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2015年11月

子どもたちの例幣使行列―嘉右衛門町伝建地区

008_2  「手作りの衣装を着て、例幣使街道を歩く」。11月17日に郷土歴史学習の一環として「子ども例幣使行列」を初めてとりくんだ小学4年生の児童たち。

  栃木市小平町にある栃木市立第三小学校そばの嘉右衛門町には栃木宿から続く日光例幣使街道が縦貫している。この嘉右衛門町地区は平成24年(2012)7月に国の重要伝統的建造物群保存地区(伝建地区)に選定され、栃木市において建物をはじめ多くの歴史的建造物の修理保存が図られ始めている地域でもある。

  栃木第3小学校4年生のクラスでは、4月から地元の人から郷土の歴史の授業を受けていた。その中で、江戸時代に毎年4月、京都朝廷から日光東照宮に幣帛(へいはく)を奉納する勅使としての例幣使一行が嘉右衛門町を通っていたことを知った。

011_3  例幣使街道が通っている伝建地区嘉右衛門町は栃木市街地の北側にある。江戸時代初めより岡田嘉右衛門によって嘉右衛門新田として開発が始められた。街道の両側には商家などの店舗や見世蔵などが並んでいる歴史ある町並みとして保存されている地域でもある。

  中山道の上野国倉賀野宿から分かれる例幣使街道は玉村・五料・芝・木崎・大田・八木・梁田・天明・犬伏・富田・栃木・合戦場・金崎の諸宿を経て、楡木で日光道壬生通り合して、今市で日光道と合す(栃木市史より)。

   徳川幕府は5街道(東海道・中山道・日光道・奥州道・甲州道)を中心に道路を整備していく中で、この例幣使街道を道中奉行扱いとした。助郷など配し、特権階級(例幣使)の者の通路として重要視していた街道であったと云われている。

013   例幣使による日光東照宮への奉幣参向行事は正保4年(1647)から慶応3年(1867)まで221年間、1回の中止もなく継続されていった。

  例幣使一行30人~50人の行程は、4月1日に京都を発し、例幣使を御輿に乗せて金の幣帛を納めたからびつを護りながら、中山道を下り、倉賀野から日光例幣使街道に入り、4月13日に嘉右衛門町を通過していった。そして 4月15日には日光に到着して、翌16日に東照宮への宣明と金幣帛の奉納を行なう。翌日にはすぐに京都に向けて帰路につく。宇都宮を経て日光道中から千住に至り、浅草を経由して東海道を上って京都に帰っていくという行程を221年間執り行われてきた。

022  参加58名の4年生児童たちは衣装の数の関係で前半後半の2班に分けられている。

 子ども例幣使行列の先頭を歩くのは先払いの侍が3人。厚紙でできている裃。剣道の袴を着用している。腰に差している刀も厚紙で作っている。その次を歩くのが例幣使。勅使ということになる。白いふせん紙で作られた公家装束をして歩く。綺麗な衣装に出来ている。雅さを感じる。本来は御輿に乗る高貴なお方なのだが、段ボ―ルでできているため乗ることはできない。ご容赦くださいと担任の教諭が頭さげていたのが見えた。

 御輿を担ぐ公家たちの衣装は桃色のふせん紙で作られている。これもなかなか綺麗にできている。衣装の着替えをすぐ行えるように簡単にテープで留めらるように工夫されている。それでも公家衣装は丈夫にできているのが分かる。段ボールでできた御輿。大きいから一番に目立つ。その後につづく青い半天姿の荷物持ち。これも厚紙でできている。軽やかに感じがする。これらを子供たちが学びながら手作りで作成した。――偉い!

