« エース投手のいるチームはまとまる―栃木高校 | トップページ | 夏野菜が育つ »

巴波川に合流する西方町小倉堰からの用水「荒川」

098_2  5月連休の後に栃木市西方町を歩く。広がる田園地帯では田植え機が行き交っているのが見える。のどかな風景が目に写ってきた。

  栃木市発行の「とちぎガイドブック」の中で「西方地域は、水と緑に恵まれ江戸時代から西方五千石とよばれる良質な米所であり、西方産コシヒカリ『桜おとめ』は品質の高さに定評があり、江戸時代から江戸前寿司の米として重宝されるほどである」と紹介されている。

  実際に西方米として意識して寿司を食べたことはない。シャリと言われる寿司のお米。最近の寿司はシャリの量が少なくなってきているような気がする。学生時代にアルバイトをした新宿区牛込北町の「要(かなめ)寿司」のシャリは量が多く、うまかった。シャリのつくり方は店では門外不出としていたのが思い出として残っている。

077_3  「西方領拾弐ケ村高六千石余之用水呑水小倉川江長弐百七拾間余之石堰仕、夏冬共ニ取来リ申候」(享保七年正月中田家文書)と訴状の中に記載されている西方郷12か村。江戸時代から下野国(栃木県)都賀郡内での水田稲作収穫は飛び抜けた収穫量を誇っている郷である。

  現在でも稲作水田の源になっているのが、栃木市西方町本郷の思川に設置されている小倉堰からの取水用水である。上流の鹿沼市口粟野から壬生町黒川の合流地点までは、かつては小倉川と呼ばれていた。

08621  小倉堰は今の思川である小倉川に慶長年間に築かれたと云われている。規模は宝永3年(1706)当時、長さ126間(約229m)、幅3間(約5.4m)、高さ5尺(約1.5m)を有すると「越路勝也家文書」に記されているとしている(西方町史より)。

 現在の小倉堰は昭和28年に築かれ、土砂吐6門(幅3m、高さ1.7m)を有した堤長175.4m、幅11.5m、堤高0.9~1.7mの農業用水の固定堰になっている。右岸には「水神淵」と称される淵には取水用の樋門が設置され、取水した用水は岩山を貫いて用水川となり西方郷に灌漑・生活用水として流れ出ている。

081_3 江戸期から明治にかけての小倉堰は現在地より70メートル下流の地にあったと云われている。堰の構造は、明治初期には牛枠と竹蛇籠を併用していたとされている(栃木県の土木遺産より)。

  ここに出てくる牛枠と竹蛇籠がどういう物なのか、イメージできないため、ネットで検索を行なった。

Ph970803p051_2 ネットで「暮らしのある風景、荒ぶる川と闘った牛」に牛枠について展示用の牛枠の写真入りでの記述があった。小倉堰で使用した牛枠ではないが、参考になるので紹介させていただく。

 「牛枠などと呼ばれる木でできた牛で、川の流れをコントロールする水制の一種である。太い丸太を合掌状に組み合わせた構造で、三角錐や四角錐の形をしている。

   激流にも流されないよう、足元には重しとなる石を詰めた蛇籠(じゃかご)を載せて、川のなかに設置される」

Ph970803p021_3  石堰と牛枠の併用となっていた小倉堰は現在の固定堰に比べ弱いことが想像できる。洪水や筏川下げによる破損と修復・再築が数多くあったと推測できる。江戸時代のうち堰の位置や規模は何回か変化していったと云われている。堰の修理や設置など維持管理は大変なことだったと思えてくる。

083_2 

   小倉堰に隣接する「堰場」には水神社が鎮座している。小倉堰と用水を守護する神社で、狛犬は村人をはじめ、材木荷主、水車持ち、造り酒屋などから奉納されているなど信仰の厚い神社だ。

  栃木県立古文書館発行の「研究紀要」15号に平野哲也執筆による「江戸時代における川利用の多様性と諸生業の共存―西方郷と小倉川」として、小倉川を通して利害の対立する生業者の共存についての考察論文が記載されている。尚、この論文は中谷正克氏が「西方町史近世第2章」の中で執筆した「小倉堰からの取水と用水利用」に依拠して記述していると記されている。

068  小倉川、小倉堰、用水を利用する村々や筏荷主、水車持ちなどの生業者を巡っての争いから、お互いに共存していく方法等、当時の具体的な史料に基づいて検証をしていく考察論文になっている。以後、この論文から引用する際には「西方郷と小倉川」と記述する。
  西方郷12か村の村々はこの小倉堰からの用水で稲作を含めた生業の生命線だったと言える。そのためには強固な用水組合を作っていく必要があったと伺える。

  平野氏の「西方郷と小倉川」では、12か村を基礎とする用水組合が作られ、小倉堰から取水する用水の共同利用・共同管理が行われた。史料上、西方郷用水組合12か村といわれた村は、上郷として新宿・大沢・中宿・古宿・金崎・柴村と下郷の下宿・金井・峯・田谷・深見内・富張村になっている。
  小倉堰から取水した用水は、西方郷の西から荒川口・中川口・金井口の大きく3つの用水口に分かれ、南へ広く水を運んだ。下流に行けば行くほど川幅は狭まりながらも口からいくつもの細かい用水路が分岐して田畑を潤してきたと記述している。

