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2014年12月

寒い冬を越してこそ実は育つ『ニンニク・ラッキョウ・イチゴ』

Photo_3 朝、中島みゆきの歌声が流れてくる。

 ~なつかしい人々 なつかしい風景 その総てと離れても あなたと歩きたい 嵐吹く大地も 嵐吹く時代も 陽射しを見上げるように あなたを見つめたい 麦に翼がなくても 歌に翼があるのなら 伝えておくれ故郷へ ここで生きてゆくことを 麦は泣き 麦は咲き 明日へ育ってゆく~

 「麦の唄」作詞・作曲中島みゆき

 朝のテレビ小説ドラマは見始めると最後まで見てしまう。

 今年の9月28日から放映されているNHK朝のテレビ小説ドラマ「マッサン」。日本で本物のウイスキーづくりを目指したニッカウイスキー創業者竹鶴政孝とその夫の夢を支えた妻リタの物語。

Img_main1 ウイスキー造りに情熱を燃やす「マッサン」は実家の造り酒屋から大阪の酒蔵会社、社長らと衝突を繰り返しながら日本での国産ウイスキー造りを目指す姿を描いているドラマだ。

 また、初めて外国人のヒロインを登場させている。国際化がより進捗してきていることを感じる。

 見ながら、こういう生きた方をできるのは酒造りの職人ではなく「芸術家」なのだと思えてくる。高倉健のようにひとつひとつ丁寧に作品を撮っていく姿勢に共感する自分にとり、何か違和感を覚えながらも見ている。

Photo_10 我が家の前は麦畑。5月になると麦の穂が黄金色になる。 

 栃木県産の二条麦は佐賀県と日本一を毎年争うほどの生産量がある。

 寒い冬を越して麦の穂が実る。

北西の強風をよけるためにビニールで囲っている。その畝にはイチゴとラッキョが育ち始めている。

 イチゴは今年我が家の菜園で実った苗を植えている。

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 今年もスーパーで購入したニンニク。

皮をむいて植えたニンニク。芽が出てきている。

 寒い冬を越してこそ根が引き締まったニンニクへと育っていく。

 ニンニクの畝の北西側に風よけのビニールを張った。少しは違うだろう。

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 12月28日に収穫したサトイモ。

正月用お雑煮の具として3株を採りだす。まだ2株が畝に残っている。来年の2月に採りだす。

収穫したサトイモの跡地にはジャガイモの苗を植えていく。

 12月31日の大晦日を迎えた。一年は早く過ぎ去っていく。

 「人生は長いぞ」と思っていた時期から「残りの人生の年数が見える」年代になった。
  少年時代、絵を描くことが好きで、写生に行っていた。「銀次のブログ」を書きながら、何だかこの頃、その少年時代の写生に行っている自分の姿と二重写しになってきている気がしてくる。

 来年も自分にとっての課題やテーマを見据えて「銀次のブログ」書いていこう。

                                 《夢野銀次》

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江戸の出入り口・小名木川―栃木市民大学現地ウォーク⑤

Photo 「ここは日本橋河岸跡と向き合って、じっくり散策する所だな」と急ぎ足で歩きながら思った。

  永代橋を渡った私たち一行17名は日本橋川沿いを歩き、押し迫った時間の関係で急ぎ足で日本橋を目指した。日本橋小網町にある「行徳河岸跡」は首都高6号線、箱崎ジャンクションの出入り口になっており、昔日の面影はない。しかし、跡地の場所を知ることができた。

  歩きながら左側に見える日本橋川。鎧橋、江戸橋を横目に見ながら小走りに小網町を通り抜けた。「今度は江戸東京の古地図を持って来て、日本橋河岸跡の小網町・堀留町・小舟町から道三堀を歩いてみよう」と、日本橋界隈をイメージできないもどかしさを抱いた。

Photo 日本橋の欄干から日本橋川を周航している遊覧船が見えた。約1時間の遊覧と聞くが、日本橋船着き場から乗船して、日本橋川から河岸跡を今度来たときに見ようと思った。

