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野田市・江戸川の河岸問屋―栃木市民大学現地ウォーク②

Photo_3  「ここが江戸川です」と江戸川を見渡しながら井出敬一さんが説明する。井出さんは私たち19人を案内してくれた「むらさきの里野田ガイドの会」のベテランガイドさんだ。高さ30メートルの堤防を登って土手の上に立つ。「ワアー広いなあ」と参加者の雄叫びが聞こえてきた。

  第2回の栃木市民大学現地学習は10月25日(土)に醤油のまち、野田市内町並み見学と江戸川・野田河岸の訪問を中心とした現地ウォーキングになっていた。行程の最後が、ここ野田河岸跡だった。野田河岸跡には高い堤防が築かれていた。

  井出さんの説明が続く。「ここは関宿から20キロの所にあります。もともとここには太井川(おおいがわ)という小さな川が流れていたんです。家康が江戸に入ってきて利根川東遷工事を行ないます。その時にこの太井川の開削工事を6年かかって、今の江戸川を造っているんです」と今の江戸川の誕生を語る。

Photo_5  「昭和になって堤防を構築する前に、ここには上河岸と下河岸の二つの河岸があり、それぞれ河岸問屋を営んでいました。野田の醤油をこの河岸で船に積み、江戸・東京に江戸川の舟運で輸送していたのです。土手の下に見える家が下河岸で河岸問屋を営んでいた桝田さんの家です」と堤防の下に建っている二階建の木造住宅の家を指差した。「野田の醤油は醤油工場から人車鉄道のトロッコで河岸問屋の桝田さんの家の前まで来て、船に積荷をしていたのです。野田河岸は大変な賑わいを見せていたのです。言わば野田の文化はこの河岸から入り、出て行ったりしたのです。今日は桝田家15代当主の奥様が皆さんをお待ちしており、桝田家の歴史などお話をしていただくことになっています」と井出さんの話を聞きながら、私たちは堤防を下り始め、野田市今上の江戸川堤防の真下にある桝田さんの家の前にきた。

Photo_7 「私はこの家に昭和4年に生まれ、八十年余りこの家に暮らしてきましたから、毎日江戸川を眺めてきました」と84歳とは思えない強い語り口で話しを始めた桝田迪子(みちこ)さん。

 「この堤防は戦後にできたのです。それ以前はこの家の前まで醤油樽を積んだトロッコが来て、ここで回転して、荷揚げをする船着き場にいきます。船着き場には二階建ての建物、納屋が建っており、その中にトロッコが入って行き、土間を通って船に醤油樽を積んでいたのですネ。1200樽だったそうです。納屋の二階には若い衆が住んでおり、一階には帳場があったのです。醤油醸造屋の番頭さんがその帳場で醤油の出荷積荷の記録をしておりました。納屋の片方は土間になっており、醤油樽などが置かれていました」と醤油樽が船積みされる様子を語ってくれた。当時の船着き場は今の堤防に変わっていたことが分かった。

Photo_8  明治の桝田家の河岸の様子を描いた絵が玄関の所に飾られていた。この絵の解説説明文が関宿城博物館で回漕問屋開業広告資料として記載されていたのをネットで見つけた。次のように紹介されている。

 「明治初期に桝田家が利根川沿いの三ツ堀河岸に支店を開業することを知らせる広告。本・支店から主要河岸までの距離が示されているほか、立ち並ぶ数多くの蔵や高く積み上げられた荷物が描かれ、当時の下河岸の繁栄を物語っている。また、川を行き交う蒸気船や郵便の旗から運輸の近代化の一端を垣間見ることができる。現在の桝田家宅は明治4年に建築されたもので、帳場や船宿などの諸機能が兼ね備わり、往時を偲ばせる貴重な文化遺産である」。荷揚げする河岸に建つ建物が描かれてあり、桝田迪子さんの説明とダブらせる。絵図の右には河岸までの距離が「栃木16リ、部屋13リ」等と記載され、船着き場には蒸気船が停泊している。この絵から当時の風景が浮かんできて現地と重なってくる。面白い。

