« 栃木市万町東裏通り―地域の人々で建立した「稲荷神社」 | トップページ | 所詮、剣は武器なのか…。中村錦之助「宮本武蔵」 »

山門土台の石垣と奇岩が残る―栃木市柏倉「琴平神社」

Photo  琴平山は栃木市街10キロ西北に位置する340メートルの山だ。正式な名称は鞍掛山というが、地元では琴平山と呼んでいる。山の頂上には琴平神社が鎮座している。

  栃木市内から県道75号線皆川街道を走り、永野川を渡り皆川城を右に見ながら、皆川中学校の先を右折する。県道210号線柏倉葛生線を走る。やがて柏倉の集落の一番奥に琴平山が正面に見えてくる。

 
 「あの山の向こう側が葛生町(佐野市)だ」。
曲がりくねった急こう配の峠道。雨量200ミリで通行止めになる山道になっている。

Photo  前方の琴平山の頂上を見上げる。頂上境内に鎮座する琴平神社まで登る参道が樹木の列で判別できる。

 峠道に上る手前に参道入り口の標識がある。しかし、車を停める駐車場がない。少し戻って道路脇に停める。頂上境内まで30分。険しい参道と5か所の石段を登り始める。

 「雨が降ったらこの参道は登れないな」と思いながら急勾配の参道と石段を登る。

Photo_4 最後は130段ある急な石段が待っていた。石段の両側には石垣がある。10段ある石垣は30~70㎝、50㎝四方の安西石で野面積になっている。頂上から麓の集落を見下ろす石垣。無人の山頂に雄大に横たわる石垣。その迫力に怖さを感じた。

 急勾配の石段を登りきって頂上境内に立つ。ひっそりと鎮座する琴平神社の拝殿・本殿、無人の社務所が私を迎えてくれた。

Photo_5  「正月三が日は社務所が開けられ、中にある資料、見られるよ」と柏倉に住む知人が後で教えてくれた。

  昭和20年12月の火災で焼失した本殿・拝殿・社務所は昭和35年に再建されている。人ひとりもいない境内。山の頂上・境内から四方の山並みや関東平野を見渡すことができる。正面の東の方の下には栃木のまちが見える。その右に筑波山。拝殿横の南西の方角には白い富士山を眺めることができた。

Photo_6  遠い昔、小学生の私は母に連れられてこの神社に来ているのかもしれないと思っていた。狭い、曲がりくねった峠道をバスでのぼり、山の上の神社の社務所で団体客と一緒にお茶を飲んでいる。「栃木のまちの近くの、こんな山奥の頂上に神社があるなんて」と驚きながら、拝殿を下の脇道から眺めている自分の残像が記憶に残っていた。

 「あの残像が記憶として残っている神社は琴平神社だったのではないか…」と確かめたく、琴平神社にやってきた。

  栃木市柏倉にある琴平神社は「安永元年(1772)関口一郎左衛門によって、全国金比羅神社・琴平神社の総本宮である讃岐の金刀比羅宮(祭神は崇徳天皇・大物主)より神璽(しんじ)を迎え祀った。栃木では巴波川の航路での海難(水難)守護の神。地域では雨乞いの神、五穀豊穣の神として信仰が厚いもの」と琴平神社ホームページに記載紹介されている。

Photo_7   昨年の秋に開催された栃木県立博物館特別展「江戸とつながる川の道―近世下野の水運」の中で明治10年代の琴平神社の繁栄を描いた錦絵が展示されていた。

 「巴波川の舟運と共に発展した神社で、特に江戸末期から明治時代前期に繁栄した。足利、佐野、栃木の地、県外からも講組織など多くの参詣があった」と紹介され、拝殿前の両脇にはみやげ店が並び、参拝者を呼び込んでいる。二階には芸妓が立っていて遊興な茶屋の様子が描かれていた。

   「最盛期には神官11名、巫女16名が常在、茶屋も62軒、芸子多数住み込み、参拝客も続々と来参した」と琴平神社ホームページに記述されている。琴平神社宮司の関口光一郎氏は私に「住み込みで働いている人の子供たちのための寺子屋などもあった」と語ってくれた。

