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栃木市万町東裏通り―地域の人々で建立した「稲荷神社」

Photo_8  「万町交番の裏側の道沿いにある稲荷神社、あれ何と読むの?」 と知人から質問された。

  かつて祖父の代から住んでいた実家の近くにあった稲荷神社。地図には「保喰稲荷神社(うけもちいなりじんじゃ)」と記載されているのを見つける。子供の頃から、ただ「お稲荷さん」と呼んでいて私たち子供らの遊び場でもあった。正式名称などどうでもよかったのだった。

 何て読むんだろう?私も読めなかった。ネットで検索した。保喰大神=「うけもちおおかみ」と出てきた。難しい読み方だと思った。

 「私らは、ほしょく稲荷と読んでいるな」と稲荷神社祠の近くに住む古老の方が語ってくれた。普段からお稲荷さんと呼んでいるのではないかと思える。 

  保喰大神(うけもちおおかみ)は日本神話にでてくる「食物神」で稲荷さまとして祀られている。あわせて牛や馬などの神としも祀られいると記述されている。稲荷様はもとは五穀と養蚕を司る農耕の神から、江戸期には商売の神様として崇められ、広く信仰されてきている神様だ。 

Photo_2  栃木市の蔵の街大通り北の先端に万町交番交差点がある。その交差点を右折し、壬生街道100メートル先のひとつ目の角を右に曲がると「万町東裏通り」がある

  その通りの50メートル先の左側に「保喰(ほしょく)稲荷神社」が鎮座している。鳥居には「保喰稲荷神社」と掲げられてある。

  明治40年1月発行の「栃木県営業便覧」の中の地図には「万町東裏通り」と記述され、稲荷神社や通りに面した当時の商店名が載っている。魚屋、肉屋、八百屋、料理屋などの小さな店の屋号と主人名が列記されいる。この稲荷神社には商売繁盛の祈願が含まれていると思えてきた。

 どういう稲荷で、何時ごろできたのだろうか?伊勢神宮の外宮は食物の神「豊受大神」を祀っていることから栃木市旭町の神明宮と関連して建立されているのではないかと思い、神明宮の神山宮司に訊ねた。「あの稲荷神社は神社登録をされていませんので、私的な稲荷神社として建立されたのではないでしょうか」と指摘された。確かに栃木県神社庁発行の「栃木県神社誌」には記載がない。

Photo_10  稲荷神社境内の奥に祠が鎮座している。その右横に石碑が建っている。「社有地記金碑」として建立と社有地購得、寄付者の芳名が刻字され、昭和12年1月に石碑が建立されていることが分かる。石碑の刻字内容は次のようになっている。

 「仰モ當社ハ明治十有七歳時之 地主及借地人一同 平穏無事ヲ祈願スル為ノ鎮座シ 今ニ至レリ 而ルニ社地ノ轉有ニ歸シクルニ依リ 交渉之結果 社奥四十四坪二合六勺ヲ社有金及ヒ寄附金ニ依り 代金二百六十圓ヲ以テ基本財産トシテ購得シ 社地ハ有形ノ儘寄贈セラル 依テ其事由ヲ畧記シ 併テ寄附者並ニ當事者各位之厚志ヲ多トシ 建碑之刻シ後世ニ遺ス 

干時昭和十一年九月十八日仝十二年一月建之」

  そして寄附金と寄附者53名、発起人11名の名前が刻字されてある。寄附者の中に私の祖父の名前が無いのが残念だ。 

Photo_11  石碑から明治17年(1884)に地域の人々によって建立された稲荷神社であることが読み取れる。そして昭和11年(1936)に土地の転用問題が起こり、地域の人々の寄付金でこの稲荷神社を地域で取得したことになる。当時の金額で260円。現代の金銭に換算すると3,065,000円。(※換算式は260円×1474(日銀消費者物価)×8(賃金上昇)による)

  寄附者の最初に記載されている名前が「八十円 長谷川カヨ」となっている。次が「十円 山本房次郎,七円 狐塚常次郎、六円 中村定四郎、五円 倉持利助」と寄附者全員の名前が列記されている。寄附金の大半は三円、二円、一円の37名になっている。その中で3分の1の金額八十円を寄附した「長谷川カヨ」さんが目立つ。地主だったのだろうか?気になる。

 前述の地元の古老の方に「長谷川カヨ」さんの事を訊ねる。「そうさな…。この一帯は昔、長谷川耕地と云われていて、長谷川家の土地だった。隣の田村小路と同じようなものだったんだな。恐らく、栃木町名主の長谷川家とつながりのある人だったのかもしれないなが、分からない…」と長谷川カヨさんについては不明だった。このあたり一帯の地主として稲荷神社を遺すことに務めたのではないか思えてくる。

Photo_5  稲荷神社の建立が地域の人によって明治17年になっている。栃木県庁が栃木町から宇都宮に移転した年であった。この時期の栃木町は巴波川舟運の興隆と麻を中心に問屋資本が拡大し繁栄していた時だった。万町表通りには麻問屋が軒を並べていた。

