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石碑に綴られた片柳用水「東郷堀」の来由

Photo   「正覚寺は尼寺だったのだよ。俺れらが子供の頃、お寺の本堂にいる尼さんを見たな」と知人から教えられていた。祖父や両親が眠っている墓のあるお寺、栃木市薗部町にある正覚寺。

  ブログ「巴波川日記」には正覚寺のことを「昭和の初めに、栃木町に曹洞宗の寺が無かった為、大中寺第48世の無相心戒大和尚が発願して、禅厳俊戒尼和尚をこの地に相し開基とし、昭和10年4月に建立されました。御本尊は十一面観世音菩薩です」と記述されている。

  私は何故父が正覚寺を墓地にしたのか長い間分からなかった。このブログで曹洞宗のお寺が旧栃木市内では正覚寺しかなったことで分かった。

2  昭和23年に亡くなった祖父の実家は栃木市都賀町深沢にある。実家の近くにはご先祖のお墓のある曹洞宗の「建幢寺(けんどうじ)」がある。祖父が亡くなった時、栃木市万町に住む父は曹洞宗のお寺を探したが、曹洞宗のお寺は旧栃木市内では正覚寺だけしかなかったのだ。よって正覚寺にお墓を建てたということがようやく理解できた。

  正覚寺東側にある石門は昭和40年8月に正覚寺創立30年記念事業として建立されている。門の右脇に父の名前が記念事業委員の一人として彫られてある。我が家が製材業として営んでいた時代だ。父なりに両親への供養、親孝行したのかなと思えてきた。

  この正覚寺の脇を錦着山の方から流れてくる東郷堀の水路がある。何で東郷掘と言うのか、ずーと前から分からないことだった。「永野川から流れている堀のことだよ」と聞いたことがあったのだが、東郷堀って何なのか? …自転車で辿ってみた。

Photo_3  大平町から栃木市片柳町にある東郷掘に沿って自転車で辿って行くと大きな岩と滝のある公園に行き当たった。栃木市片柳町2丁目にある「いずみ公園」。池に流れ落ちている滝が小川になっていく。良く整理された公園の印象を受けた。滝の流れは夏休みだけの期間限定であることが栃木市ホームページに記載されていた。

 公園が完成し、オープンした昭和62年5月3日付けの下野新聞には「公園はポンプでくみ上げた水を重さ50トン近い石から滝のように落とし、長さ60mの人口河川を流す仕組みになっている。滝口の巨石は岐阜県恵那市から運んだ木曽石。人口河川で子供たちが安心して水遊びできる」と報道している。さらに「公園の下を歴史ある片柳用水が流れているが、それとは別に地下水をくみ上げている」と片柳用水の水路に造った公園であると紹介されている。

Photo  公園の入り口角に御影石でできた縦1.8m横2.6mの立派な石碑が建っている。

  道路に面した側には「片柳用水之記」、公園内に面した側には「片柳用水之碑」と栃木市長永田英太郎と彫られてある。市長の名前が目立つ印象を受ける石碑だ。

  道路側(表面)の彫られてある「片柳用水之記」には片柳用水が生活排水路に変わり、農業用水としての役目が終わっていく有様を切々に語りかけるように書かれてある。文面は日向野徳久氏、池澤洸氏の謹書になっている。両氏とも私が学んだ栃木商業高校時代に接した先生だ。懐かしく昔日の容姿が浮かんできた。

Photo_2  石碑に綴られた日向野徳久著「片柳用水之記」はどの書よりも片柳用水・東郷掘の歩み、来由(らいゆ)について簡潔に著していると思える。資料にしていくためブログに記す。

 『片柳用水は大皆川不動出水に源を発す。これを永野川に落し、水丈に応じ泉川村地内に大口堰場に蛇籠と並杭を以って川面一面に締切り、片柳村田地五十余町歩岩出村田地六町余歩の用水に分つ。片柳村は地頭所より不動尊別当宝珠院に毎年御供え米二斗七升を献納するのが江戸時代からの慣習であり、岩出村用水堀に対してわが用水堀を東郷堀といい、戦国時代末期皆川俊宗がこの地を支配せし時に起源す。

Photo_5水路は箱森西南端を経、薗部村を縦断して片柳村に入り、江戸時代には東片柳西片柳村の境界をなした。

明治四十年大字薗部の耕地整理においては永野川左岸皆川村大字泉川字下元の山林一反三畝歩を購入、同地に池を掘り東郷堀水量の増加を図った。これより後、開田は増加の一途を辿り、鶴巻堰御前木堰卯塔場堰杭堰塚田堰縠田堰添田堰高堤堰を以って六十二町七反七畝歩を潤し、用水組合百二名に及ぶ。

昭和二十四年赤津川分水工事施工に伴い用水取水入口の破壊されることを危惧したが、県当局も片柳用水のの重要性を認識、新取入口を設置、土手及び赤津川川敷等約六十二メートルの間に暗渠を設け永野川の水を取入れ灌漑に支障なきを図った。Photo_6
さらに耕作者一同は永久施設としての確保を願い、同三十一年栃木県知事に請願、県単独事業を以って電動機を設置して解決を得た。
然し同三十三年頃より東郷堀流域の都市化著しく用水掘は生活用排水路と化し汚染甚だしく、鑿井(さくせい)して電動機を以て揚水灌漑するのやむなきにいたり水利組合の機能を喪失した。よって同六十年組合員一同相謀り片柳土地区画整理組合の事業遂行を機に都市下水道幹線水路に供し、水利組合を解散することを決議し、市当局の援助を得てこれが完成を見るに至った。