   平成26年度の栃木市民大学利根川・江戸川現地学習ウォークはこの日本橋で解散、終了となった。10月11日の第1回栗橋・関宿から始まり、今回の12月13日(土)の5回目をもって最終の現地学習ウォークとなった。

  都営地下鉄新宿線「東大島駅」下車、改札口で私たち一行を江東区観光ガイドのボランティア2名の方が私たちを迎えてくれた。ボランティアガイドの案内は中川船番所資料館から小名木川沿いを歩き、永代橋までになっている。そして永代橋を渡り日本橋を目指して、次の行程で行なわれた。

   《行程》栃木駅(東武線・日比谷線・都営新宿線)-東大島駅…中川船番所資料館…小名木川(塩舐地蔵・大島稲荷)…横十間堀釜屋跡地…小名木川(クローバー橋・五本松・扇橋閘門)…森下町文化センター(昼食)…芭蕉記念館・芭蕉稲荷…小名木川万年橋…臨川寺…清澄庭園に沿って建つ震災復興の建物…仙台堀川…深川東京モダン館…永代橋…日本橋川沿い…日本橋(解散)、歩行約12キロ。

Photo_3  旧中川から小名木川に注ぐ中川口の所に明治2年(1869)まであった船番所跡地のそばに「江東区中川船番所資料館」が建っている。

   船番所資料館前の旧中川の川沿いは公園になっていて、東には荒川と旧中川の水位差を調整する水門、荒川ロックゲートが見える。旧中川のから小名木川に注ぐ河口付近を水陸両用バスが周航している。

   資料館の3階には江戸時代の船番所を再現した模型が展示されている。幕府は江戸に入る川船の取締として正保年間(1644-1648)に川船改め番所を隅田川と合流する小名木川万年橋に設置をした。そして明暦3年(1657)の明暦の大火後、本所・深川地域の開発のため寛文元年(1661)に、この地、中川口に移した。

Photo_6  利根川・江戸川の水路から小名木川に入る船荷の検査と人改め、夜間の出入り船、女性の通航、武器・武具の取締りを明治2年(1869)の廃止まで約200年間、中川船番所としての役目を担ってきた。

  「小名木川に入る前にすでに積荷の改めを行徳河岸でおこなっていた船もあったのです。行徳河岸では江戸への積荷の配送先ごとに振り分けを行ない、行徳河岸で振り分け荷物をおこなっていた場合は、ここは言わば顔パスで通過をした船があったのです」と船番所資料館の学芸員の方から行徳河岸の強さの説明を聞いた。

  しかし、私の質問は小名木川に入ってからの船荷の積替えのことだったのだが、配送先までの振り分けを10軒あったとされる本行徳河岸問屋で行なっていたことの説明には疑問が残った。むしろ関宿関所が行なっていた「通船改めの一部を船問屋に代行させる宿付制度」があったのではないかと思われるのだ。

Photo_2   資料館発行の冊子「江戸から行徳へ」の中で、番所のある行徳船場の役割について「幕府からさまざまな役割が与えられていた」と記述されている。川船の管理維持から江戸川の治安維持を担っており、幕府にとり江戸川管理で行徳を重視していたことが伺えた。一部積荷の改めも代行していたのではないかと推測される。

   行徳河岸問屋の役割については調べて、再度資料館の学芸員の方とお話しをしていくつもりだ。

  行徳河岸の話から第4回現地学習ウォークで見学した行徳船着き場跡地に立っていた常夜燈の風景を思い出した。藤沢周平は「小川の辺」の中で行徳船場(行徳河岸)のことをこう著している。

