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子どもたちの例幣使行列―嘉右衛門町伝建地区

008_2  「手作りの衣装を着て、例幣使街道を歩く」。11月17日に郷土歴史学習の一環として「子ども例幣使行列」を初めてとりくんだ小学4年生の児童たち。

  栃木市小平町にある栃木市立第三小学校そばの嘉右衛門町には栃木宿から続く日光例幣使街道が縦貫している。この嘉右衛門町地区は平成24年(2012)7月に国の重要伝統的建造物群保存地区(伝建地区)に選定され、栃木市において建物をはじめ多くの歴史的建造物の修理保存が図られ始めている地域でもある。

  栃木第3小学校4年生のクラスでは、4月から地元の人から郷土の歴史の授業を受けていた。その中で、江戸時代に毎年4月、京都朝廷から日光東照宮に幣帛(へいはく)を奉納する勅使としての例幣使一行が嘉右衛門町を通っていたことを知った。

011_3  例幣使街道が通っている伝建地区嘉右衛門町は栃木市街地の北側にある。江戸時代初めより岡田嘉右衛門によって嘉右衛門新田として開発が始められた。街道の両側には商家などの店舗や見世蔵などが並んでいる歴史ある町並みとして保存されている地域でもある。

  中山道の上野国倉賀野宿から分かれる例幣使街道は玉村・五料・芝・木崎・大田・八木・梁田・天明・犬伏・富田・栃木・合戦場・金崎の諸宿を経て、楡木で日光道壬生通り合して、今市で日光道と合す(栃木市史より)。

   徳川幕府は5街道(東海道・中山道・日光道・奥州道・甲州道)を中心に道路を整備していく中で、この例幣使街道を道中奉行扱いとした。助郷など配し、特権階級(例幣使)の者の通路として重要視していた街道であったと云われている。

013   例幣使による日光東照宮への奉幣参向行事は正保4年(1647)から慶応3年(1867)まで221年間、1回の中止もなく継続されていった。

  例幣使一行30人~50人の行程は、4月1日に京都を発し、例幣使を御輿に乗せて金の幣帛を納めたからびつを護りながら、中山道を下り、倉賀野から日光例幣使街道に入り、4月13日に嘉右衛門町を通過していった。そして 4月15日には日光に到着して、翌16日に東照宮への宣明と金幣帛の奉納を行なう。翌日にはすぐに京都に向けて帰路につく。宇都宮を経て日光道中から千住に至り、浅草を経由して東海道を上って京都に帰っていくという行程を221年間執り行われてきた。

022  参加58名の4年生児童たちは衣装の数の関係で前半後半の2班に分けられている。

 子ども例幣使行列の先頭を歩くのは先払いの侍が3人。厚紙でできている裃。剣道の袴を着用している。腰に差している刀も厚紙で作っている。その次を歩くのが例幣使。勅使ということになる。白いふせん紙で作られた公家装束をして歩く。綺麗な衣装に出来ている。雅さを感じる。本来は御輿に乗る高貴なお方なのだが、段ボ―ルでできているため乗ることはできない。ご容赦くださいと担任の教諭が頭さげていたのが見えた。

 御輿を担ぐ公家たちの衣装は桃色のふせん紙で作られている。これもなかなか綺麗にできている。衣装の着替えをすぐ行えるように簡単にテープで留めらるように工夫されている。それでも公家衣装は丈夫にできているのが分かる。段ボールでできた御輿。大きいから一番に目立つ。その後につづく青い半天姿の荷物持ち。これも厚紙でできている。軽やかに感じがする。これらを子供たちが学びながら手作りで作成した。――偉い!

025_2  前半の例幣使一行が午前10時30分に神明神社を出立して畠山陣屋跡を通って、代官屋敷のある岡田記念館に向かって歩きだす。行列は岡田記念館の中でUターンをして、畠山陣屋前を再び通る。江戸時代において、この陣屋前を例幣使一行が通っていったことの再現になる。

