限りある生命。今をどう生きるかを問われた講演だ。

 我が家の庭先では雌の夢野と雄の銀太がコンバインで稲狩りをしている様子を眺めている。

  二歳年上の兄が入院している。人工透析を30年近く続けてきたうえでの入院でもある。横浜に嫁に行き、二人の子供がいる一人娘の姪は頻繁に横浜から栃木の総合病院にきて兄を看ている。兄嫁は10年前に他界している。家族は父娘の二人だ。娘が父を看ている。子供のいない私にはうらやましいと思える光景だ。

 自らの生命は有限…。

 映画「おかんの嫁入り」は、生命の限りを知った母親が『嫁入りする』という行為を通して、娘に自分らしく今を生きることを見せる。そして、娘に最後までずっと一緒にいてほしいことを願う。さわやかな感動を私に与えてくれた映画だ。

                                        《夢野銀次》                         

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