App26511_2  琴平神社は一枚の神璽を祀ったことから始まった。その逸話が沿革由緒に記載されている。

  「明和8年(1771)12月から翌安永元年(1772)2月にかけて柏倉村の関口一郎左衛門一行が伊勢神宮と四国金刀比羅宮を参詣して帰村した。同夜、帰村を祝し宴会を開いた。祝宴の中で拝受してきた神璽を開いたところ、金刀比羅宮の神璽が二枚出てきた。これは平常からの信仰が厚い印と喜び、一枚は邸内の祠に、もう一枚は村人に諮って鞍掛山(琴平山)に祀ることとし、現在の地(頂上)に御神霊を勧請を行なった。天保9年(1938)に神祗官統領伯王殿より宣旨を賜り、鞍掛山金刀比羅宮と称した」

 Gakuden0131_2  続いて由緒沿革には「慶応元年(1865)まで祭日のほか参拝者はなかったが、明治に至って参拝者が増えたので、巌石を穿(うが)って、道路を開いて参拝者の便を図った」と記述されている。

 そして明治5年に本殿・拝殿・神楽殿及び社務所の大改修が祈願者の奉納で執り行われたことが記されている。 

 さらに、山上へ至る石段と山門をかねた旭額殿と呼ばれる高樓(こうろう)については、「明治11年に完成した山門にも似た三階建額殿Photo_10は間口8間、奥行4間の大きさであった」ことの記述がしてある。

 右の写真は境内山門の屋根が写っている写真。下が現在の境内から撮った写真となっている。

  「山頂は次第に広げられ、僅か240坪の境内には茶屋が並び、その周辺にも10数件の茶屋があった」と記している。麓の参道から登ってくる参拝者には三階建ての山門が迎える。まさに北関東一の社になった。

  明治5年頃から参道・石段の工事が始まり、明治11年には山門が完成している記述がある。調度、麓の栃木町では明治5年から鍋島幹による栃木県庁舎と県庁掘の建設工事が始まった時期とかさなる。岩舟石を使用して造られた栃木県庁堀の石垣。県庁掘工事と連動して琴平神社の石段と石垣工事が行われているのではないかと推測する。

Photo_12  山頂境内に上がる石段の両脇にある石垣は三階建額殿山門の土台石垣であったのだ。『下野国下都賀琴平神社絵図』の中央に描かれてある山門旭額殿。勇壮な建造物として描かれてある。しかし、昭和20年の火災で本殿と共に焼失してしまう。献納されていた多くの奉納物が失ってしまったのが惜しまれる。

  現在は山門土台となっていた石垣が残っているだけになっている。10段ある一番下の石垣は高さ2間(3.6m)、横の長さ5間(9m)、奥行2間(3.6m)と大きな石垣になっている。「それほど固い岩ではない。どこの石なのか、岩舟石なのかどうか?」私には分からないが、野面積の石垣。明治から140年経過している石垣が麓の集落を見下ろしている様は迫力がある。地域遺跡として調査、保存体制の整備が必要だと思える。

Photo_13  何故この山に金刀比羅宮の神璽を祀ったのかは拝殿・本殿西側にある奇岩石を見てわかった。由緒沿革に「神社付属地には百日行場として直径千五百尺(約452m)の奇岩がある」と記載されている。

  鞍掛山(琴平山)は修験者の行場である奇岩石がある信仰の山であったのだ。奇岩石は本殿裏の西側の尾根沿いにある。岩石が突き出た一塊の岩山を形作っている。修験者による百日行場の岩場だったのだ。古代から信仰の山であったことから神璽を祀ることができたのだ。村人一同も金刀比羅宮神璽をこの山に祀ることに同意したのも頷ける。

 Photo
 神霊の宿る岩石を行場とする磐座(いわくら)信仰の山として古代よりこの鞍掛山(琴平山)は崇められ、山伏が行き交う山であったのだ。しかし、明治5年の明治政府により修験道は禁止され、山伏たちは山から消えていった。