025_2  前半の例幣使一行が午前10時30分に神明神社を出立して畠山陣屋跡を通って、代官屋敷のある岡田記念館に向かって歩きだす。行列は岡田記念館の中でUターンをして、畠山陣屋前を再び通る。江戸時代において、この陣屋前を例幣使一行が通っていったことの再現になる。

 名主であり幕末には代官職を勤めた岡田嘉右衛門親之がこの門の前に立って例幣使一行を迎え、見送っていった。当時のその光景が思い浮かんできた。

 神明神社に戻った一行は後半の班と交替する。

028_3  戻る途中で公家の歩き方について、地元の人が教えていた。素直に聞いていた生徒達の行列の歩き方が変わったのが分かる。

 両足交代の歩行から何という歩き方か分からないが、一歩前に進み両足揃えて、また一歩進むという歩き方に変わって、公家の行列らしくなってきた。

 地元の人から地域の郷土歴史を学ぶ。その中から「実際に例幣使一行の姿で嘉右衛門町を通る例幣使街道を歩いてみよう」ということがクラスで決まっていったと云う。

031  下野新聞11月18日の朝刊記事に「手作り衣装例幣使に 嘉右衛門町で行列再現」という見出しで記事が記載された。その中で「第3小学校は、総合的な学習の一環で地元の嘉右衛門町や例幣使街道の歴史を学んでいる。講師役で学習に協力する住民団体『栃木の例幣使街道を考える会』からの提案を受けて企画した」と地元団体と学校側との協力体制で進められたと記している。

 地元の「栃木の例幣使街道を考える会」「嘉右衛門町伝建地区まちづくり協議会」の人たちは喜んで衣装の材料となる段ボール箱や厚紙を提供を行ない、当日の交通整理などの協力体制を敷いていた。

  4年生児童たちは当時の例幣使一行の絵姿を見ながらアイデイアを出し合い、厚紙でできた刀や裃、ふせん紙の公家衣装から荷物箱等を手作りで作っていって、この日を迎えた。

 何だか運動会の時の仮装行列を思い出すが、これは違うな。実際あった行列なんだと改めて歴史を思い浮かべてみる。 

039  後半の子供例幣使行列が神明神社社務所で着替えを始めた。なかなか進まない光景を見ていた地元の役員が、行列を見に来ていた保護者たちに着替えの手伝いをお願いする。5人の若いお母さんたちが走って社務所に入り、着替えの手伝いをする。

  ――着替えが終了し、後半の班が神明神社を出立する。2人の担任先生方は汗だくだく。校長先生は教育委員会の方たちとにこにこしながら眺めていたのが印象に残った。

  後半は神明神社から北上して「油伝味噌」までの行列となる。

  この嘉右衛門町を通過する例幣使一行を九代目の岡田嘉右衛門親之が日記に記している。平成24年3月と平成26年3月に「栃木の在村記録 幕末維新期の胎動と展開 岡田親之之日記」として1巻、2巻が田中正弘国学院短期大学教授によって翻刻されている。

036  日記によれば、昼食は栃木宿でとり、嘉右衛門町には八刻(午後2時)に通過。表門に畠山代官、裏門に岡田嘉右衛門が立ち、行列一行に頭を下げ見送る。先払の武士の役目は川連村より栃木宿、嘉右衛門新田を通り、合戦場宿までとなっており、畠山陣屋の家人が勤めていたとしている。

 221年間続いた例幣使一行の最後は明治元年の前の年、慶応3年(1867)4月13日。その日の嘉右衛門親之の日記には、「4月13日 申 晴 日光例幣使御勅使 武者小路少将(公香)様 八時(午後2時)当所通行、表門拙者(嘉右衛門親之)・若党弐人・鑓持・箱持・草り取、裏御門松本達左衛門(陣屋手代)」と記され、幕末には岡田嘉右衛門親之は陣屋代官職として裏門から表門で一行を見送っていたことが記されている。

