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江戸の出入り口・小名木川―栃木市民大学現地ウォーク⑤

Photo 「ここは日本橋河岸跡と向き合って、じっくり散策する所だな」と急ぎ足で歩きながら思った。

  永代橋を渡った私たち一行17名は日本橋川沿いを歩き、押し迫った時間の関係で急ぎ足で日本橋を目指した。日本橋小網町にある「行徳河岸跡」は首都高6号線、箱崎ジャンクションの出入り口になっており、昔日の面影はない。しかし、跡地の場所を知ることができた。

  歩きながら左側に見える日本橋川。鎧橋、江戸橋を横目に見ながら小走りに小網町を通り抜けた。「今度は江戸東京の古地図を持って来て、日本橋河岸跡の小網町・堀留町・小舟町から道三堀を歩いてみよう」と、日本橋界隈をイメージできないもどかしさを抱いた。

Photo 日本橋の欄干から日本橋川を周航している遊覧船が見えた。約1時間の遊覧と聞くが、日本橋船着き場から乗船して、日本橋川から河岸跡を今度来たときに見ようと思った。

   平成26年度の栃木市民大学利根川・江戸川現地学習ウォークはこの日本橋で解散、終了となった。10月11日の第1回栗橋・関宿から始まり、今回の12月13日(土)の5回目をもって最終の現地学習ウォークとなった。

  都営地下鉄新宿線「東大島駅」下車、改札口で私たち一行を江東区観光ガイドのボランティア2名の方が私たちを迎えてくれた。ボランティアガイドの案内は中川船番所資料館から小名木川沿いを歩き、永代橋までになっている。そして永代橋を渡り日本橋を目指して、次の行程で行なわれた。

   《行程》栃木駅(東武線・日比谷線・都営新宿線)-東大島駅…中川船番所資料館…小名木川(塩舐地蔵・大島稲荷)…横十間堀釜屋跡地…小名木川(クローバー橋・五本松・扇橋閘門)…森下町文化センター(昼食)…芭蕉記念館・芭蕉稲荷…小名木川万年橋…臨川寺…清澄庭園に沿って建つ震災復興の建物…仙台堀川…深川東京モダン館…永代橋…日本橋川沿い…日本橋(解散)、歩行約12キロ。

Photo_3  旧中川から小名木川に注ぐ中川口の所に明治2年(1869)まであった船番所跡地のそばに「江東区中川船番所資料館」が建っている。

   船番所資料館前の旧中川の川沿いは公園になっていて、東には荒川と旧中川の水位差を調整する水門、荒川ロックゲートが見える。旧中川のから小名木川に注ぐ河口付近を水陸両用バスが周航している。

   資料館の3階には江戸時代の船番所を再現した模型が展示されている。幕府は江戸に入る川船の取締として正保年間(1644-1648)に川船改め番所を隅田川と合流する小名木川万年橋に設置をした。そして明暦3年(1657)の明暦の大火後、本所・深川地域の開発のため寛文元年(1661)に、この地、中川口に移した。

Photo_6  利根川・江戸川の水路から小名木川に入る船荷の検査と人改め、夜間の出入り船、女性の通航、武器・武具の取締りを明治2年(1869)の廃止まで約200年間、中川船番所としての役目を担ってきた。

  「小名木川に入る前にすでに積荷の改めを行徳河岸でおこなっていた船もあったのです。行徳河岸では江戸への積荷の配送先ごとに振り分けを行ない、行徳河岸で振り分け荷物をおこなっていた場合は、ここは言わば顔パスで通過をした船があったのです」と船番所資料館の学芸員の方から行徳河岸の強さの説明を聞いた。

  しかし、私の質問は小名木川に入ってからの船荷の積替えのことだったのだが、配送先までの振り分けを10軒あったとされる本行徳河岸問屋で行なっていたことの説明には疑問が残った。むしろ関宿関所が行なっていた「通船改めの一部を船問屋に代行させる宿付制度」があったのではないかと思われるのだ。

