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終戦を学校工場として迎えた栃木女子高校

Photo  栃木市薗部町にある栃木女子高校の正門前には東郷堀(片柳用水路)が流れている。現在は暗渠(あんきょ)になっているが、私が栃木商業時代(昭和40年頃)には川幅が広く清々と流れていたと記憶している。水路は栃木女子高(通称名は栃女、女子高)の敷地を囲むように流れているお堀のように見えていた。自転車通学で正門前の横を通る度に、この水堀は「殿方はこの学校には入れません」と語っているかのように格式が感じられていた。

  東郷堀水路は錦着山方面から栃女高の西側を直線で南下し、県道26号線(女子高通り、太平山通り)に突き当たり、左折をして栃女高正門前を流れる。そしてすぐに右折して片柳町に流れていく。

Photo_6  栃女高が現在の薗部町に移転する前の明治17年(1884)頃の地図を知人から見せてもらった。当時の東郷堀水路は錦着山方面から直線で南下しているのではなく、薗部村を東、横に幾重にも蛇行しながら南下し、栃女高北側敷地の手前辺りで二股に分かれている。一つは栃女高敷地内を、もう一つは敷地の南脇を通り、片柳村に流れている。

  栃木市片柳町2丁目「いずみ公園」には日向野徳久著の「片柳用水之記」石碑がある。石碑の中で、明治40年に大字薗部の耕地整理が行われ、東郷堀水量の増加を図ったと記されている。現在の栃女高を西から東へと囲む水路は、この明治40年(1907)の耕地整理の際に出来上がったのではないかと推測される。

Photo_7   東郷堀に囲まれた栃木県立栃木女子高等学校は明治34年(1901)4月に下都賀郡立栃木高等女学校として栃木町旭町の神明宮境内を仮校舎で160名の入学者で創立された。翌年の明治35年(1902)の7月に現在地、薗部町(当時の地名は御前の木)に移転している。

   大正8年(1919)に校名が栃木県栃木高等女学校(後に県立)に改名される。そのため、通称名が「栃高女」、「女学校」として戦後の昭和23年(1948)の学制改革で栃木女子高等学校と校名が改名されても、その通称名を現在でも語る人が多くいる。

  終戦直後に5年制1200人の女学校になったが、現在は在校生717人の女子高として存続している。「全員進学希望者です。そのためこの数年は求人募集をする企業は1社もありませんね」と私を応対した学校関係者が玄関口で語ってくれた。創立100年を超える栃木女子高等学校は県下有数の進学校でもあり、歴史ある伝統校として全国に名が知れ渡っている。

Photo_8  正面校舎玄関右に昭和48年(1973)同窓会によって女流作家、吉屋信子自筆の「秋灯(あきともし)机の上の幾山河」と彫られた文学石碑が建てられている。吉屋信子は明治41年(1908)から4年間、栃木高等女学校で学んだ。父親の吉屋雄一氏が明治35年(1902)に栃木町にあった下都賀郡庁舎(現在のうずま公園内)の郡長赴任により、共に真岡町から栃木町へ移り住んで来た。吉屋下都賀郡長は前任の富田嘉則郡長が進めてきた栃木町の女学校設立のとりくみを引き継いで督励をしたと云われている。

   明治17年(1884)に栃木県庁が宇都宮へ移転に伴って明治8年(1875)創設の栃木模範女学校も一緒に移ってしまった。栃木模範女学校移転に反対した声は下都賀郡議会から栃木県をも動かし、栃木県で2番目の高等女学校が生みだすことになった。あわせて、その年の明治34年に宇都宮に移転していた栃木高等女学校(旧栃木模範女学校)の校名は宇都宮高等女学校(現在の宇都宮女子高等学校)と改名された。

   学校創設の費用は「栃木県立栃木女子高等学校創立80周年記念誌」に、「校地買入れ及び校舎新築費用は約3万円。内1万円は郡費より支出。1万円は有志の寄附。1万円は県の補助」と記述されている。当時の1万円は現在の貨幣価値で約1億3千万円(日銀100年間の卸売物価指数の推移を参考)に相当する。1億円3千万円の寄付金を栃木町を中心に周辺近郊の人によって募り、女学校を創設したことになる。栃木町の商家・問屋筋の大店、近郊の豪農による寄附金は栃木県庁移転への悔しさの表れでもあったのではないかと思えてくる。また、商家を支える大店の御内儀さんたちの女子教育の思いや、栃木模範女学校卒業生による学校創設の力をも見逃すことができないと思えてくる。

