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入谷・三ノ輪大関横丁界隈、昭和通りを歩く―吉展ちゃん事件

Photo_4  国道4号線は青森から東京日本橋まで総延長が888.8kmと日本一長い国道になっている。隅田川に架かる千住大橋を渡り、台東区三ノ輪の大関横丁交差点から4号線の通称名は日光街道から昭和通りに変わる。

  明治通りと交差する大関横丁交差点。その名前の由来は栃木県の北方、大田原に隣接する黒羽藩1万3千石大関家の下屋敷がこの付近、荒川区南千住箕輪にあったことにより「大関横丁」として名をとどめている。

Photo  都電荒川線三ノ輪橋駅近くの第六瑞光小学校の西側、都電荒川線路沿いに「大関横丁由来之碑」が建っている。黒羽藩第11代藩主の大関増業(ますなり)を讃えて昭和39年(1964)に「大関横丁保存会」によって建てられたものだ。

  黒羽藩の藩政改革を進めた増業であったが、養子藩主の改革は重臣からの反発を招き、隠居したのがここ大関家箕輪下屋敷だった。隠居して弘化2年(1845)3月、65歳で死去するまでの21年間、医化学・茶道などの研究に没頭し、功績を遺したと評価されている。また水戸藩主徳川斉昭は増業を「天下の畏友」の一人として遇していた。

Photo_2   大関横丁交差点から上野にかけての昭和通りの下を南千住、三ノ輪、入谷、上野と続く地下鉄日比谷線の電車が走っている。

  地下鉄入谷駅口と言問通りが交差する「入谷交差点」の先に入谷交番がある。その交番の先の左斜めから清洲橋通りが始まる。清洲橋通りを南に200m進んで左折をする。左折した道路を300m行くと右側に「入谷南公園」がある。

 「思っていた以上に広い公園だなあ」と公園を見た時の最初の印象だ。目測で100m四方の広さがある。公園の東方には浅草国際劇場の跡地に建つ「浅草ビューホテル」の建物が道路沿いから見える。さらには東京スカイツリーも眺められる。「花やしき」のある浅草に近い公園だったのだ。

Photo_3 公園の西北の隅にある公衆便所。

 手洗い場で水の出ない水鉄砲に困り果てている4歳の男の子がいた。

「坊や、すごい水鉄砲を持っているな。どれ、おじちゃんに見せてご覧」とグレーのレインコートをきた30歳前後の男が寄ってきた。「うーん、この故障は道具ないとダメだな。おじちゃんの家で直してあげよう」

Photo_5早く直してもらいたい一心から、男の子は「うん」とうなずき、男の子とレインコートを着た男は昭和通りから三ノ輪方面に歩きだした。(中部英男著「誘拐捜査」より)

 東京オリンピックを翌年に控えた昭和38年(1963)の3月31日の日曜日。夕闇がせまる午後6時15分頃、入谷南公園から4歳の男の子が姿を消した。公園の東隣りに住む村越吉展ちゃんが誘拐、殺害された戦後最大の誘拐事件と呼ばれた「吉展ちゃん誘拐事件」はこの公園から始まった。

Photo_6   犯人から7回に渡り村越家に身代金要求の電話があった。4分におよぶ脅迫電話であっても当時は電話の逆探知は採用されていなかった。

   本田靖春著「誘拐」の中で「この時期、日本の警察は、営利誘拐事件に対応する原則はまだ確立しておらず、捜査技術もはなはだしく未熟であった」とし、「捜査方針が公開、非公開、公開捜査と二転三転することや営利誘拐に対する捜査本部設置の遅れ」など捜査対応の甘さを指摘している。

   4月7日の深夜、午前1時25分。犯人から意表をついて取引場所の電話がかかってきた。村越家から昭和通りに向かって真っすぐ進み、昭和通り沿いにある品川自動車会社横の小型四輪車の荷台に今すぐ現金50万円を置けという指示であった。母親は従業員が運転する村越工務店のトラックで取引場所に行き、50万円の包んだ風呂敷包を車の荷台に置いた。

