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発祥地の多い日本橋川河口―栃木市民大学現地ウォーク⑥

004   「この永代橋の畔(たもと)に明治10年、日本で最初に商船学校ができた所です」と発祥地石碑の前で中央区文化財サポーターのガイドさんの説明がある。

  「江戸湊から隅田川に入ってきた大型船はここで小船に荷物が移し替えられたのですね。永代橋から上流には行けなったのです」と説明しながらちょっと下った処にある「新川跡地」に案内した。
 「大阪から下ってきた酒樽はここ新川で荷揚げされたたのです。下りものといわれていました。新川沿いには酒屋問屋が軒を並べていたのです。昭和23年に新川が埋め立てられ、ここに記念公園が造られ、新川跡の石碑を建てたのです」とかつて川幅11~16メートルの新川の説明があった。

005  隅田川に架かる永代橋を見ながら、前回の12月13日の第5回の利根川・江戸川ウォーキングを思い浮かべた。深川から永代橋を渡り、急ぎ足で日本橋を目指した。周辺を眺める余裕などなかった。日本橋で流れ解散となり、5回続けた最後の現地学習ウォーキングがこれで終了したことが腑に落ちず、消化不良となっていた。

  幸いに企画した栃木市生涯学習課担当も同じ想いだったのか、「番外編」として今回の日本橋川界隈を中心にしたウォーキングの実施となった。間もなく3月を迎える2月27日の金曜日の実施となった。今回が6回目になる「栃木市民大学現地学習、利根川・江戸川ウォーキング」の最終回だ。参加者は市職員2人を含めて14人。今までの土曜日実施から平日、金曜日のため有給休暇をとって参加した人もいる。

003_2  岩崎弥太郎設立による商船学校の発祥地ではさくらの花がほころびていた。「東京23区で一番早く咲くさくらです」と誇らしげに語るガイドさん。中央区では歴史・文化・観光を案内する「中央区文化財サポーター協会」を立ち上げ、登録したボランティアガイドによって幾つかのコースに分けて観光客に説明、案内をしている。

  私たち一行の本日のコースは「中央区歴史散歩・江戸湊と日本橋川河口」となっており、ここ永代橋から日本橋川を上るコースになっている。

《行程》永代橋・船員教育発祥の地…新川堀跡…日本橋川・豊海橋…日本銀行創業の地…行徳河岸跡…電燈供給発祥の地…日枝神社…鎧橋…渋沢栄一住居跡…兜神社…銀行発祥の地…開運橋跡…郵便発祥の地…白木屋の井戸跡…日本橋

010_3  この行程から「発祥の地」等が多いことに気がつく。日本の近代はここ中央区で始まったことを表していることを示しているように受け取れた。

  日本橋川は神田川から分流して、日本橋、鎧橋を流れ永代橋付近で隅田川に合流する。

  日本橋川は水運の便がよかったことから、江戸期から明治にかけて日本橋を中心に多くの河岸が点在し、賑わった。かつては道三掘りから外濠に繋がっており、下総行徳から運ばれてくる塩を直接江戸城和田倉門内に運んでいた。日本橋川から皇居のお堀に乗入れできればいいなあと無責任に夢想もする。

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   水運によって江戸・東京にやってくる商品をさばく河岸問屋が軒を並べ、当時の地名が現在でも小網町・小舟町・掘留町・蛎殻町・人形町と残っているのがうれしい。

  日本橋川最下流の橋となる豊海橋。橋の真中から上流の日本橋川を見る。「右が醤油問屋。左には酢問屋が並んでいたのです」とガイドさんからの説明があった。左側には「ミツカンス」というカタカナ文字で書かれたビルの壁面が見える。酢問屋の名残りとして続いているのだ。

  「河岸の跡を見に来たのになあ…」と私のつぶやきが聞こえたのか、ガイドさん「本当はコースに入っていないんですけど」と断って、日本銀行創業の地から「行徳河岸跡標識」へと案内してくれた。

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  行徳河岸のあった小網町は物資を揚げるに適した日本橋有数の河岸として奥州船積問屋36軒のうち20軒もあったという。さらに下総本行徳村と結ぶ旅客船の船着き場として名を轟かせ、舟運と客船で河岸として発展、繁昌を極めた河岸だったと云われている。

   日本橋川から右に曲がった所の箱崎ジャンクションの出入り口付近が「行徳河岸跡」になる。今は埋め立てられている箱崎川の上を首都高が走っている。箱崎川には箱崎橋が架かっていたことが「行徳河岸」と書かれた標識版の中の地図で分かる。

 014_2 「行徳河岸標識」には、「かつて箱崎町と小網町・蛎殻町の間には、運河である箱崎川が流れていました。寛永9年(1632)、南葛西郡本行徳村(千葉県市川市)の村民が小網町3丁目先の川岸地より幕府より借り受け、江戸と行徳の間で、小荷物や旅客の輸送を開始して以来、ここは行徳河岸と呼ばれるようになりました。江戸と行徳を結ぶ船は船は毎日運航され、成田山新勝寺の参詣など房総に向かう多くの人々が、この水路を利用しました」と記載されている。

