« 2015年11月 | トップページ | 2016年1月 »

2015年12月

結城市「孝顕寺」―御朱印堀と戊辰戦争結城の戦い

010_2  「不許葷酒入山門」と刻まれた石碑が孝顕寺参道入り口に建ってある。

  「葷酒(くんしゅ)山門に入るを許さず」と読み、肉やニンニクなど生臭い野菜を食べたり酒を呑んだ者は、修行の場にふさわしくないので立ち入りを禁ずるという意味。結城市観光ボラティアガイドさんからの説明を聞く。「曹洞宗、禅寺のお寺でよく見かけると思いまよ」と言われたたが、こうした石碑を初めて見る。知らなかった。これからは禅宗のお寺さんに行ったら見てみよう。

 12月19日の土曜日、「歴史と文化を歩く会ー栃木」の一行として結城市の歴史見学を行なった。案内をしてくれたのは「結城市観光ボランティアガイド協会」の歴史に詳しいガイドさんだった。栃木市から両毛線で小山から水戸線に乗りかえ、320円の運賃が示すように結城市へは近い距離。しかし、どこか遠い町のような気がしていた。

019_2   禅宗「孝顕寺」は結城城から見て南西の方角に建っている寺院だ。

 江戸時代に建てられている雄大な三門。

 「孝顕寺」の案内標識版が立ってある。「永生12年(1515)に結城城西側の玉岡の池に結城家15代政朝によって建立され、18代秀康(家康の次男)によって現在地に移転建立された。当初は永生寺と称したが、政朝の法名が永生寺殿宗明孝顕大居士であることから孝顕寺と改称された」と記されてある。

  さらに案内版には「元禄13年(1700)に結城藩主となった水野氏の菩提寺になっている。境内の西側に秀康が城の西側に新たに新城下町を建設した際に、周囲にめぐらせた御朱印堀の一部が残されている」との記述がある。扉を設けていない三門を通り、境内に入る。

013_2   本堂の手前左に「小場兵馬自刃之處」と刻まれた石碑が建ってある。石碑には昭和17年11月に建てられたことの刻字がされている。石碑の左下に「御朱印堀」への矢印の標識がある。矢印の奥に進む。「史跡御朱印堀」の石碑が建ってある。鬱蒼とした生い茂った藪の中に空堀が見えた。底はかなり埋まっている空堀になっている。

 案内ガイドさんの「御朱印堀」の説明が簡単でよく分からなかったため、ウエブ検索で調べてみた。結城市ホームページでは、「堀の大きさは、上幅7.5m、底幅0.5m、深さ3m、堀の内側には幅7m、高さ3mほどの土塁。戦国末期、結城18代秀康の時代に、城の西側に明確な都市計画に基づいた新たな城下町が建設された」と記載されている。防御用の空堀にして幅が小さい。郭内を囲い込むため造られた空堀ということなのだ。

022_2_2  その郭内(城下町)を囲い込む空堀建設の具体的な記述として結城市史では、「町の中心には東西に伸びる三本の道路と、それを結ぶ南北の四本の道路を作り、そこに四方から入る七本の道路をとりつけて、町の周囲には御朱印堀と呼ばれる大きな堀をめぐらせた」と記述されている。さらに江戸時代には「御朱印堀に囲まれた新城下町は地子御免(じしごめん)という固定資産税が免除された」との記載がある。

  天正18年(1580)の8月に羽柴秀康は結城氏18代を継承し、結城秀康となる。

024   10万1千石結城領に入部した秀康は城下を整備した。結城城は標高40mの台地上にあり、周囲は田川、鬼怒川からなる低湿地に取り囲まれた堅固な城であった。城下には増加した家臣団の屋敷地をまず確保する。そして新たに町人町として東西を三本の道路で結ぶ西の町、大町、浦町を中心に町屋づくりを行なう。さらに城の南西には多数の寺院を移転させ、その周囲を掘(御朱印掘)で囲む城下の町づくりをおこなったと結城市史に記されている。

