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江戸へと続く行徳・新川―栃木市民大学現地ウォーク④

Photo  「ワアーすごい!きれい!」45階エレベータから展望台に上がった参加者一行17名から歓声があがった。360度のパノラマから眺望する。朝日をあびている東京湾。ゆっくりと蛇行して流れる江戸川。旧江戸川との分岐点が見える。左に流れていくのは昭和5年(1930)に完成した江戸川放水路。放水路の流下能力増大のため、昭和32年(1957)に設置してある可動堰のある行徳橋。右上に見えるのは旧江戸川に流れる水門。

  総武線市川駅南口に建つ「I-link(アイリンク)タウンいちかわ」の45階にある展望施設。市川市が開発、建造した地上150メートルの高層建築。展望台から東京の高層ビル群からスカイツリーまで正面に眺望することができる。富士山が雲の間から霞んで見える。北関東の山々から流れてくる江戸川が見える。「夜景もきれいでしょうね」と女性参加者からの声が聞こえてきた。

45  アイリンクという名称は、平成17年12月に一般公募から選定された。アイは私のアイ、市川市のI、出会いのI、愛するIを意味する。リンクは千葉と東京をリンクする。自然・歴史・文化とをリンクする。先進・健康・暮らしをリンクする。市民の安全をリンクするという意味にが込められ、市川市の姿勢が打ち出されているように思えた。

  北側の江戸川沿いに見える森林。その先には国府台城址がある。「あそこの和洋女子大のあたり、高台になっているでしょう。あの辺りに下総国府があったとされていて、まだはっきりしない地帯なんだ」と私たちを先導する栃木市文化課のK氏が教えてくれた。海に近いため高台に国府政庁を設けていったのが土地の高低で分かってきた。

Photo_21_3  11月22日(土)第4回栃木市民大学江戸川現地学習ウォークは、ここ総武線市川駅南口に建つアイリングタウンビル屋上展望台から出発した。

 《行程》栃木駅(東武線・総武線)-市川駅…アイ・リンクタウンビル45階展望台…市川関所跡…江戸川堤防道…行徳橋…行徳町並み見学・旧江戸川常夜燈と行徳河岸跡…今井橋…新川東端…新川・火の見やぐら…船堀橋(中川・荒川)…東大島駅(都営地下鉄・東武線)-栃木駅。歩行距離は約20キロと予定より多かった。

Photo_31   市川駅から北へ江戸川を昇った堤防沿いに「市川関所跡」の石碑が建っている。古来より渡し船があった所だ。江戸時代に佐倉街道(成田街道)の江戸川通河地点に「小岩・市川関所」が設けられた。番所は向う岸の小岩村側にあった。

 市川関所跡から進路を変えて江戸川下流の堤防沿いを行徳橋を目指して歩く。日射しが強くなり暖かくなってきた。参加者も上着を脱ぎ軽装で歩くようになる。江戸川の川面がまぶしく照らす。堤防沿いにはオーナー制の桜の木の苗木が植えられているのが目に入ってきた。
Photo_5  可動堰のある行徳橋を渡り、行徳の町の入口で市川市歴史博物館学芸員の菅野洋介氏が私たち一行を待っていた。

 「私は以前に鹿沼市史に携わっていましたので、栃木市の皆さんとは何か縁を感じています」と自己紹介があり、「今、見ているいる川が江戸川放水路です。左の方に旧江戸が流れています。それをまず念頭に入れて、これから行徳の町を案内していきます」と用意した資料を片手に旧江戸川沿いにある行徳の町並みに入っていった。

  「ずいぶんと神社寺院が多い町だな」というのが行徳の町に入った時に受けた第一印象だ。

Photo_71_2   菅野氏は行徳は塩田を維持するため石材店が多くあったこと。「行徳」の地名由来となった神明神社。勝海舟自筆の石碑がある自性院。すぐ近くの中山にある法華経寺の末寺が行徳にはたくさんあること。神輿職人がいたこと。隠れキリシタンの石灯籠のある妙覚寺。東金の鷹狩に行く際に家康が通ったとされている細い「権現道」。江戸日本橋につながる行徳河岸と常夜燈。後北条の家臣、狩野新右衛門が造った「内匠堀」と立派な墓石のある源心寺。徳川家康や宮本武蔵ゆかりの寺である徳願寺など短い時間内で駆け足で案内説明をしていただいた。