038 子ども例幣使一行は「油伝味噌」で終了した。

 車が往来する中、交通整理をしている半纏を着た地元の人たち。にこやかに嬉しそうに子ども例幣使行列を見守っていた姿が印象に残った。

  行列をした4年生の子どもたちには一生忘れない体験になったと思える。次年度も次の4年生になった生徒や保護者のためにやって欲しい。自分たちが生活している地域には例幣使街道という誇れる歴史遺産があることが分かり、自信となるからだ。こうした体験を含めた郷土史学習をすすめる教員・地元の方に敬意を表したい。

 次年度のとりくみには例幣使が運んだ「幣帛(へいはく)」を作って行列の中に加えて欲しいと思える。あまりなじみがなく、イメージができなかったからだ。

  教科書からの学習と実際の体験をすることによって、知識がより身についていく。子ども例幣使行列を見ながら、遺跡や遺産を活用した学習をすすめていくことの素晴らしさを感じた。単なる伝統文化の継承ではなく、地域と学校が一体となって現代にマッチした行事としてのとりくみが必要だと思えてきた。

≪参考引用文献≫

田中正弘編集翻刻「栃木の在村記録 幕末維新期の胎動と展開 岡田嘉右衛門日記第1巻」(平成24年3月、栃木市教育委員会発行)/「同第2巻」(平成26年3月発行)/「栃木市史通史編」(昭和63年12月発行) 

                                     《夢野銀次》

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春画展ー永青文庫に行く

063_2  展示室の中の人の行列は立ち止ったまま動かない。雨の影響で室内はムシムシしていて暑い。扇子を持って来てよかったと思える。絵の展覧会で画を見たまま人が動かない展示会は初めての体験だ。

  狭い展示室にぎっしりと人で埋まっている。6割から7割の中高年女性の閲覧者。怒ることもなく、いらいらすることもなく画を楽しく見ている。「きれいな柄の着物ネ」「これ見て、おもしろいわ」などの会話が入ってくる。

   文京区目白台にある「永青文庫」で開催中の「春画展」に11月10日、小雨の中を見に行ってきた。狭い階段を上り、3階展示室から順次狭い階段を降りての鑑賞。入口には「18歳未満の入館お断り」の張り紙が貼ってあった。

  最上階の第1展示室の最初の画は喜多川歌麿の浮世絵春画。庭先の垣根で子供を抱っこした女性の股下を男の手がさぐっている画。抱っこされている男の子のあどけなさと女性のうれしそうな顔の表情がいい。座敷で同衾する男と女。そのそばの縁側で同衾している猫が描かれてある春画。…おもしろい。足のある幽霊の春画。キツネと同衾している春画などが展示されている。

068_2  立ち止まって動かない入館者。人の熱気で混み合った展示室。――じっと画を見つめている。いや物語を覗き込むように見ているように映ってくる。城中に保存されてあった藩主が見ていた蒔絵の春画。その一部の頁が展示されている。男女の同衾を見ながら、最初から読み砕いていくのも楽しいだろうなと思えてくる。

  前隣りの女性に身体が触れないように気をつかって歩いてすすむ。満員電車と違い、卑猥な感情は湧いてこなかった。不思議な気がした。

072   画の中の男の姿は「おねえちゃん、あちきと遊ばない?」と決め台詞をやることで有名なジョージ秋山の「浮浪雲」の世界を連想させる。女の表情は「うれしい」って表情が愛くるしくみえる。男と女のからみは「生の謳歌」なのか。ビニ本のような猥褻さは感じない。

  肉筆、版画、冊子、綴じ画、蒔絵、豆画の春画を葛飾北斎、喜多川歌麿、鈴木晴信などの著名な浮世絵絵師が描いている。浮世絵の原点は春画にあるのかなと思えてきた。

  「500人の入る大教室での春画の講義には、圧倒的に女子の聴講生が多い」と文藝春秋11月号「なぜいま春画がブームなのか」の対談で石上阿希国際文化センター助教授が述べている。この対談には永青文庫理事長で元首相の細川護熙氏と浦上蒼穹堂店主、浦上満氏が加わっての対談記事になっている。