Photo_10 「蒸気船は綱で何艘もの和船を引っ張っていきました。蔵の横には石炭がたくさん積まれてありましたよ」と桝田さんの説明が続く。

  「この家は明治4年に建てられ、140年になります。河岸問屋を始めたのは300年前の正徳2年(1712)と聞いております。主屋は玄関だけ改築していますが、あとは全部昔のままになっています。ここが15畳の部屋で店の座敷と呼ばれ、父や祖父が帳場をはっていました。奥が10畳の床の間の部屋で、次が8畳の客間。そっちが広い土間です。この間の大震災でも何ともありませんでした」と築140年に驚かされる。

  「この主屋は平成19年の10月に国の登録有形文化財に登録され、昨年(平成25年)の6月には奥にある不動尊の祠、門、土蔵と主屋の前にあるレンガ塀が新たに登録有形文化財に登録されました。建物の全てが文化財となり、身の引き締まる思いがしております」と語る桝田さんの言葉から建造物への責任の思いが伝わってきた。

Photo_11  建物の前にあるレンガ塀。昭和30年代に今の堤防が造られる前には、毎年台風シーズンにはこのレンガ塀までヒタヒタと川の水が押し寄せてきていた。水が来る前にレンガ塀の両脇にある2つの溝に木の板(関板)を上からはめ込む。そして2枚の関板の間に、米俵に土を詰めた土嚢を落とした。

  「米俵の土嚢、4段くらい関板の間に積んだわ、その関板は今はなくなっているのが残念ネ」と、こうしたレンガ塀を初めて見る私たちに説明してくれた。明治期に造られたレンガ塀。浸水を防ぐためのレンガ塀。川辺で暮らす人たちの水に対する知恵を表している。

Photo   「私の家は代々仁左衛門の名前を襲名しています。鉄道のなかった時代の運送は全部江戸川の水運によるもので、運ぶのがほとんどが醤油樽でした。私が子供の頃、この河岸でたくさんの人が行き交い、ヨイショ、ヨイショと掛け声をかけて醤油樽を船に積み、『船が出るぞう』と言う声で、ここらへんに駆け寄っていきました。景気のいい音をしていたポンポン蒸気船を見送ったりしてました」と出航の様子を話す。

  「母から聞いた話では、お正月の初荷では化粧飾りした荷馬車の馬、きれいな半被を着た馬方さんたち、角帯した醸造屋の旦那さんたちがここに勢揃いをして、近所の人たちがお節料理を配って、皆なで一緒にお正月を祝ったそうです」と野田下河岸の往時の事を語ってくれた。

Photo_2   江戸川の氾濫で船で非難した幼い頃の怖い体験を語り、「昭和10年の洪水の時には、水が階段の上から3段目の所まできたのです。堤防ができたおかげで江戸川の眺めはここから見えなくなりましたけど、洪水の心配がなくなりました」と話す。

  最後に「祖父や父が受け継いできた河岸問屋の建物。亡くなった主人も晩年は家のことを調べたり、保存をしていくことなど大事しておりました。その想いを私も勉強して、代々伝わってきた桝田家のことを皆さん方に伝えていきたいと思っております」とこれからも語り伝えていくことを私たちに話してくれた。

Photo_4  後日、廻船問屋をやめたのは何時なのか」等、いくつかの質問をしたく桝田さん宅に個人的にお邪魔した。いきなりの訪問にもかかわらず、快く私を迎えてくれた。「廻船問屋をやめたのは昭和10年頃だったわ」、「トロッコが家の前で回転して、船着き場に行くの、その回転する装置があったのよね」等答えていただき、「来週は川越の方から来て下さる方々がいるから、土手の草を採っているの」など明るくお話をして戴いた。帰り際に「参考にしてください」と言って、一冊の本を渡された。「野田下河岸物語」と書かれてある本だった。