   江戸時代には堀で囲まれた町人には「地子御免」という固定資産免除の特権が与えられた。徳川幕府にその証拠として「結城町内地御免之事」という証文を提出して容認させていると云われている。よってこの堀のことを「御朱印堀」と云われている。幕府をも納得させるほど町の強固な自治組織を作ったのが「結城十人衆」だったとしている(「結城市史」より)。

077   「江戸時代、結城の町には結城十人衆という家がありました。現在も子孫の方が続いております。結城秀康が越前福井に国替えなることになります。鎌倉時代から四百年、結城氏に仕えてきた家臣たちの中で、結城氏の菩提を護っていくために結城に残った人たちがおりました。その方たちが結城十人衆と呼ばれるようになり、名主など町役人を務め強い自治組織を作っていったのです」と案内ガイドさんからの説明があった。

 結城市史の中にも、他の町よりも名主としての強い権限があったとして、傷害事件の調査や訴訟和解など奉行に変わる町政などの運営をしたと記されている。

001_2   「結城の歴史」の中に、木戸が7カ所、辻番所が23カ所置かれたと書かれてある「享保19年2月の結城絵図」が載っている。

  御朱印堀の太い線は孝顕寺の西側から弘経寺(ぐぎょうじ)の右側を通り、金福寺などたくさん並ぶ寺院の左側を通り、北に曲がり、城の手前を右折し南に続いている。御朱印堀が町を囲んでいるように描いている。

    秀康の行なった結城城下の町づくり。――皆川広照が行なった栃木の町づくりと似ている。天正18年直後の同時期だったからかもしれない。栃木町の場合、城の西側の巴波川を掘割として、一本の太い南北道路を作り武家屋敷とする。寺院を西側に移転させる。北から東にかけては沼沢地。違いは広照失脚後に皆川家臣団による巴波川舟運を活用して商業としての栃木町づくりなどが行われた。しかし、結城市同様に近世後半には近江商人が入ってくる。じっくり比較検討したい事項だと思えてくる。

 歩きながら寺院の多い町だと感じた。「結城市史」の中で寺院は37、茨城県内では土浦の46、水戸市の41についで多い市になっている。なかでも山伏関係の堂屋や真言宗が多いのが特徴としている。中世に繁栄してきた町の様相を呈している。 

Yki_hideyasu1  17代当主の結城晴朝は宇都宮国綱の弟、朝勝という家督相続者がいるにもかかわらず、秀吉に「無継子」あるとし、養子願いをしている。天正18年(1590)3月に小田原城包囲前に家康の関東入りが内定していたという。7月には、秀康の結城氏継承が公表された。

  晴朝は結城氏の安泰を図るため養子継嗣を秀吉に臨んだのだ。小田原以後の秀吉の関東大名への仕置。小山氏、壬生氏、白河結城氏への取りつぶし処分。慶長2年(1601)の宇都宮国綱の改易など、晴朝は秀吉の関東支配の動きを読みこんでいたことが伺える。

 秀吉にとり関東の要害地、結城に自らの縁者を送り込むことは関東、奥州への備えとなり豊臣政権の前線基地になる。また家康にとっても実子の配置は関東における地位を確かなものになる。こうした背景で秀康は結城城主になっていった。その画策を行なったのが、結城氏重臣下館城主の水野勝俊であると市村高男氏は考察指摘している。水野勝俊は皆川広照の従兄弟であり、広照の小田原城からの離脱を家康に橋渡しも行なっているとしている(江田郁夫編集「下野宇都宮氏」より)。

  北関東をめぐる家康と豊臣政権の思惑など、新しい時代を迎える権力者の興味ある時代背景でもある。

  城下の南西側を囲む御朱印堀は小田原城の総構えを想像させる。そして下野の戦国大名を仮想敵して造られた掘割ではないかと思えてくる。掘や寺院配置から下野、奥州への前線基地としての結城城下町を秀康は作っていったようにも思える。

029  御朱印堀のある孝顕寺境内左奥の西側に「小場家」の墓所がある。慶応4年(1868)4月14日にこの墓地で結城藩水野家の国家老、小場兵馬が切腹をしている(中村彰彦著「臥牛(がぎゅう)城の虜」より)。墓地の右奥には同年3月25日の戦闘で討ち死にした兵馬の長男、平八郎の墓石が建っているのが見える。

