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2015年1月

山門土台の石垣と奇岩が残る―栃木市柏倉「琴平神社」

Photo  琴平山は栃木市街10キロ西北に位置する340メートルの山だ。正式な名称は鞍掛山というが、地元では琴平山と呼んでいる。山の頂上には琴平神社が鎮座している。

  栃木市内から県道75号線皆川街道を走り、永野川を渡り皆川城を右に見ながら、皆川中学校の先を右折する。県道210号線柏倉葛生線を走る。やがて柏倉の集落の一番奥に琴平山が正面に見えてくる。

 
 「あの山の向こう側が葛生町(佐野市)だ」。
曲がりくねった急こう配の峠道。雨量200ミリで通行止めになる山道になっている。

Photo  前方の琴平山の頂上を見上げる。頂上境内に鎮座する琴平神社まで登る参道が樹木の列で判別できる。

 峠道に上る手前に参道入り口の標識がある。しかし、車を停める駐車場がない。少し戻って道路脇に停める。頂上境内まで30分。険しい参道と5か所の石段を登り始める。

 「雨が降ったらこの参道は登れないな」と思いながら急勾配の参道と石段を登る。

Photo_4 最後は130段ある急な石段が待っていた。石段の両側には石垣がある。10段ある石垣は30~70㎝、50㎝四方の安西石で野面積になっている。頂上から麓の集落を見下ろす石垣。無人の山頂に雄大に横たわる石垣。その迫力に怖さを感じた。

 急勾配の石段を登りきって頂上境内に立つ。ひっそりと鎮座する琴平神社の拝殿・本殿、無人の社務所が私を迎えてくれた。

Photo_5  「正月三が日は社務所が開けられ、中にある資料、見られるよ」と柏倉に住む知人が後で教えてくれた。

  昭和20年12月の火災で焼失した本殿・拝殿・社務所は昭和35年に再建されている。人ひとりもいない境内。山の頂上・境内から四方の山並みや関東平野を見渡すことができる。正面の東の方の下には栃木のまちが見える。その右に筑波山。拝殿横の南西の方角には白い富士山を眺めることができた。

Photo_6  遠い昔、小学生の私は母に連れられてこの神社に来ているのかもしれないと思っていた。狭い、曲がりくねった峠道をバスでのぼり、山の上の神社の社務所で団体客と一緒にお茶を飲んでいる。「栃木のまちの近くの、こんな山奥の頂上に神社があるなんて」と驚きながら、拝殿を下の脇道から眺めている自分の残像が記憶に残っていた。

 「あの残像が記憶として残っている神社は琴平神社だったのではないか…」と確かめたく、琴平神社にやってきた。

  栃木市柏倉にある琴平神社は「安永元年(1772)関口一郎左衛門によって、全国金比羅神社・琴平神社の総本宮である讃岐の金刀比羅宮(祭神は崇徳天皇・大物主)より神璽(しんじ)を迎え祀った。栃木では巴波川の航路での海難(水難)守護の神。地域では雨乞いの神、五穀豊穣の神として信仰が厚いもの」と琴平神社ホームページに記載紹介されている。

Photo_7   昨年の秋に開催された栃木県立博物館特別展「江戸とつながる川の道―近世下野の水運」の中で明治10年代の琴平神社の繁栄を描いた錦絵が展示されていた。

 「巴波川の舟運と共に発展した神社で、特に江戸末期から明治時代前期に繁栄した。足利、佐野、栃木の地、県外からも講組織など多くの参詣があった」と紹介され、拝殿前の両脇にはみやげ店が並び、参拝者を呼び込んでいる。二階には芸妓が立っていて遊興な茶屋の様子が描かれていた。

   「最盛期には神官11名、巫女16名が常在、茶屋も62軒、芸子多数住み込み、参拝客も続々と来参した」と琴平神社ホームページに記述されている。琴平神社宮司の関口光一郎氏は私に「住み込みで働いている人の子供たちのための寺子屋などもあった」と語ってくれた。

App26511_2  琴平神社は一枚の神璽を祀ったことから始まった。その逸話が沿革由緒に記載されている。

  「明和8年(1771)12月から翌安永元年(1772)2月にかけて柏倉村の関口一郎左衛門一行が伊勢神宮と四国金刀比羅宮を参詣して帰村した。同夜、帰村を祝し宴会を開いた。祝宴の中で拝受してきた神璽を開いたところ、金刀比羅宮の神璽が二枚出てきた。これは平常からの信仰が厚い印と喜び、一枚は邸内の祠に、もう一枚は村人に諮って鞍掛山(琴平山)に祀ることとし、現在の地(頂上)に御神霊を勧請を行なった。天保9年(1938)に神祗官統領伯王殿より宣旨を賜り、鞍掛山金刀比羅宮と称した」