063  対談の中で、春画講義の聴講生のことを石上阿希氏は、「女子は自分と春画の間に距離を置いてみることができるのですが、男子は客観的に見ることがないのかもしれません。今回の春画展の雑誌で、女性誌では明るく紹介されていたのと対照的に男性誌では『袋とじ』になっていたのです。性的興奮を呼び起こすものとして、春画はまだ通用するのだと驚きました」と、春画に対する偏見に言及している。

  細川護熙氏は「春画を見ていることを異性に見られるのは抵抗があると思っていましたが、石上さんの話から、若い女性はあっけらんかんとしているようで、世代の差を感じます」と言うと、浦上満氏は「春画は見ているだけで楽しいものですが、ユーモアやパロディーなどが随所にちりばめられていて、見れば見るほど奥深いものです」と述べている。

  確かに見ていておもしろかった。性への陰鬱さ、陰湿な感じを受けなかった。自分の中には春画は隠れてひっそりと見るものと潜在的に思っていたことに気がついた。大ぴらに見ることのできた春画展だった。また見に行ってみようという気持ちになってきている。

067  「春画展」は9月19日から12月23日まで永青文庫で開催されている。土日などは入館前に行列ができるほどの大盛況になっている。

  企画者の一人浦上満氏は対談の中で、「2013年の大英博物館で行なわれた春画展は大きな反響を呼び、大盛況であった。日本での開催を呼びかけ、20か所の美術館に開催の打診したが断られた」と語り、「春画への偏見がまだまだ強い」と意気消沈していた時に「細川さんより永青文庫で開催することの返事を戴いた」ことの開催への苦労が語られていた。今後、身近な美術館で「浮世絵展」と合わせて堂々と「春画展」が開催されていけば良いと思えてくる。

 海外で高い評価を得て日本への逆輸入されてきた浮世絵。春画もまた、同じように日本に評判が逆輸入されてくる。それでも良いと思う。春画には「生きている」世界が描かれてあるように思えてくるからだ。

059 会場の文京区目白台にある永青文庫に始めて行ってみた。地図で所在地を調べてみたら、早稲田大学のそばを流れる神田川の川岸の上にあることが分かった。地下鉄東西線、「早稲田」駅を下車して、高田馬場よりの出口から、早稲田大学を左に見て歩きだし、新目白通りを渡り、神田川に出る。神田川に架かる駒塚橋を渡ると目の前が急な坂道の「胸突坂」。坂の左には神田上水の守護神を祀る「水神社」が鎮座している。右側に「関口芭蕉庵」がある。急な坂道、胸突坂をヒイヒイ言いながら登りきった高台に永青文庫があった。早稲田駅からの所要時間は25分。 

  鬱蒼とした木々に囲まれて、門から砂利道が続き、永青文庫の建物入口があった。熊本藩細川家の屋敷跡にある永青文庫の建物は昭和5年に建てられている。細川侯爵家の家政所(事務所)にしていた。4階建てに見える洋風建築になっている。昭和初期の建物から、「少年探偵団」の世界を彷彿させる感じがした。

058_2   戦国期、細川藤孝を始祖する細川家は三代忠利の時、肥後熊本54万石を与えられ、外様大名として幕末、明治維新を迎える。

   永青文庫は、昭和25年に美術界でも著名な第16代当主細川護立によって細川家に伝来する文化財の散逸を防ぐ目的で財団法人として設立されている。昭和47年から永青文庫で一般公開を始めている。ホームページには「昭和48年に博物館法による登録博物館となり、欧州貴族にも優る七百年余の細川家の伝統が息づいている」と紹介されている。

 元首相の細川護熙氏は細川家第18代当主であり、永青文庫の理事長を務めている。

  永青文庫の「永青」は細川家の菩提寺、京都建仁寺塔頭の永源庵の「永」と藤孝の居城、青龍寺(別名勝龍寺)城の「青」の二字をとって昭和25年に16代当主の細川護立公が名付けた。細川家の伝統を継承し、護り、誇りとするに相応した名称であるとホームページに記載されている。