  元禄16年(1703)に秀康の福井転封によって廃城、代官支配から新たに水野1万8千石が成立、結城城が再構築された。そして慶応4年の3月の戊辰戦争を迎え、藩主水野勝知が自分の居城、結城城を攻めるという、戊辰戦争史上、他に類をみない結城城の攻防戦が展開された。

   慶応4年正月の鳥羽伏見戦い後に結城藩江戸の佐幕派と国元の恭順派とに分かれた。藩主水野勝知は3月に旧幕府より彰義隊付属指揮役を受け、江戸藩邸を佐幕派で固めた。

036_3  これに対して国家老の小場兵馬らは結城藩の存続を考え、前藩主の水野勝進の末子勝寛を擁立し、新政府への恭順の動きを始めた。これを知った藩主、勝知は憤慨し、江戸藩士30名と彰義隊60名の応援を得て、江戸から結城城鎮撫に向かう。小山宿では国家老の小場兵馬は彰義隊に捕獲されるてしまう。

  孝顕寺西側の御朱印堀は金福寺と弘経寺(ぐぎょうじ)の間を北上している。城から西に大町通りを進むと小山に続く街道の西口木戸に突き当たる。そこは三本の道路が合流するくの字型の辻にもなっている。

  城方主力はこの西口木戸に、両脇にある御朱印掘を挟み、小場平八郎の指揮のもと30~40名の藩士で畳の塁壁と巨岩を積み上げた強固な陣地を構築した。

016  3月25日の明方、小山街道から結城城下に入ろうとする藩主側と応援の彰義隊は古河藩から借りた野砲と銃で西口陣地への攻撃を開始した。夜半に結城城を襲撃した部隊も藩主側に合流した。城方側も銃で応戦する。右前北側には弘経寺参道入り口があり、陣地両脇には御朱印堀がある。藩主側の放った野砲はj陣地には当たらなかった。しかし、強固な陣地で護り通しながら城方は小場平八郎ら7名が討ち死にした。

 藩主側は城方の護る陣地を破ることができず、戦闘は膠着し、昼頃まで行われた。城方は藩主がいることを認め、城に引き上げる。その後、城中で藩主に刃を向けるわけにはいかないとの判断を行ない、城に火を放ち城外に退避した。

 翌3月26日に藩主水野勝知は居城の結城城に入る。

 月が明けた4月5日に新政府軍、香川宇都宮救援隊の祖式(そしき)金八郎信頼支隊150名によって結城城は奪回される。応援の彰義隊はすでに上野山に引き上げており、少数となった藩主方は新政府軍攻撃の前に逃亡し、戦闘は行われなかった。藩主勝知は上野彰義隊に合流するが、新政府軍攻撃前日の5月14日に上野山から実家の二本松藩丹羽家に逃れている。そして、国家老の小場兵馬は孝顕寺にある先祖墓前で今回の責任をとり切腹をした。(参考資料ー「結城市史」、「結城の歴史」、「臥牛城の城」、「戊辰戦争事典」、「復古記11、水野忠愛家記」)

047   「この墓地を訪れる観光客の人たちは少ないのですよ。私も久しぶりに参りました」と小場兵馬の墓石の前で観光案内ガイドさんが私たちの前で灌漑深く語ってくれた。

  小場兵馬の墓所は結城第一高等学校の南西側の住宅地に挟まれて建立されている。敷地は私有地だと聞いている。

 墓石には「嗚呼可惜哀哉忠臣小場兵馬之墓」と刻字されている。戊辰戦争結城の戦いを書いた小説に中村彰彦著「臥牛城の虜」がある。その中で、祖式金八郎が配下の者に「小場兵馬は、おのれの命と引きかえに結城藩を存続させようと願うて死んだ忠臣じゃ。城のよう見える城南の地を選んで、墓を建てちゃれ」と命じたと記されている。そのためにこの地に小場兵馬の墓があるのかもしれない。しかし、結城城は建物に遮られていてこの墓所からは見ることができない。