  第4回現地学習ウォーキングで行徳船着き場で見て来た常夜燈が頭に浮かんできた。

Wa335003m1   渡辺崋山が文政8年(1825)に、この行徳河岸から利根川を旅した記録にそくして、船旅の様子が川名登著「河岸」の中に記載されている。当時の雰囲気が出ているので引用させて戴く。

 「6月29日の朝6時頃、江戸の自宅を出立した崋山は、日本橋小網町3丁目の行徳河岸に着き、船問屋加田屋長左衛門のところで貸切の小舟を雇って乗った。船は隅田川から万年橋の下をくぐって小名木川に入り、中川番所、船堀、新川を通って利根川(江戸川)に出て下総行徳河岸に着いた。この船賃は500文、乗合船は一人64文というので、これは一艘貸切の船賃である。船中で朝食をしたためであろうか、『茶百文、飯五十文、酒肴二百十八文』とメモに記されている。飯より茶の方が高値なのは、これは惣菜も含まれているのであろうか」と記述され、本行徳河岸に着いた一行は下僕二人を含め河岸の大阪屋で昼食をとったと続いている。

   一文180円で換算すると当時の光景がリアルに浮かんでくる。また、私たち一行が通ってきた江戸川、小名木川や新川等が出てきて、日本橋行徳河岸に来たのだと実感が湧いてくる。

017_2   行徳河岸跡から日本橋川の茅場場橋を渡り、右折すると電燈供給発祥の地の記念碑がある。豊海橋を渡った右手には「日本銀行創業の地」の記念碑や江戸橋交差点の日本橋郵便局入口には「郵便発祥の地」標識があるなど、「発祥の地」が多い。これに会社の創業地を入れたら、日本橋界隈にはどれくらい創業地があるのだろうか。調べている人もいるだろうなと想像する。

  鎧橋を右に見ながら、左に東京証券取引所の建物がそびえている。道路を挟んで平和不動産のビルが建っている。明治21年(1881)から34年(1901)まで渋沢栄一が住んでいた居住跡だ。日証館とも呼ばれた時期もある。ビルの一階には渋沢栄一の居住時代の建物写真が掲示されていた。

201403281304453561   太平洋戦争まで兜町界隈に勤務していた池波正太郎が「江戸切絵図散歩」の中で、鎧橋の手前右に建つ渋沢邸と鎧橋のことを次のように記述している。

 「明治の天才版画家・井上安治に『鎧橋遠景』の一枚がある。夜空に月が浮いた川面に、『大渠(たいきょ)に面せる伊国ベネチアのゴート式建築は水上に浮かんで蜃気楼の如き観を呈し、水と建築と相俟って他に類例少なき興趣をそそる』、と評された渋沢邸の打火に、川面の荷船が黒ぐろと浮いて見える。明治も中期の景観だろう。明治から昭和初期にかけて、財界最大の指導者だった渋沢栄一が、この邸宅を建てて間もなく、兜橋も架かったのではあるまいか。川面の彼方には、鎧橋の鉄橋が見えるが、江戸時代には橋がなく、渡し舟だった。切絵図にも鎧ノ渡と記されている。私が株屋の店員になったころは、この鎧橋の鉄橋を毎日のように渡ったものだ」

  黒い荷船が浮かぶ日本橋川。窓明かりの色が異様に見える渋沢邸。鎧橋の上の月明かりが渋沢邸の明かりと対極して浮かんでくる。不気味で迫力ある版画絵だと思える。

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  旧渋沢邸の先にある兜神社から少し中に入った所に「みずほ銀行」がある。日本初の渋沢栄一が創立した「第一国立銀行」の場所になっている。

 そのみずほ銀行の外壁面には第一国立銀行の発祥地として、代々の頭取の氏名と銀行建物の写真が掲示されてある。金融の歴史の重さを感じた。

  当時の銀行法に則って設立された銀行のことを国立銀行と称し、紙幣を発行することができた銀行だった。以前は国が設立した銀行のことを国立銀行だと誤って思っていた。

Photo_2  城山三郎著の中に渋沢栄一の半生を描いた「雄気堂々」という本をずっと以前に読んだ。記憶があいまいだが、幕末、深谷の青年時代を中心とした作品だったと思える。ここに来て、渋沢栄一の偉業については明治後半時代にあったのではないかと思えてくる。

  「ウィキペディア」には渋沢栄一ことをこう記述されている。

 「日本資本主義の父と呼ばれ、国立銀行の創設に加え、東京瓦斯、東京海上火災保険、王子製紙、田園都市線、秩父セメント、帝国ホテル、秩父鉄道、東京証券取引所、キリンビール、サッポロビール、東洋紡績など、多種多様の企業の設立に関わり、その数は500以上といわれている」

