« 里イモの収穫とミニトマト | トップページ | 江戸へと続く行徳・新川―栃木市民大学現地ウォーク④ »

水運の近道、利根運河・流山―栃木市民大学現地ウォーク③

Photo_2  「江戸川は渡し船が多かったのですよ。江戸川を開削する際に村を分断して造っていった関係でネ。同じ村同士だったので親戚知人の家に渡し船で行き来していたのです」と流山史跡ガイドの会の方からの説明があった。江戸川が流れる流山にある市立博物館前まで東武線初石駅から4キロ歩いてやってきた私たち一行16名を迎えてくれた。

  「この博物館は田中藩本多家の陣屋跡地で県庁があった所なのです。市内は幕府天領地で代官支配だったのです」と流山市内を見渡せる加村の高台の地に建っている博物館と図書館の建物を説明した。流山加村は静岡県藤枝市にあった田中家本多家の飛地だったのだ。 

  藤枝市にある田中城址はかつて見学した城だ。近くに2階建ての櫓がある。わずかに残っている堀が本丸跡を囲み、その本丸跡には小学校があった。玄関前の庭の中に郭や堀のある田中城全体の模型が設置されていた。学校に断って見学したことを思い出した。 

Photo_5 博物館内に流山県庁跡の図が展示されていた。県庁舎の下に獄舎があった。今の流山市役所跡地だ。栃木市県庁跡同様に県庁舎と獄舎は隣接して建てらている。行政と司法が分離していない時代を表している。

 流山市には明治2年(1869)1月葛飾県、明治4年(1871)11月印旛県の県庁舎が置かれていた。そして明治6年(1871)6月に現在の千葉県が出来上がることにより県庁は流山市から千葉市に統廃合された。「皆さん方の栃木市と同じく流山にも県庁があった町なのです。似ていますね」と語りながら、博物館の見学を終えた私たちを高台から下りながら市内見学へと導いた。 

  博物館の中には利根運河や名産のみりんなど展示されていたが、時間の関係であまり見ることができなかった。近藤勇や土方歳三らが本陣とした味噌屋にあった階段が展示されていたのが印象に残った。

Photo_6  第3回目の栃木市民大学現地学習ウォークは11月8日(土)、参加者16名で行なった。曇り空だったが、最後の「矢切の渡し」の乗船まで雨に降られずに進むことができた。本日は矢切の渡し船を初めて乗るということででわくわくしての参加だ。 

 《行程》栃木駅(東武線)-春日部—運河駅…利根運河見学…運河駅—初石駅…流山街道…流山市立博物館・流山市歴史建造物・浅間神社・近藤勇陣屋跡・赤城神社・一茶記念館…江戸川流山堤防(昼食)…流山5丁目(バス)-松戸駅(バス)-下矢切…矢切の渡し(乗船)~葛飾柴又側渡し場…帝釈天…柴又駅(京成線)-北千住(東武線)-栃木駅(歩行距離は約8キロ)。

Photo_20 流山市立博物館に来る前に利根運河を見てきた。利根運河の岸辺は急こう配になっていて、流れが緩やかだった。水深は思った以上に浅く見えた。 

  明治19年(1886)、オランダ人技師ムルデルの設計により着工された利根運河は明治23年(1890)に開通した。利根川付の船戸と江戸川付の西深井を結ぶ全長9キロの利根運河。明治29年(1895)2月には東京・銚子間の直行汽船が就航し、東京-小名木川-江戸川-利根運河-利根川-銚子の144kmを18時間で結んだ。

  しかし、明治33年(1900)、国の河川対策が水運優先から水害防止対策に変わった。川幅を広げ堤防を高くした結果、水深が浅くなり汽船の就航が困難となり、鉄道の発展とあいまって水運が衰退してきた。昭和16年(1942)7月の台風による洪水で堰が崩れたことにより、運河として使命が終了した。

   現在は「美しい日本の歴史的風土100選」に選ばれていることから、昔日の景観を残すのみとなっている。2年間の工期で完成した利根運河。建設機械のない明治20年代。クワ、ツルハシ、モッコなどの人力作業による。工事に従事した人は220万人と言われている。近在の村落割り当て献人夫や千葉刑務所の囚人など駆り出された工事ではなかったかと推測する。

Photo_9   利根運河が造られた地は鬼怒川が合流する利根川の船戸村と江戸川深井村を結ぶラインになっている。この地域から利根川下流の布施村にかけて、江戸時代には水運輸送における新ルートを巡って訴訟が絶えなかった。水運の近道、いわゆるショートカットは輸送の迅速性とコスト削減で新ルートをめぐって河岸同士の訴訟が続いた。