 Gakuden0131_2  続いて由緒沿革には「慶応元年(1865)まで祭日のほか参拝者はなかったが、明治に至って参拝者が増えたので、巌石を穿(うが)って、道路を開いて参拝者の便を図った」と記述されている。

 そして明治5年に本殿・拝殿・神楽殿及び社務所の大改修が祈願者の奉納で執り行われたことが記されている。 

 さらに、山上へ至る石段と山門をかねた旭額殿と呼ばれる高樓(こうろう)については、「明治11年に完成した山門にも似た三階建額殿Photo_10は間口8間、奥行4間の大きさであった」ことの記述がしてある。

 右の写真は境内山門の屋根が写っている写真。下が現在の境内から撮った写真となっている。

  「山頂は次第に広げられ、僅か240坪の境内には茶屋が並び、その周辺にも10数件の茶屋があった」と記している。麓の参道から登ってくる参拝者には三階建ての山門が迎える。まさに北関東一の社になった。

  明治5年頃から参道・石段の工事が始まり、明治11年には山門が完成している記述がある。調度、麓の栃木町では明治5年から鍋島幹による栃木県庁舎と県庁掘の建設工事が始まった時期とかさなる。岩舟石を使用して造られた栃木県庁堀の石垣。県庁掘工事と連動して琴平神社の石段と石垣工事が行われているのではないかと推測する。

Photo_12  山頂境内に上がる石段の両脇にある石垣は三階建額殿山門の土台石垣であったのだ。『下野国下都賀琴平神社絵図』の中央に描かれてある山門旭額殿。勇壮な建造物として描かれてある。しかし、昭和20年の火災で本殿と共に焼失してしまう。献納されていた多くの奉納物が失ってしまったのが惜しまれる。

  現在は山門土台となっていた石垣が残っているだけになっている。10段ある一番下の石垣は高さ2間(3.6m)、横の長さ5間(9m)、奥行2間(3.6m)と大きな石垣になっている。「それほど固い岩ではない。どこの石なのか、岩舟石なのかどうか?」私には分からないが、野面積の石垣。明治から140年経過している石垣が麓の集落を見下ろしている様は迫力がある。地域遺跡として調査、保存体制の整備が必要だと思える。

Photo_13  何故この山に金刀比羅宮の神璽を祀ったのかは拝殿・本殿西側にある奇岩石を見てわかった。由緒沿革に「神社付属地には百日行場として直径千五百尺(約452m)の奇岩がある」と記載されている。

  鞍掛山(琴平山)は修験者の行場である奇岩石がある信仰の山であったのだ。奇岩石は本殿裏の西側の尾根沿いにある。岩石が突き出た一塊の岩山を形作っている。修験者による百日行場の岩場だったのだ。古代から信仰の山であったことから神璽を祀ることができたのだ。村人一同も金刀比羅宮神璽をこの山に祀ることに同意したのも頷ける。

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 神霊の宿る岩石を行場とする磐座(いわくら)信仰の山として古代よりこの鞍掛山(琴平山)は崇められ、山伏が行き交う山であったのだ。しかし、明治5年の明治政府により修験道は禁止され、山伏たちは山から消えていった。

   山伏達による修行の場の山から金刀比羅宮神璽を祀る山に大きく変わる。山の名前も鞍掛山からより身近な琴平山と呼ばれるようになり、麓の巴波川・渡良瀬川・秋山川の舟運は明治に入り最盛期を迎えた。水運の守護神としての琴平神社は舟運関係者の口コミにて足利・佐野・栃木・寒川・古河にて講ができあがり、鹿島や佐原からも参拝者が訪れるなど大いに賑わうことになった。境内の宿泊宿屋だけでは足りなくなり、近くの皆川宿にも宿屋ができたとも云われている。

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  『讃岐の金毘羅さんには遠くて行けねえけど、こんな近くに分社ができてよかった』『ここにお参りするようになってから、一度も積荷を駄目にしたことがねえ』と評判をよび、船頭や船主がこぞってお参りに来るようになったと「栃木の語り部・琴平神社の今昔」のブログに記載されている。
  この語り部の話の中で「山の中腹に湧き出る水場に豆腐屋もできたと」という箇所が出てくる。琴平神社の関口宮司の話では「頂上の手前下には沢から流れ出る水場があった。子供の頃には沢から流れ出ている水を桶に汲み、上の境内まで運んで戻るともう一つの桶が一杯になっていた」と語ってくれた。溢れるほど湧き出ている水ではなかったようだ。