070  私たちを案内してくれた観光ボランテイアガイドさんは、「明治40年に行なわれた陸軍特別大演習の時、明治天皇をお迎えして結城小学校に大本営が設置されました。当時の陸軍の有力者たちがたくさんお見えになっての大規模な演習でした。当時の交通便を考えても凄いことでした。これも小場兵馬のお話があったから、結城において大演習が行われたのではないかと思っています」と墓石を見ながら語ってくれたのが印象に残った。

 何よりも結城の歴史、寺院、史跡に誇りを持って案内、説明してくれたガイドさんだった。それにしても結城市を歩いてみて、大変歴史ある奥深い町だということが私の一番の印象だった。

  戊辰戦争の中で結城の戦いを藩内父子の内紛としてとらえる考え方がある。しかし、時代の変動期における養子として藩主となった勝知の思いと役割。藩を存続するための冷静な判断を下す小場兵馬など重臣たちの思い。さまざまな角度からまだまだ考察していく必要があると思う。

                                         《夢野銀次》

≪参考引用資料≫

ウエブ「結城市ホームページ」/「結城市史」(昭和55年10月発行)/「結城の歴史」(平成7年発行)/市村高男著「近世成立期東国社会の動向―結城朝勝の動向を中心として」(江田郁夫編集「下野宇都宮氏」2011年戎光祥出版発行)/中村彰彦著「臥牛城の虜」(平成6年文藝春秋発行)/太田俊穂監修「戊辰戦争事典」(昭和55年3月新人物往来社発行)/ウエブ「復古記11.水野忠愛家記」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

正月三日、豆腐をお供えしてお参りする栃木市「三日月神社」

040  「ここにもあるんだ。日向野先生が書いた石碑文が…」。三日月神社境内の社務所脇に建つ石碑。その石碑を見上げながら、日向野徳久氏の栃木史に対する足跡の多さに驚く。

  「三日月神社由来記」と刻まれた石碑。「片柳用水記石碑」同様に日向野徳久氏が撰文をし、池澤洸氏が謹書している。台座から3メートル高さに建っている石碑。栃木商高時代にお世話になった先生方達だ。

  「日向野さんは何回も来て下さって、詳しく神社のお話を訊いてくださいました」と神職の息子さんは私に話してくれた。

   栃木市川原田町535番地に鎮座する三日月神社。栃木市総合運動公園のはずれ、北東に位置する。木造亜鉛巻の神明鳥居には月の神「月讀命(つきよみのみこと)」を現す「朏尊(ひそん)」の額が掲げられてある。拝殿手前の神楽殿は建て替え工事中だった。以前に栃木総合公園野球場へ高校野球を観に来た時、駐車場が満杯のため、この付近に車を停めたことを思い出した。

036   昭和60年11月に建てられた石碑には、三日月神社建立の起因から江戸時代の神社の賑わい、旗本渋谷氏の江戸屋敷への御神体の移動から再び当地に戻り祀られ、明治期の神社の存続などが記されている。

  神職芹澤氏は石碑文から常陸国の大掾氏(だいじょうし)の出自から皆川氏に仕え、帰農した家柄と伺える。闇夜の中、7名の兇族に襲われながら三日月丸にて賊を退避させたことから三日月丸を御神体として月讀命=朏尊(ひそん)を祀る社殿を創建したとしている。

 石碑には「三日月神社は歳月を経るしたがってその霊験のあらたなことが知れわたり、縁日には除禍招福を願う人々が遠近より集まり、参道の両側には露店が数多連なって賑わうに至った」と当時の賑わいが記されている。

044_2  参道の露店では三日月神社に供える豆腐を売っていたことが「栃木の街道」の中で記述されている。同書の日光例幣使街道の章を日向野徳久氏が次のように執筆している。

  「正月3日・3月3日は縁日として(三日月神社は)非常なにぎわいをみせた。縁日には参道の両側に豆腐屋が何軒も戸板をならべて店をはった。お参りに来た善男善女がその豆腐を神様に供えるので、豆腐はまさに飛ぶように売れた。神社がわでは供えられた豆腐を、裏から豆腐屋に払い下げる。豆腐屋はまたそれを売る」と記述されている。

 お供えものの豆腐を繰り返し売っていったというのだ。何故豆腐をお供えしたのだろうか?