071  用水組合では小倉堰の維持管理のために堰守と堰番を決めて対応してきた。堰守は水神社の隣接地に住み、昼夜、堰の監視にあたる役職で特定の家が務めた。
  その堰守宅跡地は水神社脇を流れている用水に架かる吊り橋を渡った敷地にあったものと思われる。西方町史に載っていた跡地の写真と合致するからだ。跡地の上には「西方ふれあいパーク」の展望台がある。

074   展望台に登り、思川の右岸南北帯状に広がる西方町域を眺める。すぐ下を走る東北道の車の騒音がなければ、気持ちの良い景色となる。

  展望台になっている岩山の下を取水した用水が流れている。「この岩山の上から小倉川の流れを監視できるな」と思えた。下りは水神社の裏につづく急な男坂から降りた。
  もう一つの堰番という役職は用水堀の利水全般を統括する責任者にあたる。西方郷12か村で4か村の名主が順番に就任した(但し、下郷は定番で就任)。

  堰・堀普請の人足・道具提供の西方郷への指示、普請の指揮、普請関係書類の作成と管理など重要な権限の大きな役職だった。とりわけ、上流から下ってくる筏の通行証(川状)を発行した。
  江戸の町は木材を大量に必要とした。小倉川の筏は、粟野川→小倉川→思川→渡良瀬川→利根川→江戸川を経て江戸の材木市場に送られた。小倉堰は筏の川下げの障害物になり、用水堰をも破壊する。しかし、西方郷12か村の用水組合は利害の対立する筏荷主とは争わず、お互いに納得できる作法を編み出し、筏を下流に流した。

106_2  具体的には筏荷主が筏通行許可願いを堰守にだし、堰守は堰番に川状(許可証)の発行を要請する。堰番は川の水量が十分であることを確認して川状を作成する。川状を預かった筏荷主は、堰を通過した後、金井村の名主に返却するという作法であった(「小倉川と西方郷」より)。金井村は西方郷12か村の最下流に位置するから川状の返却村になっていたのだと思える。

  幕府の代官や西方郷知行地のある旗本横山家を間にいれず、当事者同士の解決策を見出している点など、凄い。これは当時の堰を維持管理している西方郷12か村の強さが秘めれていると思えてくる。

  その強さは小倉堰用水によって作る年貢米にあると思える。米は当時の財政の基本であった。小倉川にいち早く用水堰を築いたことや売木より優先順位が上だった故に妥協点を見出すことができたのかもしれない。

092_2  西方郷を流れる3つの用水の分水率は、荒川35%、中川35%、金井川30%と決めれていた。 取水方法や堰・堀普請を巡って12か村で争いがおこる。その度に議定証文を作成した。12か村が妥協点を見出し、渇水時などの取水の公平をはかるなど、危機を乗り切ったと平野哲也氏は「西方郷と小倉川」で記述している。

  近世の村同士の争いの一番多かった「水」の取水分。西方郷の村々でも用水からの取水分について話し合いが継続的に行なわれてきたと思える。
  用水の分岐口にはそれぞれ「満中口」「磯ノ木戸口」「源八口」など西方町史では名前が記載されている。しかし、私には分岐口の名称は確認できなかった。地元の人に訊ねれば良かったと反省している。
  浄水場のある分岐口には「土地改良記念碑」が建てられてあり、荒川と金井川のとの分岐口だと思えた。


093  少し下流に行くと「磯ノ木戸口」と思われる分岐口がある。右に分流する荒川の流れは近津神社方面へ下っていく。南へと下流していく水の流れは速い。土地の勾配が用水の流れに適していることが分かる。
  用水の流れを利用して、米麦の精米・製粉を行なうための水車を設置する場合、利用権を持つ村人からの承認を必要としたと「西方郷と小倉川」
に記載されている。農業用水の利用を妨げない範囲で水車を動かすことが義務付けられたとしている。

   「西方郷と小倉川」を読みながら、西方12か村の用水組合を支える村人の重い責任と利害の対立する生業者との間において、妥協点を見出す村人の強い姿勢を感じた。
040  小倉堰から流れる3つの用水の中で荒川用水の川筋は新宿村、古宿村、峯村、深見内村、富張村等の西方郷内の西側を流れ、都賀町原宿を経て栃木市河原田の総合運動公園の脇を経由して、栃木市の大町を流れる巴波川(うずまがわ)に合流していく。
  西方町と栃木市街の途中にある都賀町原宿の桜内公民館。その脇を南下して流れる荒川を見た。小倉堰からの用水としての荒川の川幅は思ってた以上に広い。しかし、船が通るには狭すぎると思えた。
 「江戸時代から荒川は巴波川に合流していた。何故、西方村から栃木町への舟運・水路がなかったのだろうか?」と、前から疑問に思っていた。
 「西方町史」の中で平野哲也氏は江戸時代における栃木町と西方町域の村々の百姓とは切っても切れない関係であった箇所の記載を見つけた。