  「(戌井朔之助の従僕・新蔵は)、田鶴は多分、ここから一里ほど南にある、新河岸と呼ばれる行徳の船場まで行ったものと思われる。新河岸は寛永九年に行徳船が公許になり、日本橋小網町から小名木川を通って新河岸に達する、水路三里八丁の船便が開かれると、房総、常陸に旅する者の駅路として、急ににぎやかになった。商いの店がふえ、旅籠、茶屋が軒をならべ、とくに正月、五月、九月の三か月は、成田不動尊に参詣する人で混雑する」(海坂藩大全上収録より)。兄朔之助と妹田鶴が斬り合うシーンは映画化もされている。しかし、「小川の辺」の舞台が行徳であったことには気がつかなかった。

Photo_8  私たち一行は小名木川沿いの道を歩き始めた。川幅25メートルから36メートルの小名木川は東西に真っ直ぐ伸びて流れている。小名木川については「角川日本地名辞典東京都」にこう記載されている。

  「江東区北部を流れる川。区東部の東砂2丁目と区西部の清澄1丁目間を東西に横断。名称の由来は、小名木四郎兵衛が開削を担当したとする説、古くは女木山谷(おなぎさわ)と称し、それが小名木沢、さらに小名木川に転じたとする説などがある。延長4.64km。徳川家康が行徳の塩の搬入路として天正末年~慶長年間に開削。この運河と同時期に開削された新川を経て江戸川と通じ、利根川出入路となった」と記載され、利根川水路からの江戸への出入り口の川になっている。

Photo_9  天正18年(1580)8月1日に8000人の軍勢を率いて江戸入りした家康はまず第1番目に手配指図したのは食糧確保ではなく、飲料水と塩の確保だった。千鳥ヶ淵など淵というダムを造り飲み水を確保する。塩については道三堀を開削し、下総行徳村から新川、小名木川、道三掘を経て江戸城和田倉門までの直結輸送の運河を早急に造った。

  行徳村はすでに小田原北条氏に塩を納めていたほど塩の産地として名を成していた。釜で煮詰めて生産する塩には大量の燃料を必要とした。行徳村にはその燃料を大量に確保できる輸送システムとしての水路が備わっていたと云われている。

Photo_10  小名木川・新川の沿海運河造成について鈴木理生著の「幻の江戸百年」の中で、「海岸線の汀線(ていせん・波打ちがわ)に内側に船が通れる水路をつくり、汀線から外側、つまり海の方に杭を打ったり小規模な埋め立てをしたりして、海岸線を固定化、確定する作業が沿海運河建設の第一段階。したがって工事量もあまり多くはなく、短期間に出来上がった。そしてそれ以後、絶え間なく確定線の強化、すなわち汀線から南の方に埋め立てが続けられた。やがて埋立地の増加とともに沿海運河は内陸運河となり、広大な利根川流域と江戸を結ぶ幹線水路となった」と沿海運河から内陸運河への変換を記述している。

 地べたを開削するのではなく、運河を除いた所を埋め立てしていったことが分かってきた。現在の江東区を整然と東西に流れる小名木川、竪川。南北に流れる大横川、横十間川など埋め立てをしながら運河を作り上げたことをこの本から学ぶことができた。

Photo_11  観光ガイドさんの案内は「扇橋閘門」から小名木川から離れ、芭蕉中心の歩行になっていった。どうしても深川散策は芭蕉の足跡地が中心になっていくのかもしれない。ただ私たちは舟運水路をモチーフにしたウォーキングであったことを理解して欲しかったと思えた。

 今年の秋に栃木県立博物館において「江戸とつながる川の道―近世下野の水路」として特別企画展が開催された。下野の川筋の問屋の古文書や河川の絵図などを観てきた。図録集には下野から江戸へつながる川の道筋の記載があった。

 その概要は「下野を出発した船は、まず利根川と江戸川の分岐点にあたる関宿を目指した。そして関宿の関所で船荷を改められた。関所を通過後,、江戸川に入り南下する。江戸に向かう船は流山や松戸・市川を通過し、一路行徳を目指した。行徳を通過後、江戸川から新川に入った。新川から小名木川に入る前に中川船番所での最後の改めを受ける。 船番所を通過後、小名木川を進み、年貢米を積んだ船は浅草御蔵・藩の蔵屋敷に、木材を積んだ船・筏は深川木場に、商人荷物を積んだ船は小名木川沿いの深川の艀(はしけ)下宿に至り、船荷を下した。商人荷物を扱う艀下宿は運送業務を行う船宿で、小型船(茶船)を使って江戸市中に船荷を運んだ。一方、空荷となった船は、北関東向け船専門の問屋で仕入れを行ない、下野に戻って行った」と記している。