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 菅野氏の説明には実証を踏まえて地域の伝承を尊重していることが伺え、好感を持つことができた。また、
菅野氏自身が探究課題としている行徳の用水堀について語る等、その姿勢は、現地観光ボランティアの人と違う、歴史研究者としての姿が見えた。今井橋の手前で私たちと別れる際には「市川歴史博物館に是非一度ご来館ください。そこにわたし菅野がおります」と明るい笑顔を見せて去っていった。

  「古来、行徳は戸数千軒、寺百軒」と図書館で借りた「江戸川ライン歴史散歩」の中で行徳の町が紹介されていた。同書には行徳にある神社寺院の所在を示した挿絵地図が記載されている。行徳橋から東西線行徳駅までの間に神社寺院を数えたら32軒にのぼった。これで寺院はやっていけるのか?という疑問には菅野氏は「檀家は遠方に住んでいる方で構成している」と答えていた。行徳の町を離れていっても旦那寺はそのままになっているからだ。さらに寺院が多い理由に中山にある法華経寺との関連だと述べていた。

Photo_20  千葉県史(山川出版社版)では「日蓮没後、富木常忍みずから日常と名乗り、宗教活動に専心した。さらに法華経寺地元の八幡荘の領主千葉胤貞(たねさだ)の手厚い保護のもと中山門は飛躍的な発展の基礎を獲得した」と記述されている。中山競馬場の名称は知っていたが、法華経寺については疎かった。今度参拝してみようと思う。また浄土宗の寺院も多い。これは塩の関係から家康と密接に繋がっていたことを示していると思えた。

 また、狭い行徳に寺院が多く集まった理由として「行徳物語」(市川新聞社版)の中で、共著の綿貫善郎氏は「北条氏が滅亡してから、その家臣たちが落ちのびて隠棲し、先祖の霊や軍で亡くなった一族の亡霊を慰めるため建てたものと言われている」と記述している。相模から下総国府市川とつながっていた行徳は多くの歴史を秘めていると感じる。

Photo  旧江戸川沿いにある行徳河岸跡の土手に「常夜燈」といわれる高さ約4.5メートルの大きな石灯籠が立っている。行徳河岸のシンボルになっている。

  灯籠の竿には「日本橋」と大きく刻字されている。台座には槌屋平助、蔦谷平七など奉納者の氏名が刻字されている。蔦谷平七はもしかしたら歌麿と関係した人物なのかな?とふと想像してみた。

  「文化9年(1812)、江戸日本橋西河岸および蔵屋敷の成田山参詣講中らが、航行の安全を祈願して常夜燈を奉納し、行徳の船着き場に設置したもの」と「江戸川ライン歴史散歩」に記述されている。

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  江戸と行徳を一人50文(約900円)で結んだ客船。行徳船と呼ばれ、本行徳村-日本橋間を大正時代まで航行した。行徳船は当初、行徳塩を運ぶため寛永9年(1632)頃から始まったとされている。案内した菅野氏も寛永9年にこだわった言い方をしていた。

  24人乗りの行徳船は旅客や小荷物、野菜、魚貝類を江戸川、新川、小名木川を航行して江戸日本橋行徳河岸へと輸送を行なった。日本橋からは行徳を中継地として関宿に向けて江戸川を遡航する輸送ルートが生まれた。行徳船は早くて楽な交通手段として旅人に最も人気が高かった。松尾芭蕉や渡辺崋山など行徳船で下総を訪ねている。

Photo_22  さらに初代市川団十郎が元禄8年(1695)に山村座で『成田山不動明王山』を上演。これが大当たり狂言になったことにより、佐倉街道が成田街道に名称が変わるなど成田山新勝寺は一躍、江戸っ子の人気参拝地となった。

  成田山参拝には日本橋から行徳船を使い、行徳で上陸し、神明神社前の寺町通りから成田街道にでたと云われている。その成田街道の維持負担も日本橋成田山参詣講中の人々が一部、負担していたとも云われている。行徳と江戸日本橋との関係は深いと推察されてくる。 
 
