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2014年11月

水運の近道、利根運河・流山―栃木市民大学現地ウォーク③

Photo_2  「江戸川は渡し船が多かったのですよ。江戸川を開削する際に村を分断して造っていった関係でネ。同じ村同士だったので親戚知人の家に渡し船で行き来していたのです」と流山史跡ガイドの会の方からの説明があった。江戸川が流れる流山にある市立博物館前まで東武線初石駅から4キロ歩いてやってきた私たち一行16名を迎えてくれた。

  「この博物館は田中藩本多家の陣屋跡地で県庁があった所なのです。市内は幕府天領地で代官支配だったのです」と流山市内を見渡せる加村の高台の地に建っている博物館と図書館の建物を説明した。流山加村は静岡県藤枝市にあった田中家本多家の飛地だったのだ。 

  藤枝市にある田中城址はかつて見学した城だ。近くに2階建ての櫓がある。わずかに残っている堀が本丸跡を囲み、その本丸跡には小学校があった。玄関前の庭の中に郭や堀のある田中城全体の模型が設置されていた。学校に断って見学したことを思い出した。 

Photo_5 博物館内に流山県庁跡の図が展示されていた。県庁舎の下に獄舎があった。今の流山市役所跡地だ。栃木市県庁跡同様に県庁舎と獄舎は隣接して建てらている。行政と司法が分離していない時代を表している。

 流山市には明治2年(1869)1月葛飾県、明治4年(1871)11月印旛県の県庁舎が置かれていた。そして明治6年(1871)6月に現在の千葉県が出来上がることにより県庁は流山市から千葉市に統廃合された。「皆さん方の栃木市と同じく流山にも県庁があった町なのです。似ていますね」と語りながら、博物館の見学を終えた私たちを高台から下りながら市内見学へと導いた。 

  博物館の中には利根運河や名産のみりんなど展示されていたが、時間の関係であまり見ることができなかった。近藤勇や土方歳三らが本陣とした味噌屋にあった階段が展示されていたのが印象に残った。

Photo_6  第3回目の栃木市民大学現地学習ウォークは11月8日(土)、参加者16名で行なった。曇り空だったが、最後の「矢切の渡し」の乗船まで雨に降られずに進むことができた。本日は矢切の渡し船を初めて乗るということででわくわくしての参加だ。 

 《行程》栃木駅(東武線)-春日部—運河駅…利根運河見学…運河駅—初石駅…流山街道…流山市立博物館・流山市歴史建造物・浅間神社・近藤勇陣屋跡・赤城神社・一茶記念館…江戸川流山堤防(昼食)…流山5丁目(バス)-松戸駅(バス)-下矢切…矢切の渡し(乗船)~葛飾柴又側渡し場…帝釈天…柴又駅(京成線)-北千住(東武線)-栃木駅(歩行距離は約8キロ)。

Photo_20 流山市立博物館に来る前に利根運河を見てきた。利根運河の岸辺は急こう配になっていて、流れが緩やかだった。水深は思った以上に浅く見えた。 

  明治19年(1886)、オランダ人技師ムルデルの設計により着工された利根運河は明治23年(1890)に開通した。利根川付の船戸と江戸川付の西深井を結ぶ全長9キロの利根運河。明治29年(1895)2月には東京・銚子間の直行汽船が就航し、東京-小名木川-江戸川-利根運河-利根川-銚子の144kmを18時間で結んだ。

  しかし、明治33年(1900)、国の河川対策が水運優先から水害防止対策に変わった。川幅を広げ堤防を高くした結果、水深が浅くなり汽船の就航が困難となり、鉄道の発展とあいまって水運が衰退してきた。昭和16年(1942)7月の台風による洪水で堰が崩れたことにより、運河として使命が終了した。

   現在は「美しい日本の歴史的風土100選」に選ばれていることから、昔日の景観を残すのみとなっている。2年間の工期で完成した利根運河。建設機械のない明治20年代。クワ、ツルハシ、モッコなどの人力作業による。工事に従事した人は220万人と言われている。近在の村落割り当て献人夫や千葉刑務所の囚人など駆り出された工事ではなかったかと推測する。

Photo_9   利根運河が造られた地は鬼怒川が合流する利根川の船戸村と江戸川深井村を結ぶラインになっている。この地域から利根川下流の布施村にかけて、江戸時代には水運輸送における新ルートを巡って訴訟が絶えなかった。水運の近道、いわゆるショートカットは輸送の迅速性とコスト削減で新ルートをめぐって河岸同士の訴訟が続いた。