 日向野徳久執筆の「目で見る栃木市史」には、上州からバクチで財産を失い、栃木町箱森に移り住んだ長吉が、琴平神社のある峠道で通行人を誘い、やけのやんぱちでバクチを行い、大儲けする。これも琴平神社のおかげだとして社殿を寄附する話を紹介している。この長吉を舟運で大儲けた人に置き換えると、琴平神社の繁盛が目に浮かんでくる。

Photo_2  しかし、明治の半ばから後半にかけて鉄道網の発展から舟運は衰退していく。そして琴平神社への参詣者も減少し、繁盛していた茶店や茶屋も大正から昭和にかけて一軒一軒と無くなっていった。

 「昭和にかけ最期まで残っていた一軒の茶店も昭和20年の火事で無くなりました」と琴平神社の宮司、関口光一郎氏が語ってくれた。
  神社仏閣に参拝する際には身を清める。そして参拝した後は俗物人間に戻る。そのための娯楽施設は神社仏閣周辺には今も残っている。しかし、ここ琴平神社には数多くあった茶屋、茶店は一軒も残っていない。「陽炎だったのかな…」と境内から栃木のまちを眺めながら思った。
Photo_3  栃木市柏倉
にある琴平神社は私にとり遠い神社のイメージを持っていた。しかし、小学生の頃に母に連れられこの神社に来たことが思い出として残っていたのだ。50余年ぶりに訪れたこの琴平神社は身近な神社に思えてきた。
  かつては舟運の人で支えられて栄え繁盛した琴平神社と境内。今は地域の人の厚い信仰によって支えられている。しかし、このまま過去の「繁盛した幻の神社境内」のイメージとして続いていって良いのだろうかと疑問に思えてくる。
 
近くて遠い神社から栃木のまちに近い神社と境内に変えていく。それは山門跡土台の雄大な石垣群や山岳信仰としての行場跡奇岩石をこのまま消え去っていくのが惜しいと思えるからだ。これらは後世に伝えていく貴重な遺跡でもある。琴平神社には貴重な遺跡が残り、雄大な景観を拝することのできる神社として改めて見直しをする時期にきているのではないかと思えてくる。


≪関連資料ブログリンク先≫

 ●琴平神社
 ●栃木の語り部・琴平神社の今昔

 ●参考資料―「栃木県神社誌・琴平神社」
「目で見る栃木市史」  

                                   《夢野銀次》

             

 

 

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栃木市万町東裏通り―地域の人々で建立した「稲荷神社」

Photo_8  「万町交番の裏側の道沿いにある稲荷神社、あれ何と読むの?」 と知人から質問された。

  かつて祖父の代から住んでいた実家の近くにあった稲荷神社。地図には「保喰稲荷神社(うけもちいなりじんじゃ)」と記載されているのを見つける。子供の頃から、ただ「お稲荷さん」と呼んでいて私たち子供らの遊び場でもあった。正式名称などどうでもよかったのだった。

 何て読むんだろう?私も読めなかった。ネットで検索した。保喰大神=「うけもちおおかみ」と出てきた。難しい読み方だと思った。

 「私らは、ほしょく稲荷と読んでいるな」と稲荷神社祠の近くに住む古老の方が語ってくれた。普段からお稲荷さんと呼んでいるのではないかと思える。 

  保喰大神(うけもちおおかみ)は日本神話にでてくる「食物神」で稲荷さまとして祀られている。あわせて牛や馬などの神としも祀られいると記述されている。稲荷様はもとは五穀と養蚕を司る農耕の神から、江戸期には商売の神様として崇められ、広く信仰されてきている神様だ。 

Photo_2  栃木市の蔵の街大通り北の先端に万町交番交差点がある。その交差点を右折し、壬生街道100メートル先のひとつ目の角を右に曲がると「万町東裏通り」がある

  その通りの50メートル先の左側に「保喰(ほしょく)稲荷神社」が鎮座している。鳥居には「保喰稲荷神社」と掲げられてある。

  明治40年1月発行の「栃木県営業便覧」の中の地図には「万町東裏通り」と記述され、稲荷神社や通りに面した当時の商店名が載っている。魚屋、肉屋、八百屋、料理屋などの小さな店の屋号と主人名が列記されいる。この稲荷神社には商売繁盛の祈願が含まれていると思えてきた。