Photo_7   取引場所の品川自動車から村越家まで真っ直ぐの道路で300mの距離。一直線の道路のため車や人の動きが見通せることや身を隠すにも都合がよかったからだ。路地奥の鉄材倉庫の陰に隠れていた犯人は素早く風呂敷を掴み、鉄材倉庫の裏通りを突っ走って逃げた。3分後に刑事たちが現場に走って到着した時にすでに風呂敷包は消えていた。

  張り込み態勢の遅れから犯人を逃がす。さらに身代金50万円の1万円札の紙幣番号を控えていなかった等、捜査ミスがあげられた。

   現在は昭和通りの上には首都高速一号線が通っている。品川自動車のあった場所には葬祭センターの建物が建っている。「犯人が潜んだと言われている鉄材倉庫の建物は何処にあったのだろうか?」と思いながら入谷交差点に向けて歩く。

Photo_3  「吉展ちゃん誘拐事件」の捜査本部は172人体制で下谷北警察署に置かれた。地下鉄入谷駅と三ノ輪駅の中間、昭和通り沿いにある今の下谷警察署だ。署の建物左脇の所に初代警視総監川路利良の邸宅跡地の石碑が建っている。西南戦争における川路利良の動きなど興味があるのだが。

 私が歩いて下谷署の前を通った10月8日の時、「来週から建て替え工事を行う」と玄関前にいた署員から話を聞いた。仮の下谷署庁舎の場所は聞かなかったが、入谷交差点の近くではないかと思える。この警察建物は無くなるのかと思いながら歩く。

Photo_5  172人体制の捜査本部の唯一の手がかりは「録音した電話の声」であった。原警視総監による犯人への呼び掛けに続き、4月25日の早朝からは録音した犯人と母親との電話でのやりとりの声がテレビ、ラジオ放送から流れた。

   51年前、中学生だった私の記憶には放送された犯人のなまった声と子供の安否を心配する母親の必死な声が今も残っている。生々しい現実の事件が伝わって来て、怖さを感じたことを憶えている。

Image0011_2_3  吉展ちゃんが誘拐された入谷南公園において母の会連合会による集会と行進から始まる「吉展ちゃんを探そう」という運動は異常な広がりを見せる。配達集金人のいるクリーニング業、酒屋、米屋の諸組合、郵便局、東電、東京ガスの協力。青年会議所、歌などで多くの団体、企業がチラシ配布やポスター掲示を行ない吉展ちゃん探しの運動に参加していった。

   こうした動きについて中郡英男氏は自著「誘拐捜査」の中でこう記述している。「敗戦の惨禍から立ち直った当時の人々は、驚異的な経済成長へ向かってたくましく19630331歩み始めていた。まだ豊かさや飽食にはほど遠かったが、生死の境を共に乗り越えてきた連帯感の下に親身に励まし合い、助け合う人情が色濃く残っていた時代だ」と記述している。東京オリンピック前の変貌する都会の街の人たちの心情を言い当てている文言だと思える。

   「真人間になって死んでいきます」と言い残して、犯人小原保は昭和46年(1967)12月23日に宮城刑務所で処刑された。事件から2年3か月目の昭和40年(1965)7月4日に時計修理工小原保(30歳)は「吉展ちゃん誘拐事件」の容疑者として逮捕された。

T01870256_01870256103734148201   テレビ・ラジオから流れた犯人の声が小原保に似ているとの通報が19件寄せられ、2度に渡っての取り調べが行われてきた。しかし、物的証拠の不足、福島石川町の実家に帰っていたというアリバイから「シロ」となっていた。事件から2年3月後、捜査陣を刷新した警視庁は「昭和の名刑事」と言われた平塚八兵衛刑事を投入した。