 川名登著「河岸」には幕府への訴訟した記述が記載されている。

  ①天和2年(1682)、鬼怒川久保田河岸から荷揚げし、境河岸までの駄送を取り次ぐ宿駅の大木宿や諸川宿など7宿が利根川下流の木野崎河岸を幕府に訴訟をおこしている。下野や東北からの舟運物資を久保田河岸に荷揚げをしないで、そのまま利根川下流の木野崎河岸まで就航して荷揚げを行ない、陸送で江戸川の金杉河岸まで陸送するという近道、新ルートを木野崎河岸が開発したからだ。この近道により荷駄の引継ぎで生業をしている7宿にとり死活問題となり、新ルート・近道での輸送禁止を求めての訴訟。

Photo_10  ②禁止されても新たな河岸問屋が新ルート、近道を開発する。特権を主張して訴訟をおこす。

 享保6年(1721)、利根川下流の布施村が少し上流の瀬戸村を訴える。布施村は銚子や水戸から江戸に向かう荷物が荷揚げされ、江戸川付の流山・加村に駄送されていた。それを新たに瀬戸村が始めたことによる訴訟であった。布施村には水戸街道脇往還道で公儀・武家方の往還御用を勤めている故、新道ができては迷惑だと特権を主張しての訴えだった。

  布施村から利根川上流の関宿経由で江戸川流山まで90km。それが布施村で荷揚げされ、江戸川流山・加村へ陸路で駄送すれば14kmで済む近道なのだ。時間の大幅な短縮となる。例え訴訟で幕府から禁止されても新たな近道が産まれてくる。

Photo_21  こうした新道・近道ルートの使用を巡る争いの背後について、川名登氏は「より低廉・迅速な輸送ルートを選ぼうとする北関東・奥州筋荷主の強い要望があった。また表面には顔を出さないが、農民の手許で、新しい形で生産された商品化された荷物が、自由な道を選ぼうとしていたのではなかろうか、さらにまた、これらの要請に対応して、陸上の付け通し(積み替えなしの輸送)を担当した利根川付村々の中の農間駄賃稼ぎの成立も、見逃せない」と記述している。

 新道、近道をめぐって荷主と河岸問屋、取継ぐ宿の動向や商品作物の輸送方法を新たに模索していく農民の動きについて問題提起をしている。

 布施村から流山・加村まで諏訪街道が通っている。ブログ「諏訪街道」の中で「布施村において最盛期頃に年間160,000駄の荷受けがあった」と記述されているのを読んだ。本当なのか?一頭の馬で2~4駄運ぶとして、50頭の馬が一日で諏訪街道を行き来したことになる。荷馬車が登場していない時代での馬による駄送。馬の産地でもあった。農民の農耕馬による駄賃稼ぎがどのくらいあったのか?「みりん」だけではない流山・加村河岸の賑わいなど市立博物館での見落としがたくさんあったと思えてくる。調べていこうと思う。

Photo_11   「流山の町並みは江戸川の土手道に作られたのです。浅間神社は道路より下にあるのですから」と流山の町並みを歩きながら史跡ガイドさんの説明がある。

   市内大通りから横に入った所に近藤勇の陣屋跡の標識がある。「近藤勇率いる新選組は田中藩本多家陣屋の占拠を目指し、流山にきた」と『戊辰戦争事典』に記述されている。高台にあった市立博物館が田中藩本多家陣屋跡地だ。確かに防御に適した地割になっていた。彰義隊渋沢成一郎の主張する「会津藩と提携し、結城・宇都宮辺の関東の要衛に拠り、古河・関宿辺に戦線を張って、大いに西軍と戦わん」とする戦略に基づいて流山に来たのだ(「戊辰戦争事典」より)。

Photo_12   慶応4年(1868)4月2日、綾瀬から移動してきた227人の新撰組は流山の田中藩陣屋の占拠を目指し、味噌屋の長岡屋に本陣を構えた。しかし、東山道軍香川敬三の部隊に包囲される。多くの隊士は訓練に行っており、本陣には数名しかいなかった。近藤勇は切腹を考えたが、土方歳三に止められる。隊の延命策として香川隊に出頭したが、板橋で斬首される。