032_4  芹澤神職の息子さんは、「豆腐を板の上に載せて売っていたと聞いている。何回もお供えに使うことによって、豆腐のかどがとれて丸くなるってことですね」と社務所の縁側に座った私に語ってくれた。ただ、どうして三日月神社へのお供えに豆腐なのかは、はっきりとは解からないとも話してくれた。

  陰暦の3日の日に初めて月が姿を現す。「吾に七難八苦を与えたまえ」と言ったという山中鹿之助ではないが、月光に照らしだされてくる風景は何か神秘性を感じてくる。

  三日月神社では現在でも正月3日に豆腐をお供えしてのお参りが続けられている。社務所の前でお供え用の豆腐を売る。どのくらい豆腐を用意するのかは話してくれなかったが、参拝者は購入した豆腐をお供えしてお参りをする。「今でも…!」と驚いた私に、「参拝者の中には豆腐を縁起ものと思い、家に持って帰る人がいるんです。本当は豆腐はお供えもので食べてはいけないことになっているのですけど」と苦笑しながら語ってくれた。「今度のお正月3日、お越しください」との誘いを受けた。豆腐をお供えしてのお参りを見てみようと思う。

048_2  豆腐を三日月神社に供えて参拝する風習はつくば市にある朏神社(みかづきじんじゃ)にもあることがネット上に記載されていた。

 また、ブログ「月と季節の暦第二話三日月信仰 志賀勝」のなかでも、根岸鎮衛(もりやす)著の「耳袋」を引用してのお供え豆腐について、「病気治癒を願う三日月信仰がいつ発生したか不明だが、江戸時代末期には人気ある習俗だったことが分かる。いぼのほかにも、できものや眼病など様々な病いの予防、回復が祈願された」と記述されている。

  この「耳袋」は旗本・南町奉行の根岸鎮衛が江戸時代の中期から後半の天明から文化にかけて同僚や古老から聞き取った話を書いた随筆集になっている。

 栃木図書館で借りてききて「耳袋」(岩波文庫版)の本を開いて読む。岩波文庫下巻の中の「いぼの呪(まじない)いの事」にこう記述されている。「いぼの呪い品々あるなれど、三日月へ豆腐壱丁を備え念頃に祈る時は、其の治る事妙也。右豆腐は川へ流し捨る事也。あやまって其の豆腐喰うものは、いぼ其の喰う者へ生ずる事また奇妙のよし、人の語りぬ」と、当時の三日月神社への豆腐のお供えの風潮が記述されていておもしろい。

050_2   「ずーと昔、栃木の三日月神社に行った時、参拝に来ていたご婦人に聴いたことがある。そのご婦人はつるつるした肌になりたいから豆腐をお供えするのですと答えてくれていたな」と私の知人は電話の向こうで話してくれた。

 「いぼ」「できもの」「肌」と「豆腐」「月」を重ねてイメージしていくと類似していることに気がつく。類感性というのだろうか。理由はともあれ、豆腐に自分の想いこめて祈願する。それで良いのでないかと納得してきた。

 「とーふー、とーふ、とーふー」とラッパを鳴らしての自転車豆腐売りや町内に一軒はあった豆腐屋。豆腐は手軽な食べ物であり、今でも食卓には欠かせないものとして調法されている。豆腐のお供えは祈願する参拝者の手ごろなお供えものとして、現在まで続いている習俗なのだと思えてきた。 

006   栃木市嘉右衛門町を縦断している日光例幣使街道。その中頃に自然石でできている庚申塔がある。

  「右日光 おさく道 左三日月」という道標が刻まれている。三日月神社へはこの庚申塔から斜め左へ北に3キロ進むことになる。江戸時代から栃木町の多くの人はこの参道を伝って三日月神社にお参りしたのかもしれない。