Photo_12  今回の江戸川現地学習の見学を終え、改めて栃木県立博物館発行の図録を読み直し、そこに記載されている「艀(はしけ)下船宿」ついてよく分からなかった。

   川名登著「河岸」の中で、船が江戸に入るという項目の中で「年貢米以外の一般諸荷物は、江戸の入口中川番所辺より小網町までの間で艀下船に積み替えられ、市中の水路を通って届け先まで送られた。

 高瀬船等から積荷を艀下船に積替える業務を行なっていたのが、奥川筋艀下船宿であった。奥川筋とは、江戸から見て利根川水系を通して結ばれる関東各地から奥羽・信越方面の荷出地を言う。この奥川筋艀下船宿は茶船・艀下船等を所有し、明和7年(1770)頃には江戸小網町を中心に百数十軒あったという」と記載されている。

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 江東区地域振興課発行の「下町文化」では「艀家業の者は船持で地元の農民で渡し船や諸荷物の積み送りを家業としていた。寛永の初め頃(1620)に奥川筋の着船の湊として、海辺大工町は幕府から認められた」と隅田川沿いの地元の農民の渡し船家業から生まれ、河岸問屋に発展したことが記されていた。

  さらに鈴木理生著の「幻の江戸百年」の中には江東区内の運河沿いの水辺に隙間なく河岸を形成している地図の記載がある。小名木川と隅田川が合流する万年橋の左岸地帯(現在の江東区白河一丁目と清澄一丁目)は海辺大工町と称して、町奉行支配地として河岸にあたるとしている。それ以外の江東区運河沿いの艀下船宿は代官支配のため河岸として呼称されなかったとしている。早い話が艀下船宿を河岸問屋と捉えれば、理解ができてくるのだ。

Photo  河岸の定義として川名登氏は「河岸は単なる船着場の場所を指すだけの名称ではなかった。一般的には河岸問屋などの運輸機構を含めての呼び名であった」と規定し、「河岸地や河岸場は船着場・荷揚場それ自体を指すものであるが、当時の人々はこれも河岸と呼ぶことがあり」として「当時の河岸という言葉はそれほど厳密に使われていなかった」と記述している。

   どうしても現在の「河岸跡」で小名木川沿いを見ていくと、「艀下船宿」などの記載で頭が混乱してくる。実体として小名木川は江戸の出入り口として艀下船宿(河岸問屋)が多くあり、深川・本所の運河伝いから隅田川を渡り、神田川・日本橋川の専門問屋への輸送作業をしていたことが分かった。

 東西に一直線に流れる小名木は江戸の出入り口になっていたのだ。

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  芭蕉記念館・芭蕉稲荷を見た後、私たち一行は小名木川と隅田川が合流する万年橋を渡り、深川永代橋を目指した。隅田川はいつ眺めてみても雄大な川だと感じる。

  万年橋を渡り、左折する。「北の湖部屋」「大嶽部屋・大鵬道場」と相撲部屋を観光ガイドさんからの紹介があった。しかし、後で分かったことだが、この地帯は海辺大工町の河岸跡の地だったのだ。もし、知っていたならば、建物の脇から小名木川の川沿いに出て行き「海辺大工町河岸」の跡地に立って、小名木川を見ることができたのに…。悔しい気持ちが後から湧いてきた。