  市川宿で大鳥圭介ら旧幕軍と合流した土方歳三は先の戦略構想を引継ぎ、宇都宮城へむけて行軍する。宇都宮城を防衛するのは近藤勇を捕え、斬首させた香川敬三。大鳥圭介は「南柯紀行」を著し旧幕軍の行動を後世に残している。しかし、土方歳三にはそれがない。流山市立博物館のある高台を見ながら、占拠することができなかった土方歳三を思い浮かべる。土方歳三は渋沢成一郎の構想した戦略を実践に移していくことを考え、下野戊辰戦争に進んでいったのではないかと思えてきた。

Photo_13  流山には渡し場が2か所あった。その渡し場のあった江戸川を眺めがら弁当を済ませた一行はバスで松戸、下矢切を経由して、矢切の渡し場に着いた。

 30人乗りの渡し船。手で艪をこぐのは経験4年目だと言う若者。ゆっくり船着き場を離れ、上流に艪を漕ぐ。揺れない。「うまいなあ」と乗船者の一人が語る。曇り空の下、船先を上流から下流に向ける。直線に進まず、曲線を描いて船を進めていたのだ。「水かさが多いわね。何時もより水が多いの?」「いえ、何時もこんなもんですよ」と答える若い船頭さん。
Photo_14  若い船頭さんを見ながら昭和30年の美空ひばり主演映画「娘船頭さん」を思い浮かべた。美空ひばりが渡し船の櫓を漕ぎながら「娘船頭さん」を歌う。

 ~娘十八 口紅させど わたしゃ淋しい船頭むすめ 燕来るのに便りも無くて 見るはあやめのヨウ… 花ばかり~(西条八十作詞・古賀政男作曲)

  美空ひばり18歳の時に初めての古賀政男の曲だ。古賀政男は美空ひばりのあまりの巧さと情感に脱帽したと云われている。

私たちが乗った船はゆっくりと向こう岸、葛飾柴又に着く。

673005591  ~つれて逃げてよ ついておいでよ 夕ぐれの雨が降る 矢切の渡し~(石本美由紀作詞・船村徹作曲)。

 矢切の渡しがなくなるということを聞いた石本美由紀と船村徹の二人が作った曲でもある。昭和51年(1976)中村一好プロデュース、ちあきなおみによってレコード化された。しかし、B面としたため忘れられていった曲になった。昭和57年(1982)、TBSドラマ西田敏行主演の「淋しいのはお前だけじゃない」で梅沢冨美男の舞踏挿入曲とされ、脚光を浴びる。同じ年の昭和57年に今度はA面としてちあきなおみの「矢切の渡し」がシングル盤として発売となった。

Photo_17 美空ひばりに匹敵する歌唱力があると言われたちあきなおみは平成4年(1992)に夫、郷英治が亡くなると同時にステージから消えた。「ちあきの歌は手漕ぎの艪で、細川の歌はモーター付きの歌だ」と船村徹は二人の歌う「矢切の渡し」を評している。大作曲家所以の言葉だと思える。

 ちあきなおみの歌には切羽詰まった男と女の道行が感じられる。細川たかしの歌はカラットしていて味わいがどこか欠けているのかなと感じる。

 初めて乗った手漕ぎの渡し船。心地よい気持ちで船着き場におりた。

   運動公園になっている広い江戸川の川べり。ここが映画「男はつらいよ」の冒頭のタイトルバックでいつも観ていた所だ。葛飾柴又、江戸川の土手を歩く車寅次郎。前作では淋しく柴又を去るが、新作でまたこの江戸川葛飾柴又に寅さんは帰ってくる。懐かしい人との出会いと新しい人との出会い。そして淋しい別れがある。映画「男はつらいよ」は出会いと別れで長いシリーズになった映画だ。

 江戸川の土手を歩き、帝釈天に参拝した私たち一行は栃木に帰っていく。

≪関連ブログリンク先≫

◆栗橋から関宿23キロ歩くー栃木市民大学現地ウォーク①

◆野田市・江戸川の河岸問屋―栃木市民大学現地ウォーク②

◆江戸へと続く行徳・新川―栃木市民大学現地ウォーク④

◆江戸の出入り口・小名木川―栃木市民大学現地ウォーク⑤

◆発祥地の多い日本橋川河口―栃木市民大学現地ウォーク⑥

                                             《夢野銀次》

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里イモの収穫とミニトマト

004 柔らかい日射しが菜園に注ぐ。

 11月7日の早朝に里イモの掘り出しを始める。

 20株の苗を4月10日に植えて7か月がたった。

 暑い夏の日も毎朝水を注いだ里イモ。

スコップで里イモ株の畝を解きほどす。

どうかな…。今年の里イモは?