 川名登著「河岸」には幕府への訴訟した記述が記載されている。

  ①天和2年(1682)、鬼怒川久保田河岸から荷揚げし、境河岸までの駄送を取り次ぐ宿駅の大木宿や諸川宿など7宿が利根川下流の木野崎河岸を幕府に訴訟をおこしている。下野や東北からの舟運物資を久保田河岸に荷揚げをしないで、そのまま利根川下流の木野崎河岸まで就航して荷揚げを行ない、陸送で江戸川の金杉河岸まで陸送するという近道、新ルートを木野崎河岸が開発したからだ。この近道により荷駄の引継ぎで生業をしている7宿にとり死活問題となり、新ルート・近道での輸送禁止を求めての訴訟。

Photo_10  ②禁止されても新たな河岸問屋が新ルート、近道を開発する。特権を主張して訴訟をおこす。

 享保6年(1721)、利根川下流の布施村が少し上流の瀬戸村を訴える。布施村は銚子や水戸から江戸に向かう荷物が荷揚げされ、江戸川付の流山・加村に駄送されていた。それを新たに瀬戸村が始めたことによる訴訟であった。布施村には水戸街道脇往還道で公儀・武家方の往還御用を勤めている故、新道ができては迷惑だと特権を主張しての訴えだった。

  布施村から利根川上流の関宿経由で江戸川流山まで90km。それが布施村で荷揚げされ、江戸川流山・加村へ陸路で駄送すれば14kmで済む近道なのだ。時間の大幅な短縮となる。例え訴訟で幕府から禁止されても新たな近道が産まれてくる。

Photo_21  こうした新道・近道ルートの使用を巡る争いの背後について、川名登氏は「より低廉・迅速な輸送ルートを選ぼうとする北関東・奥州筋荷主の強い要望があった。また表面には顔を出さないが、農民の手許で、新しい形で生産された商品化された荷物が、自由な道を選ぼうとしていたのではなかろうか、さらにまた、これらの要請に対応して、陸上の付け通し(積み替えなしの輸送)を担当した利根川付村々の中の農間駄賃稼ぎの成立も、見逃せない」と記述している。

 新道、近道をめぐって荷主と河岸問屋、取継ぐ宿の動向や商品作物の輸送方法を新たに模索していく農民の動きについて問題提起をしている。

 布施村から流山・加村まで諏訪街道が通っている。ブログ「諏訪街道」の中で「布施村において最盛期頃に年間160,000駄の荷受けがあった」と記述されているのを読んだ。本当なのか?一頭の馬で2~4駄運ぶとして、50頭の馬が一日で諏訪街道を行き来したことになる。荷馬車が登場していない時代での馬による駄送。馬の産地でもあった。農民の農耕馬による駄賃稼ぎがどのくらいあったのか?「みりん」だけではない流山・加村河岸の賑わいなど市立博物館での見落としがたくさんあったと思えてくる。調べていこうと思う。

Photo_11   「流山の町並みは江戸川の土手道に作られたのです。浅間神社は道路より下にあるのですから」と流山の町並みを歩きながら史跡ガイドさんの説明がある。

   市内大通りから横に入った所に近藤勇の陣屋跡の標識がある。「近藤勇率いる新選組は田中藩本多家陣屋の占拠を目指し、流山にきた」と『戊辰戦争事典』に記述されている。高台にあった市立博物館が田中藩本多家陣屋跡地だ。確かに防御に適した地割になっていた。彰義隊渋沢成一郎の主張する「会津藩と提携し、結城・宇都宮辺の関東の要衛に拠り、古河・関宿辺に戦線を張って、大いに西軍と戦わん」とする戦略に基づいて流山に来たのだ(「戊辰戦争事典」より)。

Photo_12   慶応4年(1868)4月2日、綾瀬から移動してきた227人の新撰組は流山の田中藩陣屋の占拠を目指し、味噌屋の長岡屋に本陣を構えた。しかし、東山道軍香川敬三の部隊に包囲される。多くの隊士は訓練に行っており、本陣には数名しかいなかった。近藤勇は切腹を考えたが、土方歳三に止められる。隊の延命策として香川隊に出頭したが、板橋で斬首される。