 どういう稲荷で、何時ごろできたのだろうか?伊勢神宮の外宮は食物の神「豊受大神」を祀っていることから栃木市旭町の神明宮と関連して建立されているのではないかと思い、神明宮の神山宮司に訊ねた。「あの稲荷神社は神社登録をされていませんので、私的な稲荷神社として建立されたのではないでしょうか」と指摘された。確かに栃木県神社庁発行の「栃木県神社誌」には記載がない。

Photo_10  稲荷神社境内の奥に祠が鎮座している。その右横に石碑が建っている。「社有地記金碑」として建立と社有地購得、寄付者の芳名が刻字され、昭和12年1月に石碑が建立されていることが分かる。石碑の刻字内容は次のようになっている。

 「仰モ當社ハ明治十有七歳時之 地主及借地人一同 平穏無事ヲ祈願スル為ノ鎮座シ 今ニ至レリ 而ルニ社地ノ轉有ニ歸シクルニ依リ 交渉之結果 社奥四十四坪二合六勺ヲ社有金及ヒ寄附金ニ依り 代金二百六十圓ヲ以テ基本財産トシテ購得シ 社地ハ有形ノ儘寄贈セラル 依テ其事由ヲ畧記シ 併テ寄附者並ニ當事者各位之厚志ヲ多トシ 建碑之刻シ後世ニ遺ス 

干時昭和十一年九月十八日仝十二年一月建之」

  そして寄附金と寄附者53名、発起人11名の名前が刻字されてある。寄附者の中に私の祖父の名前が無いのが残念だ。 

Photo_11  石碑から明治17年(1884)に地域の人々によって建立された稲荷神社であることが読み取れる。そして昭和11年(1936)に土地の転用問題が起こり、地域の人々の寄付金でこの稲荷神社を地域で取得したことになる。当時の金額で260円。現代の金銭に換算すると3,065,000円。(※換算式は260円×1474(日銀消費者物価)×8(賃金上昇)による)

  寄附者の最初に記載されている名前が「八十円 長谷川カヨ」となっている。次が「十円 山本房次郎,七円 狐塚常次郎、六円 中村定四郎、五円 倉持利助」と寄附者全員の名前が列記されている。寄附金の大半は三円、二円、一円の37名になっている。その中で3分の1の金額八十円を寄附した「長谷川カヨ」さんが目立つ。地主だったのだろうか?気になる。

 前述の地元の古老の方に「長谷川カヨ」さんの事を訊ねる。「そうさな…。この一帯は昔、長谷川耕地と云われていて、長谷川家の土地だった。隣の田村小路と同じようなものだったんだな。恐らく、栃木町名主の長谷川家とつながりのある人だったのかもしれないなが、分からない…」と長谷川カヨさんについては不明だった。このあたり一帯の地主として稲荷神社を遺すことに務めたのではないか思えてくる。

Photo_5  稲荷神社の建立が地域の人によって明治17年になっている。栃木県庁が栃木町から宇都宮に移転した年であった。この時期の栃木町は巴波川舟運の興隆と麻を中心に問屋資本が拡大し繁栄していた時だった。万町表通りには麻問屋が軒を並べていた。

 「大正から昭和にかけて、栃木には十軒の麻問屋があり、そのうち七軒までが万町に店を構えていた」(谷沢明著「栃木河岸と宿場と問屋商人のまち」より)。

 麻問屋が最も多く軒を並べていた万町表通り。その裏側にあるのが万町東裏通り。 
  栃木の町の人口が急激に増加してきた時期でもあった。平凡社発行「日本歴史地名大系栃木県栃木町」の中で、近代問屋資本が始まったとされる天保14年(1843)に人口3999人と記述されている。「明治大正期の都市人口、明治の人口ベスト100」がネットで紹介されている。栃木町は明治22年(1889)に19,055人で日本全国ベスト63位となっている(宇都宮町は28位で30,698人)。しかしそれ以前の明治20年(1887)の日本全国人口ベスト100位に栃木町は入っていない。