007 固く黒土に覆われた里イモ株が現れた。

「どっこらしょ」と里イモ株を地上に広げる。

「――いいなあ、今年の里イモ、うん」。自然と笑みを浮かべて頷く私がいる。

 親イモから子いも、孫イモと切り放していく。

土を払う作業を秋の日射しの中で行なう。

のどかな朝だと感じた。

008 

 採りだした里イモ、日なたで乾かす。

ジャガイモは日陰干しだが、里イモは陽に当てて乾かすことにしている。

 今日で一回目の里イモ堀り。

12月下旬に正月用の里イモ堀りを行なう。

三株残しておいて、来年の2月に最後の里イモ堀りを行ない、今年の里イモが終わる。

 

118_4「今年のトマト、どうしたのかしら?」

妻が不思議そうに言っている。中玉トマト一株、ミニトマト二株が11月10日現在、咲き続けているのだ。

「苗が良かったのかしら…」

「いや、元肥にうまく根が付いたからからかもしれない」

「去年はいつ頃までさいていた?」「10月中頃までだったな」「凄いわねえ、今年のトマト」。

 

119 毎日10玉づつ赤い中玉とミニトマトを採っていく。

これから赤くなるトマトもある。

「11月一杯なり続けるといいわねえ」とうれしそうに赤い実がなっているトマトの枝を見つめる妻。

五段株に成功した今年のトマト。

苗を植えた5月から水は雨水のみで、一切やらなかった。

とにかく丈夫でよく育った。感謝するな。トマト君。

                      《夢野銀次》

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野田市・江戸川の河岸問屋―栃木市民大学現地ウォーク②

Photo_3  「ここが江戸川です」と江戸川を見渡しながら井出敬一さんが説明する。井出さんは私たち19人を案内してくれた「むらさきの里野田ガイドの会」のベテランガイドさんだ。高さ30メートルの堤防を登って土手の上に立つ。「ワアー広いなあ」と参加者の雄叫びが聞こえてきた。

  第2回の栃木市民大学現地学習は10月25日(土)に醤油のまち、野田市内町並み見学と江戸川・野田河岸の訪問を中心とした現地ウォーキングになっていた。行程の最後が、ここ野田河岸跡だった。野田河岸跡には高い堤防が築かれていた。

  井出さんの説明が続く。「ここは関宿から20キロの所にあります。もともとここには太井川(おおいがわ)という小さな川が流れていたんです。家康が江戸に入ってきて利根川東遷工事を行ないます。その時にこの太井川の開削工事を6年かかって、今の江戸川を造っているんです」と今の江戸川の誕生を語る。

Photo_5  「昭和になって堤防を構築する前に、ここには上河岸と下河岸の二つの河岸があり、それぞれ河岸問屋を営んでいました。野田の醤油をこの河岸で船に積み、江戸・東京に江戸川の舟運で輸送していたのです。土手の下に見える家が下河岸で河岸問屋を営んでいた桝田さんの家です」と堤防の下に建っている二階建の木造住宅の家を指差した。「野田の醤油は醤油工場から人車鉄道のトロッコで河岸問屋の桝田さんの家の前まで来て、船に積荷をしていたのです。野田河岸は大変な賑わいを見せていたのです。言わば野田の文化はこの河岸から入り、出て行ったりしたのです。今日は桝田家15代当主の奥様が皆さんをお待ちしており、桝田家の歴史などお話をしていただくことになっています」と井出さんの話を聞きながら、私たちは堤防を下り始め、野田市今上の江戸川堤防の真下にある桝田さんの家の前にきた。

Photo_7 「私はこの家に昭和4年に生まれ、八十年余りこの家に暮らしてきましたから、毎日江戸川を眺めてきました」と84歳とは思えない強い語り口で話しを始めた桝田迪子(みちこ)さん。

 「この堤防は戦後にできたのです。それ以前はこの家の前まで醤油樽を積んだトロッコが来て、ここで回転して、荷揚げをする船着き場にいきます。船着き場には二階建ての建物、納屋が建っており、その中にトロッコが入って行き、土間を通って船に醤油樽を積んでいたのですネ。1200樽だったそうです。納屋の二階には若い衆が住んでおり、一階には帳場があったのです。醤油醸造屋の番頭さんがその帳場で醤油の出荷積荷の記録をしておりました。納屋の片方は土間になっており、醤油樽などが置かれていました」と醤油樽が船積みされる様子を語ってくれた。当時の船着き場は今の堤防に変わっていたことが分かった。