 「何より偉いと思えるのは、三井高福・岩崎弥太郎・安田善次郎・住友友純・古河市兵衛・大倉喜八郎など明治財閥創始者と違い、『渋沢財閥』を作らなかったことだ。『私利を追わず公益を図る』との考えを生涯に亘って貫き通した」

  さらに東京市からの要請で養育院の院長を務めたほか、東京慈恵会、日本赤十字社、癩予防協会の設立など社会福祉活動に携わっていると記述されている。並みの人物ではないと思えてくる。

  栃木市太平山あじさい坂に平岩幸吉の石碑が建っている。栃木老人ホームの設立など明治期の栃木町の社会福祉活動家としての功績を称えて建てられた石碑には「平岩幸吉善行旌表(せいひょう)碑」と渋沢栄一が撰筆している。平岩幸吉と渋沢栄一の繋がりは社会福祉活動を通してあったのか、日本橋米問屋生まれの平岩幸吉ということで日本橋を通してあったのか、はっきりとは解かっていない。

 都電荒川線に乗って飛鳥山公園にある「渋沢栄一記念館」に一度行ってみよう。

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  「日本橋川の向こう側(南)には魚河岸がありますね。こちら側(北)には干物を扱う沿海河岸があったのです。活き魚を扱う河岸の店先は狭く、こちらの沿海河岸の店は干物のため面積が広く大きな問屋になっていったんです」とガイドさんの説明が続く。

  江戸橋交差点の歩道橋の上から見る「江戸橋倉庫ビル」。三菱倉庫の関連で巨大な豪華客船に見えてくる。日本橋川を行く船から直接荷を揚げていたというビルをガイドさんは指をさして説明する。説明する口調が強くなってくる。「何でいらいらしているのかな?」と思えてくる。ガイドさんの説明に途中から口ばしを挟み過ぎたのかも知れないと自省の念が浮かんできた。

  「白木屋名水跡」の説明で中央区文化財サポートによるガイドが終了した。この日本橋川の界隈には歴史を秘めた所がたくさんある。モチーフを絞って説明しないと、拡散してしまう難しい地域だと思えた。

043   明治44年(1911)に造られた石造りの日本橋。昭和20年3月の東京大空襲の爪跡が茶色く残っている。

 別のガイドさんが他の団体さんに、「この爪跡は大事にしていますよ」と語っているのを聞いたことがある。 橋の裏側には関東大震災での焼失した魚河岸の建物等の黒焦げの跡があるという。遊覧船に乗れば見ることができるのだが、本日は運航していなかった。

  日本橋の四隅にある獅子像を眺め、日本橋川沿いには江戸から明治、大正、昭和、そして平成と語り続いていく場所がたくさんあると思えてきた。

  最初から全部を観ることはできないのが日本橋なのだということが分かってきた。

041_2  帰路は「嘉永年間絵図」を参照して、日本橋から旧日光街道に沿って東武浅草駅まで歩き、浅草から東武鉄道で栃木に帰ってきた。

  歩いてみて、日本橋から浅草まで思ったよりも近いことが実感できた。柳橋で飲み食いした旦那衆が舟で吉原に行けたのは、それほど遠くなかったということなのだ。

 日光街道道標、小伝馬牢屋敷跡、江戸の香りがする人形町甘酒横丁を通り抜け、浜町河岸から浅草御門跡、柳橋から隅田川テラス道に入り、隅田川を眺めながらかつての浅草御蔵米の堀を思い浮かべ、浅草御蔵跡地の石碑、駒形観音堂を参拝しての午前・午後合わせて約12キロを歩いて栃木市市民大学現地学習「利根川・江戸川ウォーキング」が終了した。

  6回に渡る現地学習ウォーキングの歩数は総計88キロとなった。ウォーキングは何よりも体力が必要。さらに現地学習という言葉が加わると知力も必要になってくる。

  現地に行って見て学ぶ。学術調査で行なう「フィールドワーク」という難しい対応ではない現地学習のウォーキング。現地に行くことにより何気なく頭を通り過ぎていった過去の言葉や地名。遠かった人物が身近に表れ、掘り起こすことも生まれてくる。楽しい作業の時間を得ることができる。

 歴史と文化の旅はこれからも「体力」と「知力」でもって続けていくつもりだ。

《関連ブログリンク先》

栗橋から関宿23キロ歩く―栃木市民大学現地学習ウォーク①

野田市・江戸川の河岸問屋―栃木市民大学現地学習ウォーク②

水運の近道、利根運河・流山―栃木市民大学現地学習ウォーク③

江戸へと続く行徳・新川―栃木市民大学現地学習ウォーク④

江戸の出入り口・小名木川―栃木市民大学現地学習ウォーク⑤

                           《夢野銀次》 

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