113  西方町史では「下宿村の村絵図には、壬生町まで二里余、栃木町まで一里半余、鹿沼町まで三里余、宇都宮町まで五里余の距離であったことが書か込まれている」という記述の中で、西方郷の村々と栃木町との距離が一里半という近さが際立っていることを指摘している。

  年貢米を栃木河岸に陸送し、舟運にて江戸に送っていた。そのことにより栃木河岸問屋との関係が深かったこと。栃木町に米麦を販売し、反対に栃木町から肥料や日常生活物資を購入していたこと。旗本からの御用金賦課の調達を栃木町商家に頼っていたこと等を挙げている。

  栃木町と西方郷の村々とは江戸時代より近い仲であったことが分かってきた。
  さらに平野哲也執筆の「西方町史」には栃木町への通船計画があったことの記述がでてくる。「やはりあったのだ。栃木町との舟運計画が…」と私自身唸った。

  平野氏の「西方郷と小倉川」においては、「元禄8年(1695)、西方郷12か村と皆川領7か村が共同で、荒川用水堀を栃木町につなぐ舟運路にしようとした。計画の発起人である古宿村の名主上田儀右衛門は、同村に河岸場を設け、栃木町の河岸まで年貢米の船送りを考えた。西方郷の百姓は、荒川用水を安定した運河としてみなしたのである」と記述し、西方町史には次のように続けて記述している。

066_2  「古宿を先頭に西方郷の村々は、水路を拡張し、安価で大量に物資を運べる新たな輸送手段(舟運路と川船)を確保し、栃木町との関係を強化しようとしたのである。河岸の候補地が古宿村に定められたことは、同村を通る南北の道が鹿沼・日光と栃木を結ぶ重要な交通路・流通ルートであったことを示唆している。ただし、この計画は、洪水被害を恐れる荒川用水の下流の村々によって頓挫した」としている。

  南北に続く一直線の道路が栃木市西方町元にある古宿村を横断している。西側を通る東北道の先の尾根には、中世西方氏の西方城がある。関ヶ原合戦以後に西方藩領主になった藤田信吉が元和2年までの14年間居城とした「二条城」も近くにある。

  慶長年間の新田開発で生まれたと云われている古宿村。古宿村の道路に立つと、町並みを含めて藤田信吉が作った町づくりだったのだと思えてくる。城下町の雰囲気が漂ってきた。ふと、「最初に小倉堰を築かせたのは領主となった藤田信吉だったのかもしれない。慶長年間の西方郷の新田開発と小倉堰は結びつくな…」と勝手な推測と想像が浮かんできた。「そういう史料がどこかにあればの話だ」。古宿への南からの出入り口は宿場特有の急カーブになっているのが見えた。

  栃木町への舟運・水路を開き、河岸を古宿村に設置しようとした計画。頓挫したのが残念に思える。

112  西方町から南下してきた荒川は栃木市大町を流れる巴波川に合流する。合流地点の荒川の川幅は広い。思川から巴波川とは直結していることを改めて思った。江戸時代以前の中世では小倉川(思川)と巴波川とは結びついていたのだろうか?いやいや、中世には小倉堰がなかったのだ。

  西方郷の西側に位置する真名子村には赤津川の水源がある。赤津川を挟み、皆川広照と宇都宮・佐竹連合との合戦もあった。巴波川に赤津川が合流していた昭和26年まで、栃木町はたびたび巴波川の氾濫に見舞われていた。現在の赤津川は永野川に合流している。
  栃木市と西方町とは平成23年10月に合併し、栃木市西方町になった。合併当時、この地に住んでいなかった私にとり、詳しい経緯については分からない。しかし、西方町では合併を鹿沼市とするか、栃木市とするかで住民投票を経て、栃木市との合併を決めた。江戸時代から続いてきた栃木町との交流・関係の近さは合併の要因の一つになったと思えてくる。高校時代には都賀町や西方町から通ってくる学友がたくさんいたことが思い出される。
 栃木第三小学校の巴波川に架かる原ノ橋から合流地点を眺めた。巴波川に合流する荒川。西方町と栃木市の合流地点は、ここ栃木市大町の巴波川にあると思えてきた。

                            《夢野銀次》
≪参考引用資料本≫
平野哲也著「江戸時代における川利用の多様性と諸生業の共存―西方郷と小倉川」栃木県立文書館2011年発行「研究紀要・第15号」記載/平野哲也・中谷正克執筆「西方町史・近世」/栃木市教育委員会2014年発行「とちぎガイドブック」





 

|

« エース投手のいるチームはまとまる―栃木高校 | トップページ | 夏野菜が育つ »

栃木のまち」カテゴリの記事

歴史散策」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1233525/59980781

この記事へのトラックバック一覧です: 巴波川に合流する西方町小倉堰からの用水「荒川」:

« エース投手のいるチームはまとまる―栃木高校 | トップページ | 夏野菜が育つ »