Photo_11   平塚刑事らは電話の声は小原保に間違いないと確信した。福島実家での小原のアリバイを崩し、前橋刑務所で2年の懲役に服役していた小原を巣鴨東京拘置所(今の池袋サンシャインビル)に移管させ、10日間の任意取り調べをおこなったが、小原は落ちなかった。以後の捜査方針はアメリカのFBIに声紋鑑定を依頼するすることになり、10日目の夕方、平塚刑事ら小原の声の録音を雑談から始めた。取り調べが終わったことに気が付いた小原は心に隙間が出てくる。「4月3日の日暮里の火事を見た」と喋った小原。日暮里の火事は4月2日。その日小原は福島ではなく東京にいたことを認める発言だった。一気に平塚刑事はたたみ掛け、50万円の授受を自白する小原。翌日の7月4日、警視庁取り調べ室にて吉展ちゃん殺害と遺体の隠し場所を自供した。

  中郡英男氏は「誘拐捜査」の中で、この事件を契機に日本の捜査は声紋鑑定など自白から科学捜査を重視していくこになると記述している。 

Photo_6   福島県石川町からずーと奥に入った僻村の農家の10番目に生まれた小原保。小学5年の時に骨膜炎を患い、右足が不自由になって歩行する身障者になっていた。仙台の職業訓練所で時計修理の修行したが、2年間窃盗罪で服役した後に27歳で上京してくる。

  上野アメ横の時計修理店に勤めた小原は三ノ輪近くの簡易旅館から自転車で昭和通りを通って通う。やがて大関横丁交差点そばの都電荒川線三ノ輪橋駅付近にあった一杯飲み屋の2階にその店の女将と住むようになる。しかし、修理依頼品の横流しなどで時計店を解雇され、弁償金など借金22万円を抱える。弁済を強く催促された小原は金策に実家に帰るが、実家には寄らず帰京する。その時に以前、三ノ輪の映画館で見た「天国と地獄」の予告編を思い出し、誘拐を思いついたという。

   都電荒川線の終着駅の三ノ輪橋駅。付近は細い道路をはさんで細々した店が並んでいる。昭和通りに面したビルや店舗と正反対の小さな商店と家並みが残っている。歩いている若い女性の顔つきは渋谷や銀座で見かける顔や姿ではなく、親しみのある表情を浮かべている。

Photo_7   小原保の生い立ちから辿った内容は本田靖春著の「誘拐」に詳細に書かれてある。ノンフィクション作品として高く評価されている本だ。この本を原作として昭和54年(1979)に「戦後最大の誘拐―吉展ちゃん事件」がテレビ映画としてテレビ朝日から放映されている。監督恩地日出夫監督。主役の小原保役を泉谷しげる。飲み屋の女将に市原悦子、平塚刑事を芦田伸介が演じたドキメンタリータッチで描いた作品だ。

  もう一度観たいテレビ映画だが、再放送はされていない。主演の泉谷しげるの足を引きずって歩く後ろ姿に強い印象を受けた作品だ。また、泉谷しげるを初めて知った作品でもある。この作品を2008年に観た人のブログ「Simply Dead映画の感想文」に「主役に抜擢された泉谷しげるは、まさに野良犬のような男として犯人・小原保を演じ、実に素晴らしい。哀愁も憐憫も一切背負わず、ただダメになっていく男の姿を、最小限の演技でリアルに演じている。その自然体の堕ちっぷりが圧巻だ」と称賛している。この文言通り泉谷しげるが演じた小原保の像が私の脳裏にはまだ入っている。

Photo_8  吉展ちゃんをつれて入谷南公園を出て昭和通りを歩く二人。遅れてついてくる小原の足の運びに目を止めて言った。「おじちゃんは足が悪いんだね」。この足の特徴に気づかれた。無事に帰すことはできないと小原に殺意が生まれた。三ノ輪の大関横丁交差点を過ぎると日光街道に通称名が変わる。東京スタジアム(現荒川総合スポーツセンター)から引き返し、日光街道沿いにある円通寺の境内に入る。この間、入谷南公園から円通寺まで二人は4キロ歩いたことになっている。