Photo_2   資料館発行の冊子「江戸から行徳へ」の中で、番所のある行徳船場の役割について「幕府からさまざまな役割が与えられていた」と記述されている。川船の管理維持から江戸川の治安維持を担っており、幕府にとり江戸川管理で行徳を重視していたことが伺えた。一部積荷の改めも代行していたのではないかと推測される。

   行徳河岸問屋の役割については調べて、再度資料館の学芸員の方とお話しをしていくつもりだ。

  行徳河岸の話から第4回現地学習ウォークで見学した行徳船着き場跡地に立っていた常夜燈の風景を思い出した。藤沢周平は「小川の辺」の中で行徳船場(行徳河岸)のことをこう著している。

  「(戌井朔之助の従僕・新蔵は)、田鶴は多分、ここから一里ほど南にある、新河岸と呼ばれる行徳の船場まで行ったものと思われる。新河岸は寛永九年に行徳船が公許になり、日本橋小網町から小名木川を通って新河岸に達する、水路三里八丁の船便が開かれると、房総、常陸に旅する者の駅路として、急ににぎやかになった。商いの店がふえ、旅籠、茶屋が軒をならべ、とくに正月、五月、九月の三か月は、成田不動尊に参詣する人で混雑する」(海坂藩大全上収録より)。兄朔之助と妹田鶴が斬り合うシーンは映画化もされている。しかし、「小川の辺」の舞台が行徳であったことには気がつかなかった。

Photo_8  私たち一行は小名木川沿いの道を歩き始めた。川幅25メートルから36メートルの小名木川は東西に真っ直ぐ伸びて流れている。小名木川については「角川日本地名辞典東京都」にこう記載されている。

  「江東区北部を流れる川。区東部の東砂2丁目と区西部の清澄1丁目間を東西に横断。名称の由来は、小名木四郎兵衛が開削を担当したとする説、古くは女木山谷(おなぎさわ)と称し、それが小名木沢、さらに小名木川に転じたとする説などがある。延長4.64km。徳川家康が行徳の塩の搬入路として天正末年~慶長年間に開削。この運河と同時期に開削された新川を経て江戸川と通じ、利根川出入路となった」と記載され、利根川水路からの江戸への出入り口の川になっている。

Photo_9  天正18年(1580)8月1日に8000人の軍勢を率いて江戸入りした家康はまず第1番目に手配指図したのは食糧確保ではなく、飲料水と塩の確保だった。千鳥ヶ淵など淵というダムを造り飲み水を確保する。塩については道三堀を開削し、下総行徳村から新川、小名木川、道三掘を経て江戸城和田倉門までの直結輸送の運河を早急に造った。

  行徳村はすでに小田原北条氏に塩を納めていたほど塩の産地として名を成していた。釜で煮詰めて生産する塩には大量の燃料を必要とした。行徳村にはその燃料を大量に確保できる輸送システムとしての水路が備わっていたと云われている。

Photo_10  小名木川・新川の沿海運河造成について鈴木理生著の「幻の江戸百年」の中で、「海岸線の汀線(ていせん・波打ちがわ)に内側に船が通れる水路をつくり、汀線から外側、つまり海の方に杭を打ったり小規模な埋め立てをしたりして、海岸線を固定化、確定する作業が沿海運河建設の第一段階。したがって工事量もあまり多くはなく、短期間に出来上がった。そしてそれ以後、絶え間なく確定線の強化、すなわち汀線から南の方に埋め立てが続けられた。やがて埋立地の増加とともに沿海運河は内陸運河となり、広大な利根川流域と江戸を結ぶ幹線水路となった」と沿海運河から内陸運河への変換を記述している。

 地べたを開削するのではなく、運河を除いた所を埋め立てしていったことが分かってきた。現在の江東区を整然と東西に流れる小名木川、竪川。南北に流れる大横川、横十間川など埋め立てをしながら運河を作り上げたことをこの本から学ぶことができた。

Photo_11  観光ガイドさんの案内は「扇橋閘門」から小名木川から離れ、芭蕉中心の歩行になっていった。どうしても深川散策は芭蕉の足跡地が中心になっていくのかもしれない。ただ私たちは舟運水路をモチーフにしたウォーキングであったことを理解して欲しかったと思えた。