Photo_8  明治の桝田家の河岸の様子を描いた絵が玄関の所に飾られていた。この絵の解説説明文が関宿城博物館で回漕問屋開業広告資料として記載されていたのをネットで見つけた。次のように紹介されている。

 「明治初期に桝田家が利根川沿いの三ツ堀河岸に支店を開業することを知らせる広告。本・支店から主要河岸までの距離が示されているほか、立ち並ぶ数多くの蔵や高く積み上げられた荷物が描かれ、当時の下河岸の繁栄を物語っている。また、川を行き交う蒸気船や郵便の旗から運輸の近代化の一端を垣間見ることができる。現在の桝田家宅は明治4年に建築されたもので、帳場や船宿などの諸機能が兼ね備わり、往時を偲ばせる貴重な文化遺産である」。荷揚げする河岸に建つ建物が描かれてあり、桝田迪子さんの説明とダブらせる。絵図の右には河岸までの距離が「栃木16リ、部屋13リ」等と記載され、船着き場には蒸気船が停泊している。この絵から当時の風景が浮かんできて現地と重なってくる。面白い。

Photo_10 「蒸気船は綱で何艘もの和船を引っ張っていきました。蔵の横には石炭がたくさん積まれてありましたよ」と桝田さんの説明が続く。

  「この家は明治4年に建てられ、140年になります。河岸問屋を始めたのは300年前の正徳2年(1712)と聞いております。主屋は玄関だけ改築していますが、あとは全部昔のままになっています。ここが15畳の部屋で店の座敷と呼ばれ、父や祖父が帳場をはっていました。奥が10畳の床の間の部屋で、次が8畳の客間。そっちが広い土間です。この間の大震災でも何ともありませんでした」と築140年に驚かされる。

  「この主屋は平成19年の10月に国の登録有形文化財に登録され、昨年(平成25年)の6月には奥にある不動尊の祠、門、土蔵と主屋の前にあるレンガ塀が新たに登録有形文化財に登録されました。建物の全てが文化財となり、身の引き締まる思いがしております」と語る桝田さんの言葉から建造物への責任の思いが伝わってきた。

Photo_11  建物の前にあるレンガ塀。昭和30年代に今の堤防が造られる前には、毎年台風シーズンにはこのレンガ塀までヒタヒタと川の水が押し寄せてきていた。水が来る前にレンガ塀の両脇にある2つの溝に木の板(関板)を上からはめ込む。そして2枚の関板の間に、米俵に土を詰めた土嚢を落とした。

  「米俵の土嚢、4段くらい関板の間に積んだわ、その関板は今はなくなっているのが残念ネ」と、こうしたレンガ塀を初めて見る私たちに説明してくれた。明治期に造られたレンガ塀。浸水を防ぐためのレンガ塀。川辺で暮らす人たちの水に対する知恵を表している。

Photo   「私の家は代々仁左衛門の名前を襲名しています。鉄道のなかった時代の運送は全部江戸川の水運によるもので、運ぶのがほとんどが醤油樽でした。私が子供の頃、この河岸でたくさんの人が行き交い、ヨイショ、ヨイショと掛け声をかけて醤油樽を船に積み、『船が出るぞう』と言う声で、ここらへんに駆け寄っていきました。景気のいい音をしていたポンポン蒸気船を見送ったりしてました」と出航の様子を話す。

  「母から聞いた話では、お正月の初荷では化粧飾りした荷馬車の馬、きれいな半被を着た馬方さんたち、角帯した醸造屋の旦那さんたちがここに勢揃いをして、近所の人たちがお節料理を配って、皆なで一緒にお正月を祝ったそうです」と野田下河岸の往時の事を語ってくれた。

Photo_2   江戸川の氾濫で船で非難した幼い頃の怖い体験を語り、「昭和10年の洪水の時には、水が階段の上から3段目の所まできたのです。堤防ができたおかげで江戸川の眺めはここから見えなくなりましたけど、洪水の心配がなくなりました」と話す。

  最後に「祖父や父が受け継いできた河岸問屋の建物。亡くなった主人も晩年は家のことを調べたり、保存をしていくことなど大事しておりました。その想いを私も勉強して、代々伝わってきた桝田家のことを皆さん方に伝えていきたいと思っております」とこれからも語り伝えていくことを私たちに話してくれた。