  神田川を見下ろす高台に建つ細川家。近くには山形有朋の邸宅跡「椿山荘」や朝ドラの「朝がきた」のモデル、広岡朝子の尽力で建設された「日本女子大学、成瀬記念講堂」(元三井の別荘地)もある。高級な別荘地だった目白台の一角。帰路にはその辺を散策して目白駅に出ようと思っていた。しかし、春画展での人混みで、もと来た早稲田駅に向かった。永青文庫周辺でも十分江戸期の武蔵の面影を味わうことができたからだ。

                                      《夢野銀次》

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演劇の持つ楽しさと怖さ―映画「幕が上がる」

812ptn4vnrl_sl1500_1  「地区大会なら勝てる。地区大会、県大会、ブロック大会までいったとする。ただ、そうなると君たちは1月まで拘束される。この先、本気で勝ちにいくなら、楽しいだけじゃ済まされない。君たちにそれ相応の覚悟を求めることになります。結果…、人生を狂わせることになるかもしれない。――私は行きたいです、君たちと全国に、行こうよ全国に」と吉岡美佐子教師は演劇部3年生3人に迫る。

  富士ケ丘高校、新任の美術教師の吉岡美佐子(黒木華)の指導を受けて、地区大会止まりだった弱小演劇部が県大会、全国大会(全国高等学校演劇大会)出場を目指し、全力で高校演劇を打ち込んでいく姿を描いた作品、2015年2月公開の「幕が上がる」をDVDを借りて観る。

  監督は「踊る大捜査線」シリーズを手がけた本広克行。脚本は「桐島、部活やめるってよ」の喜安浩平。原作の「幕が上がる」は劇作家である平田オリザが、自らもワークショップなどで関わりを持ち続けてきた高校演劇をテーマに2012年に書き下ろした青春小説作品。

Image5_2 主演はももいろクローバーZの百田夏菜子・玉井詩織・佐々木彩夏・有安杏果・高城れいの5人にベルリン国際映画祭で最優秀女優賞を受賞した黒木華。出演者や演劇に興味がない人であっても楽しめる作品に仕上がっていると、映画関係者・評論家は評価している(ウィキペディアより)。確かにその通りだ。観終って、この映画はすごくおもしろい。

 主演のももいろクローバーのことはまったく知らなかった。ネットで検索すると、略してももクロと言い、数人の客しか集まらなかった路上ライブから始まり、女性グループ初となる国立競技場ライブ公演まで行なうになっている人気アイドルグループと紹介されている。紅白にも出場していることを知る。最近は紅白を見ていないので歌の世界と縁遠くなっている。本広監督は「今、もっとも輝いている少女たちを演じてもらいたいとの想いがあった」とバックストップ100でコメンとを載せている。彼女らが舞台で演じる前へ進む姿は躍動感となって伝わってくる。決してこの映画はアイドル映画ではない。

Yjimage2  「公演、肖像画を演ってみたら」と吉岡先生は提案する。「何でもいいのよ、自分のことだったら。一人づつ創って、つなげる。一番気になってること、興味があること、今思ってること。テーマを家族等どう」。部長の高橋さおり(百田夏菜子)は「やって見せてよ」と吉岡先生に反発する。新入生向けのオリエンテーションでの「ロミオとジュリエット」を簡単に否定されたからでもある。

  短い沈黙の後、頷いた吉岡先生はいきなり窓を開け、自分の母のことを語り始める。その演技の迫力にさおりと他の2人、橋爪裕子(玉井詩織)と西条美紀(高橋れに)たちは「神様が降りてきた」と衝撃を受ける。吉岡先生が学生演劇の女王だったことを知り、指導をお願いする。素直な演技が光る百田夏菜子だ。