  市川宿で大鳥圭介ら旧幕軍と合流した土方歳三は先の戦略構想を引継ぎ、宇都宮城へむけて行軍する。宇都宮城を防衛するのは近藤勇を捕え、斬首させた香川敬三。大鳥圭介は「南柯紀行」を著し旧幕軍の行動を後世に残している。しかし、土方歳三にはそれがない。流山市立博物館のある高台を見ながら、占拠することができなかった土方歳三を思い浮かべる。土方歳三は渋沢成一郎の構想した戦略を実践に移していくことを考え、下野戊辰戦争に進んでいったのではないかと思えてきた。

Photo_13  流山には渡し場が2か所あった。その渡し場のあった江戸川を眺めがら弁当を済ませた一行はバスで松戸、下矢切を経由して、矢切の渡し場に着いた。

 30人乗りの渡し船。手で艪をこぐのは経験4年目だと言う若者。ゆっくり船着き場を離れ、上流に艪を漕ぐ。揺れない。「うまいなあ」と乗船者の一人が語る。曇り空の下、船先を上流から下流に向ける。直線に進まず、曲線を描いて船を進めていたのだ。「水かさが多いわね。何時もより水が多いの?」「いえ、何時もこんなもんですよ」と答える若い船頭さん。
Photo_14  若い船頭さんを見ながら昭和30年の美空ひばり主演映画「娘船頭さん」を思い浮かべた。美空ひばりが渡し船の櫓を漕ぎながら「娘船頭さん」を歌う。

 ~娘十八 口紅させど わたしゃ淋しい船頭むすめ 燕来るのに便りも無くて 見るはあやめのヨウ… 花ばかり~(西条八十作詞・古賀政男作曲)

  美空ひばり18歳の時に初めての古賀政男の曲だ。古賀政男は美空ひばりのあまりの巧さと情感に脱帽したと云われている。

私たちが乗った船はゆっくりと向こう岸、葛飾柴又に着く。

673005591  ~つれて逃げてよ ついておいでよ 夕ぐれの雨が降る 矢切の渡し~(石本美由紀作詞・船村徹作曲)。

 矢切の渡しがなくなるということを聞いた石本美由紀と船村徹の二人が作った曲でもある。昭和51年(1976)中村一好プロデュース、ちあきなおみによってレコード化された。しかし、B面としたため忘れられていった曲になった。昭和57年(1982)、TBSドラマ西田敏行主演の「淋しいのはお前だけじゃない」で梅沢冨美男の舞踏挿入曲とされ、脚光を浴びる。同じ年の昭和57年に今度はA面としてちあきなおみの「矢切の渡し」がシングル盤として発売となった。

Photo_17 美空ひばりに匹敵する歌唱力があると言われたちあきなおみは平成4年(1992)に夫、郷英治が亡くなると同時にステージから消えた。「ちあきの歌は手漕ぎの艪で、細川の歌はモーター付きの歌だ」と船村徹は二人の歌う「矢切の渡し」を評している。大作曲家所以の言葉だと思える。

 ちあきなおみの歌には切羽詰まった男と女の道行が感じられる。細川たかしの歌はカラットしていて味わいがどこか欠けているのかなと感じる。

 初めて乗った手漕ぎの渡し船。心地よい気持ちで船着き場におりた。

   運動公園になっている広い江戸川の川べり。ここが映画「男はつらいよ」の冒頭のタイトルバックでいつも観ていた所だ。葛飾柴又、江戸川の土手を歩く車寅次郎。前作では淋しく柴又を去るが、新作でまたこの江戸川葛飾柴又に寅さんは帰ってくる。懐かしい人との出会いと新しい人との出会い。そして淋しい別れがある。映画「男はつらいよ」は出会いと別れで長いシリーズになった映画だ。

 江戸川の土手を歩き、帝釈天に参拝した私たち一行は栃木に帰っていく。

≪関連ブログリンク先≫

◆栗橋から関宿23キロ歩くー栃木市民大学現地ウォーク①

◆野田市・江戸川の河岸問屋―栃木市民大学現地ウォーク②

◆江戸へと続く行徳・新川―栃木市民大学現地ウォーク④

◆江戸の出入り口・小名木川―栃木市民大学現地ウォーク⑤

◆発祥地の多い日本橋川河口―栃木市民大学現地ウォーク⑥

                                             《夢野銀次》

|

« 里イモの収穫とミニトマト | トップページ | 江戸へと続く行徳・新川―栃木市民大学現地ウォーク④ »

栃木のまち」カテゴリの記事

歴史散策」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1233525/58009886

この記事へのトラックバック一覧です: 水運の近道、利根運河・流山―栃木市民大学現地ウォーク③:

« 里イモの収穫とミニトマト | トップページ | 江戸へと続く行徳・新川―栃木市民大学現地ウォーク④ »