  この「野田市下河岸物語」には河岸問屋桝田家の建物が国の登録有形文化財の指定を受けたことにより、改めて我が家の歴史を見つめる機会として編さんした自家本となっていることが記されている。野田市地方史懇話会で話した「下河岸あれこれ」の講演内容や学徒動員、洪水の思い出などの記載もある。また、偶然に桝田家住宅を見て執筆した高校教員の田嶋昌治氏の「野田下河岸の廻船問屋物語」が掲載されている。

  寄せ書きをしている下津谷達男野田市地方史懇話会会長は桝田迪子(みちこ)さんを「16年間にわたる野田市教育委員、野田市の婦人団体連絡会会長、野田市文化団体協議会副会長など勤め、野田市の教育・文化に貢献され、野田市文化功労の表彰を受けている」と紹介している。そして、「桝田さんは文化財の家に住まわれ、不意に訪れる多くの人々にお会いになって桝田家の歴史、建物、河岸問屋、河岸での生活などお話しされております。『桝田家・下河岸の語り部』として活躍されておられますが、そこに一貫して流れているのは、桝田家の保存、より良い状態での管理、さらには資料の収集、調査など、生家に対する愛情がにじみでていることです。『愛』はさらに文化財住宅を輝かしいものにすると信じて疑いません。桝田迪子さんのさらなるご活躍を期待します」と記述されている。

 数少なくなった河岸問屋。歴史を語り継ぐ人がここにもいることを知った。

Photo_5  野田の町から醤油樽を運んでいた人車鉄道の足跡は無くなっていた。しかし、河岸問屋の桝田家の住宅は文化財として残っていたのだ。

 江戸時代の物資輸送の主力は舟運だった。「すべての水路は江戸につながる」と言われるほど徳川幕府は河川を整備した。それは年貢米の収集と大消費江戸の町を支えるためでもあった。野田の醤油も舟運によって発展をしてきた。

  鉄道や貨物トラックによる輸送が発達してきた昭和の時代に河川は連続堤防方式に切り替わる。水害を防ぐため、降水は川に集めて海へ流す。スーパー堤防やゲリラ豪雨など今日、数々の課題はあるにしても、舟運を支えた川の流れは速くなり、舟運に適さない川の流れに変わった。舟運を支えた河岸と河岸を支えた問屋などの施設・建物は数少なくなった。ここが河岸跡ということは標識でしか分からなくなっている。その中で野田市河岸問屋の「桝田家住宅」の歴史を語る桝田迪子さんのさわやかな印象と伝えていく姿勢に敬服をした。

Photo_6  10月25日(土)の第2回目の栃木市民大学現地学習ウォーキングの行程は次のようにして行なった。 

  栃木駅(東武線)-幸手駅…幸手市役所(バス)-関宿橋東三田バス停…江戸川・旧道日光東街道…工業団地(バス)-川間駅(東武線)-野田市駅…茂木佐平治邸・市民会館・野田市郷土博物館…町並み見学(春風館道場、茂木七郎治邸、旧キッコーマン本店跡、千秋社(旧野田商誘銀行)、キッコーマン本店…興風会館…上花輪歴史館…下河岸桝田家住宅…旧野田町駅跡…野田市駅(東武線)-春日部^-栃木駅(歩行距離約13キロ)

  野田市の見学案内は「むらさきの里野田ガイドの会」の井出敬一さんでした。同行した人が言っていた。「あのガイドさんは凄い。私たちの方を見て、左側にある建物を右手をあげて示し、説明していた。ガイドのベテランだ」と感心していた。何よりも野田市の町並みを押しつけではではなく、淡々と説明案内したのが私には良かった。

≪関連ブログのリンク≫

◆栗橋から関宿23キロ歩く―栃木市民大学現地ウォーク①

◆水運の近道、利根運河・流山―栃木市民大学現地ウォーク③

◆江戸へと続く行徳・新川―栃木市民大学現地ウォーク④

◆江戸の出入り口・小名木川―栃木市民大学現地ウォーク⑤

◆発祥地の多い日本橋川河口―栃木市民大学現地学習ウォーク⑥

                                            《夢野銀次》

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