96958a9f889deae1e0e0e2e2e4e2e3e4e2e 加藤明美(佐々木彩夏)が演じる「お父さんの手」から始まる肖像画「われわれのモロモロ」のシーンはいい。ももクロの演技は教室という狭い空間を使って、何でもない日常生活の中にある家族のつながりを表現している。実際に山形の高校で演じているという「肖像画」。自分のこと、家族のことを楽しく表現し、観客席で観ている母親が感動するこのシーンはまさに演劇入門と言える。家族を誘って公演をする発想がおもしろい。

 原作者の演劇人、平田オリザのこともこの映画で初めて知った。ウィキぺデイアでは次のように紹介されている。

130pxoriza_hirata_speaking_at_tokyo  「平田オリザ(1962年11月8日生)は日本の劇作家、演出家。劇団青年団主宰、こまば劇場支配人。代表作に『東京ノート』など。現代口語演劇理論の提唱者であり、自然な会話とやりとりで進行していく『静かな演劇』の作術を定着させた戯曲集のほか『現代口語演劇のために』などの理論的な著書も多い」。

  そして現代口語演劇理論については、「日本における近代演劇は西洋演劇の輸入と翻訳にウェイトを置いて始まったものであり、戯曲の創作までもが西洋的な理論に即って行われてきた。このため、その後の日本の演劇は、日本語を離れた無理のある文体、口調と論理構成によって行われ、またそれにリアリティを持たせるため俳優の演技も歪んだ形になっていったと考えた。これを改善するために提唱したのが、現代口語演劇理論である。日本人の生活を基点に演劇を見直し、1980年代に見られた絶叫型の劇に対して、『静かな演劇』と称された1990年代の小劇場演劇の流れをつくった」としている。

  生活を基点とした演劇は「肖像画」のシーンで描かれている。また、「静かな演劇」の世界にも関心がでてきた。60年~70年代初頭の唐十郎、鈴木忠志、清水邦夫など「劇的なものを求めた」芝居と大きく様変わりしていることなのだと、改めて知った。今度、平田オリザが主宰する「こまばアゴラ劇場」に行ってみようと思う。映画の中の舞台演劇については、平田オリザがワークショップなどを通してももクロを指導したという。

201505242323311 演劇の強かった高校から中西悦子(有安杏果)が転校してくる。演劇部への加入を勧めるさおりと共に二人は茨城全国大会へボランテイアスタッフとして参加してみる。

  開演前の仕込みから、複数の高校の公演シーンが映し出されてくる。このシーンを観た人がブログに、「もし高校野球の女子マネージャーが青森の‟イタコ”を呼んだら」という青森中央高校の演劇部が出演公演しているのを懐かしく観たと記載している。どのシーンなのか分からないが、画面から全国大会の高校演劇のレベルの高さを感じた。

Img_0_m1 この全国大会の帰り、さおりと中西は「比奈駅」のホームで語り合う。(さおり)「どうして転校してきたの?」、(中西)「皆に迷惑かけ、追いつけなくなった。逃げたの」、(さおり)「私は演劇部に入り楽しいってこと分かった。皆と話ができるようになった。演劇って一人じゃできない」、(中西)「人は一人だよ」、(さおり)「でもここにいるのは二人だよ。中西さん、演劇を私とやりませんか、一緒に」と演劇への復帰を促す。一度演劇をやめた人にとり、このシーンはインパクトを与える。

  撮影した「比奈駅」は静岡県富士市を走っている岳南電車の無人駅だという。ホームの明かりと走る電車が「銀河鉄道の夜」を連想され、大会参加台本が「銀河鉄道の夜」にきまる。

