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2015年2月

所詮、剣は武器なのか…。中村錦之助「宮本武蔵」

Img_31  小次郎を倒した武蔵は厳流島を後にする。舟に乗る武蔵は右手で強く握っていた櫂を放す。その手のひらには赤い血が広がっていた。

 「―あれから10年。己を高めるため剣に励んできた。しかし、この空虚…。所詮、剣は武器なのか…」と武蔵の独白で映画「宮本武蔵」全5作品が終わる。

  東映映画作品、内田吐夢監督、中村(萬屋)錦之助主演による「宮本武蔵」は昭和36年(1961)5月公開の第1作から昭和40年(1965)9月公開「巌流島の決闘」の5作まで、5年間を費やして宮本武蔵を描いた大型時代劇映画だ。

  私が中学から高校にかけて公開された映画だったが、今回DVDを借りて全5作品を観た。

581_3  改めて観たこの作品。宮本武蔵17歳、慶長5年(1600)9月の関ヶ原合戦から慶長19年(1614)4月の厳流島決斗までの14年間。相手を倒すことが死に至らしめるという武芸者としての苦悩、迷いながら生死をかけた勝負に挑む剣豪武蔵の内面を鋭く描いている作品だ。

  主演の中村錦之介も29歳から34歳とあふれる精神力で宮本武蔵に挑み、円熟味を増した武蔵を演じている。 

Sim1_3  宗彭沢庵(三国連太郎)に諭され、白鷺城天守閣内の開かずの間での3年間、学問を究め己の自己変革を経ていく。幽閉の間から沢庵に導かれ、武蔵は新たな世に旅立つ。

 「魂としての剣を通して己を高める」と武蔵は武芸者への道を歩み出す。21歳青年武蔵のすがすがしさを錦之助は演じている。しかし、花田橋にて待っていたお通(入江若葉)への気持ちを断ち切る。情愛の世界を拒否する武蔵の苦悩をも描く。

041_2_5  宝蔵院長槍の道場。阿厳(山本麟一)の槍を一打で倒す武蔵。

  長槍を振り回し、槍を構える山本麟一の引き締めた表情は迫力ある。強さと優しを表す俳優で東映の好きな役者の一人だった。

  2作目「般若坂の決斗」のラストの殺陣シーンは4作目の「一乗寺の決斗」と並び迫力がある。1人で大勢と闘う際に走る剣。足を止めた時には負けが来るからだ。武蔵は浪人たちを斬っていく。そこには逃げられない生きるという執念さを表している。般若坂の決斗には意外な策があった。奉行と宝蔵院による浪人狩りだった。武蔵を利用しての浪人狩りだった。浪人たちの亡骸に念仏をとなえる日観(月形龍之介)。武蔵は「殺しておいて何が念仏だ。嘘だ。違う違う。剣は命だ」と絶叫する。策に踊らされた己への怒りなのか…。

101_2 73人対1人の一乗寺下り松の殺陣のシーンは圧巻。

  吉岡一門弟、多数を相手に田圃に足を取られながら二刀で戦う殺陣は獣の争いを彷彿させる。

  モノクロ画面から浮かびあがる下がり松。水墨画を連想させるシーンだ。派手な衣装の吉岡一門名代12歳の源次郎を武蔵は戦の道理として突き殺す。このことが、以後の武蔵の歩みに暗い影となっていく。

 「やらなければ己が死ぬ」、「12歳の少年を名代にした吉岡一門こそが間違っている」。その通りだが、画面を見ながら、他の方法もあったのではないかと思えてくる。どこかしっくりいかない、後味の良くないラストだなと感じた。それとも戦の非情さを汲みとるべきなのか…。考えていこう。

061_3   全編を覆うセットが素晴らしい。

   京都清水寺参拝道、奈良の武蔵が泊まる家のセットの重厚さや光悦宅の門から屋敷内の陶器釜から刀鍛冶場へのセットなど時代絵巻をリアルに映し出している。東映太秦京都撮影所の凄さに感心させられる映像だ。