Photo_4  後日、廻船問屋をやめたのは何時なのか」等、いくつかの質問をしたく桝田さん宅に個人的にお邪魔した。いきなりの訪問にもかかわらず、快く私を迎えてくれた。「廻船問屋をやめたのは昭和10年頃だったわ」、「トロッコが家の前で回転して、船着き場に行くの、その回転する装置があったのよね」等答えていただき、「来週は川越の方から来て下さる方々がいるから、土手の草を採っているの」など明るくお話をして戴いた。帰り際に「参考にしてください」と言って、一冊の本を渡された。「野田下河岸物語」と書かれてある本だった。

  この「野田市下河岸物語」には河岸問屋桝田家の建物が国の登録有形文化財の指定を受けたことにより、改めて我が家の歴史を見つめる機会として編さんした自家本となっていることが記されている。野田市地方史懇話会で話した「下河岸あれこれ」の講演内容や学徒動員、洪水の思い出などの記載もある。また、偶然に桝田家住宅を見て執筆した高校教員の田嶋昌治氏の「野田下河岸の廻船問屋物語」が掲載されている。

  寄せ書きをしている下津谷達男野田市地方史懇話会会長は桝田迪子(みちこ)さんを「16年間にわたる野田市教育委員、野田市の婦人団体連絡会会長、野田市文化団体協議会副会長など勤め、野田市の教育・文化に貢献され、野田市文化功労の表彰を受けている」と紹介している。そして、「桝田さんは文化財の家に住まわれ、不意に訪れる多くの人々にお会いになって桝田家の歴史、建物、河岸問屋、河岸での生活などお話しされております。『桝田家・下河岸の語り部』として活躍されておられますが、そこに一貫して流れているのは、桝田家の保存、より良い状態での管理、さらには資料の収集、調査など、生家に対する愛情がにじみでていることです。『愛』はさらに文化財住宅を輝かしいものにすると信じて疑いません。桝田迪子さんのさらなるご活躍を期待します」と記述されている。

 数少なくなった河岸問屋。歴史を語り継ぐ人がここにもいることを知った。

Photo_5  野田の町から醤油樽を運んでいた人車鉄道の足跡は無くなっていた。しかし、河岸問屋の桝田家の住宅は文化財として残っていたのだ。

 江戸時代の物資輸送の主力は舟運だった。「すべての水路は江戸につながる」と言われるほど徳川幕府は河川を整備した。それは年貢米の収集と大消費江戸の町を支えるためでもあった。野田の醤油も舟運によって発展をしてきた。

  鉄道や貨物トラックによる輸送が発達してきた昭和の時代に河川は連続堤防方式に切り替わる。水害を防ぐため、降水は川に集めて海へ流す。スーパー堤防やゲリラ豪雨など今日、数々の課題はあるにしても、舟運を支えた川の流れは速くなり、舟運に適さない川の流れに変わった。舟運を支えた河岸と河岸を支えた問屋などの施設・建物は数少なくなった。ここが河岸跡ということは標識でしか分からなくなっている。その中で野田市河岸問屋の「桝田家住宅」の歴史を語る桝田迪子さんのさわやかな印象と伝えていく姿勢に敬服をした。

Photo_6  10月25日(土)の第2回目の栃木市民大学現地学習ウォーキングの行程は次のようにして行なった。 

  栃木駅(東武線)-幸手駅…幸手市役所(バス)-関宿橋東三田バス停…江戸川・旧道日光東街道…工業団地(バス)-川間駅(東武線)-野田市駅…茂木佐平治邸・市民会館・野田市郷土博物館…町並み見学(春風館道場、茂木七郎治邸、旧キッコーマン本店跡、千秋社(旧野田商誘銀行)、キッコーマン本店…興風会館…上花輪歴史館…下河岸桝田家住宅…旧野田町駅跡…野田市駅(東武線)-春日部^-栃木駅(歩行距離約13キロ)

  野田市の見学案内は「むらさきの里野田ガイドの会」の井出敬一さんでした。同行した人が言っていた。「あのガイドさんは凄い。私たちの方を見て、左側にある建物を右手をあげて示し、説明していた。ガイドのベテランだ」と感心していた。何よりも野田市の町並みを押しつけではではなく、淡々と説明案内したのが私には良かった。

≪関連ブログのリンク≫

◆栗橋から関宿23キロ歩く―栃木市民大学現地ウォーク①

◆水運の近道、利根運河・流山―栃木市民大学現地ウォーク③

◆江戸へと続く行徳・新川―栃木市民大学現地ウォーク④

◆江戸の出入り口・小名木川―栃木市民大学現地ウォーク⑤

◆発祥地の多い日本橋川河口―栃木市民大学現地学習ウォーク⑥

                                            《夢野銀次》

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