Photo_6  「本所深川辺の掘割を散策する折り、夕汐(ゆうしほ)の水が低い岸から往来まで溢れかかって、荷船や肥料船(こえぶね)の苫(とま)が貧家の屋根よりも却(かえ)って高く見える」「深川小名木川から猿江あたりの工場町は、工場の建築と無数の煙筒(えんとう)から吐く媒煙と絶間なき機械の振動により、悲惨な光景を呈し来たった」と大正4年に永井荷風は東京を散策しながら『日和下駄』を著し、小名木川周辺の運河沿いのことを記述している。

  現在の小名木川周辺は、江東区全体含め整然とした街並びに整理されている。しかし、永井荷風が著した、地上から見上げて見える通航する船の藁ぶき屋根。小名木川から一段低く建っている民家。そして絶間なく続く機械の音と振動という描写に当時の光景が浮かんできて背筋がゾッとしてくる。

 小名木川沿いのある江東区は明治期から昭和にかけての多数の工場が建設、操業されていた。近代産業発展のためだった。そして工場から大量の地下水がくみ上げられて地盤沈下を起こし、「ゼロメートル地帯」になってしまった。現在は地下水くみ上げが抑制され、沈下は緩和されていると云われている。江戸時代からの水運交通網の発展が工場建設を加速させ、地盤沈下の要因になったともされている。

 小名木川を観ていく場合、明治から昭和にかけての光景もまた踏まえていく必要があると思えてくる。

 Photo_7 永代橋の畔で江東区観光ガイドさん達と別れた。元禄11年(1698)に両国、新大橋に続き架橋された永代橋。元禄15年の12月15日の早朝を赤穂浪士一行がこの橋を渡って泉岳寺に向かっている。最も現在の橋から150メートル上流にあった橋なのだが、なんとなく気持ちがわくわくしてくるのだ。現在の橋は昭和2年(1927)に震災復興として整備された国の重要文化財指定になっている。

 橋を渡りながら隅田川河口に建つ高層マンションが見える。「大地震や大津波の時、どうなるのかな」と余計な心配をする。

  日本橋に到着した私たちは解散・終了となった。しかし、最終回の今回、日本橋界隈の現地学習ウォークが不十分だったと思い、市の担当者に追加の現地学習ウォークができないものか要望をしておいた。そんな時、栃木市役所担当者より来年の2月下旬に今回の現地学習ウォーキングの番外編を行なっていくことの連絡があった。栃木巴波川と結ぶ日本橋界隈の河岸散策を中心として、有志の参加で開くということだ。胸のつかえがおりた。今回、見逃した箇所がたくさんあった。怠け者の私は現地を観てから、実感して学び始めるというタイプなのだが、事前の下調べをできるだけやっていこうと思っている。

 利根川・江戸川ウォーキングの全体を通しての課題点などは、次回の「番外編・日本橋の川・橋・河岸跡ウォーク」が終わってから記述していくことにする。

≪関連ブログリンク先≫

◆栗橋から関宿23キロ歩く―栃木市民大学現地学習ウォーク①

◆野田市・江戸川の河岸問屋―栃木市民大学現地学習ウォーク②

◆水運の近道、利根運河・流山―栃木市民大学現地学習ウォーク③

◆江戸へと続く行徳・新川―栃木市民大学現地学習ウォーク④

◆発祥地の多い日本橋川河口―栃木市民大学現地学習ウォーク⑥

                                     《夢野銀次》 

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江戸へと続く行徳・新川―栃木市民大学現地ウォーク④

Photo  「ワアーすごい!きれい!」45階エレベータから展望台に上がった参加者一行17名から歓声があがった。360度のパノラマから眺望する。朝日をあびている東京湾。ゆっくりと蛇行して流れる江戸川。旧江戸川との分岐点が見える。左に流れていくのは昭和5年(1930)に完成した江戸川放水路。放水路の流下能力増大のため、昭和32年(1957)に設置してある可動堰のある行徳橋。右上に見えるのは旧江戸川に流れる水門。