   山伏達による修行の場の山から金刀比羅宮神璽を祀る山に大きく変わる。山の名前も鞍掛山からより身近な琴平山と呼ばれるようになり、麓の巴波川・渡良瀬川・秋山川の舟運は明治に入り最盛期を迎えた。水運の守護神としての琴平神社は舟運関係者の口コミにて足利・佐野・栃木・寒川・古河にて講ができあがり、鹿島や佐原からも参拝者が訪れるなど大いに賑わうことになった。境内の宿泊宿屋だけでは足りなくなり、近くの皆川宿にも宿屋ができたとも云われている。

 Photo_4
  『讃岐の金毘羅さんには遠くて行けねえけど、こんな近くに分社ができてよかった』『ここにお参りするようになってから、一度も積荷を駄目にしたことがねえ』と評判をよび、船頭や船主がこぞってお参りに来るようになったと「栃木の語り部・琴平神社の今昔」のブログに記載されている。
  この語り部の話の中で「山の中腹に湧き出る水場に豆腐屋もできたと」という箇所が出てくる。琴平神社の関口宮司の話では「頂上の手前下には沢から流れ出る水場があった。子供の頃には沢から流れ出ている水を桶に汲み、上の境内まで運んで戻るともう一つの桶が一杯になっていた」と語ってくれた。溢れるほど湧き出ている水ではなかったようだ。

 日向野徳久執筆の「目で見る栃木市史」には、上州からバクチで財産を失い、栃木町箱森に移り住んだ長吉が、琴平神社のある峠道で通行人を誘い、やけのやんぱちでバクチを行い、大儲けする。これも琴平神社のおかげだとして社殿を寄附する話を紹介している。この長吉を舟運で大儲けた人に置き換えると、琴平神社の繁盛が目に浮かんでくる。

Photo_2  しかし、明治の半ばから後半にかけて鉄道網の発展から舟運は衰退していく。そして琴平神社への参詣者も減少し、繁盛していた茶店や茶屋も大正から昭和にかけて一軒一軒と無くなっていった。

 「昭和にかけ最期まで残っていた一軒の茶店も昭和20年の火事で無くなりました」と琴平神社の宮司、関口光一郎氏が語ってくれた。
  神社仏閣に参拝する際には身を清める。そして参拝した後は俗物人間に戻る。そのための娯楽施設は神社仏閣周辺には今も残っている。しかし、ここ琴平神社には数多くあった茶屋、茶店は一軒も残っていない。「陽炎だったのかな…」と境内から栃木のまちを眺めながら思った。
Photo_3  栃木市柏倉
にある琴平神社は私にとり遠い神社のイメージを持っていた。しかし、小学生の頃に母に連れられこの神社に来たことが思い出として残っていたのだ。50余年ぶりに訪れたこの琴平神社は身近な神社に思えてきた。
  かつては舟運の人で支えられて栄え繁盛した琴平神社と境内。今は地域の人の厚い信仰によって支えられている。しかし、このまま過去の「繁盛した幻の神社境内」のイメージとして続いていって良いのだろうかと疑問に思えてくる。
 
近くて遠い神社から栃木のまちに近い神社と境内に変えていく。それは山門跡土台の雄大な石垣群や山岳信仰としての行場跡奇岩石をこのまま消え去っていくのが惜しいと思えるからだ。これらは後世に伝えていく貴重な遺跡でもある。琴平神社には貴重な遺跡が残り、雄大な景観を拝することのできる神社として改めて見直しをする時期にきているのではないかと思えてくる。


≪関連資料ブログリンク先≫

 ●琴平神社
 ●栃木の語り部・琴平神社の今昔

 ●参考資料―「栃木県神社誌・琴平神社」
「目で見る栃木市史」  

                                   《夢野銀次》

             

 

 

|

« 栃木市万町東裏通り―地域の人々で建立した「稲荷神社」 | トップページ | 所詮、剣は武器なのか…。中村錦之助「宮本武蔵」 »

栃木のまち」カテゴリの記事

歴史散策」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1233525/58684770

この記事へのトラックバック一覧です: 山門土台の石垣と奇岩が残る―栃木市柏倉「琴平神社」:

« 栃木市万町東裏通り―地域の人々で建立した「稲荷神社」 | トップページ | 所詮、剣は武器なのか…。中村錦之助「宮本武蔵」 »