Photo_11  正面校舎から東側に回ると生徒の玄関出入り口になる。この玄関奥にかつて「雨天体操室」「講堂」があったことになる。

  「終戦の年に女学校に入ったんですけれども、1学期、教科書をもって学校へ勉強しにいった記憶がないのです。入学式を校庭でやったことは覚えていますけど、それから何日か目に学校に行った時に空襲警報がでました。その体育館、当時は雨天体操場ですね。その脇を通ってみんなで裏の防空壕へ向かったんですよね。その時、そこが学校工場になっているのを知ってびっくりしたのを憶えています(昭和7年生れのS・Iさん)」と「伝えたい栃木に生きた女性たち第3集」に「体験・聞き書き」として実名で記載され、当時の様相が伝わってくる。

  同書は栃木市女性史研究会「あいの会」が平成27年3月に、終戦を栃木市で迎え戦後を生きてきた市内の女性37人の声をまとめて冊子として発行されている。この書の中には昭和20年8月の終戦を栃女高生として迎えた5人の女性からの聞き書きも入っている。また、平成22年3月に第1集、平成24年2月に第2集の発行を行ない、第3集と合わせて栃木市史の貴重な聞き書き伝承記録書になっている。

250pxlabor_mobilization_in_japanese  太平洋戦争末期、敗色濃厚な日本は軍需産業への労働力を中等学校学生や高等女学生に求め、勤労動員として戦争参加に加えていった。昭和18年(1943)6月の学業を休止して軍需工場への従事を決め、翌年の昭和19年4月には女学校を軍需工場化すると言う文部通達がだされ、本土決戦にむけて、高等女学生徒は軍需工場に挺身することが決められていった。

   こうして栃木市にあった2つの女学校(栃木高等女学校と栃木高等実業女学校、昭和25年に両校は統合)は勉学が停止され、群馬県中島飛行機太田製作所への通年動員(4年生)と軍需工場となった学校工場への勤労動員(3年生)、農家などへの労務動員(1,2年生)が義務化されていった。

Photo_16  前述の栃木女子高「創立80周年記念誌」には、「昭和19年10月1日、学校工場始まる。3年生動員」と記され、栃木女子高が学校工場化になり、3年生が従事する軍需工場に変貌した有様が次のように記述されている。

  「戦局の不利に伴い、高等女学校は航空機を優先する学校工場化が進められた。本校は神護製作所の出先機関として工場化した。室内体操場は工場、地歴室は事務室、新校舎上下は設計室に変貌。他に東便所の西にモーター室、体操室の東に監督室が新たに建てられた。3年生は、先ず神護製作所で見習い指導を受け、次に本格的に飛行機のエンジンカヴァー作りを行なった。作業の指導は工場側、教育訓練は学校側が行うのであるが、作業以外の行事は殆ど行われず、休日も工場所定の第1、第3金曜日の電休日以外は夏休みも冬休みもなかった。動員は学校報国隊の形で行ない、従前のクラス編成は小隊と呼ばれるようになり、学年は中隊と呼ばれた」と学校工場が軍務形式での従事、作業になっていったことが記されている。

Photo_4 さらに「学生は学年手帖を持ち、工場出入り口には守衛を置き、登校時にそこで手帖に捺印を受ける。手帖には血液型や体重を記入するほか、健康管理の為毎日調査する体温、便通、脈拍等の情況も記録した。服装は和服型の作業モンペばき、名前と所属班名の2枚の札をつけ、防空頭巾をかぶり、救急袋を肩からかけた。そのような生活が終戦まで続いた」と記述されている。