  東京代々木青少年総合センターで合宿を行う。夜、芝居を観たあとに吉岡先生は皆を新宿高層ビル街の夜景を見せる。そして、「ちょっと前まで通っていたの、この街で。私は大学に行って、バイトをして、稽古に通って…。一杯いるんだよ、そんな人がこの街には。それこそ星の数ほど…。今は君たちもその一員」と語る。美しい夜景から将来を夢見る部員たち。しかし、この台詞が後の吉岡先生の決断の伏線になっている。

1312191  地区大会に入賞し、県大会への出場が決まる。この決まる瞬間はコンクール独特の緊張感が出ている。また地区大会の舞台上での先生役の佐々木彩夏が鐘を落とす。一年生の芳根京子の舞台上でのつまづき。舞台袖で見守るさおりの表情など、本番公演のもつ緊張感と人があがると動きが硬くなる怖さをも描いている。凄いと思った。

 吉岡先生の演技指導は「演劇は一発勝負じゃないの。本番のたびに同じことを繰り返さないといけないの。偶然に頼らない。最後に勝つのは計算された演技だけ」、「稽古を想いだすのよ」と地区大会での演技を想定して教えている。

  しかし、いざ本番の公演になると力をなかなか発揮できない役者の苛立ち、不安感、緊張感などをこの映画はよく表している。

1424963243004185001  県大会を1か月に迫った日、吉岡先生が突然教師をやめ、女優の道に進むことが演劇部員に告げられる。きっかけは夏の合宿の時に演劇仲間からのオーデイションへの誘いであった。復帰する吉岡先生は部員へ手紙でそのいきさつを語る。

 「そのオーデションは本当に楽しかった。一流のスタッフ、一流の出演者。その中に混ざって一緒に何かを創っていくことは私にはたまらない喜びでした」、教師から女優への道を歩む。それは母を裏切り、演劇部員を裏切る。それでも演劇の道を進むことが記してあった。そして「あなた達に出会い、あなた達を見て私は演劇の豊かさ思い出したのです」と育てる教師から自ら演じる側への選択したことの語りが画面に綴られてくる。演劇の持つ楽しさ、素晴らしさと喜び、そして演劇の持つ怖さが出てくるシーンだ。

Yjimage3  吉岡先生が去って元気を失ったさおりは滝田先生(志賀康太郎)の国語の授業で奮起を呼びこむ。

 滝田先生は地区大会での公演が素晴らしかったと誉め、「宇宙は光の速さで広がっていく。だから私たちはどうやっても宇宙の果てまでたどり着けない。たどり着けようがない。でも切符だけは持っている。どこまでもゆける切符。君たちの作品(銀河鉄道の夜)を観ながらそんなことを感じました」という言葉がさおりの胸に響く。高校の教師を教諭というのはこういう先生のことをいうのかなと思えてくるシーンだ。

  さおりは息を吹き返す。部員を前に「銀河鉄道の夜」の台本を手にして、「私たちは舞台の上ならどこにでも行ける。想像するだけなら無限だよ。でもたどり着けないんだ、宇宙の果てには…。それが不安ってことなんだ。私たちのことなんだなあって。でもみんなのことがつまっている、この台本。ここでやめるわけにはいかない。だってやめることは自分自身をやめるってことだから。――私はづづけます。行こう、全国に」とみんなの思いがつまっている台本・舞台こそが私たちなんだと言い切り、前へ進もうと語る。

  映画は県大会公演会場に来ている演劇部員の明るい家族の姿を映し出す。そして舞台の幕が上がるところで終わる。明るく気持ちの良いラストシーンになっている。

Image2_2 この映画の感想が「Togetter、映画『幕があがる』を観て~舞台という麻薬の演劇界」に記述されている。印象深い内容になっている。

  そこには、 「高校演劇というものをきちんと完璧に描いている作品です。素晴らしいです。しかし、舞台に立ったことを過去にできない人にとり、この映画は劇薬です。なぜなら、かつて味わった、あるいはその片鱗をかすかに知った、舞台に立つことの素晴らしさを綺麗に、美しく描ききっているからです」と指摘をしている。