 「大正から昭和にかけて、栃木には十軒の麻問屋があり、そのうち七軒までが万町に店を構えていた」(谷沢明著「栃木河岸と宿場と問屋商人のまち」より)。

 麻問屋が最も多く軒を並べていた万町表通り。その裏側にあるのが万町東裏通り。 
  栃木の町の人口が急激に増加してきた時期でもあった。平凡社発行「日本歴史地名大系栃木県栃木町」の中で、近代問屋資本が始まったとされる天保14年(1843)に人口3999人と記述されている。「明治大正期の都市人口、明治の人口ベスト100」がネットで紹介されている。栃木町は明治22年(1889)に19,055人で日本全国ベスト63位となっている(宇都宮町は28位で30,698人)。しかしそれ以前の明治20年(1887)の日本全国人口ベスト100位に栃木町は入っていない。

 同じ明治20年のベスト100位が鳥取県米子町で人口が11,890人となっている。江戸期と明治期の人口比較は難しい。しかし、これらの資料から、天保年間から明治にかけて栃木の町は明らかに人口が急増しているのが見えてくる。人口の増加こそ栃木町の問屋資本による舟運と麻による産業経済の発展を裏付けしていると言えるからだ。Photo_3 
  谷沢明著「栃木、河岸と宿場と問屋商人まち」の中で、「明治初期には近郊の村から次男・三男が栃木のまちにやってきて、問屋に混じって町はずれなどで小売などの商いを営むことが盛んにおこなわれていた。そして、そのような形で栃木に住みついた人も少なくない」と記述がある。

  このことから近郊の農村等からの移住者でこの地域は生まれ、その地域の中心に農業と商業の神様である「お稲荷さま」を住民たちによって建立したのではないかと推測ができてくる。

  明治の中頃、通りの西側借家の一角に私の祖父と祖母が都賀町深沢の農家から移り住み、下駄職人としての生業を始めた。そして平成18年(2006)に兄夫婦はこの地から転居した。100年以上、三代に渡って生活してきた所だ。私の家は兄が転居するまで地域の人から「下駄屋」と呼ばれていた。

37  昭和36年(1961)から37年(1962)にかけて通りの拡張工事が行われた。

  その当時の写真が「小山・栃木・下野・下都賀郡今昔写真帖」に我が家の前の拡張工事の写真が載っている。東側に新設される側溝が写っている。右側先に「稲荷神社」の入り口がある。

  田村小路自治会が昭和52年11月に「田村小路のあゆみ」を発行している。その中に道路拡張工事についてこう記述されている。

  「市道105号線(㊟現在は市道A35号線)は、往時から明治座通りとして親しまれ、古くは万福寺用水の清流沿い近龍寺、神明宮に通じる道路として、開けたものと考えられる。昭和27年、当時幅員九尺(2.72メートル)であったこの道路の拡張が叫ばれ、議会採択後に関係各町内の自治会長(万一、万一東、万二、万三、田村小路、万四)が拡張委員となり運動を展開。(略)昭和36年第1期工事として、壬生街道から4区田辺商店まで拡張され、昭和43年第2期工事として鯉保まで、拡張、完全舗装の完成をみた」と記載され、「幅5.5メートル、東側に側溝を新設、西側の側溝は道路化された」 

 この記述から「万町東裏通り」が別名「明治座通り」とも言われていたことを知った。

 Photo_14 そして、この道路拡張工事で我が家の玄関先が2.5メートル削られ、狭くなってしまった。しかし、家の前を流れていた用水は大きな流路として暗渠となり、道路下を流れるようになった。夏の夕立で通りからの浸水がなくなった。

   思川の伏流水の関連で栃木の町には豊かな地下水が流れている。我が家の裏には共同の汲み上げ井戸があった。家の中で地下水をモーターで汲み上げをするまで、近所の人と共同で使っていた。その共同井戸の跡が西側奥にあり、稲荷神社前から通りを隔てて見える。

  タライで洗濯板を使って「ゴシゴシ」と洗濯していたお袋や近所の奥さん達と話をしながら洗濯する兄嫁の姿が想い出される。物干し竿が井戸端のそばにあり、洗濯した下着等がヒラヒラと揺れていた。 Photo_7
  夕暮れ時、近所の奥さん方の買い物で賑わった「万町東裏通り」。

   魚屋の親父の掛け声や「どれにする?」と聞いている八百屋のおかみさんやサトイモをタライで洗う主人。稲荷神社から通りを走り回る近所のガキたち。たくさんいた子供たち。御菓子屋、八百屋、魚屋、小間物屋、旅館、牛乳店、畳屋、化粧品店、鳥屋、駄菓子屋、中華料理屋、呉服屋、お風呂屋、染物屋などが軒を並び、近辺の生活者が行きかう通りになった。

 やがて「八百半スーパー」が前栃木市長の鈴木乙一郎宅の角の前に開店し、昭和40年代頃から八百屋や魚屋の店舗が消えていった。

  今、この通りを歩くと駐車場が目立つ町並みになっている。昭和12年に建立された石碑の名前の中で、子孫となる家は何軒あるのだろうか?数えてみたい気持ちがあるが、思ったほど少なくなっていないと思える。

 お稲荷さんの初午祭りは毎年、旧暦の3月に開いている。「今年は三班が当番なのだ。いつでも遊びにおいで」と帰る私に古老の方が優しく語ってくれた。

 地域の人々によって建てられた稲荷神社。その祠の前に立つ。初午祭…。「デンデン、ダガダン、ダガダン」と祠の横で太鼓を敲いている小学生の自分が見えてきた。

                                      《夢野銀次》

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