 夜の8時、小原はこの寺の境内で吉展ちゃんを殺害し、遺体を墓の下にある納骨室に隠す。誘拐したその夜に殺害していたのだ。 

 上野彰義隊の戦死者を荼毘に付し、境内に墓石を建てて供養している円通寺。上野戦争の遺構である黒門と彰義隊の墓がある。「明治になってしばらくして、静岡から元彰義隊だった父の遺骨を持って来て、このお墓に納めて欲しいと言ってくる人がおりました。賊軍として唯一、公に法要できたのが円通寺なのです」と若い住職の方が話してくれた。

Photo_9  「この先には行けません」と若い住職は私の足を止めた。吉展ちゃんが遺棄された本堂裏の墓所への立ち入りを禁止しているからだ。

 「吉展ちゃんの遺体を発見した真夜中、うちの住職は二階の部屋から見ていたと言っています。同級生だったのですネ」。遺体はすでに白骨化していて、口元から2年目で発芽するネズミモチが生えていたと言われている。

  黒門のそばには昭和41年(1996)3月に建立された「吉展ちゃん慰霊地蔵」が立っている。

 現在も花を手向ける参拝者が多い。

71dhm1kuvbl_sl1219_1_4  昭和通りを歩きながら坂本九が歌っていた「一人ぼっちの二人」の歌詞が浮かんできた。昭和37年(1962)の作詞/永六輔、作曲/中村八大の歌だ。

 ~しあわせは僕のもの 僕たち二人のもの だから二人で手をつなごう 愛されているのにさびしい僕 愛しているのに悲しい僕 一人ぼっちの二人~ 

 ――坂本九の中で私が一番好きな歌だ。

  同じ年に「ひとりぼっちの二人だが」という題名で吉永小百合、坂本九、高橋英樹出演の映画が日活で映画化されている。柳橋の芸者置屋から逃げた吉永小百合が坂本九と共に浅草の街を駆け巡る映画だった。花やしきや六区の映画街など昭和30年代後半の浅草が映し出されていた映画だと記憶している。

  昭和35年の60年安保闘争の終了後、当時の若者にとり一人という個人への問いかけが行われていく時代であった。「一人ぼっちの二人」の歌の中にはこの時代を生きていくための隠された悲しさと寂しさ、孤立が秘められている。そして、作詞することを辞めた永六輔の詞には「一人」という言葉が数多く出てきている。「一人」って、昭和30年代後半から今の時代までずーと問いかけが続いていると思えてくる。この時代の一人に小原保がいた。そして中学生だった私も今もいるのだ。

  都会の片隅の底辺で、社会から疎外されて生活している人は今の時代、高齢者から若者までたくさんいる。夕食の一番の御馳走がカレーライスであった昭和30年代。皆が我慢して生きていこうとした時代。追い込まれて、苦しい生活から逃れていった世界を「吉展ちゃん事件」を私に提示している。華やかな生活と人の交流の格差が以前より増して広がってきている現代。弱者がより弱い弱者に牙を向けてきている。どうすれば良いか? …考えていこう。

〈参考・引用資料〉

本田靖春著「誘拐」ちくま文庫・2005年10月発行、中郡英男「誘拐捜査 吉展ちゃん事件」2008年6月発行株式会社創美社、ブログ「Simply Dead映画の感想・戦後最大の誘拐―吉展ちゃん事件」ブログ「吉展ちゃん事件 オワリナキアクム」、栃木県立博物館「改革と学問に生きた殿様ー黒羽藩主 大関増業」平成22年10月発行

                                            《夢野銀次》

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コメント

はじめまして。

先日、南千住、三ノ輪界隈を散策し、昭和
の雰囲気を感じる街並みを堪能しました。

また、以下の書籍で吉展ちゃん誘拐殺人事件
の事を知り、同年代の子供をもつ親として
胸がしめつけられる思いがいたしました。

誘拐(本田靖春)
記者―吉展ちゃん事件50年・スクープ秘話と縁深き人々(原野彌見)

そのような事を思いつつ、簡潔に分かりやすく
記述されたブログを読ませていただきました。

今度は、上野、入谷界隈を
散策してみようと思います。

投稿: むろ | 2016年4月21日 (木) 23時32分

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