 記念誌の記述から学校正門は守衛の検閲を受ける軍需工場の門になっていたことが伝わってくる。学びの校舎は空襲襲撃対象の軍需施設化になっており、戦争の場になっていたことが分かる。しかし、私は「伝えたい栃木に生きた女性たち」を読むまで、栃女高が学校工場になっていたことは知らなかった。「良妻賢母」を教育方針としていた高等女学校でさえ、戦争の渦の中で生きてきていたことが分かった。

Photo_6   学校工場内での飛行機のエンジンカヴァーの取付作業の詳細が「栃木に生きた女性たち第2集」の中で、昭和4年生れのKKさんの聞き書きとして載っている。また、第3集では学校工場から製品を納入していた神護製作所が栃木市日ノ出町にあったことが語られ、記述されている。「日ノ出町の何処にあったのだろうか」と気になり、調べてみた。

   昭和62年(1982)3月に日ノ出町自治会が発行している「町制50周年記念日ノ出町史」に神護製作所が記載されていることを栃木図書館郷土コーナーで見つけることができた。同書の「日ノ出町の今昔の産業」の項に、「久我宅の西側空地に神護製作所の軍需部品工場が出来ました。渡辺さんと言う社長さんは毎日朝礼で軍隊式に挨拶をする人でした。終戦と同時に工場は休業し、その後、成和工業が平和産業として従事したが、途中で休業。現在の栃木ゴム工場、サニー精工がその姿を残している」と社長の名前が渡辺と記述されていた。

Photo_7 自転車でその跡地を通ってみた。山門クリニックの看板やサニー精工の社名を見ることができた。壬生街道沿いの「日ノ出町交差点」の五差路があった。そのすぐ先には父が営んだ平柳町にあった製材工場の跡地も見えた。

 社長の名前が渡辺さんと記載されている「神護製作所」でウエブ検索を行うと、渡辺社長の略歴が渡邊貞之助という名前で表示された。「京大瀧川事件」の関連者として、学生団議長を務めた人になっている。「えっ、あの瀧川事件の関係者」という感じを受けた。渡邊貞之助の自筆略歴書が記載されているが、すでに90歳で亡くなっている。

  要約すると「明治39年9月生まれ、京大瀧川事件以後、昭和15年に陸軍航空工厰より受注する神護製作所を設立、社長になる。昭和20年4月中島飛行機が第一軍需工場になり、中島飛行機太田市・宇都宮製作所より受注継続」とある。「終戦時の工場5箇所、従業員700名、動員学徒750名、女子挺身隊90名」と多数の従業員や学生動員が従事して、操業していたことが分かってくる。

  戦後は成和工業の社長を務めたとしている。会社名から平和産業だと推測される。さらに昭和43年(1968)に設立された「栃木市の自然を守る会」の会長を務めたと記載されていることにびっくりする。「巴波川架設駐車場建設反対」や「射撃場設置反対」、「サントリー栃木工場開設における水不足を憂慮しての反対」等自然環境を守っていくとりくみを行なってきたことになっている。巴波川を架設して駐車場を作る案が浮上し、反対運動がおこったことは聞いたことがある。またサントリー工場ができたことにより、巴波川の水源が少なくなったと語る古老の人もいる。

  渡邊貞之助氏の人物像や栃木市での活動については、今後検証していきたいと思っている。

Photo_19  「一級上の人(3年生)は学校工場で、講堂、教室を使って機械を入れて飛行機の部品を作っていた。私たちは労務動員で農家へ。女学校に防空壕も作りました。太平山に行って山の木を切って、2本ずつ運んでくるのです。そしてずっと深く穴を掘って上にそれを置いて、ワラで編んだむしろをのせて土をかぶせてつくったんです。艦載機が真っ黒く飛んでくると空襲警報がでるんですよね。そうするとみんなわらわらとかけてって、その防空壕へ入るんです、何人くらい入ったかわからないんですが、逃げ込んだ記憶がある、『あっ、きた!』って」(昭和5年生れMAさん、伝えたい栃木に生きた女性たち第3集)より。