  さらにこの一連の5作品の映画は当時の町の風景や牛車、川船、舟橋などの街道沿いの様子を画面に見せてくれている。――おもしろいのだ。

T02200165_06400480102926438141_3  大和路に向かう街道で城太郎(竹内満)が米12俵を積んだ牛車に乗るシーン(第2作「般若坂の決斗」)。

  荷馬車など車での陸路輸送は江戸期にはなかった。徳川幕府が陸路での荷馬車での輸送を禁じていたからだ。わずかに牛車による輸送が限られた区間(京都大津間や駿府や江戸)だった。荷を運ぶ牛車シーンを見ることができた。

  どうして、荷馬車など車での輸送を幕府は禁じていたのか?寛政の改革のおり、老中松平定信に儒者中井竹山が荷車に使用をしての陸運の効率化を提言したとされている。しかし、その返答は宿場伝場制が維持されないとして、採用されなかった。駄馬では2俵しか運搬できないが、中井竹山提言ではその数倍も運搬できる。交通の効率化など当時の幕府は考えていなかった。

  荷車は「街道のわだち堀れ(路面の凹状態)や橋梁の荷重制限を理由に参勤交代が大幅に緩和される文久2年(1862)まで禁止されていた」と谷釜尋徳著「幕末期における旅人の移動手段と荷車の登場」に記述されていることをネットで知ることができた。今度読んでみようと思う。

141119a11_2  第3作目「二刀流開眼」から佐々木小次郎(高倉健)が登場してくる。

   淀川べり土手にて小次郎と吉岡門弟との斬り合うシーンで淀川を上る川船がでてくる。この川船を4人の水夫たちが竿を使って川を船で上っていく。土手から綱で引っ張って上っていく川船ではない。さらにこの船は藁屋になっている。その藁屋はみすぼらく出来ている。藁屋の中には客が乗っている川船。初めて見ることができた。

   また、板を互い違いに並べている舟橋などが出てくる。「本物の時代劇」を描こうとしている姿勢が伺えた。

  高倉健の佐々木小次郎。高慢で自信にみちた小次郎を演じている。しかし、ラストの厳流島の対決の時には武蔵の「心の剣」に」対して「剣は力と技」として強い剣客として成長している小次郎を描いている。高倉健が演じた小次郎、武蔵と異なり相手の命を奪ってはいない。しかし、朱美(丘さとみ)を通して不気味さを漂わせ、怖さを感じさせている小次郎を演じている。華麗な剣士の中に強靭さを備えた高倉健だ。

Sim1_2_2  この映画で涙腺が緩んだシーンがある。 5作目の巌流島での決斗を告示する高札場の近くで、又八とお杉婆とが再会するシーンだ。

  高札場からお通を通してカメラが移動する。四辻の角で子をあやす朱美がいる。お通が近寄る。朱美も又八の許嫁だったお通と分かる。そこにもらい乳をもってきた又八(木村功)が現れ、お通と再会し、子が又八と朱美の子であると分かるお通。

  この光景を木の陰が見ていたお杉婆(浪花千栄子)が涙を浮かべ、「わしの孫…。えーい、そのような子は知らぬ。知らぬ、知らぬ、知らぬわい。本位田の血ではない。みなしてこの婆を笑いものにするがよい、知らぬ、知らぬ」と泣き叫ぶ。お杉婆に3人は気がつき、お通がお杉婆にそばによる。「このような可愛いお子です」とお通はお杉婆に子を差し出す。又八が泣き叫ぶ母、お杉婆をなだめる。――このシーン、涙がでてきた。

  さらに巌流島に旅立つ武蔵を見送るお杉婆の表情がいいのだ。その表情は昔年の恨みが解けた表情になっている。感動的な場面だ。

  武蔵を追い求め、突き詰めていた緊張感が解き放たれ、湧いてくる「うれしさ」を整理できないで泣き叫ぶお杉婆。恨みが解けた表情。浪花千栄子の演技には動作があって台詞がでてくる。台詞と動作、表情が重なり、味わい深い演技だなあと感心した。