 さらに裏切っていく吉岡先生の選択は「役者として正しい。この選択がなければ役者にはなれない」として、「一瞬の舞台が本当にきらめいて、どんな苦労にだって代えてもいいから、舞台にたちたいと思ってしまう。その美しさを知ったら、もう逃げられない」と舞台への復帰を選択した吉岡先生の気持ちを代弁している。そして「たくさんの人が、自分を表現することを楽しめる。そんな時代がきたらいい」と結んでいる。

 私もまったくこの感想と同感なのだ。記載者は高校演劇を経験してきた人だと思える。

Yjimagepyvxjs3b_2  原作の「幕が上がる」の中で、著者の平田オリザは吉岡先生を通して演出家を目指すさおりに、こう記述している。

  「最近出てきた新しい仕事で、ドラマターグという職種もあります。制作的な視点を持ちながら、劇作家や演出家にアドバイスをしたり、資料を揃えたりして、演出の補佐をしていくような仕事です。幸い、そういうことを学べる大学もいくつか出てきました。普通の大学の文学部に入って、現場でそれを学ぶ道もあります。そういうことを学んでおけば、プロの演出家になれなくても、たとえば故郷に帰って、公共ホールとかで働く可能性も開けます」と、その道への計画のアドバイスをしている。

   「好きだからやる」のでは世の中、そう、うまく生きていくわけにはいかない。感情や偶然に流されず、冷静に計算することだ。吉岡先生の計算された演技指導とダブる。ただこの本を読んで、高校演劇から上に進む道は広がってきていると思えてきた。高校演劇をしている人には是非読んで欲しい本だ。

  また平田オリザは自著「演劇のことば」(岩波書店)の中で、「東京芸大には音楽・美術があっても演劇科はない。公教育に演劇科がないことは、音楽や美術の分野でのプロを志し、志半ばでそれをあきらめても、教師になるという選択が残されている。しかし、演劇にはない」ことを指摘し、そこから「演劇を志し、それを続けることは、一種の大きな冒険であり、冒険であるからには、必ずそこにヒロイズム、自己陶酔がつきまとう。だから演劇は熱くなる」と選択の幅が少ないことを記述している。同書には明治以降、日本の近代演劇が歩んできた歴史を見つめながら演劇の持つ特異性を指摘している。吉岡先生の選択を、映画「幕が上がる」中でその一端を描いているのではないかと思えた。

Sub_b_large1_2  最近の地方自治体では、文化が地域を豊かにするとして公益法人文化芸術団体を設立して、文化芸術への力を注ぎ始めている。演劇・音楽に精通した人をアドバイザイザーにして、市民会館・美術館・博物館等を拠点として文化芸術団体が企画運営を行ない、文化の推進に務めてきている。文化会館などの運営公演には舞台プロデュサー、演出家など地方から求められてきているのだ。

  地域で活動している合唱団、朗読会、ミニ楽団、むかし語りなどの公演開催をしていくうえで、出演者の自己満足・自己充足の世界から、観客に感動を与え、ともに感動を共有する空間を創るということが求められている。そのためには広告宣伝、舞台制作から演技技能をも高めるシステム作りの構築が急務になってきていると思える。 

   映画の中で吉岡先生は問いかける。「あなたの人生を狂わせることになるかもしれない。それでも芝居をやっていきたい?」と…。その先に待っていたものは、何もかも失う世界だった。――でも後悔はしていない。その後、ちゃんと人生を歩んできた自分がいると応える。でも、…ちょっと悔しいなぁ。やり残したことがあった筈だ。何だかこの映画を観て、忘れていた頃の年代を思い出してきた。やばいかな。何が? ――また突き進むこと。

                                   《夢野銀次》

≪参考引用資料≫

平田オリザ著「幕が上がる」(講談社・2012年11月発行)/平田オリザ著「演劇のことば」(岩波書店・2004年11月発行)

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