  私も庚申塔を斜めに左折しては道幅約3mの狭い参道を自転車を押しながら歩いて進む。参道の下は長沼からの用水が暗渠となり分流している。

007   参道裏からの「油伝味噌・蔵造り」を右に見ながら、長沼跡水源地、川上稲荷神社、平岩幸吉の眠る「ならび塚」を過ぎ、巴波川が流れていた川筋公園からバイパスに出る。巴波川とバイパスを渡り、粟野街道の左脇の狭い道に入り、北上する。雷電神社境内を右に見て、田圃の中の参道を進み、栃木市総合運動公園通りに出る。公園東駐車場の端にある脇道に入り、進むと、田圃に囲まれた三日月神社の杜が見えた。神社の前は荒川の流れる運動公園になっている。運動公園ができる前は何もない辺鄙な場所だったことが分かる。

028   三日月神社を創建した芹澤氏は皆川氏に仕えた武士であったと云われている。

  天正18年(1580)の秀吉による小田原北条征伐以後に下野の主な大名である小山氏、壬生氏、宇都宮氏などは改易になっていった。さらに慶長年間に入ると栃木の皆川氏も改易され、主家を失った武士たちが多く生まれた。

  栃木町周辺の土地は扇状地帯としての沼地、湿地帯であった。戦のなくなった新しい時代の流れを受けて開拓開墾を必要とした。そのため、皆川家臣団等の多くの武士たちは帰農者となり、田畑の開墾、開拓に力を注ぎ始めていく。

  芹澤氏もその一人として、戦さ跡の残る川原田村を中心に開拓開墾をはじめ、やがて名主になっていったと思える。三日月神社の御神体である三日月丸は土地開拓者としての覚悟として祀ったのではないか。

  江戸時代の初期や明治期の初期など、時代の変わり目を迎えた栃木の町の歴史には隠されたものがたくさん眠っている。これからも栃木のまちを歩きながら見つけていこう。

                                   《夢野銀次》

≪参考引用資料≫

「栃木の街道」(栃木県文化協会、昭和53年10月発行)/根岸鎮衛著「耳袋」(岩波文庫下巻、1991年6月発行)/ウエブ「月と季節の暦第二話三日月信仰 志賀勝」/日向野徳久撰文「三日月神社由来記石碑文」(昭和60年11月)

(三日月神社石碑刻字文)

 『三日月神社由来記  芹澤家は常陸国の名族大掾氏より出、皆川氏と婚姻後同氏の出自と伝えている。某年陰暦五月晦日の夜兇族七名に襲われ、咄嗟に三尺二寸の宝刀三日月丸を以て迎え撃つと、闇夜にもかかわらず賊の挙措すべて月明の下に見るようであったので、賊は畏怖して逃げ去った。来れ朏尊の神佑であることを悟り、地を割き社殿を創建した。激闘の地は野中町地内にありいまも血祭畑といい、当時牛蒡畑であったことから同氏は牛蒡の栽培を禁忌としている。

三日月神社は歳月を経るにしたがってその霊験のあらたなことが知れわたり、縁日には除禍招福を願う人々が遠近より集まり、参道の両側には露店が数多連なって賑わうに至った。地頭澁谷氏はこれを聞き同家の守護神として江戸屋敷に遷した。芹澤氏は澁谷氏の地代官としてこれを拒むことができなかった。しかし、神霊これを容れざるが不可思議な示現が再三にわたったので澁谷氏は恐縮して旧に復し、これより明治維新に至るまで毎歳白米一俵を奉献して敬仰の誠を尽くした。

明治初年、制度の変革により同社は廃祀の危機に瀕したが、その由緒を認められて存続することを得、当主彦八が神職に任ぜられた。この神を信ずる者には不可思議なる感応あるは、世に広く伝えるところである。彦八の孝孫豊このことを忘却されることを虞れ、真石に刻み後世に伝えんと事由を具して余にこの文を依頼された。

嗚呼、芹澤氏帰農してすでに四百余年、時代に推移によって時に隆替を見るも、その間朏霊つねに同家と共にあることを信じて祭祀を怠らなかったことは誠に感激に堪えず、ここにその事由を述べる次第である。 

  昭和六十年月齢十一月三日

  栃木県文化財保護審議委員 日向野徳久 撰  書友会 会長  畔蒲 池澤洸 謹書 』                     

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2015年11月 | トップページ | 2016年1月 »