Photo_13嗚呼、中世末以来すでに四百余歳その間清冽な水の滾々(こんこん)としてこの沃野(よくや)を潤してして、この地を養い来たり東郷堀はいまここに下水道と化す。まさに桑滄(そうそう)の変を目のあたりにする思いにして深き感慨に堪えず浅学を顧みずその来由を叙べる次第である。

昭和六十二年四月吉日

栃木県文化財保護審議会長 日向野徳久  撰』

  石碑の最後には片柳水利組合役員の氏名が列記されている。水利組合の解散を迎える最後の文章は哀切を帯び、日向野先生らしい歴史を愛してやまない文面になっている。そして片柳用水・東郷堀の起源から田地の開発、農業用水路の役割が終了するに至るまでの来由が書かれてあり、貴重な郷土の歴史叙述書になっている。

  この用水之記で片柳用水のことを東郷掘と称したことを著している。戦国時代末期にはこの地を支配した皆川俊宗よって東郷堀が生まれたとしている。しかし、東郷堀の呼び名の由来は記されていない。近世江戸時代入り片柳村の新田開発に伴い、永野川から取水した用水が片柳村によって造られ維持されていったことから「片柳用水」と言われるようになっている。

135_2  栃木市老人クラブ連合会が伝承作業の一貫として「栃木市の社寺調査」を行ない、平成2年3月に冊子「栃木市の社寺Ⅱ」を発行している。栃木図書館にあるその冊子の中に「東郷堀」の由来が記載されていた。

  冊子には、「明治37年より薗部村の全耕地整理として堀を作り始め、出来上がった堀について片柳堀ということもありましたが、丁度日露戦争も終わりになり、最後に大勝利を得たあの露国のバルチック海軍を撃滅した日本海軍司令長官東郷平八郎閣下の名を残したいということで整理事務所の元老寺内六郎治翁発言で異議なく名付けたと聞いております」と記されてあった。

   東郷堀の名は、薗部村の用水掘り完成の時が日露戦争勝利と重なり、それを記念として地元薗部村の人々によって「東郷堀」と名付けられたことになっていた。以来、今日まで「東郷堀」の名で用水路が片柳用水と重なり流れている。錦着山山頂にある「灯台」も日露戦争勝利を記念して建設されたと聞く。日露戦争勝利の中で「東郷堀」の名が生まれたことを知った。 

Photo_11  昭和26年に竣工された赤津川分水工事。栃木市街を流れる赤津川・巴波川の氾濫を無くすため、吹上村新田橋付近から赤津川を分流して永野川に合流させた工事。多くの反対運動があった云われているが、この分水工事によって栃木市街の氾濫が無くなった。

  分水赤津川が永野川に合流する「九反田橋」の下流左岸に赤い色をした取水口が設置されてあるのが見えた。「東郷堀(片柳用水)水路は永野川から現在もこの取水口から取水しているのだろうか?」。そのことを栃木市役所農林課に訊ねた。

  「その取水口の引き込み口はかつては2つありました。一つは薗部用水、もう一つは片柳用水口です。しかし、片柳用水口は灌漑用水を廃止したため、ずーと以前(多分昭和60年の水利組合の解散時)に取水口はコンクリートで固めて遮断しています。もう一つの薗部用水口は錦着山西側のさくら保育園わきの水田のみに使用しています」と現在は片柳用水は永野川から水は引きこまれていないことの返答があった。そして現在の片柳用水路の源は北に行った「新井」地区にあり、錦着山東側を通り、薗部町に流れていると教えてくれた。

Photo_10  「40年以上前はこの辺り(錦着山と永野川の間)には沼がたくさんあったわね。時々、そこの取水口を開けに農家の人が来ているわ」と九反田橋そばの泉川町にある民家の奥さんが語ってくれた。石碑文面に出てくる「赤津川川敷62mある暗渠(あんきょ)」は、さくら保育園の先まで続く。九反田橋先の左岸土手下にその暗渠を見ることができる。

  「たった一軒の農家の水田のための永野川からの取水口。なんかもったいないですね」と市農林課の人に言ったら、「水利権です」とビシッとした返答があった。職員の表情から、江戸時代から続いた永野川水利権をめぐる村同士の争いが連想され、歴史の重さが伝わってきた。

Photo_12  江戸時代、片柳村の東端は巴波川まであった。巴波川右岸にあった「片柳河岸」。片柳村の年貢米を江戸に積み出す河岸であった。日光神領の物資の一時保管したことから「日光御用蔵」として、徳田雑穀店となっている場所に大きな土蔵が今も現存している。

  西端は永野川まであり、村の総鎮守としての「二杉神社」が永野川の畔に鎮座している。太平山に向かう薗部町との境界の県道26号線「女子高通り」は毎朝、栃女、栃商、栃農、国学院栃木高に通う学生で賑わう。そして南には例幣使街道が現在も通っている。

  灌漑用水路から生活排水路に変わった片柳用水路・東郷堀水路は滝から流れる水と合流して九十九曲がり用水路に注ぎ、永野川に向けて流れていく。農業用水路から生活用排水路に変わっても、水の流れは下流へと流れていく、その水路の道筋は今も変わらない。

  公園を流れる浅瀬の河川では、二人の小さな女の子が母親と一緒に川の中を歩いているのが見えた。

≪参考引用資料≫

「栃木市の社寺Ⅱ 祭行事境内及び地域の石碑、石仏」(栃木市老人クラブ連合会、平成2年3月発行)

                                    《夢野銀次》

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