  総武線市川駅南口に建つ「I-link(アイリンク)タウンいちかわ」の45階にある展望施設。市川市が開発、建造した地上150メートルの高層建築。展望台から東京の高層ビル群からスカイツリーまで正面に眺望することができる。富士山が雲の間から霞んで見える。北関東の山々から流れてくる江戸川が見える。「夜景もきれいでしょうね」と女性参加者からの声が聞こえてきた。

45  アイリンクという名称は、平成17年12月に一般公募から選定された。アイは私のアイ、市川市のI、出会いのI、愛するIを意味する。リンクは千葉と東京をリンクする。自然・歴史・文化とをリンクする。先進・健康・暮らしをリンクする。市民の安全をリンクするという意味にが込められ、市川市の姿勢が打ち出されているように思えた。

  北側の江戸川沿いに見える森林。その先には国府台城址がある。「あそこの和洋女子大のあたり、高台になっているでしょう。あの辺りに下総国府があったとされていて、まだはっきりしない地帯なんだ」と私たちを先導する栃木市文化課のK氏が教えてくれた。海に近いため高台に国府政庁を設けていったのが土地の高低で分かってきた。

Photo_21_3  11月22日(土)第4回栃木市民大学江戸川現地学習ウォークは、ここ総武線市川駅南口に建つアイリングタウンビル屋上展望台から出発した。

 《行程》栃木駅(東武線・総武線)-市川駅…アイ・リンクタウンビル45階展望台…市川関所跡…江戸川堤防道…行徳橋…行徳町並み見学・旧江戸川常夜燈と行徳河岸跡…今井橋…新川東端…新川・火の見やぐら…船堀橋(中川・荒川)…東大島駅(都営地下鉄・東武線)-栃木駅。歩行距離は約20キロと予定より多かった。

Photo_31   市川駅から北へ江戸川を昇った堤防沿いに「市川関所跡」の石碑が建っている。古来より渡し船があった所だ。江戸時代に佐倉街道(成田街道)の江戸川通河地点に「小岩・市川関所」が設けられた。番所は向う岸の小岩村側にあった。

 市川関所跡から進路を変えて江戸川下流の堤防沿いを行徳橋を目指して歩く。日射しが強くなり暖かくなってきた。参加者も上着を脱ぎ軽装で歩くようになる。江戸川の川面がまぶしく照らす。堤防沿いにはオーナー制の桜の木の苗木が植えられているのが目に入ってきた。
Photo_5  可動堰のある行徳橋を渡り、行徳の町の入口で市川市歴史博物館学芸員の菅野洋介氏が私たち一行を待っていた。

 「私は以前に鹿沼市史に携わっていましたので、栃木市の皆さんとは何か縁を感じています」と自己紹介があり、「今、見ているいる川が江戸川放水路です。左の方に旧江戸が流れています。それをまず念頭に入れて、これから行徳の町を案内していきます」と用意した資料を片手に旧江戸川沿いにある行徳の町並みに入っていった。

  「ずいぶんと神社寺院が多い町だな」というのが行徳の町に入った時に受けた第一印象だ。

Photo_71_2   菅野氏は行徳は塩田を維持するため石材店が多くあったこと。「行徳」の地名由来となった神明神社。勝海舟自筆の石碑がある自性院。すぐ近くの中山にある法華経寺の末寺が行徳にはたくさんあること。神輿職人がいたこと。隠れキリシタンの石灯籠のある妙覚寺。東金の鷹狩に行く際に家康が通ったとされている細い「権現道」。江戸日本橋につながる行徳河岸と常夜燈。後北条の家臣、狩野新右衛門が造った「内匠堀」と立派な墓石のある源心寺。徳川家康や宮本武蔵ゆかりの寺である徳願寺など短い時間内で駆け足で案内説明をしていただいた。

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 菅野氏の説明には実証を踏まえて地域の伝承を尊重していることが伺え、好感を持つことができた。また、
菅野氏自身が探究課題としている行徳の用水堀について語る等、その姿勢は、現地観光ボランティアの人と違う、歴史研究者としての姿が見えた。今井橋の手前で私たちと別れる際には「市川歴史博物館に是非一度ご来館ください。そこにわたし菅野がおります」と明るい笑顔を見せて去っていった。