 今年の秋に栃木県立博物館において「江戸とつながる川の道―近世下野の水路」として特別企画展が開催された。下野の川筋の問屋の古文書や河川の絵図などを観てきた。図録集には下野から江戸へつながる川の道筋の記載があった。

 その概要は「下野を出発した船は、まず利根川と江戸川の分岐点にあたる関宿を目指した。そして関宿の関所で船荷を改められた。関所を通過後,、江戸川に入り南下する。江戸に向かう船は流山や松戸・市川を通過し、一路行徳を目指した。行徳を通過後、江戸川から新川に入った。新川から小名木川に入る前に中川船番所での最後の改めを受ける。 船番所を通過後、小名木川を進み、年貢米を積んだ船は浅草御蔵・藩の蔵屋敷に、木材を積んだ船・筏は深川木場に、商人荷物を積んだ船は小名木川沿いの深川の艀(はしけ)下宿に至り、船荷を下した。商人荷物を扱う艀下宿は運送業務を行う船宿で、小型船(茶船)を使って江戸市中に船荷を運んだ。一方、空荷となった船は、北関東向け船専門の問屋で仕入れを行ない、下野に戻って行った」と記している。

Photo_12  今回の江戸川現地学習の見学を終え、改めて栃木県立博物館発行の図録を読み直し、そこに記載されている「艀(はしけ)下船宿」ついてよく分からなかった。

   川名登著「河岸」の中で、船が江戸に入るという項目の中で「年貢米以外の一般諸荷物は、江戸の入口中川番所辺より小網町までの間で艀下船に積み替えられ、市中の水路を通って届け先まで送られた。

 高瀬船等から積荷を艀下船に積替える業務を行なっていたのが、奥川筋艀下船宿であった。奥川筋とは、江戸から見て利根川水系を通して結ばれる関東各地から奥羽・信越方面の荷出地を言う。この奥川筋艀下船宿は茶船・艀下船等を所有し、明和7年(1770)頃には江戸小網町を中心に百数十軒あったという」と記載されている。

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 江東区地域振興課発行の「下町文化」では「艀家業の者は船持で地元の農民で渡し船や諸荷物の積み送りを家業としていた。寛永の初め頃(1620)に奥川筋の着船の湊として、海辺大工町は幕府から認められた」と隅田川沿いの地元の農民の渡し船家業から生まれ、河岸問屋に発展したことが記されていた。

  さらに鈴木理生著の「幻の江戸百年」の中には江東区内の運河沿いの水辺に隙間なく河岸を形成している地図の記載がある。小名木川と隅田川が合流する万年橋の左岸地帯(現在の江東区白河一丁目と清澄一丁目)は海辺大工町と称して、町奉行支配地として河岸にあたるとしている。それ以外の江東区運河沿いの艀下船宿は代官支配のため河岸として呼称されなかったとしている。早い話が艀下船宿を河岸問屋と捉えれば、理解ができてくるのだ。

Photo  河岸の定義として川名登氏は「河岸は単なる船着場の場所を指すだけの名称ではなかった。一般的には河岸問屋などの運輸機構を含めての呼び名であった」と規定し、「河岸地や河岸場は船着場・荷揚場それ自体を指すものであるが、当時の人々はこれも河岸と呼ぶことがあり」として「当時の河岸という言葉はそれほど厳密に使われていなかった」と記述している。

   どうしても現在の「河岸跡」で小名木川沿いを見ていくと、「艀下船宿」などの記載で頭が混乱してくる。実体として小名木川は江戸の出入り口として艀下船宿(河岸問屋)が多くあり、深川・本所の運河伝いから隅田川を渡り、神田川・日本橋川の専門問屋への輸送作業をしていたことが分かった。

 東西に一直線に流れる小名木は江戸の出入り口になっていたのだ。

 Photo_3
  芭蕉記念館・芭蕉稲荷を見た後、私たち一行は小名木川と隅田川が合流する万年橋を渡り、深川永代橋を目指した。隅田川はいつ眺めてみても雄大な川だと感じる。

