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栗橋から関宿23キロ歩く―栃木市民大学現地ウォーク①

012  「私の計測器では23キロになっている。歩いたなあ。――23キロだよ」と古河駅から乗車し、解散地の栃木駅に向かうJR宇都宮線の電車の中で話す参加者の声が聞こえた。「そうか…。23キロ、歩いたんだ」と私もコックリと頷いた。

  10月11日(土)の「26年度栃木市民大学現地学習―利根川・江戸川ウォーキング」の第1回目に参加した。「~川沿いと旧街道で辿る栃木・江戸の舟運~」と副題となっていいる現地学習は10月11日から12月15日までに全5回に渡って実施していく日程になっている。

  早朝の6時30分に栃木駅北口に集合したのは参加者14人と栃木市役所生涯学習課職員3人の計17人。「倉賀野から日光、例幣使道ウォーキングから始まり、4年前に古河までの巴波川沿いのウォーキングを行ないました。今回はその続編として企画しました。利根川沿いの栗橋宿、利根川・江戸川の分岐点の関宿、江戸川沿いにある野田、新川の行徳、そして中川船番所のある深川小名木川に向けて徒歩を中心に電車、バスを使って辿って行きます。また本日の歩く距離は約20キロで5回の中で一番長い距離になっています。頑張って歩きましょう」と講師兼案内の栃木市文化課のベテラン担当職員K氏の挨拶があった。その言葉にはどこか総仕上げの響きが感じられた。救護を兼ねた市の車が待機しながら後走するということだ。

  江戸期から明治中期まで栄えた「うずま川舟運」。栃木河岸から巴波川を下りー渡良瀬川―利根川ー江戸川ー新川ー中川―小名木川―隅田川ー日本橋小網町河岸へと繋がっていた舟運。何年か前に栃木東中の生徒がこのコースの現地学習を実施している筈だ。先輩の私も負けないで歩き辿っていく。

Photo_2 1回目(10月11日)の行程は栃木駅(電車)-栗橋駅…利根川土手…旧日光街道栗橋宿…権現堂川右岸…旧日光街道道標…権現堂公園堤…幸手市運動公園…関宿橋…江戸川左岸…関宿関所跡碑…関宿博物館…境大橋…境町バス停(バス)-古河駅(電車)-栃木駅になっている。(上流からみて左岸と右岸を記載する)。

  栗橋駅東口から歩きだすと、すぐに「静御前のお墓」があった。義経のいる平泉向かう途中に義経の死を知り、悲しみと長旅の疲れfでこの地で亡くなったと伝えられている。初めて知ったお話だ。しかし、義経が平泉で自刃する時に共に亡くなる正妻の河越氏の娘のことはあまり語られていない。静御前には白拍子としての華があったからかもしれない。

Photo_3  右手下流に4号線の橋が見える。栗橋の土手に立ち朝靄の利根川を眺めながら土手下に降りる。宿場北端の八坂神社から栗橋宿を歩き始める。左側には「栗橋関所跡碑」がある筈だが、本日は省略通過。今度見に来る。

  日光街道幸手宿の次となる7番目の栗橋宿。左上の4号線はひっきりなしに走る車の音が聞こえてくる。そういえば車で4号線は走ったが、栗橋宿を歩くことはなかった。北に一直線に伸びている旧日光街道は道幅が広い。街並みは趣のある景観が漂っている。通りに立っている電柱には昭和22年のカスリーン台風で浸水した高さ3メートル地点が青線で表示されている。住む土地より高い所を流れる利根川。天明3年(1783)の浅間山大噴火で底上げされ、天井川として流れる利根川の大河の怖さを感じた。

Photo  南端の街道出入り口の道は曲がっている。「宿場町特有の鍵の手だよ」と市のK氏が教えてくれた。宿の防衛のため見通しがきかないようにするのが狙いだというが、実際は怪しい旅人を吟味するのが目的だった。ちなみに例幣使道沿いの栃木宿も現在の南端の開明橋、北端の万町交番に関を設け、まっすぐに宿場に入ることができないようにしていることを思い浮かべた。 

Photo_2  その南の出入り口の左側に「炮烙(ほうらく)地蔵尊」が祭られている。そばの標示版には「関所を通らないで利根川を渡った者や渡ろうとした者を捕え、この地で火あぶりの刑に処していた。こうした処刑者を憐み、火あぶりになぞらえて、土地の人が供養のため炮烙地蔵として祭った」と記載されている。炮烙というのは低温で焼かれた薄赤い土器のことを言う。地蔵尊の祠の中には奉納されている炮烙がたくさん見えた。どこか安心した気持ちになる。それにしても街道沿いで火あぶりの処刑を本当にしたのだろうか?疑問が残った。