  「古来、行徳は戸数千軒、寺百軒」と図書館で借りた「江戸川ライン歴史散歩」の中で行徳の町が紹介されていた。同書には行徳にある神社寺院の所在を示した挿絵地図が記載されている。行徳橋から東西線行徳駅までの間に神社寺院を数えたら32軒にのぼった。これで寺院はやっていけるのか?という疑問には菅野氏は「檀家は遠方に住んでいる方で構成している」と答えていた。行徳の町を離れていっても旦那寺はそのままになっているからだ。さらに寺院が多い理由に中山にある法華経寺との関連だと述べていた。

Photo_20  千葉県史(山川出版社版)では「日蓮没後、富木常忍みずから日常と名乗り、宗教活動に専心した。さらに法華経寺地元の八幡荘の領主千葉胤貞(たねさだ)の手厚い保護のもと中山門は飛躍的な発展の基礎を獲得した」と記述されている。中山競馬場の名称は知っていたが、法華経寺については疎かった。今度参拝してみようと思う。また浄土宗の寺院も多い。これは塩の関係から家康と密接に繋がっていたことを示していると思えた。

 また、狭い行徳に寺院が多く集まった理由として「行徳物語」(市川新聞社版)の中で、共著の綿貫善郎氏は「北条氏が滅亡してから、その家臣たちが落ちのびて隠棲し、先祖の霊や軍で亡くなった一族の亡霊を慰めるため建てたものと言われている」と記述している。相模から下総国府市川とつながっていた行徳は多くの歴史を秘めていると感じる。

Photo  旧江戸川沿いにある行徳河岸跡の土手に「常夜燈」といわれる高さ約4.5メートルの大きな石灯籠が立っている。行徳河岸のシンボルになっている。

  灯籠の竿には「日本橋」と大きく刻字されている。台座には槌屋平助、蔦谷平七など奉納者の氏名が刻字されている。蔦谷平七はもしかしたら歌麿と関係した人物なのかな?とふと想像してみた。

  「文化9年(1812)、江戸日本橋西河岸および蔵屋敷の成田山参詣講中らが、航行の安全を祈願して常夜燈を奉納し、行徳の船着き場に設置したもの」と「江戸川ライン歴史散歩」に記述されている。

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  江戸と行徳を一人50文(約900円)で結んだ客船。行徳船と呼ばれ、本行徳村-日本橋間を大正時代まで航行した。行徳船は当初、行徳塩を運ぶため寛永9年(1632)頃から始まったとされている。案内した菅野氏も寛永9年にこだわった言い方をしていた。

  24人乗りの行徳船は旅客や小荷物、野菜、魚貝類を江戸川、新川、小名木川を航行して江戸日本橋行徳河岸へと輸送を行なった。日本橋からは行徳を中継地として関宿に向けて江戸川を遡航する輸送ルートが生まれた。行徳船は早くて楽な交通手段として旅人に最も人気が高かった。松尾芭蕉や渡辺崋山など行徳船で下総を訪ねている。

Photo_22  さらに初代市川団十郎が元禄8年(1695)に山村座で『成田山不動明王山』を上演。これが大当たり狂言になったことにより、佐倉街道が成田街道に名称が変わるなど成田山新勝寺は一躍、江戸っ子の人気参拝地となった。

  成田山参拝には日本橋から行徳船を使い、行徳で上陸し、神明神社前の寺町通りから成田街道にでたと云われている。その成田街道の維持負担も日本橋成田山参詣講中の人々が一部、負担していたとも云われている。行徳と江戸日本橋との関係は深いと推察されてくる。 
 
2  江戸名所図会『行徳船場』の中には船が行きかう賑やかな行徳河岸の船着き場が描かれいる。河岸の左にある常夜燈。番所から街道に出た所には「笹屋うどん」がある。船からおりた人や船の出発を待つ旅人が多く利用したという。「笹屋うどん」の建物が行徳街道沿いの町並みに建っている。今は営業はしていなく、無人の古い建物になっているのが寂しく見えた。