2  江戸名所図会『行徳船場』の中には船が行きかう賑やかな行徳河岸の船着き場が描かれいる。河岸の左にある常夜燈。番所から街道に出た所には「笹屋うどん」がある。船からおりた人や船の出発を待つ旅人が多く利用したという。「笹屋うどん」の建物が行徳街道沿いの町並みに建っている。今は営業はしていなく、無人の古い建物になっているのが寂しく見えた。

  ブログ「いこいの広場 日本紀行-行徳街道」の中でこの「笹屋うどん」を詠んだ古川柳が紹介されている。「行徳を下る小舟に干しうどん」「さあ船が出ますとうどんやへ知らせ」。

   水運の発展は総武線の通過を嫌ったため陸の孤島になってしまった行徳。しかし、東西線の開通で東京のベットタウンとして蘇ってきた。交通網の整備は町の発展と連動する。さらに塩田ができた気候(少雨・乾燥)の関係で湿気を嫌う工場が多数立地するようになった。東西線沿線の町として行徳は変わっていった。しかし、行徳は下総(千葉)から江戸(東京)へと続く道筋は今も昔も変わらない。

Photo_13  旧江戸川から新川東端に入り、新川沿いを西水門に向けて3キロを歩く。

   新川は小名木川に続く直線運河として寛永6年(1629)にできた。最初は行徳塩を江戸に運ぶ目的であったが、寛永9年(1632)から行徳船が航行することになり、成田山参拝や近郊の野菜などの船が行き交うようになる。小名木川や新川は利根川・江戸川の水運輸送ルートが整備されてきたことにより、東北からの年貢米など江戸に向けての水運の大動脈になってきた。

 新川東水門から西端水門「火の見やぐら」までの新川の川沿いはテーマパークとしての河川公園に変貌してきている。

 江戸川区ホームページには東京都が行なった護岸工事の後を引き継いで「新川の両岸の遊歩道に桜を植樹し、江戸情緒あふれる街並みとして整備する『新川千本桜計画』を平成26年度完成に向けて進めていきます」と紹介されている。

Photo_14  歩きながら、護岸工事が進めらていることや、桜の苗木が植えられ、木橋や木橋広場などが造られているのが分かってくる。地下駐車場の標示がある。川の下に駐車場が設置されているのか?

 「船が航行するのかな?」と参加者からの声が聞こえた。木橋の欄干下に船が二艘浮かんでいるのが見えた。「やっぱり船を動かすんだ」という声が返ってきた。工事が完了した新川は魅力的な河川公園になるだろうと思えた。その時、もう一度来て、この川岸を歩こう。

   新川の西水門に着いた時、参加者の多くはバテテいた。しかし、次回は中川口船番所資料館からスタートとするためには中川と荒川に架かる長い船堀橋を渡り、都営地下鉄東大島駅まで行く必要がある。あと一息ということで船堀橋を渡り始める。

Photo_15  船堀橋の下を流れる幅500メートルの荒川。地図上では新川・中川・小名木川が荒川で遮られて結びつかなかった。中川番所資料館の学芸員の方から「荒川は放水路ですよ。江戸時代にはありませんでした」と聞いて、初めて新川と小名木川が私の頭の中で繋がった。今から3年前の話だ。

  昭和5年(1930)に17年かけた難工事の末に出来上がった荒川放水路。昭和40年(1965)には荒川放水路が荒川の本流となり、呼び名が荒川放水路から荒川になった。そのため荒川のない荒川区になったと南千住に住む荒川区民の人が悔やんでいるとも言われている。

 長い船堀橋を渡りきった私たち一行は東大島駅改札口で笑顔で向き合った。次回の12月13日(土)がいよいよ江戸日本橋に向けての最後の現地学習ウォークとなる。

≪関連ブログリンク先≫

◆栗橋から関宿23キロ歩く―栃木市民大学現地学習ウォーク①

◆野田市・江戸川の河岸問屋―栃木市民大学現地学習ウォーク②

◆水運の近道、利根運河・流山―栃木市民大学現地学習ウォーク③

◆江戸の出入り口・小名木川―栃木市民大学現地学習ウォーク⑤

◆発祥地の多い日本橋川河口―栃木市民大学現地学習ウォーク⑥

                                          《夢野銀次》

 

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