  万年橋を渡り、左折する。「北の湖部屋」「大嶽部屋・大鵬道場」と相撲部屋を観光ガイドさんからの紹介があった。しかし、後で分かったことだが、この地帯は海辺大工町の河岸跡の地だったのだ。もし、知っていたならば、建物の脇から小名木川の川沿いに出て行き「海辺大工町河岸」の跡地に立って、小名木川を見ることができたのに…。悔しい気持ちが後から湧いてきた。

Photo_6  「本所深川辺の掘割を散策する折り、夕汐(ゆうしほ)の水が低い岸から往来まで溢れかかって、荷船や肥料船(こえぶね)の苫(とま)が貧家の屋根よりも却(かえ)って高く見える」「深川小名木川から猿江あたりの工場町は、工場の建築と無数の煙筒(えんとう)から吐く媒煙と絶間なき機械の振動により、悲惨な光景を呈し来たった」と大正4年に永井荷風は東京を散策しながら『日和下駄』を著し、小名木川周辺の運河沿いのことを記述している。

  現在の小名木川周辺は、江東区全体含め整然とした街並びに整理されている。しかし、永井荷風が著した、地上から見上げて見える通航する船の藁ぶき屋根。小名木川から一段低く建っている民家。そして絶間なく続く機械の音と振動という描写に当時の光景が浮かんできて背筋がゾッとしてくる。

 小名木川沿いのある江東区は明治期から昭和にかけての多数の工場が建設、操業されていた。近代産業発展のためだった。そして工場から大量の地下水がくみ上げられて地盤沈下を起こし、「ゼロメートル地帯」になってしまった。現在は地下水くみ上げが抑制され、沈下は緩和されていると云われている。江戸時代からの水運交通網の発展が工場建設を加速させ、地盤沈下の要因になったともされている。

 小名木川を観ていく場合、明治から昭和にかけての光景もまた踏まえていく必要があると思えてくる。

 Photo_7 永代橋の畔で江東区観光ガイドさん達と別れた。元禄11年(1698)に両国、新大橋に続き架橋された永代橋。元禄15年の12月15日の早朝を赤穂浪士一行がこの橋を渡って泉岳寺に向かっている。最も現在の橋から150メートル上流にあった橋なのだが、なんとなく気持ちがわくわくしてくるのだ。現在の橋は昭和2年(1927)に震災復興として整備された国の重要文化財指定になっている。

 橋を渡りながら隅田川河口に建つ高層マンションが見える。「大地震や大津波の時、どうなるのかな」と余計な心配をする。

  日本橋に到着した私たちは解散・終了となった。しかし、最終回の今回、日本橋界隈の現地学習ウォークが不十分だったと思い、市の担当者に追加の現地学習ウォークができないものか要望をしておいた。そんな時、栃木市役所担当者より来年の2月下旬に今回の現地学習ウォーキングの番外編を行なっていくことの連絡があった。栃木巴波川と結ぶ日本橋界隈の河岸散策を中心として、有志の参加で開くということだ。胸のつかえがおりた。今回、見逃した箇所がたくさんあった。怠け者の私は現地を観てから、実感して学び始めるというタイプなのだが、事前の下調べをできるだけやっていこうと思っている。

 利根川・江戸川ウォーキングの全体を通しての課題点などは、次回の「番外編・日本橋の川・橋・河岸跡ウォーク」が終わってから記述していくことにする。

≪関連ブログリンク先≫

◆栗橋から関宿23キロ歩く―栃木市民大学現地学習ウォーク①

◆野田市・江戸川の河岸問屋―栃木市民大学現地学習ウォーク②

◆水運の近道、利根運河・流山―栃木市民大学現地学習ウォーク③

◆江戸へと続く行徳・新川―栃木市民大学現地学習ウォーク④

◆発祥地の多い日本橋川河口―栃木市民大学現地学習ウォーク⑥

                                     《夢野銀次》 

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