  栃木女子高が終戦時に軍需工場になったこと。さらに校庭に防空壕を作ったことも「伝えたい栃木市に生きた女性たち」を読み、知ることができた。

Photo_20    「防空壕は裏門から入って右手の方、校庭の周りの垣根に沿って作った」と人を介してMAさんから聞いた。

  北側に設置された裏門に私は立ってみた。戦時中の裏門は今より少し西寄りだったのではないか?現在のテニス場はかつては北側校舎になっており、その先の塀沿いの校庭に防空壕が作られたのではないかと思えた。テニス場を見ながら通用門の方に歩く。夏休みの校庭はガラーンとしている。西に太平山の山並みを眺めることができた。

  「この辺りに防空壕があったのだ。いくつあったのか?意外と狭い校庭になっている。女子高だから野球場がないせいなのか?」等頭に浮かんできた。空爆の対象となる軍需工場であるが故に防空壕をも作っていたことに驚く。

  「太平山から防空壕用の木をきって二人で学校に運ぶのよ。途中で先生が立っていて、細い木だともう一度太平山に行って、きり直してこいって言われたの」と知人の卒業生が当時のことを私に語ってくれた。裏門そばに「防空壕跡」の標識を建てれば、在校生に太平洋戦争の時に学校は軍需工場になり、校庭に防空壕をも作っていたことを伝えていくことができるのになあ…。と歩きながら思えてきた。

Photo_21  「玉音放送のあった昭和20年8月15日はものすごく暑い日でした。私たち4年生は朝から重大発表があるからと雨天体操場に並ばせられました。天皇の『戦争をやめる』という放送でしたが、よく聞き取れず意味がよく分からなかったですね。ただ日本はまけたんだということは理解できました。みんな泣いていました。1,2,3年生は自宅で放送を聞きました。8月19日に学校工場は取り壊しがはじまり、9月に授業が再開されました」(昭和4年生れ、KKさん、伝えたい栃木に生きた女性たち第2集より)。

 9月8日に神護製作所から工場荷物の引取りがあったことが「創立80年記念誌」に記述されてくる。終戦を学校工場として迎えた栃木女子高は学び舎としての学校を再開した。学校工場化した木造の建物は昭和41年(1966)鉄筋3階建校舎に建て替えられ、 当時の室内体操室・講堂は無くなった。

  「伝えたい栃木に生きた女性たち第3集」に記載されている5人の栃女高時代の聞き書き部分には「明るさ」が感じられた。14歳から15歳という若い年齢から受ける印象からなのか。それとも時代の動きを素直に受け入れて生きていくたくましさなのか。明るく力強さが伝わってきた。むしろ、その後に訪れる終戦後の食糧難の辛苦こそが悲惨な戦争体験になっていくのかもしれない。

  戦後70年目を迎えた8月。8月14日に安倍晋三首相は戦後70年の首相談話を発表した。「安保法制」や「原発再稼働」など現在進めている政策とかけ離れた談話になっている。8月15日の下野新聞朝刊に落合恵子氏が首相談話の中の「繁栄こそ、平和の礎と言うが、私は平和こそ、繁栄の礎だと思う。不戦を掲げるのなら、なぜ集団的自衛権なのだろうか」と載っている記事を読んだ。平和こそ繁栄の礎であることの意味をじっくり考えたい。戦争は何よりも人間の生存権を奪うものであり、絶対に許されぬ行為であることを今一度かみ締めていく。

  「終戦を軍需学校工場として迎え、裏門脇の校庭に防空壕が生徒によって作られていた」ことを後世に伝えていくことも歴史と伝統であると思えてくる。

《参考引用資料本》

「創立80年記念誌栃木県立栃木女子高等学校」(昭和56年10月発行)/「わたしたちが綴る栃木市の女性たち」(栃木市地域女性史編さん委員会編集、平成19年3月栃木市発行)/「伝えたい栃木に生きた女性たち第1集」(平成22年3月栃木市女性史研究会「あいの会」)/「同 第2集」(平成24年2月発行)/「同 第3集」(平成27年3月発行)/「町制50周年記念日ノ出町史」(昭和62年3月栃木市日ノ出町自治会発行)/「栃木いずみ公園石碑・片柳用水之記」(日向野徳久著、昭和62年4月建立)/ウエブ「瀧川事件春秋」(検索ワード・神護製作所、第4号1月号③)より)

                                《夢野銀次》

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