 名主であり幕末には代官職を勤めた岡田嘉右衛門親之がこの門の前に立って例幣使一行を迎え、見送っていった。当時のその光景が思い浮かんできた。

 神明神社に戻った一行は後半の班と交替する。

028_3  戻る途中で公家の歩き方について、地元の人が教えていた。素直に聞いていた生徒達の行列の歩き方が変わったのが分かる。

 両足交代の歩行から何という歩き方か分からないが、一歩前に進み両足揃えて、また一歩進むという歩き方に変わって、公家の行列らしくなってきた。

 地元の人から地域の郷土歴史を学ぶ。その中から「実際に例幣使一行の姿で嘉右衛門町を通る例幣使街道を歩いてみよう」ということがクラスで決まっていったと云う。

031  下野新聞11月18日の朝刊記事に「手作り衣装例幣使に 嘉右衛門町で行列再現」という見出しで記事が記載された。その中で「第3小学校は、総合的な学習の一環で地元の嘉右衛門町や例幣使街道の歴史を学んでいる。講師役で学習に協力する住民団体『栃木の例幣使街道を考える会』からの提案を受けて企画した」と地元団体と学校側との協力体制で進められたと記している。

 地元の「栃木の例幣使街道を考える会」「嘉右衛門町伝建地区まちづくり協議会」の人たちは喜んで衣装の材料となる段ボール箱や厚紙を提供を行ない、当日の交通整理などの協力体制を敷いていた。

  4年生児童たちは当時の例幣使一行の絵姿を見ながらアイデイアを出し合い、厚紙でできた刀や裃、ふせん紙の公家衣装から荷物箱等を手作りで作っていって、この日を迎えた。

 何だか運動会の時の仮装行列を思い出すが、これは違うな。実際あった行列なんだと改めて歴史を思い浮かべてみる。 

039  後半の子供例幣使行列が神明神社社務所で着替えを始めた。なかなか進まない光景を見ていた地元の役員が、行列を見に来ていた保護者たちに着替えの手伝いをお願いする。5人の若いお母さんたちが走って社務所に入り、着替えの手伝いをする。

  ――着替えが終了し、後半の班が神明神社を出立する。2人の担任先生方は汗だくだく。校長先生は教育委員会の方たちとにこにこしながら眺めていたのが印象に残った。

  後半は神明神社から北上して「油伝味噌」までの行列となる。

  この嘉右衛門町を通過する例幣使一行を九代目の岡田嘉右衛門親之が日記に記している。平成24年3月と平成26年3月に「栃木の在村記録 幕末維新期の胎動と展開 岡田親之之日記」として1巻、2巻が田中正弘国学院短期大学教授によって翻刻されている。

036  日記によれば、昼食は栃木宿でとり、嘉右衛門町には八刻(午後2時)に通過。表門に畠山代官、裏門に岡田嘉右衛門が立ち、行列一行に頭を下げ見送る。先払の武士の役目は川連村より栃木宿、嘉右衛門新田を通り、合戦場宿までとなっており、畠山陣屋の家人が勤めていたとしている。

 221年間続いた例幣使一行の最後は明治元年の前の年、慶応3年(1867)4月13日。その日の嘉右衛門親之の日記には、「4月13日 申 晴 日光例幣使御勅使 武者小路少将(公香)様 八時(午後2時)当所通行、表門拙者(嘉右衛門親之)・若党弐人・鑓持・箱持・草り取、裏御門松本達左衛門(陣屋手代)」と記され、幕末には岡田嘉右衛門親之は陣屋代官職として裏門から表門で一行を見送っていたことが記されている。

038 子ども例幣使一行は「油伝味噌」で終了した。

 車が往来する中、交通整理をしている半纏を着た地元の人たち。にこやかに嬉しそうに子ども例幣使行列を見守っていた姿が印象に残った。

  行列をした4年生の子どもたちには一生忘れない体験になったと思える。次年度も次の4年生になった生徒や保護者のためにやって欲しい。自分たちが生活している地域には例幣使街道という誇れる歴史遺産があることが分かり、自信となるからだ。こうした体験を含めた郷土史学習をすすめる教員・地元の方に敬意を表したい。

 次年度のとりくみには例幣使が運んだ「幣帛(へいはく)」を作って行列の中に加えて欲しいと思える。あまりなじみがなく、イメージができなかったからだ。

  教科書からの学習と実際の体験をすることによって、知識がより身についていく。子ども例幣使行列を見ながら、遺跡や遺産を活用した学習をすすめていくことの素晴らしさを感じた。単なる伝統文化の継承ではなく、地域と学校が一体となって現代にマッチした行事としてのとりくみが必要だと思えてきた。

≪参考引用文献≫

田中正弘編集翻刻「栃木の在村記録 幕末維新期の胎動と展開 岡田嘉右衛門日記第1巻」(平成24年3月、栃木市教育委員会発行)/「同第2巻」(平成26年3月発行)/「栃木市史通史編」(昭和63年12月発行) 

                                     《夢野銀次》

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