 同じ明治20年のベスト100位が鳥取県米子町で人口が11,890人となっている。江戸期と明治期の人口比較は難しい。しかし、これらの資料から、天保年間から明治にかけて栃木の町は明らかに人口が急増しているのが見えてくる。人口の増加こそ栃木町の問屋資本による舟運と麻による産業経済の発展を裏付けしていると言えるからだ。Photo_3 
  谷沢明著「栃木、河岸と宿場と問屋商人まち」の中で、「明治初期には近郊の村から次男・三男が栃木のまちにやってきて、問屋に混じって町はずれなどで小売などの商いを営むことが盛んにおこなわれていた。そして、そのような形で栃木に住みついた人も少なくない」と記述がある。

  このことから近郊の農村等からの移住者でこの地域は生まれ、その地域の中心に農業と商業の神様である「お稲荷さま」を住民たちによって建立したのではないかと推測ができてくる。

  明治の中頃、通りの西側借家の一角に私の祖父と祖母が都賀町深沢の農家から移り住み、下駄職人としての生業を始めた。そして平成18年(2006)に兄夫婦はこの地から転居した。100年以上、三代に渡って生活してきた所だ。私の家は兄が転居するまで地域の人から「下駄屋」と呼ばれていた。

37  昭和36年(1961)から37年(1962)にかけて通りの拡張工事が行われた。

  その当時の写真が「小山・栃木・下野・下都賀郡今昔写真帖」に我が家の前の拡張工事の写真が載っている。東側に新設される側溝が写っている。右側先に「稲荷神社」の入り口がある。

  田村小路自治会が昭和52年11月に「田村小路のあゆみ」を発行している。その中に道路拡張工事についてこう記述されている。

  「市道105号線(㊟現在は市道A35号線)は、往時から明治座通りとして親しまれ、古くは万福寺用水の清流沿い近龍寺、神明宮に通じる道路として、開けたものと考えられる。昭和27年、当時幅員九尺(2.72メートル)であったこの道路の拡張が叫ばれ、議会採択後に関係各町内の自治会長(万一、万一東、万二、万三、田村小路、万四)が拡張委員となり運動を展開。(略)昭和36年第1期工事として、壬生街道から4区田辺商店まで拡張され、昭和43年第2期工事として鯉保まで、拡張、完全舗装の完成をみた」と記載され、「幅5.5メートル、東側に側溝を新設、西側の側溝は道路化された」 

 この記述から「万町東裏通り」が別名「明治座通り」とも言われていたことを知った。

 Photo_14 そして、この道路拡張工事で我が家の玄関先が2.5メートル削られ、狭くなってしまった。しかし、家の前を流れていた用水は大きな流路として暗渠となり、道路下を流れるようになった。夏の夕立で通りからの浸水がなくなった。

   思川の伏流水の関連で栃木の町には豊かな地下水が流れている。我が家の裏には共同の汲み上げ井戸があった。家の中で地下水をモーターで汲み上げをするまで、近所の人と共同で使っていた。その共同井戸の跡が西側奥にあり、稲荷神社前から通りを隔てて見える。

  タライで洗濯板を使って「ゴシゴシ」と洗濯していたお袋や近所の奥さん達と話をしながら洗濯する兄嫁の姿が想い出される。物干し竿が井戸端のそばにあり、洗濯した下着等がヒラヒラと揺れていた。 Photo_7
  夕暮れ時、近所の奥さん方の買い物で賑わった「万町東裏通り」。

   魚屋の親父の掛け声や「どれにする?」と聞いている八百屋のおかみさんやサトイモをタライで洗う主人。稲荷神社から通りを走り回る近所のガキたち。たくさんいた子供たち。御菓子屋、八百屋、魚屋、小間物屋、旅館、牛乳店、畳屋、化粧品店、鳥屋、駄菓子屋、中華料理屋、呉服屋、お風呂屋、染物屋などが軒を並び、近辺の生活者が行きかう通りになった。

 やがて「八百半スーパー」が前栃木市長の鈴木乙一郎宅の角の前に開店し、昭和40年代頃から八百屋や魚屋の店舗が消えていった。

  今、この通りを歩くと駐車場が目立つ町並みになっている。昭和12年に建立された石碑の名前の中で、子孫となる家は何軒あるのだろうか?数えてみたい気持ちがあるが、思ったほど少なくなっていないと思える。

 お稲荷さんの初午祭りは毎年、旧暦の3月に開いている。「今年は三班が当番なのだ。いつでも遊びにおいで」と帰る私に古老の方が優しく語ってくれた。

 地域の人々によって建てられた稲荷神社。その祠の前に立つ。初午祭…。「デンデン、ダガダン、ダガダン」と祠の横で太鼓を敲いている小学生の自分が見えてきた。

                                      《夢野銀次》

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