Photo_6 利根川から分流する権現堂川跡の右岸を通り、幸手宿に続いている旧日光街道をひたすら歩く。旧街道の道幅は狭い。道幅は目測で二間半(約4.5m)かな。先頭をあるく市のK氏の歩く速度が速い。歩きなれている人だ。早い速度のためなのか参加者も余計な話はしないで必死に歩いているように感じた。

 「右はつくば、左は日光道、東は前ばやし」と刻字されたた道標が栗橋宿と幸手宿の間に建っていた。こうした道標を見ると、旧街道を歩いているだなという気持ちになる。あたりはのどかな田園風景になっている。街道沿いのどこかの幼稚園から運動会の音楽が聞こえてくる。 

Photo_7 明治の御代から櫻で有名な権現堂公園の堤を歩く。権現堂公園史には「利根川や江戸川などの流路変更により権現堂川は昭和のはじめに廃川になる。大戦時には櫻が伐採されるなど堤防は荒れ果てた。しかし、昭和24年(1949)に旧権現堂川堤防のうち、中川の堤防として残った土手堤に改めてソメイヨシノを植樹したのが現在の権現堂堤」と記述されている。

 新聞や観光案内で櫻の他に「菜の花畑と権現堂堤」や「曼珠沙華の花」など目にする。土手堤に沿って咲き終わったばかりのたくさんの曼珠沙華の花が目立つ。復活させた櫻の名所。守り育て整備されている権現堂公園堤を歩きながら幸手市の力の入れ方が伝わってくる。

  権現堂堤から幸手市総合運動公園、工業団地を横に見ながら、中川堤防の上を歩く。非常に高い堤防の上をあるく。この堤防工事の顕彰碑が建っている。内閣総理大臣田中義一の名前が彫られていたのが目についた。 

Photo_8 江戸川大橋と利根川境橋を通る県道26号を歩き、関宿橋を渡り始める。江戸川上流、右の方に平成7年(1995)に建てられた千葉県立関宿城博物館が見える。「あそこが目標ネ。目標が見えてくると力が湧いてくるわ」と橋を渡りながら参加者からの声が聞こえてくる。

 江戸城富士見櫓を模擬して建てられた天守閣。中世・近世の関宿城とはまったく関係ない所に建っている。江戸時代近世の関宿城跡はこの博物館の手前、江戸川沿いに300m下流左岸土手下のところにあり、関宿城址の石碑が建っている。

  江戸湾に注いでいた利根川を銚子沖、太平洋に河流を変え、その利根川と東京湾に注ぐ江戸川の分流点として関宿がある。江戸時代初期から始まった「利根川東遷工事」により現在の河川・河流の原型が出来上がってきた。しかし、中世の関宿周辺は幾流にも蛇行する河川と沼地であったとされている。

Photo_4  この時代の風景を「ブログ埋もれた古城、関東地方の城」にこう記述されている。「中世の利根川本流は現在の古利根川・中川筋であり、江戸川筋には利根川とは別水系の渡良瀬川、その東には常陸川が流れていた。この利根川と常陸川は江戸期のはじめに赤堀川開削によって接合され、利根川は旧常陸川の流れに乗って香取海、そして銚子から太平洋へと注ぐ、現在の利根川の原型が築かれた」としている。なかなか難しく理解できない点だ。

 渡された資料「利根川変流図」を見ると利根川は西の加須、幸手、春日部を流れていた古利根川として江戸湾に注ぎ、最初から銚子には流れていなかったこと。藤岡赤麻沼や古河思川を合流させた渡良瀬川が栗橋を通り太日川になり江戸湾に注いでいた。寛永16年(1641)に利根川から江戸川の開削通水により太日川は廃川となる。しかし、それ以前は栃木県下野から流れてくる渡良瀬川が江戸川に変わる太日川に繋がり、江戸湾に流れていたのだ。関東地方の真ん中に位置する古河や栗橋付近は多くの沼がある湿地帯であった。沼から流れる渡良瀬川の河流を追っていくと水運をめぐり、平将門以来、中世・戦国期の幾つかの合戦の要因や様相が見えてくるような気がしてくる。