  ブログ「いこいの広場 日本紀行-行徳街道」の中でこの「笹屋うどん」を詠んだ古川柳が紹介されている。「行徳を下る小舟に干しうどん」「さあ船が出ますとうどんやへ知らせ」。

   水運の発展は総武線の通過を嫌ったため陸の孤島になってしまった行徳。しかし、東西線の開通で東京のベットタウンとして蘇ってきた。交通網の整備は町の発展と連動する。さらに塩田ができた気候(少雨・乾燥)の関係で湿気を嫌う工場が多数立地するようになった。東西線沿線の町として行徳は変わっていった。しかし、行徳は下総(千葉)から江戸(東京)へと続く道筋は今も昔も変わらない。

Photo_13  旧江戸川から新川東端に入り、新川沿いを西水門に向けて3キロを歩く。

   新川は小名木川に続く直線運河として寛永6年(1629)にできた。最初は行徳塩を江戸に運ぶ目的であったが、寛永9年(1632)から行徳船が航行することになり、成田山参拝や近郊の野菜などの船が行き交うようになる。小名木川や新川は利根川・江戸川の水運輸送ルートが整備されてきたことにより、東北からの年貢米など江戸に向けての水運の大動脈になってきた。

 新川東水門から西端水門「火の見やぐら」までの新川の川沿いはテーマパークとしての河川公園に変貌してきている。

 江戸川区ホームページには東京都が行なった護岸工事の後を引き継いで「新川の両岸の遊歩道に桜を植樹し、江戸情緒あふれる街並みとして整備する『新川千本桜計画』を平成26年度完成に向けて進めていきます」と紹介されている。

Photo_14  歩きながら、護岸工事が進めらていることや、桜の苗木が植えられ、木橋や木橋広場などが造られているのが分かってくる。地下駐車場の標示がある。川の下に駐車場が設置されているのか?

 「船が航行するのかな?」と参加者からの声が聞こえた。木橋の欄干下に船が二艘浮かんでいるのが見えた。「やっぱり船を動かすんだ」という声が返ってきた。工事が完了した新川は魅力的な河川公園になるだろうと思えた。その時、もう一度来て、この川岸を歩こう。

   新川の西水門に着いた時、参加者の多くはバテテいた。しかし、次回は中川口船番所資料館からスタートとするためには中川と荒川に架かる長い船堀橋を渡り、都営地下鉄東大島駅まで行く必要がある。あと一息ということで船堀橋を渡り始める。

Photo_15  船堀橋の下を流れる幅500メートルの荒川。地図上では新川・中川・小名木川が荒川で遮られて結びつかなかった。中川番所資料館の学芸員の方から「荒川は放水路ですよ。江戸時代にはありませんでした」と聞いて、初めて新川と小名木川が私の頭の中で繋がった。今から3年前の話だ。

  昭和5年(1930)に17年かけた難工事の末に出来上がった荒川放水路。昭和40年(1965)には荒川放水路が荒川の本流となり、呼び名が荒川放水路から荒川になった。そのため荒川のない荒川区になったと南千住に住む荒川区民の人が悔やんでいるとも言われている。

 長い船堀橋を渡りきった私たち一行は東大島駅改札口で笑顔で向き合った。次回の12月13日(土)がいよいよ江戸日本橋に向けての最後の現地学習ウォークとなる。

≪関連ブログリンク先≫

◆栗橋から関宿23キロ歩く―栃木市民大学現地学習ウォーク①

◆野田市・江戸川の河岸問屋―栃木市民大学現地学習ウォーク②

◆水運の近道、利根運河・流山―栃木市民大学現地学習ウォーク③

◆江戸の出入り口・小名木川―栃木市民大学現地学習ウォーク⑤

◆発祥地の多い日本橋川河口―栃木市民大学現地学習ウォーク⑥

                                          《夢野銀次》

 

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