  最初に浪花千栄子の映画を観たのが「大坂物語」だった。貧しい一家が大阪船積場で落ちている米粒を親子で一粒一粒拾い集めていくシーンが印象に残っている。やがて両替商になっていく映画。東京の叔父さんの家の近くの東武線曳舟駅前の映画館で見た映画だ。貧しい中に貪欲に生きる映像が強く印象に残っている。

Photo_2  「そこは下総国行徳村からずっと一里程ある寒村だった。いや村というほど戸数もない。一面に篠や蘆や雑木の生えている荒野であった。里の者は、法典ケ原といっている」(吉川英治著「宮本武蔵・空の巻」より)。

    黒沢明監督「七人の侍」のヒントになったのではないかと言われている宮本武蔵が村人と共に収穫米を収奪にきた野盗と戦う「法典ケ原」の冒頭の書き出し部分。

  実際に武蔵が船橋法典に来たかどうか史実にはないと云われている。吉川英治の創作上の「法典ケ原の戦い」。原作に書かれてある市川市行徳にある徳願寺。その境内には「宮本武蔵供養地蔵」が祀られている。

  「法典ヶ原の戦い」は5作目「巌流島の決斗」の前半の山場として荒地を耕す武蔵の姿と野盗との戦いを描いている。少年、三沢伊織(金子吉延)の家にて荒地を開墾、鍬を持ち、米作りをする武蔵。吉岡一門を倒して6年後の武蔵の容姿は求道者のようになっている。

  収穫した米2俵を伊織と共に村に納める。その夜に収奪にきた野盗を武蔵は村人を指揮して撃退していく。翌朝には武蔵は伊織をつれて村を去る。伊織の家の玄関板に貼られてある『村の者心得べき事』と記された文。その文を徳願寺に来ていた長岡佐渡(片岡千恵蔵)が読む。

 「鍬も剣なり 剣も鍬なり 土にいて乱をわすれず 乱にいて土をわすれず 分に依って一に帰る 又常に 常々の道にたがわざる事」

  小倉藩細川家の家老長岡佐渡は「武蔵という者、相当な人物だな」と唸る。やがて巌流島決斗へと伏線になっていく。「鍬は大地を耕すもの。剣は心を耕すもの。されど一つなり」。原作では耕作しながら川の氾濫から、謙虚に自然と向き合うことを会得する武蔵を吉川英治は書いている。万物はみな一つなり。自分としてもこの言葉、もっともっと吟味していきたい。

Imgd8d421c0zik1zj1_3  吉川英治が朝日新聞に連載をしたのが昭和10年から15年。日本が戦争へと突入していく時代を背景にして出来上がった小説だった。生きることと死ぬことが今よりももっと切実に感じられる世相になっていた。

 「今の時代、何が必要なのか。それは自分をしっかりもって強く生きていく精神力だ。そのために少しでも役立ちたいと、この小説(宮本武蔵)を書いた」と吉川英治は「随筆・窓辺雑草」で記述しているという。

  昭和29年に中国から遅れて復員してきた内田吐夢監督。関ヶ原の戦いの敗残からの14年間の宮本武蔵の生きざまを描いた映画として完成させた。昭和20年の敗戦から高度成長へと進んできた昭和35年。映画「宮本武蔵」を撮る。戦後の15年間、監督自身を含めて生きてきた像を「宮本武蔵」に投射する姿勢でこの映画を撮ったと思える。

  生死をかけた勝負は負けたら命はない。勝っても敗者への想いを背負っていく。それでも己を高める生き方をしてくことを望む。内田吐夢の描いた武蔵像は生身の苦悩し、道筋を求める青年像を描いている。

 生死をかけての人生を歩む心構え。自分はそれを行なって歩んできたのか…? 

――改めて生死をかけての心構えに向き合っていく。

 「この映画、後世に残る映画だな」と観終った時の素直な感想を抱いた。

                                          《夢野銀次》

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