Photo_3  戦国時代、永禄8年(1565)から天正2年(1574)かけて関宿城の争奪戦が繰り広げられた。江戸城、岩槻城からの出陣に加え、江戸湾からも太日川(渡良瀬川)の上流をのぼり関宿城を攻める小田原北条。関宿城を守る古河公方重臣梁田氏。援護する上杉との三次に渡る関宿合戦。この合戦を制した北条氏康・氏政・氏照父子は関宿城を関東支配の一大拠点にして水運を活用して常陸逆井城や下野小山祇園城に攻め上ることになる。 
Photo_7  この関宿合戦で北条の寄せ手に加わった栃木市にある皆川城の領主、皆川俊宗が討つ死にしたという通説があった。私もそう思っていた。しかし、栃木県立博物館人文課長の江田郁夫氏は自著「下野長沼氏」の中でその通説を覆している。俊宗の死去を天正元年(1573)9月11日からして、この年に小山領など下野南部を中心に北条方と佐竹・宇都宮方との激戦で、北条方の皆川俊宗は小山領の粟志川城攻めにて討ち死にした可能性があると指摘しているのだ。

  私には粟志川城の位置が分からない。ネットで検索していくが、どうも壬生と小山の間の思川沿いにあったらしい城だということが推測される。1万3千石クラスの戦国領主にとり傘下を宇都宮氏、北条氏と頻繁に変え戦国の生き抜いた皆川氏。そして俊宗の子息、皆川広照は巴波川を中心にした栃木の町づくりの原型を作っていく。

Photo_8   関宿城博物館に向かう途中に関宿関所跡の石碑が町の入り口、県道26号沿い建っている。ここも宿場の出入り口として道が曲がっている。「実際にこの地点に関所があった所なのか、あいまいなんです」と市のK氏が話す。

 関宿関所について川名登著「ものと人間の文化史 河岸」の中で、「関宿関所は、通過する船の積荷と乗客を改める関所であるが、江戸へ往来する船が必ず通る場所である。そのため関所前は大混雑した。その混雑緩和のため、通船改めの一部を船問屋に代行させ通船に対して責任を持たせた。関宿の船問屋は『お手形宿』や『付船宿』と呼ばれ、関宿関所の下役人的な性格が強かったのである」と記述されている。関宿特有の河岸問屋だったのだ。

    関宿河岸もこのあたりにあった。関宿河岸跡の標札が江戸川土手にある筈だが今日は省略。平成24年(2012)に「栃木の在村記録 幕末維新期の胎動と展開 岡田嘉右衛門親之日記」が田中正弘氏の翻刻によって栃木市教育委員会から発行されている。

Img_7853_s1_21_3  岡田家は江戸初期に栃木市の嘉右衛門新田を開発し、名主をかねて畠山陣屋の手代となり、代々岡田嘉右衛門を名乗り現在まで続いている。歴代当主のなかでの岡田嘉右衛門親之の日記(天保15年・1844年~安政6年・1859年)を第1巻として発行している。

  その日記の中に栃木嘉右衛門自宅から江戸畠山家に出府する旅程の記述が再三出てくる。例えば「弘化5年(1848)2月21日、今朝出立(栃木嘉右衛門自宅)いたし、関宿木村清兵衛宅より乗船いたし22日到着、麻屋藤之助方へ一宿いたし候(略)、24日出立(江戸)いたし幸手泊り、25日夕方帰宅いたし候」。「嘉永元年(1848)11月18日、今朝出立(自宅)出府いたし候、関宿へ木村より乗船いたし、19日朝着いたし、小網町壱丁目麻屋藤之助方止宿いたし候(略)、22日出立、杉戸泊り、23日帰宅いたし候」。

 この日記から栃木町から江戸へ行くのは関宿まで徒歩で行き、関宿から乗船して江戸川を下り江戸日本橋に行っている。帰路は徒歩で幸手、杉戸泊りで翌日夕方に栃木嘉右衛門町へ帰宅している。江戸へは船を使用した場合は1日半。この岡田嘉右衛門の江戸への行程を読むと、「朝(江戸に)着く」と記述されており、関宿河岸から夜船を使っていたのではないかと思っていた。

319314701  前述の川名登著「河岸」を読んでいたら、境河岸・関宿河岸から江戸までの乗合夜船が定期的に出航していたことの記述がでてきた。「境河岸から乗船し、関宿関所の改めを受け、関宿を夕暮れに出航し、朝早く江戸に着く乗合夜船があった」とあり、翌朝に岡田嘉右衛門が江戸に着いていたことが分かった。同書には「境河岸の特権であった乗合夜船を関宿河岸問屋が文化年間(1806)頃から出船し始めたことにより乗船客の争奪の訴えが幕府勘定奉行にあった」ことの記述がある。境・関宿両河岸から江戸までの乗合夜船が運行されていて、旅人や大山参詣者には大変な人気でもあったのだ。さらに江戸川と並行している日光道中の幸手宿や粕壁宿からは江戸川の乗合夜船禁止を幕府に訴えていたことだ。旅人客の確保に向けて宿場と河岸との争いがあった等興味ある。

 岡田嘉右衛門が定宿として乗船利用していた関宿の木村清兵衛宅は同書「河岸」の中に「向河岸の清兵衛」という記述があるところから関宿の河岸問屋だったと分かった。

Photo_7  関所のあった江戸川の両河岸には一対の「棒出し」といわれる堤防が設置されていた。江戸川下流への流れを緩和、調整するためだと言われている。関宿関所はその「棒出し」のそばに設けられていたのが関宿城博物館に展示してあるジオラマで見ることができる。関所のそばには渡し舟があったことも展示してある絵図から見ることができた。

Photo_3   昼食の後に博物館学芸員の案内で特別展示の蒸気船「通運丸」の説明を受ける。明治初期に利根川舟運で活躍した蒸気船の「通運丸」。その模型や両国からの銚子までの所要時間と運賃などの特別展示の開催中であった。

  しかし、今の私は幕末の関宿藩の方に興味を抱いている。幼弱な久世家藩主を擁して彰義隊に参加していくなど藩内が分裂し、混乱状態で明治維新を迎える動向の方に興味があるから、学芸員の説明を良く聞いていなかった。

Photo_6 「ここが皆さん一番喜ぶ所なのですよ」と語る学芸員。博物館最上階、天守閣展望階。左側は東京湾へと流れていく江戸川。右側は銚子・太平洋にむけて流れていく利根川。両川の分岐点として眺めることができる。「以前、この地は洪水のため三軒しか家がなく、現在も三軒町という地名になっているのです」という話を学芸員の方から聞く。

  関宿藩は徳川家康の異父弟、松平康元により天正19年(1590)に家康の江戸城入定と合わせて2万石として始まった。関宿藩を引き継いだ久世家は幕末には5万8千石を有すようになる。久世家は江戸に入る水運の監視という重要な役目を負い、幕閣老中に歴代4人を輩出するなど徳川家の重臣、譜代大名になっていった。江戸期の巴波川沿いの村々の領主は古河藩土井家か関宿藩久世家の領地が多かった。明治の御代を迎え、この両家は徳川と共に衰退する。天守閣展望台から江戸川、利根川の分岐点を眺めながら、戊辰戦争、西南戦争を通して明治新政府の巴波川を中心とした河川輸送への対策などこれから学んでいく事項がでてきたなと思えてきた。

Photo_16  ~旅空夜空で いまさら知った 女の胸の底の底 ここは関宿大利根川へ 人にかくして流す花 だってヨー あの娘川下 潮来笠~「潮来笠」(歌/橋幸夫・詞/佐伯孝夫・曲/吉田正)

  水戸街道の南柏から左にそれて今の県道17号流山街道から関宿を通り、結城へと続いた旧日光東往還道。結城に向かう県道17号には関宿町から境町をつなぐ「境大橋」が架けられてある。両岸に渡し舟があった所だ。その境大橋の横には歩行者専用の橋も架けられてある。下を利根川がゆったりと銚子に向けてと流れている。歌に歌われた関宿大利根川。橋の欄干から眺める利根川は「雄大だなア」と感嘆する。

 橋の中央には千葉県と茨城県の境を表示する文字が橋桁に書かれてあるのが見えた。栃木県、埼玉県、千葉県と通過し、最終の茨城県の境町に辿り着いた。橋を渡り、境町よりバスにて古河駅に行く。バスの乗車賃が620円。長い距離のバス運行を表す料金だ。鉄道が通っていない町であることがしみじみと分かる。

 「次回は江戸川野田市内を中心に歩きます」という言葉で栃木駅で解散となる。しっかりと歩き学んだ一日だった。

≪関連ブログ≫

◆野田市・江戸川の河岸問屋―栃木市民大学現地ウォーク②

◆水運の近道、利根運河・流山―栃木市民大学現地ウォーク③

◆江戸へと続く行徳・新川―栃木市民大学現地ウォーク④

◆江戸の出入り口・小名木川―栃木市民大学現地ウォーク⑤

◆発祥地の多い日本橋川河口―栃木市民大学現地ウォーク⑥

                                          《夢野銀次》

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